風のブックマーク2

 竹内敏晴『動くことば 動かすことば』


2006.2.16.

 

■竹内敏晴『動くことば 動かすことば/ドラマによる対話のレッスン』
 (ちくま学芸文庫/2005.7.10.発行)

「からだ」と「ことば」がばらばらになっている。
だから、声が届かない。
それは、こうして文字になっているときにも変わらない。
届かないことばはいったいどこに行ってしまうのだろう。

ぼくは大学の頃少しだけだけれど、演劇部に入っていたことがある。
今からふりかえってみてわかるのは、
そのときぼくは、ばらばらになってきていた「からだ」と「ことば」を
なんとか結びつけようとしていたのだということだ。
しかしそのことをちゃんと意識化できるまでにはいたらなかった。

竹内敏晴さんの『ことばが劈かれるとき』という一冊の本に出会って以来、
そうした「からだ」と「ことば」のことが
ぼくのなかでもあるていど具体的なかたちで意識化されるようになったように思う。
林竹二さんとの対話、湊川高校や南葛飾高校定時制の授業についてのものなど、
竹内敏晴さんの著書は、どれもほんとうに深くぼくのところに届いてくる。

本書は、女性を主人公とし、<近代化と男女の断絶>を隠れたテーマとして書かれた
「夕鶴/木下順二」「アンティゴネー/ソフォクレス」「人形の家/イプセン」
「三人姉妹/チェーホフ」「セチュアンの善人/ブレヒト」という
5つのドラマ(戯曲)を読んでいくものだ。
どれもすでに読んでいておかしくない代表的なドラマばかりだけれど、
じっさいのところ、たとえばイプセン、チェーホフにしてもブレヒトにしても、
ちゃんと読んだという記憶があまりない。
しかしここで読んでいくドラマのなんと魅力的なことだろう。
女主人公たちの激しく愛することになんと行動的なことだろう。

この本を書店で見つけたのはつい昨日のことだけれど、
読みはじめてから止めることができず、
竹内さんのことば、ドラマのことばに激しく動かされ続けた。
ドラマ(戯曲)というのは、これほどに
「からだ」と「ことば」にかかわるものなのだ。

「文庫版へのあとがき」のさいごに

ではみなさん
ドラマへどうぞ!

ということばがあるが、まさに、「ドラマ」である。
「ドラマ」とはもともとギリシャ語で
「行動する」という言葉である「ドラン」からきているそうだ。
だからその「ことば」は「からだ」と切り離されたものではありえない。
しかし、その「ことば」を実際に発そうとしたとき
そのことばの多くはなんと「動き」をもたなくなることだろう。
舞台上の「ことば」でなくても、
わたしたちの発することばの多くはほとんど「からだ」とばらばらになっている。

からだだけが行動しても
からだは動くが心がそこに動いていかない。
ことばだけが発せられても
ことばは夥しくでてゆくがそれはどこにも届かない。

本書のサブタイトルには、「ドラマによる対話のレッスン」とある。
ここで紹介されているドラマの女主人公たちのことばは
決して「対話」にはなっていないどころか激しく断絶を余儀なくされるような
そんな方向へと向かっているところがあるのだが、
だからこそ、予定調和のようなものでもなく、またあきらめでもなく、
「対話」ということの可能性と不可能性のまえで
叫んでみることの大切さがあるのではないだろうか。
つまり、愛され、癒されようとすることではなく、激しく愛するということである。
おそらくその向こうにこそ「自由」があるのではないかという気がしている。