風のブックマーク2

 斉藤由多加『ハンバーガーを待つ3分間の値段』


2006.2.1.

 

■斉藤由多加『ハンバーガーを待つ3分間の値段』(2006.2.1.)

■斉藤由多加
 『ハンバーガーを待つ3分間の値段』
 〜ゲームクリエーターの発想術〜
 (幻冬舎セレクト/2006.1.10.発行)

ぼく自身はいまのところあまりゲームに関心がないので、
「ゲームクリエーターの発想術」については
よくわからないところもいろいろあるのは確かなのだけれど、
要は、「発想術」であって、
ふだんは疑ってもみないようなものに目を向けて
疑問をもったり驚いたり憤慨したりすることができるような
「視点」の持ち方ということなのだと思う。

「誰もが素通りしてしまうような“さりげない光景”を通じて、
世の中の構造を解き明かしていく」とあるが、
世の中であたりまえのように思ったり、
とくに意識的に目を向けることもないものだったりするものが、
実は思いがけない「構造」をもっていることがあるのだということが
本書を読みながら実感させられてくる。

そしてその実感は、驚きであると同時に、
テーマによっては、ちょっと怖くなるようなところもあったりする。

本書は、「ほぼ日」で連載されていた
「もってけドロボー!〜斉藤由多加の『頭のなか』。〜」
を中心にした連載がまとめられている一冊で、
それほど気にとめることもなく読んでいた連載だったのだけれど、
こうしてまとめられているのを読むと、
たしかに「もってけドロボー!」というほど、
ここには豊かな視点と思考法がていねいに提示されている。
ちょっと得した気分である。

ここにはほんとうにさまざまな視点が提示されているのだけれど、
たとえば情報とお金の問題についてはこう書かれている。

 デジタル情報産業に関わっていて感じるのは、情報とお金の
相性の悪さです。重さも形もない情報を物質的な価値と交換す
る、ということは実は不可能なこちょではないか、と思うこと
があります。情報と物質は、音と光のようにぜったいに干渉し
あわない、そんな関係ではないか、と。
 極論すれば情報の対価は情報でしかあり得ないのではないか、
とすら思えます。今、情報コンテンツを売ろうとすると、情報
としてではなく「書籍代」とか「CD代」、あるいは「入場料」
などといった既存の物質的名称に置き換えて販売されます。情
報そのものに課金するには、性善説に立たないとできない。そ
の価値の評価も人によって違いすぎる。
 デジタル社会になって、情報が物質から切り離されたとき、
あらためて「人間は情報単体にお金を払うべきなのか」が問わ
れているわけです。
 この原因をつきつめると“情報”と“お金”の相性の悪さに
行き着くのです。
 実は、コミュニケーションというのは、本来、受け手と送り
手が明確に分かれていない。
 誰かの話を聞く、ということは、その人と話をすることと何
も変わりません。
(P140-141)

これを敷衍していくと、
「お金」というのはいったい何だろうということにもなる。
果たして私たちは「お金」で「何」を買っているのだろうということ。
ここでは、お金で物を買うということはとくに疑われないどころか、
それが前提になっているといえるのだけれど、
現代のような「デジタル情報」が経済において登場してくると、
それをどのように「物」を購入するように、
「お金」に対応させていくかがきわめてあいまいになってくるのである。
「時間」をどのように扱うかという発想もそこででてくる。
本書のタイトルにある「ハンバーガーを待つ3分間の値段」というのもそうである。
さまざまなものの「値段」を追求していくと、
「お金」というものそのものがそもそもいったい何なのかを
問わざるをえなくなるだろう。

そしてさまざまな不思議や矛盾を通じて、
「世の中の構造」やそのあいまいさやあやうさなどさえ見えてくる。
そこで見えてくる視点や発想術を使ってビジネスとして展開することもできる だろうが、
ぼくの関心としては、そこから「世の中の構造」の根底にあるものが
いったい何なのかということにある。
本書はそこまではいかないし、いこうともしていないと思うのだけれど、
1〜2時間もあればすぐに読めてしまうような手軽な新書版程度の分量の一冊で
これだけの発想術を仕込めるというのは、ちょっとした価値があるのではない かと思う。

ちなみに、本書は幻冬舎から創刊されはじめた
「幻冬舎セレクト」のなかの一冊である。
今後もこのシリーズはチェックしておこうと思っている。