風のブックマーク2

 松村潔『日本人はなぜ狐を信仰するのか』


2006.2.27.

 

■松村潔『日本人はなぜ狐を信仰するのか』
 (講談社現代新書1829/2006.2.20.発行)

松村潔という人には、少しばかり恩があって、
本人はとうに忘れているかもしれないけれど、
ぼくがこうしてネットでぼちぼちなにか書き始めるきっかけをつくって、
この「神秘学遊戯団」を最初にはじめることができたのも、
かつてNIFTYSERVEでいわゆるシスオペをしていた
当時VALISと称していた松村潔なのだった。
「シュタイナーをテーマにした部屋をつくりたいんだけど」
「ではつくりましょう」
ではじまったのが、
この「神秘学遊戯団」(最初の名前は「シュタイナー研究室」)である。

その影響もあって、以前はサビアン占星術など、
松村潔の書いた著書などを読んだりしていたことがあったが、
ぼくの理解するシュタイナーとはあまりにかけはなれているというか、
ぼくの理解するところでは、ほとんどアンチョコのような読み方しかしないままに、
シュタイナーは・・・とかいうことを書いているのを度々目にしたりするのもあって、
最近はあまりその著書などを読むことも少なくなっていた。

それが、ふと目にすると『日本人はなぜ狐を信仰するのか』、ではないか。
なぜまたいまさら「狐信仰」について書いているのだろう、
と興味をひかれたのが、読み始めるきっかけだったが、
こうして新書になっているのがきわめて不思議だし、
まして読んでいるうちに「狐」のテーマが
どこかに行ってしまっているかのようになってしまったりするような、
(もちろん、ちゃんと「狐信仰」の謎について最後はちゃんと収斂するのだけれど)
きわめてバラエティ豊かな内容になっていて、かなりスリリングな楽しみ方ができる。

本書を読む楽しみを阻害しないだろうからあえて
本書での結論をご紹介しておくとこうなる。

全部をまとめて一言で言うならば稲荷狐とは「異界との接点」という
ことになるだろう。穀霊としての生産性というのは、異なる領域から
わたしたちの領域に力が持ち込まれることで創造を果たすのだから、
これもまた異界との接点ということであり、死はこちらから向こうへ
という創造のベクトルの逆回しだ。だから、生産性と死の門というの
は表裏一体なものでもある。
このようなことを考えて、あらためて稲荷狐や稲荷神社というものを
考えてみると意義深い。稲荷神社は、近所のどこにでもある。日本中
にあまりにも大量にお稲荷さんがあるが、あまりにも大量というのは、
あまりにも普遍的な原理を差し示しているからである。人生の転換期、
変わり目に、あるいはまた自分で変わり目を産み出そうとする時に、
切り替えの装置としてんじょ稲荷神社に出かけてみるのも良いのでは
ないかと思う。自分が何をしたいのか。それを形にするのは、転換装
置が必要で、このためのギアとして働くのではないかと思う。
(P233-234)

本書を読む楽しみは、この結論にではなく、
そこまでに到る、ちゃんと書けばおそらく一大百科事典になる可能性のある
本書に盛られたさまざまなテーマのプロセスを辿ることにあるだろう。
安倍晴明の母、秦氏、宝珠を加えた霊狐、サルタヒコ、ゲニウスロキ、
カバラ、シャクティ、ダキニ、エジプト、タロット、アヌビスなどなど、
ときにシュタイナーやグルジェフまでごった煮にしながら、
まあ、なんでもありの百鬼夜行のような世界が
新書一冊にまとまっているというのは、ある意味、さすが松村潔である。

松村潔らしさが本書にはもうひとつあって、
「まえがき」「あとがき」というのがないというのも
またちょっとした仕掛けなのかもしれない。

ぼくは、どうも稲荷とか狐とかいうのは好きなほうではなくて、
あえてお参りにでかけたりもしないのだけれど、
なぜ日本人はお稲荷さんがこうまで好きなんだろうという
疑問へのひとつの答えはしっかり本書で読み取ることができるだろうと思う。