風の本棚8

(96/6.16-97/10.2)


中村雄二郎・術語集 II

西川隆範「こころの育て方」

中川真「音は風にのって」

西平直「魂のライフサイクル」

シュタイナー教育、その理論と実践

パラドックスとしての身体

高村薫「リヴィエラを撃て」

十四歳からのシュタイナー教育

寺田寅彦「俳句と地球物理」

エリエット・アベカシス「クムラン」

 

 

中村雄二郎・術語集 II


(1997/6/16)

 

■中村雄二郎「術語集II」(岩波新書/1997/5/20)

 

 中村雄二郎さんという哲学者の著作は、いつも読んでいるというわけではないけれど、

学生時代以来、折にふれて読んでみると、自分がそのときいろいろ考えていることと共振していることが多い。おそらく、同時代を呼吸しているんだろうと自分では思っているのだけれど、今回の「術語集II」も、現代という時代に焦点となっている諸テーマが、前回の「術語集I」(もう10年以上前の1984年刊行)同様、それぞれの「術語」に関しては短いものの、きわめて深い切り口でとらえられています。

 参考までに、「まえがき」でも紹介されているように、前回の「術語集I」と今回の「術語集II」でとりあげられた「術語」をご紹介しておくことにします。

■術語集I

アイデンティティー/遊び/アナロギア/暗黙知/エロス/エントロピー/仮面/記号/狂気/共同主観/劇場国家/交換/構造論/コスモロジー/子供/コモン・センス/差異/女性原理/身体/神話/スケープ・ゴート/制度/聖なるもの/ダブル・バインド/通過儀礼/道化/都市/トポス/パトス/パフォーマンス/パラダイム/プラクシス/分裂病/弁証法/暴力/病い/臨床の知/レトリック/ロゴス中心主義

■術語集II

悪/アニミズム/アフォーダンス/安楽死/イスラム/インフォームド・コンセント/ヴァーチャル・リアリティ/老い/オートポイエーシス/オリエンタリズム/顔/カオス/記憶/共同体/グノーシス主義/クレオール/宗教/儒教文化圏/情報ネットワーク社会/人工生命/人工知能/崇高/世代間倫理/テクネー/哲学/日本的霊性/脳死/恥の文化/ヒトゲノム/秘密金剛乗/ファジー集合/フェミニズム/複雑系/ボーダーレス/ポストモダン/免疫系/物語/弱さの思想/リズム/歴史の終わり

 こうした「術語」を1984と今年の1997年で比較してみると、それなりの時代背景の違いがよくわかる部分がありますね。

 ぼくにとっても興味深いのは、今回の「術語」の最初に「悪」が来ていることでした。中村雄二郎には「悪の哲学ノート」という著書もありますが、この「悪」というテーマは、シュタイナーの思想でも非常に重要なもので、その関心が現代のアクチュアルな問題のフロントに来ているというのは、その部分でも、シュタイナーの思想を理解することの必要性が高まっているのではないかというふうに感じられます。

 ちなみに、「神秘学遊戯団」のホームページでは、この「悪」については、「神秘学・宇宙論・芸術」のなかに、「マニ教・悪」ということで、シュタイナーに関連した「悪」の問題のいくつかを書いていますので、興味のある方は参照してみてください。

 この「悪」というテーマのほかにも、たくさん興味深いものがありますので、そられについては、また追って何か書いてみたいと思っているところです。

 

 

 

西川隆範「こころの育て方」


(1997/6/27)

 

■西川隆範「こころの育て方/物語と芸術の未知な力」

 (河出書房新社/1997.6.25)

 河出書房新社からこれまでに出ていた、西川隆範さんの著著「あなたは7年ごとに生まれ変わる」、「見えないものを感じる力」、「死後の宇宙生へ」に続くもので、今回の主なテーマは、題名にもあるように「物語」を中心とした芸術です。

 これまでの著書と同じように、著書とはいっても、そのほとんどがシュタイナーを中心にしたテーマをサブテーマ毎に、半ばレジュメ的に紹介しているものだということができます。ですから、シュタイナーの思想をある程度知っている人からみれば、わりと細切れにされた紹介がむしろそれらをあらためて見てみるのにけっこう重宝するといえますし、

 シュタイナーの思想をあまり知らない方からみれば、随所に、「いきなり」とでもいえるような紹介のされ方がされています。

 しかし、今回は、シュタイナー思想ではかなりお馴染みの物語がまとめて紹介されてあるというのもあって、かなり興味をもって読みやすくなっているという気がしました。そのためもあって、一気に読むことができたくらいです。ちなみに、紹介されている物語は、グリム童話、アーサー王の物語、パルツィバルなどです。

 さて、本書のなかに盛り込まれている重要なテーマについて、著者の西川隆範さんは、次のようなことを「あちがき」で述べています。

本書には何度も、<自我>と<心魂>の結合というテーマが出てくる。この自我は最初、<一寸法師>のような状態にある。その一寸しかない自我が、鬼と戦って、姫(心魂)と結ばれることによって立派な青年になる。ぼくたちの内面のそんな成長過程=自己の確立を、ほんものの物語は応援するのだ。少年期に読めば自己確立の準備となり、青年期に読めば、物語が自分の成長に付き合ってくれる。そして大人になってから読めば、自分があやふやになったときの支えになってくれる。(P235)

 この「<自我>と<心魂>の結合というテーマ」は現代人にとっては非常に重要で、それをシュタイナー思想のなかで見ていくために、本書は格好の素材になるのではないかと思います。

 ちなみに、「物語」を通じた魂の探究といえば、日本では、ユング心理学を出発点としてさまざまなテーマを追求している河合隼雄さんが有名で、グリム童話やその他のファンタジーについていろんな著書を書いています。講談社α文庫などで、手軽に読めますので、ぜひ併せて読まれると、自分の魂の成長についてさまざまな栄養になるのではないかと思います。

 

 

 

中川真「音は風にのって」


(1997/7/3)

 

■中川真「音は風にのって」(平凡社/1997.6.18)

 「平安京 音の宇宙」という名著を著わした中川真の音に関するエッセイを集めたものです。「本棚」ではなく、「音楽室」のほうが適切なのかもしれないけど…。

 このなかで、著者は、「ホモ・ファーベル」(働く人)、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)ならぬ、「ホモ・オーディエンス」(聴く人)という言葉を使っているけれど、確かに、聴くということを受け身の行為ではなく、能動的、積極的な行為としてとらえてみる必要があるように思います。

 このエッセイ集の舞台は、バリを中心としながら、ジャワ、フィリピン、京都、十津川村、パリ、ベルリン、トランシルヴァニア、ケルンなどで、さまざまな場所での「音」をめぐっての興味深い話が盛り込まれているが、テーマは、まさに「ホモ・オーディエンス」(聴く人)としての人間把握からひろがってくるものの可能性へのアプローチです。

音を聴くというのは、まずは個人的な営みだ。もちろん、社会に共有される信号や象徴音を感知し、運用する能力を持つことも重要だ。しかし、個人の確かな聴き方を鍛えること。そこから始めるしかないと思う。大きな音に耳を奪われるのではなく、小さな、聞こえるか聞こえないほどの微かな音に耳を澄ますこと。

自然から学ぶことは余りにも多い。自然の記憶の層の、深い、微かな連なりを見出すのは、私のような者には、とても容易なことではないが、せめて季節毎の変化の層、その推移を感じとれる感受性を身につけたい。それは、私に、音が語りかけてくれる毀れやすい言葉の表情のいろいろを聴き逃すことがないように、働きかけてくれるだろう。(武満徹『時間の園丁』

作曲とは、既成の音符を新たに並べ直すことではなく、外界(自然)の音に耳を傾け、そこから何かをすくいあげることだという。作曲というやや特殊な専門家だけではなく、普通の生活者である私たちもまた、このような耳をもつことによって、遥か深くにある音が聴き届けられるようになるのだろう。そのとき私たちはホモ・オーディエンス(聴く人)への道を歩み始める。(P193-194)

 訪れ、とは、音・連れであり、訪(おとな)ひ、とは、音・綯ひでもあって、「遥か深くにある音」をしっかり聴きとれるようになるためには、その「小さな、聞こえるか聞こえないほどの微かな音に耳を澄ます」ことが必要なのではないでしょうか。そうでなければ、「音」は私たちを訪れてはくれないのだと思うのです。

 あまりの喧噪に身を置き続けると、麻痺してしまい、たとえそうした「微かな音」が届いていても、それに気づくことができなくなります。

 「耳を澄ます」ということは、「耳をひらく」ということでもあります。「ひらく」ためには、そして、ひらいて、その器に、訪れた音をそっと載せて味わうためには、その器をいちどからっぽにしなければならないように思います。喧噪は、器をがらくたで埋めてしまいます。

 「聴く」ことからひろがる可能性について考えるきっかけを、この「音は風にのって」は与えてくれるのではないでしょうか。

 

 

 

西平直「魂のライフサイクル」


(1997/7/21)

 

■西平直「魂のライフサイクル/ユング・ウィルバー・シュタイナー」

 (東京大学出版会/1997.7.15)

 本書は、通常は、生まれてから老いて死ぬまでを扱っている「発達心理学」の守備範囲を、「胎児期記憶」「前世記憶」や「臨死体験」「死後の魂の成長」といったものにまでひろげて、生も死も死後も再生もその守備範囲に含んだ「円還的ライフサイクル」についてアプローチするために、心理学におけるユング、トランスパーソナル心理学におけるケン・ウィルバー、そして神秘学におけるシュタイナーを比較検討しているものです。

 ぼく個人でいえば、ユング心理学やトランスパーソナル心理学に関しては、かなり以前から興味を持ってみていましたから、それにシュタイナーを加えて、そうしたアプローチをするこうした試みはかなり理解しやすいものですし、その比較も比較的コンパクトに理解しやすいようにまとめられているのではないかと思います。ただし、ユングやウィルバーについては、著者の理解は的を得ているように思いましたが、シュタイナーに関しては、誤解の部分や理解不足の面があるようにも思いました。

 ともあれ、ユングにおいては、「魂(ゼーレ)」「プシュケー」、ケン・ウィルバーにおいては「意識」、そしてシュタイナーにおいては「自我」を比較しながら、「魂をめぐる知」についてアプローチしているこうした試みは注目すべきものではないかと思います。

 この著書では、その三者の違いの部分が強調されていましたが、むしろ、それが深いところで共通している認識の部分を見ていくことで、この三者の比較はさらに有意義なものになっていくのではないでしょうか。

 最後に、少し引用を。

こうして、三つの理論モデルは、人の「心」を扱いながら、それぞれが違った仕方で、日常的な意識レベルを越え出ている。それを「意識の拡大」と見るなら、それぞれ異なる方向に向かって意識の拡大を語っている。それを「自己超越」と見るなら、まさにそれぞれが、異なる自己超越のモデルを語っている。シュタイナーは、超感覚的次元に参入するという仕方で、ウィルバーは、変成意識という仕方で、ユングは、意識が無意識に自らを明け渡すという仕方で、日常的な「自己」を越え出るモデルを提示している。もしくは、それを「神秘体験」「超越体験」と関連させて言い換えれば、もしそうした体験を、何らかの超越的実体によって引き起こされた現象として理解しようとするなら、シュタイナーの理論モデルと照らし合わせるとよい。シュタイナーのモデルは、理論的な整合性と体系的な包括性という意味で、最も信頼のおける指標になる。

しかし、もしそうした出来事を超感覚的実体と結びつけることなく、むしろ、「心」の出来事として理解したいなら、ユングのモデルと照らし合わせるとよい。それは、日常的意識を越えた体験を、個人の「内側」で説明する。「外」からやってきた超感覚的実体ではなく、「自分」の内側から湧き起こる無意識のエネルギーによって生じた、「心」の「内側」の体験と見るのである。さらにもし、そうした出来事を、変成意識として理解するなら、そして、それを認識問題と関連づけて理解したいなら、ウィルバーのモデルと照らし合わせるとよい。意識と現実の相関関係。意識レベルの違いに応じて現われる現実の出来事としての「神秘体験」。

そして、その理解は、東洋の伝統的な思想体系につながってゆく。例えば、古代インドの哲学。例えば、唯識思想。むろん、個々の違いは丁寧に確かめる必要があるにしても、近代的な日常意識を越え出た体験を、東洋の伝統的な知恵とつないで理解する時、この理論モデルが重要な触媒になることは、間違いない。

 著著は、ぼくとほぼ同世代。やはり、けっこう似たとらえ方をしているのだなあと感じました。個人的にはけっこう郷愁に感じたものさえ感じることのできた好著です。

 

 

 

「シュタイナー教育、その理論と実践 」


(1997/8/3)

 

■ギルバート・チャイルズ「シュタイナー教育、その理論と実践」

 (渡辺穣司訳/イザラ書房/1997.7.15)

 

 がねっしゅさんの「教育の基礎としての一般人間学」の読書会が始まっていますが、ちょうどそれを理解するために格好だと思われる本がイザラ書房からでました。

 たんなるムード論的なシュタイナー教育に関するものではなく、「その理論と実践」ということにもあるように、シュタイナーの基本的な考え方をきちんとおさえたうえで、シュタイナー教育を紹介してあるとてもバランスのいい本ではないかと思います。ちなみに、本書は1991年イギリスの「フロリス・ブックス社」というところから刊行されたものの翻訳です。

 以下、カバー裏にある紹介文より。  

本書は子ども自身と子どもの全パーソナリティ(人格)の発達に関して、ルドルフシュタイナーの見解を幅広く詳細に解説したもので、シュタイナー(ヴァルドルフ)学校の教育実践が子どもの過去・現在・未来を見つめる理論にいかに強く根ざしているかが示されています。子どもが知性を持ち、責任感に溢れた大人になるためには、蔓延する悪影響からの「自由」と、人間に内在する基本的な真実が、個人そして社会の両側面で尊重されなければなりません。本書では、私たちに馴染み深い科目とあまり知られていない科目をあつかいながら、シュタイナー教育のカリキュラムが説明されています。

さらに著者であるギルバート・チャイルズは、ルドルフ・シュタイナーの教育理論を先例のない方法で概観し、明確なものにしています。シュタイナーと同じようにチャイルズも、社会の未来は正に私たち大人が、子どもの教育に成功するかしないかにかかっていることを、緊急の課題として重要視しているのです。

 これは、当然のことですが、「社会の未来」は、子どもの教育云々以前の問題として、また同時並行的な問題として、今我々が自らをどのように教育していくかということにかかっています。そうした自己教育という課題をどうとらえていったらいいのかについてもあらためて考え直していく必要があるのだと思います。そういう意味でも、本書は、格好のガイドなのではないかと思います。また、「一般人間学」を読んでいく際のガイドとしてもおすすめです。

 

 

 

「パラドックスとしての身体」


(1997/8/13)

 

■シリーズ身体の発見「パラドックスとしての身体/免疫・病い・健康」

 (TASC[たばこ総合研究センター]『談』編集部=編著

 (河出書房新社/1997.7.18)

 「シリーズ」となっているように、「身体の発見」の最初がこの巻で、続いて、「複雑性としての身体/脳・快楽・五感」、「<構造>としての身体/進化・生理・セックス」、「からだブックナビゲーション/身体を知るための5,000冊」というふうに全部で4冊が順次刊行されていく予定になっているようです。また、「編著」とあるように、これはいろんな方のインタビューや対話を編集したものです。

 この巻では、「免疫・病い・健康」という副題がついているように、「病気とは何だろう」「健康とは何だろう」といった問題をその根底からとらえ直そうという姿勢での内容がさまざまな角度から検討されています。現在、ホームページでシュタイナーの「精神科学と医学」の翻訳紹介が行なわれていますがそれを理解するための参考書のひとつとしても有効な部分があるのではないかと思います。

 もっとも、この本では、「病気」や「健康」に関する現在のプロブレマティークが提示されているだけだということもできますので、そこからの展開こそが「精神科学と医学」で示唆されているということもできるのではないかと思います。

 参考までに、本書に収められている内容をご紹介させていただきます。

アンドルー・ワイル×永沢哲「近代医学を超えて」

多田富雄「免疫系、フラジャイルな生命」

伊藤源石「免疫のメタファ、科学のメタファ」

横山輝雄「免疫現象とオートポイエーシス/科学哲学から探る」

畑中正一「生命と情報環境/ウイルス、遺伝子、コンピュータ」

中川米造「<病い>を捉え直す」

波平恵美子「豊かさとしての病い」

塩谷正弘「痛みからの解放/病いからの解放」

柴田二郎「医療は宗教である」

鷲田清一×小林昌廣×柿本昭人「<臨床医学の誕生>を読む」

上杉正幸「健康の逆説」

三浦雅士×樋口聡×桂英史「反健康としてのスポーツ」

 このなかで興味深かったのは、最初のアンドルー・ワイル、そして中川米造「<病い>を捉え直す」、波平恵美子「豊かさとしての病い」塩谷正弘「痛みからの解放/病いからの解放」、柴田二郎「医療は宗教である」それから上杉正幸「健康の逆説」で、「病気」「治療」「健康」などについての観念を根底から考え直すことの重要性を認識させてくれるものでした。

 

 

 

高村薫「リヴィエラを撃て」


(1997/8/16)

 

■高村薫「リヴィエラを撃て」(新潮文庫/1997.7.1)

  +風の音楽室●ブラームス「ピアノ協奏曲第2番」

 これは、いわゆる冒険もの、スパイものといわれるジャンルに属する小説なのだろうし、現に、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞しているくらいだから、その通りなのだろうけど、高村薫自身が「マークスの山」で直木賞を受賞したときに、自身が「わたしはミステリを書いているつもりはない」と言っているというように、ジャンルを特定した読み方はふさわしくないだろう。

 ぼくとしていえば、高村薫の小説は「友情」をテーマとしているとも思えるし、また、音楽を重要な要素として盛り込んでいることも重要だというふうに思うし、また、「リヴィエラを撃て」に登場するジャック・モーガンという北アイルランド出身のテロリストの描写やIRAについての記述からは、むしろジョイスの「ダブリナー」などよりアイルランドへの関心を喚起させる。

 さて、音楽に関してだが、この「リヴィエラを撃て」では、シューマンのリーダークライスとブラームスのピアノ協奏曲第2番が感動的な場面で使われている。

 ブラームスのピアノ協奏曲第2番についていえば、最近出た村上春樹の「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」(朝日新聞社)でも、二十年くらい前に奥さんと聞いたリヒテルの演奏会について次のように述べられていたのだけれど、妙にシンクロするものですね。

冒頭にホルンの静かなイントロダクションがあって、それからピアノが入ってくる。それを聴いていると、体中の疲れが何故かすうっと抜けていくのが感じられた。「自分は今癒されているのだ」ということがはっきりとわかった。細胞の隅々にこびりついていた疲弊がひとつひとつひっぺがされるみたいに取れて、消えていった。僕はほとんど夢見心地で音楽を聴いていた。ブラームスの二番の協奏曲は昔から好きでいろんな人の演奏で聴いたけど、そんなに感動させられたのは初めてのことだった。(P147-148)

 高村薫の小説を紹介していて、つい村上春樹が出てしまったし、妙に「音楽室」めいてきたアーティクルになってしまっているけど、この際そういうことは気にしないことにして、「リヴィエラを撃て」から音楽シーンをご紹介してこの本の紹介に代えたい。ともあれ、音楽に限らず、この「リヴィエラを撃て」はとっても面白くてしかも細部がとても素敵に描かれていて、登場人物すべてに感情移入をさせられてしまうものだから、夜も寝ないで読んでしまう類の本であることは間違いない。

 先日直木賞を受賞したということで篠田節子の「聖域」(講談社文庫)を読んでみたのだけれど、ぼくの趣味からいえば、文体の稚拙さやせっかくのテーマの展開のさせかたが陳腐なのとで、面白くはあったものの、著者の別の小説を読む気にはなれなかった。それにくらべれば、高村薫の小説は、別の小説などを次々に読み漁ってしまうようなすぐれたものだというふうにぼくとしては思う。

 帰路の車の中で、ジャックは小さな声で歌い出した。シューマンの有名な歌曲の一つだが、<伝書鳩>は正確な名前は知らなかった。赤い稲妻のひらめく故郷の方から、雲が流れてくる……とドイツ語の歌詞は歌い、穏やかに低いメロディーは仄暗い灯し火のように揺れた。

 Aber Vater und Mutter sind lange tot

 Es kennt mich keiner mehr

  父も母もずっと昔に亡くなり

 あそこではもう私を知る者もない

この歌をジャックはどこで覚えたのか。ときどきこんなふうに歌うことがあるのか。気のふれた<伝書鳩>の祖父が昔、老人ホームで古いアイルランド民謡を歌っていたときと同じ、穏やかにうつろな目をして、ジャックは少し調子の外れたハスキーな声で、いつまでも歌い続けた。

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その様は、五感を撫でるような美しさだった。シンクレアの指から落ちる音は、まさにしずくの響きを聴く思いだった。一滴一滴がどれもほんの一瞬の光を放って淡々と落ちていく。しずくは次第に重なり、流れる水に変わり、弦楽のうねりとともに高まることもあった。そういうとき、弦楽が短い悲嘆の叫びを上げ、その下でピアノがうねり上がり、また弦楽が悲しげに叫び、ピアノがそれをすくい上げる。中間部でさらに遅々としたアダージョになったとき、ピアノは再びしずくになった。前よりもっとひそやかな一滴が、旋律の彼方に落ちる。また一滴。それは、事実、ほかに重なる音も、それに前後して続く音もない、高い単音だった。それが、ほんとうのしずくに聞こえた。シンクレアの魂から、一滴一滴しぼり出されて落ちていく。まさに、涙の音のようだった。

 手持ちのCDでは、ポリーニのピアノ、アバド指揮ウィーンフィルとバックハウスのピアノ、ベーム指揮ベルリンフィルがあったが、前者のものが、上記の小説のイメージにはぴったりとしていた。できれば、リヒテルのものも機会があれば聴いてみたいと思った。

 で、今回は風の本棚+音楽室でした。

 

 

 

「十四歳からのシュタイナー教育」


(1997/9/23) 

 

■ルドルフシュタイナー教育講座別巻

 「十四歳からのシュタイナー教育」(高橋巌訳/筑摩書房/1997.8.25)

 本書は、筑摩書房からでている「教育の基礎としての一般人間学」をはじめとしたルドルフ・シュタイナーの教育講座全三巻の別巻ともいうべきもので、「一般人間学」などの一連の講義の二年後に、10年生(高校一年生)のクラスを新設するに際して、教師のために行なった連続講演録で、「補足講義」とも呼ばれています。

 14歳という思春期の問題が注目されているだけに、この連続講義の内容を理解しておくことは、非常に重要なことだと思います。

 この連続講義は、全集では、

■GA302「人間認識と授業形成」

 Menschenerkenntnis und Unterrichtsgestaltung

     1921.6.12-19、シュツットガルト

自由ヴァルドルフ学校の教師のための8回の講義

     (1919年の基礎的な教育学演習のための「補足講義」)

 にあたります。

 おそらく、邦訳の「十四歳からのシュタイナー教育」というのは、例の「14歳」ということを意識したものではないかとも思います。

 この講義はおそらくは「一般人間学」などよりもかなり読みやすいですし、巻末に邦訳の「解説」として、講義内容を的確にまとめたものもあって理解を深めるためには格好のものではないかと思います。

 この貴重な本の内容については、テーマをピックアップして、「シュタイナーノート」として追って少しずつご紹介していくことにしたいと思います。

 もっとはやくこの本をご紹介しようと思っていたのですが、ちゃんと読み終えて理解をある程度してからと思っているうちにけっこう時間が経ってしまいました。

 

 

 

寺田寅彦「俳句と地球物理」


(1997/9/24)

 

■寺田寅彦「俳句と地球物理」

 (角川春樹事務所/ランティエ叢書6/1997.9.18)

 寺田寅彦とは高校生の頃、岩波文庫での随筆集を拾い読みしはじめてからのつきあいで、いつもいつも読んでいるわけではないけれど、たまに手に取ると、とても気持ちにしっくりくるときが多く、どうも他人のような気がしない。他人のような気がしないといっても、血がつながっているわけでもなく、ものの感じ方が似通っているというか、むしろ、寺田寅彦の随筆から、影響を多大に受けているということかもしれない。っとも、ぼくも寺田寅彦と同じく高知県の生まれなので、どこか気質的に似通っているところがないとはいえないかな、とも思う。

 そんな寺田寅彦の素敵な一冊が出たので、ご紹介しておきたいと思った。タイトルは「俳句と地球物理」という、いかにも寺田寅彦らしいもの。中には、「牛頓(ニュートン)先生俳句集」というのもあって、なかなかにさりげなく楽しませてくれる。ちなみに、「「牛頓(ニュートン)」というのは、寺田寅彦の筆名の一つ。中にはなかなか洒脱なエッセイも多々あるが、ここでは、ぼくの基本的な姿勢というか、寺田寅彦から修得したのかもしれない考え方のひとつでもある「知と疑」から少し引用紹介しておきたい。 

 疑が知の基である。能く疑う者は能く知る人である。南洋孤島の酋長東都を訪うて鉄道馬車の馬を見、驚いてあれは人食う動物かと問う、聞いて笑わざる人なし。笑う人は馬の名を知り馬の用を知り馬の性情形態を知れども遂に馬を知る事は出来ぬのである。馬を知らんと思う者は第一に馬を見て大いに驚き、次に大いに怪しみ、次いで大いに疑わねばならぬ。

(略)

疑わぬ人は甚だ多い。欠レ知の甚だしきもので又無知の甚だしきものである。雨の降る日は天気が悪いというのは事実である、雨が降って天気のよい日のある事を知る人の少ない所以である。一に加えて二となるは当たり前である。それだから一に加えて二にならぬ事を知る人が少ない。

(欠レ知のレは返り点です/注)

(略)

疑う人に凡そ二種ある。先人の知識を追求して其末を疑うものは人智の精を究め微を尽くす人である。

何人も疑う所のない点を疑う人は知識界に一時期を劃する人である。一人にして其二を兼ぬる人は甚だ稀である、此れを具備した人にして始めて碩学の名を冠するに足らんか。(P54-55)

 寺田寅彦のいう「碩学」とは、シュタイナーであり、白川静であろうか。世にはそうした碩学は極めて少ないが、そうした尊敬すべき人から多くを学びたいものだと切に思う。逆に、「疑わぬ人」を反面教師としてそこから学ぶことも重要かもしれない。もっとも、学ぶ以前に、そこから受ける多大な被害を避けることも、また重要なことだとも思う。

 

 

 

エリエット・アベカシス「クムラン」


(1997/10/2)

 

■エリエット・アベカシス「クムラン」(角川書店/1997.9.25)

 クムランといえば、死海文書の発見された場所で、このミステリーは、その死海文書の謎をめぐる冒険小説です。冒険小説とはいっても、これは、単なるお話というよりも、ユダヤ教、キリスト教などの神学や神秘学、言語学などを縦横無尽に駆使して描かれる密度の濃いものなので、そうしたことに関心の少ない方には、かなり読みづらい部分もあるのではないかとも思います。しかし、逆にそれは、死海文書などに興味を持っているならば、その内容の濃さが大きな魅力となっているので、そうした方にとっては、読みごたえのある大作なのではないかと思います。

 このミステリーを書いたのは、弱冠27歳のフランスの女性の哲学教授だということで、熱狂的支持者の口コミで、処女作ながらフランスでベストセラーになっているということです。また、自作のテーマは「悪」ということで、とても楽しみです。

 さて、このミステリーには、死海文書をめぐって、ユダヤ教やエッセネ派、キリスト教についてのさまざまな観点がスリリングなかたちで興味深く盛り込まれています。エッセネ派などについてもかなりな部分が描き込まれていて、その視点からイエスという存在をドラマチックに描いているといえます。また、ユダヤ教を理解するということからも、かなり興味深いものです。

 もちろん、これはあくまでもミステリーなのではありますが、事実は小説よりも奇なりであって、おなじミステリーでも、シュタイナーのキリスト観などのほうが、ずっとグローバルで、スリリングなのは確かで、だから、シュタイナーの思想を知り始めると、ミステリーそこのけの面白さがあるわけです。

 なお、この「クムラン」に描かれているエッセネ派について興味のある方は、エドガー・ケイシーやシュタイナーの記述をぜひ参照されればと思います。もちろん、イエス・キリストについても同様です。シュタイナーのキリスト観については、神秘学遊戯団ホームページにもその一部はご紹介させていただいています。

 シュタイナーの場合、ユダヤ教、キリスト教という観点だけではなく、それに古代ペルシャのゾロアスター教やエジプト、ギリシアなどをはじめとした古代密儀の観点や仏教との関係などが詳細に検討されているところが特に魅力だといえます。

 この「神秘学遊戯団」はそれに加えて、儒教や神道などの東洋的な観点も併せて検討していこうとするものでもあって、そうしたミステリーを説く喜びは、とってもスリリングなどで、興味の種はつきません。

 さてさて、ともあれ、この「クムラン」のストーリーの一端を扉にある紹介文からご紹介させていただくことにします。 

一九四七年、イスラエル建国の前夜、死海に臨むクムランの洞窟で、「死海文書」は二千年の封印を解かれて発見された。それから半世紀、謎に満ちた「死海文書」の一巻がロレーヌの十字架に磔にされて発見された。考古学の世界的権威であるダヴィッド・コーヘンはイスラエル諜報部に所属する旧友の訪問を受けた。息子アリー・コーヘンとともに古文書の捜索をして欲しいというのだ。失われた古文書を求めて旅立った二人は、イスラエルの砂漠からロンドン、パリ、ニューヨークへと鍵を握る人物に接触する。ところが一人また一人と古文書に近づくものはことごとく磔の犠牲になっていくのだ。ヴァチカンやローマ教皇聖書委員会までもが、血眼になって文書を探している。いったい誰の仕業なのか。そこまで隠されようとしている文書にはいったい何が書かれているのか。神学、言語学、神秘主義に精通した若き哲学教授が衝撃的に発表した神学冒険小説。そして、「クムラン」は、誰にも予想できない結末へと向かっていく……。

 ストーリーを紹介してしまうのもどうかなと思ったのですが、扉に書かれてあるものだし、こうしたストーリーよりも、盛り込まれている内容のほうがずっとスリリングなので、特に支障はないだろうと思いましたので、あえてご紹介させていただきました。


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