風のブックマーク2

 アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』


2006.5.1

 

■アゴタ・クリストフ『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』(ハヤカワepi文庫)

驚きを与えてくれるような本に、この先何冊出会えるだろうかと考える
ことがある。ときには思いがけない発見を、しずかなる感動を、またと
ない楽しみを与えてくれる本はあるだろう。しかし驚きとなると、もっ
とも少ないにちがいない。
本書の著者、アゴタ・クリストフの第一作『悪童日記』は、そのような
数少ない本の一冊だった。幸いにも未読の方がいたら、この際ぜひ一読
をお薦めしたい。幸いにもというのは、あの驚きをまだこれから体験で
きるのだ、という意味である。その著者が自伝を書いたとなれば、読者
として見過ごすわけにはいかない。
(鶴ヶ谷真一『磨きぬかれた小石のような自伝』芸術新潮2006.5.所収)

アゴタ・クリストフの邦訳・新刊『文盲』(白水社)の書評から。
ぼくは、この引用にある「幸い」なる読者のひとりとなった。

アゴタ・クリストフという名前も、『悪童日記』という書名も、
「そういえば」という程度しか知らずにいた。
『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』という三部作の
最初の『悪童日記』を読み始めたところ
この三部作をほとんど一気読みせざるをえないことになってしまった。
こういう書評での表現は実際に読んでみると当てが外れることも多いものだが、
このでの引用の表現はたしかに率直な表現として的を得ているといえるだろう。
たしかに、これは、少なくともぼくにとっては、
「思いがけない発見」や、「しずかなる感動」や、「またとない楽しみ」とい うよりも、
やはり「驚き」を与えてくれる読書体験として成立したといえる。

その「驚き」は、(翻訳を通じてではあるが)「文体」によるものでもあり、
またそれによって表現されている物語によるものではあるのだが、
ミステリー的な要素は強いのは確かなのだけれど、
だからといって謎が証されて真実が明らかになっていく、というような物語ではなく、
「語り/騙り」による真実/嘘という二分法には回収できないこと。
ある意味では、亡命者として母国語ではない言語で表現していることそのものが
ある種、物語の陰画のようになっているとでもいえる物語であること。
物語そのものが亡命的とでもいえる、そんな不思議な、
実体そのものがすでになんらかの物語の翻訳になり続けているような物語とで もいえること。
そういう「驚き」を与えてくれる読書体験を成立させてくれる。

アゴタ・クリストフは1956年のハンガリー動乱で、
21歳のときに難民になり、いわゆる西側に亡命。
スイスで母国語ではないフランス語で『悪童日記』を発表して注目され、
以後、それを含む上記三部作を発表。
今回、自伝として『文盲』が発表されたのを紹介しているのが上記の引用である。

ぼくにはもちろん亡命体験とかはなく、
従ってそれによる政治的なさまざまについての実感もなく、
ましてやいわゆる母語としての日本語以外は満足に使えないわけで、
母語以外を使った表現というのは実感としてはわからないのだけれど、
このアゴタ・クリストフの「亡命」による母語以外での表現ということを
ぼくのなかで敷衍させてとらえるとするならば、
ある意味、ぼくのなかでは、日本語というものが
果たして母国語なのだろうかという問いかけがある。

政治的な観点のみからすれば、
そういう馬鹿馬鹿しく甘いことをと言われても仕方ないし、
その母国語としての日本語さえ満足に使えない無能力もあるのだけれど、
ぼくのなかでは、いわゆる物心ついてから、
自分の使っているそれしか使えないはずの日本語が
というか、言語表現そのものがといったほうが適切かもしれないが、
ずっと亡命後の言語のように感じられ続けているということがある。
従って、ぼくの語る言葉は、すべてがどこかズレ続けた騙りとしてしか
成立しにくいというのがある。

もうひとついえば、アゴタ・クリストフには、
「自分の子供時代のことを語りたい」とか
「別離ーー祖国との、母語との、自らの子供時代との別離ーーの痛み」
といったものがあって、小説による表現へと向かうのだけれど、
ぼくには、そういう過去との別離による痛みという感覚は希薄で、
過去に戻るというということそのものの無意味さのようなもののなかで、
常に宙ぶらりんの遊戯以外では不可能だといえる現在からしか
言葉を使えないというところがある。
存在そのものが普遍的に亡命しているといえようか。
普遍的な故郷喪失者とでもいえようか。

このアゴタ・クリストフの三部作を読んで「驚き」を感じたのと同時に、
あえて物足りなさとでもいったものを感じたのは、そこらへんのことだろうか。
つまり、過去に向かう視線によってしか物語は成立しないのだろうかという
ちょっとした異議申し立てとでもいえようか。
もちろん、そういう異議申し立て的感覚にもかかわらず、
この物語がすぐれた作品になっていることは疑いようもないのだけれど。