風の本棚9

(97/10.2-97/11.19)


北村薫「ターン」

細川俊夫「魂のランドスケープ」

バーバラ・ハンド・クロウ「プレアデス/銀河の夜明け」

ルシャッド・フィールド「ラスト・バリア/スーフィーの教え」

中島義道「<対話>のない社会/思いやりと優しさが圧殺するもの」

一倉定「正食と人体」

ルドルフ・シュタイナー「神殿伝説と黄金伝説」

中沢新一「ポケットの中の野生」

高野陽太郎「鏡の中のミステリー/左右逆転の謎に挑む」

鷲田小彌太「哲学を知ると何が変わるか」

 

北村薫「ターン」


(1997/10/9)

 

■北村薫「ターン」(新潮社/1997.8.30)

 

 ここ1カ月ほど、北村薫のミステリーを愛読しています。そのきっかけになったのが、「空飛ぶ馬」に始まり、「夜の蝉」「秋の花」「六の宮の姫君」と続く、女子大生の<私>と噺家の春桜亭円紫師匠との名コンビというか、不思議なとりあわせで進められるシリーズです。

 このシリーズは、宮部みゆき氏がこのシリーズを評して、「ヒロインの「私」と探偵役の噺家春桜亭円紫師匠とのやりとりを通して、私たちの日常にひそむささいだけれど不可思議な謎のなかに、貴重な人生の輝きや生きてゆくことの哀しみが隠されていることを教えてくれる」とあるように、北村薫が描くのは、通常よくある血なまぐさい事件をめぐってくりひろげられるようなミステリーではありませんし、最近の小説にはつきものの無意味にエロチックな描写などもありません。物語は、静かに静かに始められ、日常のなかから魂の底にかいま見える闇や光などを次第に描き出してゆきます。

 そういう魂に静かに染みるような味わいが気に入って、<時と人>の謎を探るミステリーというシリーズも手に取ることになりました。これは三部作だそうで、95年に出たのが第1作で「スキップ」、最近出たのが「ターン」で、第3作めはまだでていないのですが、どちらもけっこう厚いにもかかわらず一気に読ませてしまう魅力に満ちていました。作者自身がプロットの類似性を指摘していたのが、K.グリムウッドの「リプレイ」(新潮文庫)で、これも<時と人>を描いた名作で、おすすめで、とても面白いのですが、ぼく個人の趣味でいえば、北村薫の表現のほうがしっくりきます。

 ここで「スキップ」や「ターン」のネタばらしをするのは無粋なのであえて遠慮させていただきますが、<時と人>の謎というのはとても考えさせられるテーマで、自分という存在を「時間」や「記憶」のなかでとらえかえしていくことで魂は成長していくのではないかとも思いました。

 たとえば、輪廻する存在として過去世の記憶がすべて甦ったとき、自分という存在は、今生だけの記憶だけで生きてきたときと、いったいどう違ってくるのか。そうしたことをいろいろ考えてみるのも興味深いのではないでしょうか。

 

 

細川俊夫「魂のランドスケープ」


(1997/10/9)

 

■細川俊夫「魂のランドスケープ」(岩波書店/1997.10.3)

 

 細川俊夫は、現代音楽の作曲家で、武満徹を継承する作曲家でもあるといわれています。武満徹の初期のエッセイ集に「音、沈黙と測りあえるほどに」というのがありますが、この最初(だと思う)の著書は、そのタイトルを副題につけてもいいのではないかと思えるような内容になっています。

 正直いって、細川俊夫の作曲した作品をほとんど聴いたことがなかったのですが、この著書を読み始めたとたん、その言葉がぼくのなかに次々と静かに、しかも深いところで熱を持ちながら、すうっと吸い込まれ続け、ぼくの魂に刻みこまれていきました。音楽についてずっと考え続けてきたこと、感じ続けてきたこととこれほどまでに共振する体験というのは稀なことでした。

 現代音楽の作曲家というと、一般にはほとんど知られていないですし、この細川俊夫もまた例外ではないと思います。そして、それが現代日本の芸術への理解を表現しているといっても過言ではないのではないかと思われます。

 芸術は、常に挑戦的であり、多くの場合、一般の理解を拒否しがちなところがあるのは確かです。もちろん、それが常にすぐれた試みであるとは限らず、むしろ単なる奇をてらったもののほうが多いのかもしれないのですが、そのなかで、時代を切り開く先端でもあるような挑戦であるものも確実に、存在しているのも事実ではないでしょうか。バッハにしても、同時代においては無理解にさらされていましたが、その挑戦は、時代を超えて高らかな魂の響きを伝えています。

 本書のなかで、芸術と芸能の違いということが述べられていますが、エンターテインメントとしての芸能と芸術は混同されがちです。すべてが芸能化されてうけとられがちなのが、特に現代日本の傾向でもあります。「わからない」のは、「わからせてくれない」ほうが悪いといわんばかりです。

 もちろん、難解のための難解は無意味ですし、奇をてらう必要はまったくないのですが、すべてがエンターテインメント化してしまえば、時代を先駆ける芸術の役目はまったく否定されてしまうことになります。エンターテインメントにはそれなりの役割があり大切なものですが、その多くは、新たな世界を切り開く力はないように思うのです。

 ぼくは芸術家でも、なにかを先端でなしているものでもないのですが、本書を読みながら、魂の底に、静かな熱が生まれてくる感覚をひさびさに強く共感をもって感じることができました。こうした同時代人の存在を知るだけでも、「希望」という言葉が浮かんでくるように思います。武満徹の曲に「A WAY ALONE」というのがありますが、そうした力強さを感じることができたのです。

 細川俊夫の作品集で、その作品を聴くことができますので、ご紹介させていただきます(ぼくはまだ、音宇宙5を聴いただけですが)。

■うつろひ(音宇宙1) FOCD9115

■ペル・ソナーレ(音宇宙2) FOCD9116

■観想の種子(音宇宙3) FOCD9117

■ヒロシマ・レクイエム(音宇宙4) FOCD9118

■時の深みへ(音宇宙5) FOCD3406

 

 

バーバラ・ハンド・クロウ「プレアデス/銀河の夜明け」


(1997/10/12)

 

■バーバラ・ハンド・クロウ「プレアデス/銀河の夜明け」(コスモ・テン)

 

 これは、いわゆるチャネリングもので、プレアデスからのメッセージを著者のバーバラ・ハンド・クロウが伝えているというもので、こういう類の本は最近すごく多くなっているので、こうした内容を頭から信じ込んでしまうというのは危険な読み方ですけど、その反対に、こうした内容を戯言だと思いこんでしまうのもまた危険なことです。そういう意味で、序文のなかで、ブライアン・スウィム博士が、次のように言っていることを心がける必要があるのではないかと思います。

 本文でも示唆されているように、この著作を詩の領域に属するものと考えるアプローチである。詩人の洞察が真実であり、しかし科学における真実とはかけ離れた形の真実だという状態を理解するために、以下を本書全体の説明として、またイメージとしてお読みいただきたい。(中略)

もしも銀河系全体を見わたす知性があり、それが100億年ものあいだ 3000億の星をたばねてきたとしたら、そしてその形態も機能も、現 代天文学がこれまで慎重かつ経験的な技法によって描いてき範疇には入らないものだとしたら、その知性に反応するだけの感受性をもちあわせた人間は、途方もない詩的イメージを紡ぎ出すしかないだろう。膨大なサイバネティックス意識、または銀河の意識によって、大脳新皮質か中 枢神経の一部に輝く炎がともったとしたら、そのとき聞こえてくるのは慎重で安全な過去の真実ではない。きっとバーバラ・ハンド・クロウの 『プレアデス 銀河の夜明け』も途方もない思弁的洞察なのだ。

 以上のことを前提にした上でいうと、本書はとてもスリリングなもので、地球における人類の秘密とでもいうものが、どきどきするようなかたちで描かれているということができます。少なくとも、ぼくは、かなり楽しみながら読めましたし、示唆されるものもたくさんありました。

 ここには、キリストの意味に関しても、非常に重要なことが述べられていて、ある意味では、シュタイナーのいうキリスト事件関係のこととあわせながら読み進めていくと、とても面白いのではないかとも思います。キリストはなぜこの地上で肉体を持ったのか、それはなぜなのか。それは、人類の雛形としての意味をもっていた・・・云々。

 霊的なことに興味を持っている方の中で、スピリチュアリズムに傾倒している方や宗教団体などであの世ばかりが強調されているようなところに所属している方などは、人間の肉体を低次のものだとして蔑視しがちです。けれど、人間が人間であることの意味は、肉体を持って、その中で自我を発達させ、しかも同時に高次の意識をも持つということにあります。

 また、天の神様と大地の母だとかいうことがいわれますが、近代においては、その大地性ということがなおざりにされる傾向にあったのですが、その大地性とでもいうものの重要性についても、とてもユニークな仕方で述べられているのも本書では興味深いところでした。

 この宇宙は多次元的な存在様態をとってはいるけれども、それを序列的な階層性でとらえるのではなく、多次元的存在様態そのものの意味を深く認識する必要性があるということも、本書によって深く理解することも可能なのではないでしょうか。

 また、ぼくは以前、マヤン・カレンダーについていろいろ調べてみたりもしてましたが、その重要性もこの本には的確に述べられているように思いました。

 ま、世紀末の今、いろんな終末論などがもてはやされていますが、そうしたことにとらわれるのではなく、かつまた現代という時代の宇宙的な意味を深く認識していくために、本書はけっこう役立つようにも思います。

 

 

ルシャッド・フィールド

「ラスト・バリア/スーフィーの教え」


(1997/10/12)

 

 

■ルシャッド・フィールド「ラスト・バリア/スーフィーの教え」

 (角川書店/山川紘矢+山川亜希子=訳/1997.9.25)

 スーフィーの教えはとても美しい。そして、自由への限りない真剣な道程でありながら、とてもユーモアに満ちている。ぼくがもっとも惹かれ、しかもその現代的な要請という点からももっとも重要だと思っているシュタイナーの神秘学に次いで、惹かれるものを挙げるならば、やはりスーフィーだろうと思う。

 この本は、スーフィーの教えに導かれて行く魂の旅の記録であり、著者の体験をもとに書かれたものだということだが、ここに描かれているのもまぎれもないスーフィーならではのものだ。

 イスラム教に関しては、誤解が多く、また顕教としてのイスラム教にはたしかにその誤解を否定できない側面も多々あるが、密教としてのスーフィーは、シュタイナーの神秘学とも矛盾しないものだ。

 ただ、シュタイナーの神秘学は、現代的な認識のあり方を確実に踏まえながらそのあらゆる側面への実践的可能性を展開させられうるものであり、ある意味で、スーフィー的なあり方をも統合しているといえる。どちらも、少しアプローチの仕方は違え「自由」への道程なのだから。スーフィーの旋回舞踏とオイリュトミーを比較してみるのも、また、それを一遍の踊念仏に比較してみるのもまた興味深いのではないか。

 本書の最初にスーフィーのこういう格言が紹介されている。

何も知らぬ者、しかも自らが知らぬと知らぬ者はおろか者なり。

彼とはかかわりを持つな。

何も知らぬ者、しかし己れが知らぬと知る者は子供なり。

彼を教育してやりなさい。

知る者、しかし自らが知ると知らぬ者は、眠れる者なり。

彼を目覚めさせてやりなさい。

しかるに、知る者で、己れが知ると知る者は賢人なり。

彼に従うがよい。

 ソクラテスのような「私は自分が知らないことを知っている」というのは、この二番目の子供にあたる。そこでとまっているのは、謙虚にみえてもただの怠惰である。しかし、自分が知っていると驕る者は道を誤ってしまう。ある意味で、道は、この4つのプロセスが何度も何度も螺旋状に上昇するような形で、知る者になるために常に歩んでいくためのものである。

 スーフィーでもっとも有名なのは、ルーミーだが、幸い次のような書物で、その言葉にふれることができる。ぼくがイスラムに強く惹かれたのは、井筒俊彦の著作を通じてだが、この書は、その訳になるものだ。

■ルーミー語録(井筒俊彦訳・解説/岩波書店/1978.5.30)

 また、最近、平凡社ライブラリーに

■R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義/スーフィズム入門」

 (中村廣治訳/平凡社ライブラリー/1996.4.15)

 というのもでているので、参考になると思う。

 

 

中島義道「<対話>のない社会」


(1997/10/25)

 

■中島義道「<対話>のない社会/思いやりと優しさが圧殺するもの」

 (PHP新書32/1997.11.4)

 「うるさい日本の私」でも少しばかり話題になった、ドイツ哲学専攻の中島義道によるその続編ともいえる著書。現代日本の精神風への痛烈な批判ともなっていて、しかも、日本論の白眉でもある山本七平の「空気の研究」とも通底しているといえる内容が、読みやすく盛り込まれています。

 この著書から二ヶ所ほど引きながら、その論点をここで提示できればと思います。

読者のみなさん!一歩外へ出ればアアセヨ・コウセヨというバカ管理標語・管理放送が渦巻いていることに耐え難くはありませんか?いたるところ「街ぐるみ非行の芽をつむ愛の声」だの「ゆずり合う心がふれ合う交差点」だの「毎日の対話がつくるよい家庭」だの眼にして、バカにされたような気がしませんか?商店街では、スピーカーから「迷惑駐車はやめましょう」だの「寝タバコに注意しましょう」だの 叫ばれ、電車内では「車内が暑くなってきましたから窓を開けるようお願いします」とか「座席は詰め合わせておかけください」とか、アアセヨ・コウセヨと言われて不愉快ではありませんか。えっ?「なんともない」だって!それはタイヘンだ!あなたの病状は深刻です。その病名は−−−多岐にわたって恐縮ですが−−−「多数派依存症」「管理語過剰受容症」「被管理多幸症」のいずれか、あるいは「外世界絶対的無関心症」「自己責任拒絶症」「自律神経完全欠如症」「批判精神麻痺症」まで病状が進んでいる可能性もあります。そして、行き着く先は言葉にするだに恐ろしい「無思考症」「あるいは「無感覚症」です。まずトックリ自己診断をして、ご自宅で長期療 養されることをすすめます。(P96-97)

 日本ではどこに言っても「アアセヨ・コウセヨ」の嵐だし、それはスピーカーから流れるだけではなく、さまざまな看板類でどこでもかしこでも垂れ流されています。特に、車などを運転していると、どこもかしこも管理標語で埋め尽くされています。

 こうした、税金をたくさん使った「お役所」の「仕事」に見習ってか、観光名所をはじめ、どこにいっても、お節介な音の洪水が押し寄せてきます。

 上記の引用に、さまざまな病名が列記されていますが、ほんとうにああしたことに疑問さえわかずに、「そういうものだ」としか思わないのであれば、そうした病名をつけられても仕方ないとさえいえます。こうしたオセッカイを優しさだとか思いやりとかと勘違いしているのだと思うのですが、そんなのは優しさだとか思いやりとかと逆のものだとしか思えません。

 要するに、自分で感じ、考えることをさせないためのこうしたオセッカイの羅列というのが、日本人の共通感覚なのだとしたら、ちょっと開いた口がふさがらないほどの絶望感におそわれてしまいます。

<対話>のある社会とはどのような社会か確認しておこう。それは、私語が蔓延しておりながら発言がまったくない社会ではなく、私語がなく素朴な「なぜ?」という疑問や「そうではない」という反論がフッと口をついて出てくる社会である。それは、弱者の声を押しつぶすのではなく、耳を澄まして忍耐強くその声を聞く社会である。それは、漠然とした「空気」に支配されて徹底的に責任を回避する社会ではなく、あくまでも自己決定し自己責任をとる社会である。それは、アアしましょう・コウしましょうという管理標語・管理放送がほとんどなく、各人が自分の判断にもとづいて動く社会である。それは、 紋切型・因習的・非個性的な言葉の使用は尊重されず、そうした言語 使用に対しては「退屈だ」という声があがる社会である。それは、相手に勝とうとして言葉を駆使するのではなく、真実を知ろうとして言葉を駆使する社会である。それは「思いやり」とか「やさしさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をグイと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し最終的には潔く責任を引き受ける社会である。それは、対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にしそこから新しい発展を求めてゆく社会である。それは他者を消し去るのではなく、他者の責任を尊重する社会である。……あなたはこうした社会の実現を望まないだろうか。(P203-204)

 和をもって尊しとなす・・・という「和」が何事も穏便にすませるためだけの知恵なのだとしたら、そうした社会に住む個々の人間とは、いったい誰なのだろうか。その場の空気をそっと大事にして事勿れ主義に陥っている人たち。そこでもっとも支配的な空気を吸い込んでただ頷く人たち。そうすることで自分の利益権益を守ろうとする人たち。

 学校でも会社でも、そうしたお役所のような空気が支配してるのは、あまりにも息苦しく、ばかばかしいと思う。そうした「他者」のいない社会を魅力的だとは思わない。「他者」のいない社会には「自分」もいないからである。「自分」がいないのだとしたら、生きていて甲斐があるだろうか。それとも、その場を支配するような権力を得ようとあくせくがんばっている少数の人になろうとするのだろうか。しかし、そこにも本当に「自分」がいるといえるのだろうか。

 「自分」が存在していて、そこに「自由」の可能性が生まれる。その可能性のない人間存在とはいったい何なのだろうかと思う。

 

 

一倉定「正食と人体」


(1997/11/1)

 

■一倉定「正食と人体」(致知出版社/平成9年11月1日発行)

 「今までの常識をくつがえす健康学の神髄」というふうに帯には宣伝されているのですが、これは大げさな表現ではなく、この本は、確かに自分の先入見のある部分を見直すための重要な示唆がたくさん盛り込まれている素晴らしいものでした。

 帯には、「その常識をくつがえす」重要ポイントとして、「塩こそ生命の源!」とでかでかと書かれてあるのですが、最近流行というか常識化してしまっている「減塩」というのが、何の根拠もないどころか、むしろそれが病気を作り出しているのだということは確かだと思います。

 もちろん、ここで言われている「塩」というのは、精製された塩のことではなく、「自然海塩」といわれる昔ながらの製法でつくられたものです。精製された砂糖や精白米もそうですけど、精製されて純化されたものというのは、むしろ毒になってしまっているわけです。

 そのことは以前からわかっていましたので、うちでは、玄米とまではいかないまでも、6分づきのコメに雑穀を混ぜたものをはじめ砂糖も塩も精製されすぎたものは使っていないのですが、本書を読んで、特に自然海塩の重要性を認識することができました。

 本書の著者、一倉定さんは、主に、石塚左玄の「科学的食養長寿論」とそれを実践的に展開させたともいえる有名な桜沢如一の「マクロビオティック」です。

 「まえがき」から少し引用してみます。

食養論から約四十年後、左玄の理論の実用的展開を行なった人が桜沢如一である。如一は中国の易学の“陰陽論”とナトリウム・カリウム拮抗理論が同一の原理に立つものであることを知り、この二つを統合した新理論を創り、これを「無双原理・易」という書名で出版した。如一は、この無双原理を“実用弁証法”であるといっている。この理論は単に食養法にとどまらず、宇宙全般を論じている。

私の食養法は、この“石塚・桜沢理論”を中核としている。左玄の理論は基本原 理だけで、食養法にはふれていない。桜沢理論は食養・治病に及んでいる。しかし、桜沢は治病にその理論の展開と実践を行なったが、健康維持つまり病気予防についてはあまりふれていない。

私は桜沢如一のほとんどふれていない健康維持に焦点を合わせて本稿を書き進めてみるつもりである。つまり、体調維持である。もしも体調不良になった時には、この段階で正しい食養をすれば病気にはならない、という主張を持っている。病気とは体調不良の重くなったものという見解を持っているからである。健康維持食をとれば体調不良は起こらない。体調不良がなくなれば病気もなくなるのだ。

右のことは、健康維持食さえとっていれば体調不良にも病気にも効くということを意味しているのではなくて、同一の原理に基づいた食事ということで、同一の献立でよいという意味ではない。献立は同一の場合もあれば違う場合もあることを心得ていなければならないのである。(P3-4)

 著者は、決して教条的にではなく、体験的な観点から、「食」による健康維持をさまざまに述べています。よく、「こうすればすべてOK」というノウハウ本があって、ともそればその教条性が破壊的な働きをしてしまうこともありますが、本書にはそうした要素はありません。

 ですから、それぞれが自分の体質などをしっかり見定めることによってこそ本書に述べられている内容が生きてくるのだと思います。

 本書に述べられていることは、シュタイナーの「精神科学と医学」などをはじめとした内容と比較してみることで、より深く理解でき、また実践可能になるのではないかと思います。本書には、興味深い内容がたくさんありますので、「精神科学と医学を読む・ノート」などでもいくつか取り上げてみたいと思っています。

 なお、桜沢如一の「マクロビオティック」は、知っている人にはその素晴らしさは言うまでもないのですが、まだご存じないひとは、ぜひ一度は目を通されて損のないものですので、できれば、近いうちにご紹介できればと思っています。

 

 

ルドルフ・シュタイナー

「神殿伝説と黄金伝説/シュタイナー秘教講義より」


(1997/11/6)

 

■ルドルフ・シュタイナー

 「神殿伝説と黄金伝説/シュタイナー秘教講義より」

 (高橋巌・笠井久子・竹腰郁子 訳/国書刊行会/1997.9.22)

 シュタイナーの秘教講義に関する翻訳書が出ました。この講義集は、シュタイナーがまだ神智学協会のドイツ支部長をしている頃に開いていたエソテリック・スクールでの講義内容(1904年〜1606年にかけての講義)をその参加していた方々による覚え書きからまとめたものだそうです。シュタイナーは、この講義内容に関しては、一切ノートをとることを禁じていたため、その内容を再現するのはかなり困難だったようで、この初版がようやく公開されたのは1979年のことです。

 ここに盛られている内容の断片に関しては、かつて、アラン・ハワード+ルドルフ・シュタイナー「性愛の神秘学」(西川隆範編訳/創林社) のなかで紹介されたこともありますし、「マニ教」に関しては、アーガマという雑誌で「悪」の特集が組まれたときにそのなかで邦訳紹介されたことまるのですが、「カインとアベル」「マニ教」「フリーメーソン」「男性と女性」などについてまとまったかたちで邦訳されたのははじめてのことだと思います。日本では、どうしてもシュタイナー教育関連のものばかりが紹介され、その根底にある神秘学に関しての紹介はかなり乏しいものがありますので、今回の邦訳は非常に嬉しいものでした。

 ちなみに、シュタイナー全集では、GA93にあたり、原題は

Die Tempelllegende und die Goldene Legende

als symbolischer Ausdruck vergangener und zukuenftiger

Entwickelungsgeheimnisse des Menschen

Aus den Inhalten der Esoterischen Schule

人間進化の過去と未来の秘密の象徴的表現としての神殿伝説と黄金伝説

エソテリック(秘教の)スクールの内容から

 というもので、その主な講義内容は以下の通りです。

五旬祭−−人間の霊を解放するための祝祭

カインとアベルの対立

ドルイド僧とドロッド僧の秘儀

プロメテウス伝説

薔薇十字の秘儀

マニ教

霊学の観点から見たフリーメーソンの本質と課題

秘密結社の基礎をなす外展と内展

II

かつて失われ、今再建されるべき神殿

−−それと関連する十字架の木の伝説または黄金伝説

オカルティズムの光に照らしたロゴスと原子

III

神智学運動とオカルティズムの関係

フリーメーソンと人類の進化

オカルト的認識と日常生活との関連

新しい形式の帝王術

1906年1月2日のベルリンでの講義のためのシュタイナーのメモ

ゲーテと薔薇十字会との関係について

 これらの内容は非常に興味深いものばかりなので、いずれ機会をみつけてご紹介してみたいと思っています。

 

 

中沢新一「ポケットの中の野生」


(1997/11/6)

 

■中沢新一「ポケットの中の野生」(岩波書店/1997.9.25)

 今、巷では「ポケットモンスター」、略して「ポケモン」なるゲームが大ブームになっている。子どもたちを集めようと思えば、「ポケモングッズ・プレゼント」を掲げればいいというわけだ。

 この本のなかで中沢新一は、

テレビゲームについて少し本格的なものを書くのは、今度が二度目になる。最初は十数年前の『ゼビウス』登場のときだった。

 と書いているが、そのゲーム論を興味深く読んだのを覚えている。それ以来、中沢新一同様、テレビゲームからはほとんんど遠ざかり、パソコンもそうしたゲーム機専用のような存在から、現在のような、ワープロなどを初めとしたソフトを使うための存在になり、やがて、MACという極めて文房具的なマシンを使うに至り現在に至っている。

 さて、広告プランを生業としているぼくのような存在は、ポケモンのブームのような、エポックメイキングでありうる事柄には無関心ではいられないというのもあって、久々、中沢新一の著書を読むことになった。

 かつて中沢新一は、松岡正剛とともに、ぼくの憧憬し尊敬する存在の筆頭にあった。あった、ということは、今ではすでにそうではないということなのだが、久々に読み進めた「ポケットの中の野生」は、エロスおやじとタナトス小僧をテーマにしている中沢新一らしさがちりばめられているものでもあって、けっこう楽しく読むことができた。

 それと同時に、ゲーム機と戯れる子どもたちやその子どもたちのために新たなゲームを創造し続けている大人たちがいったいそこで何をしようとしているのかを考えるための貴重なガイドともすることができたのではないかと思う。

 さて、この本で中沢新一がテーマとしているのは、「野生の思考」であり、それをポケットモンスターというゲーム機が画期的な形で取り入れているということである。「野生の思考」というのは、もちろんレヴィ=ストロースが1962年に出した著書の名前である。

 それについて詳しく語るのは、ここではできないけれど、本文から大事な部分を少し引用紹介してみたいと思う。

人類の心の中から、「野生の思考」が完全に失われてしまった状況というのを考えてみると、たしかに暗澹たる想像しかわいてこない。なぜならば 神話を創造する能力や芸術をつくりだす才能などもふくめて、この「野生の思考」は、人間がなにかを創造することができたり、またこの世界が巨大な情報体やコピーの集合体である以上に、生き生きとした創造のプロセスそのものであることを直観できるための、能力の貯蔵庫のようなものをしめしていることだ。

もちろんたしかにこういうものは、現代の均質的な教育や、人の感覚や思 考までも完全に商品化してしまおうとするメディア産業が、異常なほどのスピードと規模で広がっている現代では、ますます社会の中でのまともな 居場所を失い始めている。しかし、そうかと思うと、人の無意識の商品化も進行して(略)、おびただしい種類の新しいテレビゲームが毎月のように発表されて、子どもと若者のお財布からお金を吸い上げていっている。たしかに、いまやゲームは全盛時代なのである。しかしそのゲームが、人 間の心の中で発芽を持っている「野生の思考」に健全な生育の場所を与えているかというと、残念ながらそうは言えそうもないのが実状だ。貴重なその種子の多くは、毒物をはらんだ土地に蒔かれて、倒錯した欲望の果実をつけている。

だから、私たちのまわりでも、『ポケットモンスター』のようなケースは、 本当にめずらしいのである。私はこれを、レヴィ=ストロースの言う「現 代に繁茂する野生の思考」の、最良の実例としてとりあげることにまったく躊躇しない。それをつくったのは、もう大人になったかつての虫取りの少年たちだが、その面白さを発見したのは子どもたち自身だった。(P159-160)

 現代の子どもたちには、ぼくのような「もう大人になったかつての虫取りの少年」のような意味でのささやかな「野生」や「野生の思考」を得られる機会がかぎりなく乏しくなってしまっている。しかし、現代には現代に生きる子どもたちの獲得可能な「野生の思考」があると思う。それを子どもたちが得るためには、テレビやゲームなどから遠ざかることによって、「理想的」だとされる純粋培養のようなライフスタイルを環境として子どもに与えるのではなく、むしろ、現代の「毒物」だらけの状況のなかでさえ、いやそうした「毒物」だからこそ、そのなかで新たな可能性を育てられるようなそんな魂の力を育てていけるような在り方が大切なのではないかと思う。

 いや、それは単に子どもたちの話ではない。それは、今まさに「私」の可能性の話なのだ。「私」には、「毒」を取り込みながら、その「毒」を変容させ、「野生の思考」にしていけるだけの魂の力が要求されている。純粋であることは、そうした変容の可能性を排除してしまう。今必要なのは、決して潰れないしなやかな強さなのだ。

 

 

高野陽太郎

「鏡の中のミステリー/左右逆転の謎に挑む」


(1997/11/9)

 

■高野陽太郎「鏡の中のミステリー/左右逆転の謎に挑む」

 (岩波書店 科学ライブラリー55/1997.10.22)

 「鏡の中のミステリー」というとまさに文学のミステリーやファンタジーのタイトルのようだけれど、これは、物語ではなくて、「鏡」の謎に挑んだ科学書です。

 鏡の不思議については、だれもが感じたことがあると思います。自分が鏡の前に立つと鏡のなかの世界では左右が逆になっていて、自分の右手は、鏡の中の自分では左手になっているとか、車のバックミラーに映っている後ろの車の運転手は、左ハンドルになっているけど、実際は右ハンドルであるとか、そういうことは経験的にはだれもが当然のように知っているのだけれど、では、なぜそうなるのかということについては、まだだれもそれに対して正解を出した人はいないのだそうです。そして、この著者はこの本で「謎は完全に解けた」と答えています。

 個人的な経験をいうと、大学時代に理学部か医学部の友人と話していて、その友人が授業で先生に「なぜ鏡では左右が逆転するのか」という課題を与えられて困っているのだが、いっしょに考えてくれないか、と言われ、いっしょにああだこうだと考えたことがあるのが記憶に残っています。

 そのときぼくが考えたのは、右だとか左だとかいうのは、鏡を見る人が勝手にこしらえている概念であって、その右だとか左だとかいう概念そのものを無効にしたところからしか、その問題は解決しないのではないかということでした。結局その問題は、座礁したままになっていて、そのままになっているのですが、この本を読む限りにおいて、それを解決した人はこれまでにはいなかったということなので、おそらくその友人に課題を提出した先生も学生といっしょにそれを考えてみようということだったのかもしれません。

 では、この著書はどういう観点で、解答を与えているのかというと、それを著者は「多重プロセス理論」で解決したと言っています。多重プロセスというのは、鏡による反転現象をタイプI、II、IIIに分けて、それぞれに先人たちの理論で説明しきれなかったものを説明可能にしたという理論のようです。

 まずタイプI反転は自分の鏡像についてのもの。これは「回転仮説」という考え方に対するものです。

 鏡に映った自分の姿を見て左右が逆だと思うのは、自分の実像と鏡像の視点を比較した判断です。鏡の前にいる自分が鏡像の視点をとるためには、鏡像の視点と一致するような「仮想枠」を設定する必要があります。で、鏡像の視点と一致する仮想枠と鏡の前の自分の位置関係はというと、鏡の中に、地面と垂直な軸を想定して、それを中心に、鏡の前の自分の視点と一致する身体枠を180度回転させれば鏡像の視点と一致する仮想枠になります。そこでは左右軸の向きが逆になっています。

 鏡の光学的作用でいえば、鏡に向かっている自分と鏡のなかの自分は向かい合っていて、前後の軸が鏡と垂直になっているので、前後が反転しているのですが、

鏡像の左右は、前後とは違って、鏡によって反転してはいない。そのため、逆向きになった仮想枠の左右軸に基づいて判断すると、鏡像の左右は反対になってしまう。(略)

身体枠にもとづいて判断した実物の方向と、仮想枠にもとづいて判断した鏡像の方向とを比較すると、上下と前後は変わっていないが、左右だけが逆になっている。つまり、「左右の反転」がおこっている、ということに なる。(P56-57)

 ということになります。

 少し説明が難しいかもしれませんが(なにせ長い説明をはしょっているものですから^^;)

要するに、この著者もいうように、「鏡に映ると左右が逆になるのは、鏡が左右を逆にしないから」なのです。鏡が左右を逆にする作用があるのだとしたら、鏡の前の自分がそのまま180度まわって鏡の向こうに行った「仮想枠」と鏡像を比較すると鏡像の左右は反転していないことになるはずなのです。つまり、鏡像の前後は鏡の前の自分に比べて逆になっているのに、「仮想枠」ではその前後が逆になってはいないということが鍵になっています。

 長くなりますので、あとは概略だけをぼくなりにご説明しておきます。

タイプII反転は、「文字の鏡像」についてのもので、「移動方法仮説」に対するものです。

 なぜ同じ鏡像を説明するのに、タイプIとタイプIIを分けるのかというと、それは自分を鏡の前に映すということと、文字を映すということでは、その映すものそのもののイメージが違っているからだといえます。文字だけではなく、写真などを映す場合にも、自分が映していると思い描いている像と実際に映しているプロセスは異なっていて文字や写真をそのまま見ている自分とそれを鏡に映すときの文字や写真の方向は180度回転させた状態になっているわけです。ですから、ここでも「鏡に映ると左右が逆になるのは鏡が左右を逆にしないから」ということがいえます。

 さらに、タイプIII反転は「鏡の光学的な作用が原因となって生じる左右の反転」で鏡はその面に垂直な軸を反転するというのが鏡の光学的作用なのだけれど、左右軸が鏡と垂直の場合の左右の反転についてのもので、「人の鏡像」(1)の場合と「文字の鏡像」(2)の場合で同じように説明が加えられています。

 で、わかりにくいとは思いますが、この本の最後にあるこれらの3つのタイプの反転についての「整理整頓」がありますので、それの違いについての説明をご紹介しておくことにします。

タイプI反転は、鏡像の視点から左右を判断するために、身体枠を垂直軸のまわりに180度回転したような一に仮想枠を設定することが原因でおこる。タイプII反転は、(略)鏡像とくらべる表象が、実物を垂直軸のまわりに180度回転したような位置に想起されることが原因で起こる。タイプIII(1)とIII(2)反転は、どちらも鏡の光学的作用が原因で起こる。 なにを鏡像と比較するのかも、反転のタイプによってちがう。タイプI反転の場合、鏡像と比較するのは実物である。タイプII反転の場合、鏡像と比較するのは表象である。タイプIII(1)反転では、タイプI反転とおなじく、鏡像は実物と比較する。タイプIII(2)反転の場合は、鏡像と比較するのは実物でも、表象でも、どちらでもいい。さいごに、鏡像の方向を判断するための座標系がちがっている。タイプI反転とタイプIII(1)反転の場合は、鏡像の視点にあわせた仮想枠を使う。タイプII反転とタイプIII(2)の場合は身体枠を使う。 (P103-104)

 さて、著者の高野陽太郎は、認知心理学を専門とし、言語と思考の関係、文化認識の歪み、形態認識など、人間の認識に関するさまざまな問題を研究の対象としているということです。ですから、この本での説明のように、人間の認識のあり方から鏡の左右反転の謎を解き明かそうとしている方法は、著者のお得意なのではないかと思われますし、鏡について解き明かそうとすれば、人間の認識のあり方の謎へのアプローチは欠かせないのではないかと思います。

 なお、この「鏡」は文学などの格好のテーマにもなっていますので、それについては「風のトポスノート」で何か書いてみたいと思っています。

 

 

鷲田小彌太「哲学を知ると何が変わるか」


(1997/11/19)

 

■鷲田小彌太「哲学を知ると何が変わるか」(講談社文庫/1997.10.15)

 この書名を見て、けっこう笑ってしまった。笑ってしまったために、笑わせてもらった代金として購入した。

 哲学は、むずかしい。

 というイメージにとりまかれている。「ソフィーの世界」がブームになった今、哲学が少しばかりマスコミのセールスにかけられるようにはなっているが、だからといって、それまで哲学の一文字にもふれたことのなかった方が、カントの純粋理性批判などを読破しようとすることは考えられない。

 けれど、哲学という訳語によってフィロソフィアという知を愛することがその軽やかさとは縁遠いものにイメージさせられてしまっている現状が少しずつではあるが、適切な解説書などで変化している部分もある。

 本書もそれに一役かっているように思う。本書を読むのは初めてだったのだけれど、この本が単行本として最初にでたのは、3年ほど前のことらしい。「哲学を知ると何が変わるか」という書名だから、この本がその「何」についてどう書いているのかを探していたら、最後まで読んで、少しだけその「何」がわかってきた。結局、「哲学というイメージ」が変わる可能性があるということだと思った。このタイトルは、そのためのちょっとした仕掛けだというわけだ。けれど、このことは、ある意味では最初からわかっていたことでもあるので、それがわかったからといって、本書を読まなくてもいいかというと、やはり読んでみる意味はあると思う。

 ともあれ、なんだかむずかしい顔をして部屋に閉じこもり顔をしかめてむずかしいことを考えているようなイメージから哲学を解き放つことが大事なのではないか。そして、そのためには、本書はけっこういい線いってるのではないかと思う。もちろん、本書に書かれていることをすべて共感もって読んだというのではなくある部分では、ちょっとオカシイゾとか思いながら読んだのだが、哲学をするということは、本に書いてあることをYESマンのように受け取ることではなく、自分で考えることなのだから、それでいいのだと思う。

 さて、哲学を本格的に学んだことがあるかと聞かれれば、YESとは答えられない。もちろん、それは先生を持たないということでもあり、とことん体系的に読み進んだということがまるでないということでもある。しかし、高校生の頃、哲学に興味を持ち始めてから、断片的にせよ、さまざまな哲学的著作にふれたということはいえる。そして、それはどんなアカデミズムにも染まらず、ただただ自分の切実な興味、関心からだけによって、今に至るまで少しずつではあるが続いているがゆえに、人間関係や利害を超えたところで、自分なりに(ゆえに、自分勝手に)さまざまなガイドとすることができていると思う。そして、それでいいのだと思う。哲学は書斎のなかでの遊び道具にしておくのはもったいないのだから。

 しかし、嘆くべきは、そういう遊び道具を権威化している学者もいるということだ。哲学は大衆に媚びてマスコミ受けのするポップなスタイルで啓蒙したほうがいいというのではない。むしろ、そういうスタイルの本や哲学者はお調子者以外の何者でもない。そうではなくて、たとえ大学に閉じこもって哲学を遊び道具にしていようとそれを「先生のご専門は?」という自己保身の言い訳にだけはしないで、その本来は魅力的な道具をもっと創造的な力とすることのできるように権威化などから自由になって、もっと自在な思考を羽ばたかせてほしいということだ。

 本書の著者は言っている。

哲学は贅沢だ。本書でいいたかったことである。そして、人間が贅沢なのだ。哲学知や態度を、人間の生存のさまざまな場面で活かすということは、とりも なおさず、人間を最も贅沢な舞台の上に立たせる、ということと同じである。 (P251)

 また、こうも言っている。

哲学は、可憐な乙女や、神経質な青年、冬枯れの老人の持ち物ではない。未来を、野太く生きようとする人にとって最適なのだ。世界を変え、自分を改造しようとする精神にぴったりなのだ。

もっとも、未来に生きようとするためには、過去現在の最大遺産を摂取することに、つねに心配りしなければならない。過去の一切を、現在未来の贈り物として、活用しなければならない。哲学は、最も古い人間の知の宝庫である。その古さは、しかも、高速で、現代に蘇る願望に満ちているのだ。だから、最新の思考といえども、何度目かの衣装直し、仕立て直しで、舞台に出る演者とよう似ているのだ。(P16-17)

 ところで、シュタイナーには、「哲学の謎」という重要な著作がある。現在邦訳されているシュタイナーの哲学関係の本は「自由の哲学」くらいだし、解説本としても高橋巌の「シュタイナー哲学」の本があるくらいだけれど、やはり、現代通常解説されている哲学をシュタイナーの視点から読み直すようなものももっと訳されてもいいのではないかと思うが、やはり、現状ではあまり需要がないのかもしれない。シュタイナー教育が少しクローズアップされても、それによってシュタイナーの視点がきちんと紹介されることには必ずしもつながらないからだ。

 それはともかく、この手軽な「哲学を知ると何が変わるか」は「ソフィーの世界」ほどぶあつくもないし、手軽な哲学入門になるのではないかと思う。


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