風の本棚7

(96/10.08-97/01.28)


エンデのメモ箱

角川文庫ソフィア「仏教の思想」

シュタイナー・秘儀の歴史

西田幾多郎随筆集

シュタイナー/黙示録講義

シュタイナー教育の実践的十代論

司馬遼太郎関係・2冊

西谷啓治・宗教と非宗教の間

エンデ・魔法の学校

清水博・生命知としての場の論理

神秘学の本

曾野綾子・悪と不純の楽しみ

秋月龍みん・絶対無と場所

伊藤益・日本人の愛

松岡正剛・情報の歴史を読む

出口王仁三郎・大本裏神業の真相

 

 

エンデのメモ箱


(96/10/08)

 

■ミヒャエル・エンデ「エンデのメモ箱」(岩波書店/1996.9.26)

 昨年の8月に亡くなったミヒャエル・エンデの全集版が現在、岩波書店から刊行されていますが、これは、生前出版された最後の本となったものの邦訳で、「メモ箱」と題されているように、このなかには、作家活動のかたわら、書斎に置いた箱に手書きやタイプライターで書かれたさまざまなメモのなかから「着想を書きとめたメモや創作ノート、小説の書き出し、さまざまな詩、短い戯曲のシーン、辛口の文明批評」などの113のメモが収められています。

 興味深いのは、創作では直接はわからなかったエンデの思想の部分についてもより深い理解の助けになるということです。もちろん、創作は創作で、それはそれ自体として読まれるものですけど、こうした「創作の秘密」っぽいメモなどをあわせて読んでみるのもまたひとつの興味深いことだということです。

 この本は、まさにメモ集なので、引用することはあまり意味がないのかもしれませんが、このなかからほんの短い「メモ」をご紹介することにします。

単純

真実は単純だと、よく耳にする。それは正しい。しかし、なにか誤ったことを言いたいのではないかと、それだけが気にかかる。単純なことは簡単にわかるはずだと言いたいのではないか。しかしこれほどむずかしいことはない。(P79)

  こうしたことは、シュタイナーもよく講義などで繰り返してましたし、ぼくとしても、日々実感していることです。単純ほど難しいものはなく、理解するのも非常に困難だということ。

 よく、真理はだれにでもわかる簡単な言葉で表現できる、という安易な表現が使われます。けれど、簡単な言葉こそが、もっとも難解であるのです。怠惰によって、簡単な言葉を簡単に理解できたと思いこんでいることほどおそろしいことはないのだと思います。

 たとえば、「愛」。「すべては愛なのだ」という真理があります。その表現はおそろしいほど簡単です。けれど、それを簡単に理解できるでしょうか。よく、新興宗教のノリや、ニューエイジのノリで、「すべては愛なのだ」的なことが多用されていたりしますが、多くの場合、それは理解を深めさせないためのドラッグと化しています。

 簡単な表現ということとそれを理解できるということとはまったく別のことなのです。

 ・・・というように、さまざまなメモがぎっしりと詰まった「エンデのメモ箱」を手にとってみられてはいかがでしょうか。

 

 

 

角川文庫ソフィア「仏教の思想」


(96/10/31)

 ぼくが最初に読んだのはもう15年ほど前のことになりますが、角川書店から、全12巻の「仏教の思想」が出ていました。実際に刊行されたのは1970年代の最初の頃ですから、ぼくが読んだのは刊行されてから10年以上経ってのことになるでしょうか。

 仏教に最初に興味を持ったのは、20年近く前のことで、何気なく手に取った岩波文庫の「般若心経」がきっかけでした。その後、全12巻すべてをちゃんと読み通したというのではないのだけれど、この「仏教の思想」シリーズを読むことをガイドにして、「仏教」という希有の宗教思想の全貌を垣間みたような気がしました。少なくとも、そこから学んだことは限りなくたくさんあります。

 このシリーズは、残念ながら手元にはわずかしか残ってなかったのですが、「角川文庫ソフィア」ということで、復刊されることになったようです。6月には、第1巻の「ブッダ」、第5巻の「天台」、第9巻の「空海」の3冊が、この10月には、第2巻の「アビダルマ」、第6巻の「華厳」、第10巻の「親鸞」の3冊が刊行されました。これで半分が刊行されたことになりますが、このペースでいくと、春頃までには全12巻すべてが揃うことになります。

 このシリーズは、ほんとうに内容の濃いもので、仏教に関心のある方であれば、手元に置いておいて損はないと思います。

 一応、ここに全12巻の内容を記しておきたいと思います。

<インド編>

1)知恵と慈悲<ブッダ>増谷文雄・梅原猛

2)存在の分析<アビダルマ>櫻部建・上山春平

3)空の論理<中観>梶山雄一・上山春平

4)認識と超越<唯識>服部正明・上山春平

<中国編>

5)絶対の真理<天台>田村芳朗・梅原猛

6)無限の世界観<華厳>鎌田茂雄・上山春平

7)無の探求<中国禅>柳田聖山・梅原猛

8)不安と欣求<中国浄土>塚本善隆・梅原猛

<インド編>

9)生命の海<空海>宮坂宥勝・梅原猛

10)絶望と歓喜<親鸞>増谷文雄・梅原猛

11)古仏のまねび<道元>高崎直道・梅原猛

12)永遠のいのち<日蓮>紀野一義・梅原猛

 

 

 

シュタイナー「秘儀の歴史」


(96/11/02)

 

■ルドルフ・シュタイナー「秘儀の歴史」(西川隆範訳/国書刊行会/1996.10.21)

 これは、シュタイナーが晩年に行なった「古代密儀」に関する連続公演で、その「古代密儀」を理解することで、人智学が現代になぜ必要なのかを理解するための恰好の内容になっています。

 この「秘儀の歴史」に関しては、興味深そうな内容だと思い、2年ほど前に原書をまとめて購入したときにも、そのなかに入っていたもので、ある程度はその内容を理解していたはずなのですが、こうして訳されたものに目を通していると、やはりわかってなかったりしました(^^;。

 ここに盛られている内容は、ほんとうに深いものなので、シュタイナーの思想に興味をお持ちのかたは、ぜひ目を通していただきたいと思います。ちなみに、これまで邦訳されたもののなかにも、「古代密儀」に関して行なわれた講演がありますので、その主なものを列挙しておきたいと思います。 

●「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(人智学出版社)

●「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)

●「秘儀参入の道」(平河出版社)

 このテーマに関連したものといえば、学研から「Books Esoterica」というシリーズででている「17古代秘教の本」というのがこの8月にでていますので、これに目を通したうえで、このシュタイナーの「秘儀の歴史」を読まれると、これが単に表面的な「歴史」についての話ではなく、今の我々の魂のあり方についての意義深い示唆なのだということが理解されるのではないでしょうか。

 

 

 

西田幾多郎随筆集


(96/11/06)

  

■上田閑照編「西田幾多郎随筆集」(岩波文庫/1996.10.16)

 これは、「思索と体験」以降の、エッセイや日記、書簡などを集めたもので、まさに「人間西田幾多郎」の哀切な声が響いてくるような西田幾多郎その人を知るには恰好の一冊ではなかろうか。

 西田幾多郎の哲学のあの半ば迷路のような、それでいて、凛とした思索の高みを思うときに、心情の吐露としての言葉を読むと、西田の意外な情のもろさに驚かされる。故郷を思う西田、少年期、青年期を振り返る西田、往く者に嘆きを隠さぬ西田がある。朝に参禅、昼に参禅、夜に参禅を繰り返した西田が、折に触れて見せる親鸞への傾斜が、あの西田哲学の鍵なのかもしれぬとさえ思う。

 西田哲学の難解さに戸惑う者にも、近づきやすい一冊。

 

 

 

 

シュタイナー/黙示録講義


(96/11/08)

 

■ルドルフ・シュタイナーの「大予言2」

 (松浦賢編・訳・解説・イザラ書房/1996.10.25)

 「大予言2」などと、タイトルはものものしく、かつ軽薄だけれど、内容は、かなり重要なものなので、シュタイナーの思想を学ぶ者には必読のものを多く含んでいます。

 シュタイナーの全集は全部で354巻あるのですが、そのなかで、第342巻〜346巻の5巻が刊行されたのは、つい昨年の1995年のことです。つまり、それまでは、限られた人しか読めなかったということです。

 その5巻の内容を中心に紹介しているのが、今回の「大予言2」で、これは、キリスト者共同体の司祭に対して、死の前年になされた一連の講義のうち主に「ヨハネの黙示録」についての講義を収めている第346巻の内容をかいつまんで紹介したものです。

 その5巻とは、以下のものです。 

■第342巻「刷新されたキリスト的、宗教活動のためのアントロポゾフィー的基礎」

■第343巻「霊的認識、宗教感情、祭祀的活動」

■第344巻「キリスト者共同体設立に際しての講義」

■第345巻「作用する言葉の本質について」

■第346巻「ヨハネ黙示録と司祭の活動」

 シュタイナーの思想のメインテーマは、「キリスト衝動」だといってもいいとぼくはとらえているのですが、その「キリスト」というのは、通常の意味での「キリスト教」とはかなり異なっていますし、そうしたセクト的な意味での「キリスト」ではなく、現在、そして未来の人類にとって共通テーマとしての「キリスト」です。ですから、それが「キリスト」と呼ばれていようとそうでないかろうと問題ではなくその「衝動」の内容が問題なのです。 

いまや、人間は自己意識を備えた存在として、キリストの本質を、そしてキリストと世界全体のつながりを認識しなければなりません。そうすることによってのみ、人間が実際に一人の「私(自我)」として活動することが可能となるのです。<「悪の秘儀」79頁>

子(訳注 キリストを指す)の衝動は魂のなかに受け入れられ、魂によって手を加えられなくてはなりません。子の衝動は、魂が肉体の力や遺伝の力から自由になるように、魂を拡大することができなくてはなりません。子の衝動は人間の自由のなかへと入り込んでいきます−−初期キリスト教の時代の人々は自由をそのように理解したのです−−。子の衝動は魂の自由のなかへと入りこみます。そこでは魂は遺伝の力から自由になります。子の衝動こそが、「父親によって与えられた人生を送るあいだに自分自身を手に入れる能力」を人間に与えるのです。このようにして太古の秘儀において、人々は父なる人間と、父の息子であり、キリストの兄弟である人間とを見ました。キリストの兄弟である息子は、自分自身を手にいれ、ある意味において肉体から自由になったものを自分のなかに受けいれます。彼は自分自身のなかに新しい領域を担わなくてはなりません。それは自然とはなんのかかわりもありません。それは自然とは別の秩序を提示します。すなわちそれは、精神の領域なのです。(第364巻105−106)

  この連続シリーズで紹介されたキリストについてのテーマは、限りなく重く切実なものです。この「大予言2」では、シュタイナーの「ヨハネの黙示録」をめぐる話が紹介されていますが、これについては、既に訳されている「黙示録の秘密」(水声社)で、詳細に解説されているところでもあります。併せて読まれると、より理解は深まるかと思います。

 

 

 

シュタイナー教育の実践的十代論


(96/11/10)

 

■ベティ・ステイリー

 「思春期の危機をのりこえる/シュタイナー教育の実践的十代論」

 (小学館/1996.11.20発行)

 教育の荒廃が絶叫的に叫ばれて久しい。けれど、ますます教育は荒廃するばかりであるかに見える。さまざまなことが議論され、「対策」が医薬品のように投与され続けている。しかし、薬害のように、その「対策」がまた新たな荒廃を生む。「イジメ」が、エイズのように次々と感染している。いや、エイズという喩はふさわしくないかもしれない。それは、高級ブランドスニーカーの流行のようなものだといえるかもしれない。

 「教育の荒廃」といわれる現象の原因は誰にとっても明らかだが、それを誰もが困難な問題だという以外になすすべを知らない。それをシステムの問題に帰せしめている限り打開はしない。それは単なる結果論でしかない。

 単純なことなのだ。親がなすべきことをし、教師がなすべきことをすればいいだけだ。けれど、問題は、親も教師も社会の縮図としてロボット化している。だれも、「自分が」やろうとはしていない。そして、子どもはそのロボット化された親や教師の真似をして育つ。「イジメ」も、その真似のひとつにすぎない。

 ・・・というような能書きはさておいて(^^;、この本は、思春期を送る子供たちを理解するために、シュタイナー教育の考え方から実践的にアプローチしたものである。

 大人は、まず、子どもを理解しなければならない。そして、その前に、かつて子どもだった自分をもう一度呼び出してきて、その自分が現代の環境にあったとしてどうするのかを魂の底から自問せねばならない。この本は、そのための恰好の本であるといえる。なにより、とても平易なのがいい。平易だといっても、ここに盛られている内容は軽々しいものではない。

 この本を紹介するために、どこかを引用しようと思ったが、やはり、この本文の最後に引かれているシュタイナーの言葉にしようと思う。

  人間の自由なる本質の中には

  大宇宙のすべてが存在する。

  それなら、おまえの心の自由なる決意において

  おまえ自身の人生をつかみとるがいい。

  そしておまえは世界を見出し、

  世界の霊はおまえの中に自らを見出すであろう。

 やはり、教育の原点は、人生に積極的に生きようとする「勇気」を育てること以外にないのではないだろうか。

 

 

 

司馬遼太郎関係・2冊


(96/11/13)

 

■司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」(朝日新聞社編/1996.11.1発行)

■司馬遼太郎が語る日本(未公開講演録愛蔵版)(朝日新聞社/1996.11.20発行)

 司馬遼太郎が亡くなったのが今年の2月12日。それ以来、いろんな特集が組まれたりしたけれど、あえてこの半年以上の間、そういうものを買わないようにしていた。ある種のムードに流されるのを嫌ったためだが、そろそろかなという気がしたころに、なぜか、朝日新聞社からのこの2冊が目に留まったので買って読んでいる。

 ぼくにとっては、この司馬遼太郎とそして山本七平という二人は、「日本」を考えるためには欠かすことのできない作家・思想家だった。そして、二人とも既に亡くなってしまった。いよいよ、この二人の遺産をある種の基盤にして、自分で考えていかなければならない時期が迫っているということだ。この二人に比べると、同じ様なテーマを扱っていたとしても、ほかの思想家は、どこか物足りない。

 さて、前者の本は、言わずと知れた「街道をゆく」シリーズについて、その文庫化されたシリーズ(朝日文芸文庫)の番外編のようなかたちのものである。このなかで、面白かったのは、最後に収められている奥さんの福田みどりさんのインタビューの記録で、なかなか興味深く読めた。なにより、奥さんとの関係が、とてもユニークなので、こういう関係性を長く続けられた司馬遼太郎と奥さんは、尊敬に値すると思う。

 また、後者の本、というよりは特集の雑誌だが、このなかには、タイトル通り、司馬遼太郎の未公開の23の講演などが収められていて、しかもこれで価格が800円ということなので、お買い得の1冊。これらの講演を読むと、司馬遼太郎のある意味での全体像が見えるようでなかなかの企画だと思う。

 これを読みながらあらためて思ったのが、司馬遼太郎の代表作である「竜馬がゆく」「逆の上の雲」「菜の花の沖」そして「空海の風景」の主人公が四国出身だということだった。これは、講演のなかで司馬遼太郎自身も語っていることなのだけれども、四国にいる人間として、興味深いことだった。

 それはともかく、司馬遼太郎はある意味で、戦後の作家のなかでもっとも重要な作家ではないかという気がしているし、作家というよりも、さらに思想家としても重要だと思う。これから、あらためてその作品群を見ていくことにしたいと思っている。

 

 

 

西谷啓治・宗教と非宗教の間


(96/11/23)

  

■西谷啓治著・上田閑照編「宗教と非宗教の間」

 (岩波書店・同時代ライブラリー/1996.11.15発行)

  西谷啓治は、京都大学の西田幾多郎のもとで哲学を学び、その影響のもとに、宗教というテーマを、ニーチェのニヒリズムを受け継いだ形で追求した人である。自身の言葉にも「ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」という言葉があるように「現代の虚無」に真っ向から取り組んだ希有の思索家だといえる。

 西谷啓治が生まれたのは、ちょうどニーチェの死んだ1900年。それが象徴するかのように、西谷啓治は、そのニヒリズムから出発した。そのニヒリズムというのは、消極的な虚無感を意味するのではなく、むしろ、自己の底になんら基盤のなくなってしまったところから出発した、それゆえに自由の根源に迫ることのできるような意味でのニヒリズムである。

 実は、かつて20年ほどまえ、ぼくもそこから出発した。まさに、ぼくの場合も、ニーチェからはじまった。そして、「ニヒリスト」を標榜していたといってもいいかと思う。もちろん、西谷啓治のようなすぐれた思索は持ちようもなかったが、稚拙ななかにも、安易な宗教や精神性などへの依存を拒否せねばならぬとする意志だけはあったように思う。

 現代では、そうしたニヒリズムを通らずして、安易に宗教に走り、精神世界に逃げ込む者のなんと多いことか。現代人は、焼け付くような疑義のなかで、徹底した自己の虚無化に苦しみながらそのなかでこそ、真の意味での宗教性に目覚めなばならぬと思う。それは、党派制や現実逃避からのものではなく、まさに「自由」への渇望からでてくるのでなければならない。

 西谷啓治は、西田幾多郎ほど著名ではないかもしれないが、その著作や講義、翻訳など、目に見張るような稟とした気迫に満ちている。ちょうど、こうして岩波の同時代ライブラリーという比較的ポピュラーなかたちで、エッセイ集が組まれた。編は上田閑照という、西田幾多郎の紹介者でありすぐれた思索家ということで適任の編者によるもので、ぜひ読まれるべき書だと思う。

 西田幾多郎、西谷啓治、下村寅太郎などのようなすぐれた思索家が現代においてはあまりに枯渇していると痛感する。ニューエイジ風、ポスト・モダン風の安易さ、お洒落さだけで上滑りしているような方の多いなかで、こうした書がもっと読まれるべきだと思う。

 このエッセイ集はとても読みやすく、また内容もバラエティー豊かであるし、テーマとしても非常に興味深いので、「fragments」でもいくつかとりあげてみようとそう思っている。

  

 

エンデ・魔法の学校


(96/11/30)

 

■ミヒャエル・エンデ「魔法の学校/エンデのメルヒェン集」

                (岩波書店/1996.11.15)

 現在、エンデ全集が岩波書店から刊行され始めていますが、それ以外では、今回の「魔法の学校」が最後になるのではないかと思われます。もちろん、この「魔法の学校」は全集の14巻目としても刊行されるようだけれど。

 さて、今回のメルヒェン集は、これまでに絵本などの単行本で刊行されていたエンデのメルヒェンに、これまで未訳だったメルヒェンを加えて、かなり盛りだくさんな内容になっています。

 参考までに、内容を記しておくことにします。以下、★の印のついているものが、今回始めて訳されたと思われるものです。 

○正しくいうと★

○魔法の学校★

○トランキラ・トランペルトロイ

○カスペルとぼうや

○レンヒェンのひみつ

○いちばんのねがいごと

○はだかのサイ

○きにしない、きにしない★

○ニーゼルプリームとナーゼルキュス

○どうして?ねぇ、どうして?

○モーニのすばらしい絵★

○魔法のスープ

○テディベアとどうぶつたち

○サンタ・クルスへの長い旅

○おとなしいりゅうとうるさいちょう

○森の賢者ヒダエモン

○ねむれない夜★

○ゆめくい小人

○オフェリアと影の一座

 せっかくの紹介ですから、本の表題にもなっている「魔法の学校」のなかから、「魔法」とはなにかについてのさわりの部分を。魔法の学校の先生、ジルバー先生の生徒たちとのやりとりのなかから。 

「そういうものはぜんぶ、表面的な魔法の道具にすぎない。そういうものをだいじだとかんがえる人もおおぜいいるかもしれないが、そう思わない人もおおぜいいるんだ。ほんとうに必要なものは、もっともっとかんたんだけどしかし同時にもっとむずかしいことでもある。それは、きみたちじしんのなかにあるんだ。」(中略)

「それが『望む力』なんだ。魔法をかけようとするものは、自分のなかにある『望む力』をよく知って、つかうことができなければならない。しかし、そのまえに。自分のほんとうの望みを知って、それをじょうずに生かすことをならうんだ。」(中略)

「ほんとうは、自分の望みを自分がかくさず、ありのままに知るだけでもいいんだ。ほかのことは、ぜんぶひとりでにうまくいくものなんだから。とはいっても、自分のほんとうの望みがいったいなんなのか、みつけだすだけでも、なかなかむずかしいんだがね。」(P22)

  この「魔法の学校」は、なかなか深い物語で、ここに盛られていることは、ある意味では神秘学の根本にある問題と非常に近しいものではないかと思います。

 「自分のほんとうの望み」がなんなのか。それを知ることは自分を深く知ることなのではないでしょうか。

 「汝自身を知れ」ということが、魔法の根本なのだとしたら、その「魔法」とは、みずからを変容させることなのだと思います。

  

 

 

清水博・生命知としての場の論理


(96/12/03)

 

■清水博「生命知としての場の論理/柳生新陰流に見る共創の理」

                  (中公新書/1996.11.25発行)

 

生命とは、刻々の創造の連続である。複雑な環境の中でリアルタイムに創出される知、即ち生命知がなければ生命を維持することはできない。著者は生命的創出知という新しい視点から「場」の文化を深く捉える方法を発見し、今日まで四百年の命脈を保つ柳生新陰流の術と理にその知を見出した。本書は生命システムの普遍的な性質を追求しつづける著者による「創作的場所論」の確立と、それによる近代文明超克に向けてのテーゼである。(扉より)

  この紹介文を読むと、なんだかとても難しそうに思うのですが、わかりやすくいうと、「私がここで生きている」ということは、「私が」という主語的な方向性とその「私」のいる「ここで」という「場所」の述語的な方向性をともにとらえていく必要があるということがその基本になっています。つまり、即興劇をしている役者は、自分勝手になんでも演技できるのではなく、即興とはいいながらも、その役者の現在のシチュエーションに沿いながら、リアルタイムの自己表現をしているのだというわけです。

 「述語論理」ということから「場所論」を提示したのは、まさに西田幾多郎なのですが、本書は、その場所論を、「生命知」において展開させてみたものであるということができます。

 では、なぜそうした「生命知」が「柳生新陰流」と関係するのか、ですが、本書によると、「柳生新陰流」というのは、宮本武蔵が一方的に相手を追いつめて相手を斬る「殺人刀(せつにんとう)」であるのに対し、相手を自由に働かせてその働きに従って勝つ剣だということで、「生命知」も、一方的な働きかけではなく、「場」における相互の働きかけあいであるとして生命のシステムをとらえていく必要があるのだということを、「柳生新陰流」の術と理に類似したものとして、著書はとらえているわけです。

 この中には、柳生新陰流を継承している柳生延春氏との対話も収録されていてけっこうおもしろくそこらへんのことが読めますので、生命について関心のある方だけではなく、武道について関心のある方にもおすすめできるのではないかと思います。

  

 

 

神秘学の本


(96/12/09)

 

■神秘学の本/西欧の闇に息づく隠された知の全系譜

 (BOOKS Esoterica-18/学研/1996.12.10発行)

 学研からシリーズで出ているブックス・エソテリカシリーズも18巻目。いよいよ「神秘学」の巻の登場のようです。

 このシリーズのこれまでのテーマを参考までにご紹介しておきますと、「密教」「神道」「禅」「道教」「日蓮」」「陰陽道」「浄土」「修験道」「釈迦」「古神道」「チベット密教」「ヒンドゥー教」「ユダヤ教」「イスラム教」「キリスト教」「古代秘教」というふうに宗教関係の思想を調べるときに、こうしたシリーズを持っておくと文献を参照したりする場合にもけっこう重宝します。

 さて、今回は「神秘学」というわけで、当然、シュタイナーも、少しではありますが「隠された秘教知識を万人に開放した巨人」として紹介されています。

 紹介されている人物は、シモン・マグス、プロティノス、偽ディオニシオス、ヨアキム・デ・フィオレ、アブラハム・アブラフィア、ロジャー・ベーコン、マイスター・エックハルト、マルシリオ・フィチーノ、トマス・ミュンツァー、ジョルダーノ・ブルーノ、ヤコブ・ベーメ、エマニュエル・スウェーデンボリ、アントン・メスマー、エリファス・レヴィ、H・P・ブラバツキー、G・I・グルジェフ、ルドルフ・シュタイナー、アレイスター・クロウリー、C・G・ユング、ティモシー・リアリーといったもの。

 また、その他に、キリスト教神秘主義関係の系譜、オカルティズムの理論(ヘルメス学、錬金術、占星術、魔術、カバラ、古代復興)秘密結社(フリーメースン、薔薇十字団、イルミナティ、黄金の夜明け団)に加え「神秘学・秘教文献100」というのも紹介されています。

 もちろん、こうしたシリーズものでの紹介というのは、アウトラインというまでもいかず、あくまでも表題の紹介ということですから、神秘学を学ぶためには、実践と切り離さない形での知が求められるわけですけどこうした辞典風のものというのも持っていて損はないかなと思います。

 

 

 

曾野綾子・悪と不純の楽しみ


(97/01/10)

 

■曾野綾子「悪と不純の楽しみ」(PHS文庫/1997.1.20発行)

 曾野綾子の、特にエッセイを手にすると、とても心強くなる。それは、ひとつには、自らの悪に自覚的であり、それをこうして真正面から見据えるエッセイにはなかなかお目にかからないからだ。

 今回のエッセイ集のタイトルは、そのテーマそのものでもある「悪と不純の楽しみ」というもの。カトリック作家でもあるがゆえに、曾野綾子の辛口の言葉には、自覚に裏づけられた、力強い人間学が息づいている。そして、曾野綾子流の人間学は、自らの悪に無自覚な似非ヒューマニズムに対して、小気味の良い言葉で批判を加える。さらりと読みやすく書いてはいるし、ユーモアを忘れないけれど、そこに盛られたテーマはとても重いものだ。

 昨年は司馬遼太郎が亡くなった。数年前には山本七平が亡くなった。この両者に比しても、この曾野綾子の重要性は決して劣らない。そして、山本七平もそうだが、キリスト教の思想を背景にしながら、そこには日本人が日本人であることの重要性を認識させるための重要な指針にあふれている。

 少しだけ、引用紹介を。 

「悪」について書こうと思うようになったのは、ここ数年、どうも周囲が息苦しくなって来たからである。理由は単純で、どちらを向いても、自称ヒューマニストやその周辺の道徳家がやたらに増えたのである。(中略)

私は、小説家である。道徳家ではない、などと本来なら改めて言う必要もないことだ。小説家はただ、小説を書くための機能をもった人間に過ぎないのだから。

しかしいつの頃からか、(中略)作家たちの多くもまたしきりに、自分がヒューマニストであるということを喧伝したがるようになった。気持ちの悪い傾向である。(P6-8)

  そういえば、言葉狩りに講義して断筆した筒井康隆が作家活動を再開したようである。健闘を祈りたいものだ。

 

 

 

秋月龍みん・絶対無と場所


(97/01/12)

 

■秋月龍みん「絶対無と場所/鈴木禅学と西田哲学」(青土社/1996.12.10)

 これは、「秋月禅学の集大成」と書かれているように、秋月龍みんがこれまで宗教哲学について発表した論文の選集です。秋月龍みんは、鈴木大拙の直弟子でもあり、また西田幾多郎の哲学を基盤にしながら、さらにキリスト教との思想的対話を試みてきましたが、この1冊を読めば、氏の「秋月禅学」が理解できるのではないかと思われます。しかし、「集大成」というだけあって、全部で450ページを超えたものとなっていてしかも内容的にはかなり骨のあるものになっていますので、いきなりは読みにくいかもしれません。けれど、それだけに取り組んでみる価値は十分にある1冊です。

 これまでにも、この会議室でご紹介したことがありますが、氏には、キリスト教の八木誠一との宗教哲学徹底討論集というのがあり、仏教とキリスト教とを考えていく際に、非常に重要なものになっています。参考までに、そのシリーズをご紹介しておくことにします。 

■歴史のイエスを語る(春秋社/1984)

■「般若心経」を」解く(講談社/1985)

■キリスト教の誕生(青土社/1985)

■親鸞とパウロ(青土社/1989)

■禅とイエスキリスト(青土社/1989)

■ダンマが露わになるとき(青土社/1990)

■無心と神の国(青土社/1996)

 さて、この「絶対無と場所/鈴木禅学と西田哲学」から、その問題の核心につながる部分をご紹介させていただきます。

禅者は“衆生”も“仏”も認めない。ただ“一心”(無位の真人)だけを直指する。そしてそれは“無心の心”(無相の自己)だという。私の言う「一息に<超個の個>」(本来の自己)である。従って、単なる“神”も単なる“人”もないと言う。あるのは「インマヌエル」(神、我らと共に在す)の原事実のみ(滝沢克己)。

「“神”、“我ら”と共に在す」とは、どういうことか。「“私”が無(空)になればなるだけ、“神”が来てそこを満たす」(エックハルト)。「個人」(人・衆生)と「超個」(神・仏)とは、区別はできる(不可分)が切り離すことはできない(不可同)。そして区別した以上「超個」が先で「個」は後でこの間の秩序を逆にすることはできない(不可逆)。

「場所」とは、根本的に、こうした“実存成立の場所”である。そは深く「宗教的」である。そして、自己が生じるとき世界が生ずる。自己の根源が世界の根源である。西田の言う「純粋経験」とは、実はこうした「場所」のことであった。それは「自覚」の場所であった。そこから一切を説明しようとするのが終始一貫した西田哲学の基本姿勢であった。初期の「純粋経験」以来、その哲学の根底には、常に到る処にこうした「逆対応の論理」があった。それがより哲学的に「純粋経験」から「自覚」へ、さらに「場所」へと深まっていったのである。それはまた西田という一人格を通しての「禅仏教」そのものの深まり広がりでもあった。

  

 

伊藤益・日本人の愛


(97/01/25)

 

■伊藤益「日本人の愛/悲憐の思想」(北樹出版/1996.10.1)

 この本はかなりマイナーな出版社からかなり地味な装丁ででているので、見つけるのはなかなか難しいかもしれませんが、かなり興味深い内容なのでご紹介してみようと思います。

 本書は、ギリシア的なエロースとキリスト教的なアガペーとの比較検討からはじまり儒教的な仁愛、仏教的慈悲などの話を経て、万葉集や古今集などの日本の古文献などを踏まえながら、「愛とは何か」という問いに対して、日本人の視点からの解答を導きだそうとしているとても興味深い内容になっています。結論としては、「愛は『共悲』に基づく『悲憐』の境位において『当為』(Sollen)として確立される」ということですけど、それだとなんだかわからないので、参考までに本文から関係しそうなところを少し。

西欧的愛は、自己の人格的深化・陶冶を追求する愛、もしくは、自己滅却的な他者奉仕をめざす愛として、その意志性をきわだたせる。これに対して、日本的愛は、それが孤り在ることの悲しみを意味する「恋」として精神史的に最初に顕現したことからも明かなように、個人がそのなかに置かれた状況に応じて個人の内面におのずからに湧き上がる自然的な情緒であることを、その本来の在りようとしていた。

西欧的愛は、その意志性のゆえに「当為」(Sollen)としての性格を濃厚に示す。一方、日本的愛は、その自然性のゆえに「当為」としての性格よりもむしろ「存在」(Sein)としての性格をより強く示すように見える。それが、他者の悲しみをわが悲しみとする「共悲」の心位をもたらす点、および、「悲しむ」(「共悲」の「悲」)という境位が基本的には心情のおのずからなる(在るがままの)発露である点に着目するならば、日本的愛は、現況のなかに事実として定位する愛にほかならないように見うけられる。(P226-227)

  ちなみに、著者には、「ことばと時間−古代日本人の思想」(大和書房)や、「日本人の・・・」をテーマとしたシリーズの、「日本人の知/日本的知の特性」という著書もあり、また近刊として「日本人の死」というものも、北樹出版から刊行されるということなので、ぜひ読んでみたいと思っているところです。

  

 

 

松岡正剛・情報の歴史を読む


(97/01/25)

 

■松岡正剛「情報の歴史を読む/世界情報文化史講義」(NTT出版/1997.1.22)

 この本と同じくNTT出版から、松岡正剛監修による「情報の歴史」という極めて刺激的な本が出版されていて、その増補版も昨年出版されたのですが、今回の「情報の歴史を読む」は、その「情報の歴史」を講義したものの記録です。講義は1993年9月27日から3日間、千葉大学でおこなったものだということですが松岡正剛だからこそできたような画期的な講義ではないかと思います。まあ、とにかく面白くて、どきどきして、勉強になる(^^)。

 松岡正剛は、精神的な側面に関することを除けば(「除く」というのが重大な問題なのですが^^;)これほど総合力とコンセプト化能力のある天才的な方はいないんじゃないかという方でぼくとしても大学時代以降20年ほどにわたって、その著書から学ばせてもらっているのですが、今回の講義も、まあ、ほんとうにため息のでるくらいすごい内容になっています。

 この松岡正剛にシュタイナーを加えて、さらに出口王仁三郎のような腹のある茶目っ気のあるような人間というのがぼくの理想とするところではあるのですが(^^)、あらためて言っても、松岡正剛にはある種の霊性が欠如しているのが惜しい^^;。けれども、松岡正剛の編集工学的な視点で編集された文化や歴史などをシュタイナーの神秘学的な視点で貫いていったらとても刺激的ではないかと思います。「情報の歴史」を神秘学で読み解いていくということです。

 この「神秘学遊戯団」という会議室は、本来そういう試みをも内包しようという意図で始めたのですけど、これまでは、松岡正剛的な編集の観点というのは希薄にならざるをえませんでした。しかし、今回の講義を読んで、あらためてこうした視点をこの会議室の内容にいずれ投入してやろうか、とかいうことをあらためて思いました。

 ・・・とまあ、こんなことを言っていれば、本の解説にならなくなりますので、このくらいにしておいて、本書の「あとがき」あたりから紹介を兼ねて少し。 

情報文化的多様性は、民族言語の起源や文法の発達にも起因する。たとえば「時間」といった普遍的だとみなされている知識についてさえ、地球上の各所でかなり異なってくる。よく知られている例でいえば、古代インドでは、時間は古代ギリシアのように動的な言葉としてはつかわれていなかった。ヘラクレイトスは川の流れに時間を見たが、インドではどういう」見方はしない。川も山も町も静的な存在なのである。そもそも古代インドには「なる」という動詞がなく、仮に「なる」を表現する場合でも「ある」の一側面にしてしまう。したがって、インドの情報文化は「出現」と「持続」と「消滅」の三つのフェーズを基礎に成り立っていくということになる。たとえば、ブッダはカピラバストゥに生まれ、菩提樹の下で悟りを開き、クシナガラで涅槃に入ったのでるから、これら一連の出来事は当然ながら別々の年月日の出来事であるはずなのだが、インドではこれらを5月の同じ記念日で祝ってしまうのだ。

こういうことはたくさんある。テヘラン大学のダリシュ・シャエガンはペルシア語・アラビア語・サンスクリット語のいずれにも「主観」にあたる言葉がなく、そのため、これらの民族言語をつかう思想では、内部と外部を分けたり、宗教と哲学を分けたり、また科学的分析と主観的思索性を分けるといった思考は通用しないのだという。では、これらの民族言語による情報文化はどのような基礎をもっているかというと、シャエガンによれば、「普遍的なるもの」と「個別的なるもの」を分けることによって成り立っていく。このように見ていくと、情報文化を議論するには、私たちが充分に知っているはずの日本について議論していくときでさえ、たとえば、日本の名詞には性がついていないこと、多くの家庭では靴を脱いだ生活がいとなまれていること、朝日・毎日・読売・NHKはナショナル・メディアであること、多くの企業は株主主権にはなっていないこと、江戸文化はキリスト教の排外の上に花が咲いたということ、演歌のメロディの多くが韓国からの転移によってもたらされているということ……等々、こういった情報文化の事情をつねに考慮に入れていなければならないということになる。(P427-428)

 

 

 

出口王仁三郎・大本裏神業の真相


(97/01/28)

 

■中矢伸一「出口王仁三郎・大本裏神業の真相」(ワニの本)

 お馴染みの中矢伸一の新刊です^^;。今回は、「出口王仁三郎・大本裏神業の真相」というかなり興味深いもの。中矢伸一の著作は、場合によればかなりがっかりするところもあるけれど、今回は、出口王仁三郎に関する、ぼくの知らなかったことがかなりたくさん盛り込まれていたので、一気に楽しく(というのも変だけど)先ほど読み終えました。

 この本のテーマは、“一厘の仕組み”としての「裏神業」について紹介してあるのですけど、それはともかくとして、そもそもぼくは出口王仁三郎の大ファンで、そのエピソードなどを知るにつけ、さらにファンになってしまうのです(^^)。

 たとえば、出口王仁三郎は 

ミロクの世に宗教があってどないする。宗教というものがないのが、ほんま素晴らしい世の中になるんや。

  というようにも語ったといいます(^^)。もう、そのとおりなんですよね。宗教性が世にあまねく顕現したならば、宗教という方便はいらなくなる。それが方便だとわからないから、宗教が戦いの原因になったりもするわけです。

 しかし、これに関して興味深いのは、こういうところです。 

わしはなあ、この世でまず仏教を滅ぼす型をやるのや。それがいろいろな宗教を滅ぼす型になるんや。

 とか

そやけど滅ぶ宗教の中で、一番最後まで残るのがキリスト教やろう。まあ、そのために、型の大本を潰させば、他の宗教も没落するのや。

  なかなか含蓄の深いことばですよね。まず、仏教を滅ぼす。実は、ぼくもそれが必要だと思っていたりします^^;・・・なんて顰蹙買うかな^^;。正直言って、宗教としての仏教はもうすでに死んでいるといってもいいでしょうし。最後まで残るのがキリスト教というのも、たぶんそうだろうなとも思ってますし今ぼくの興味のあるのもキリスト教なんですよね。そして、宗教としてのキリスト教が死んでくれるような世の中になればいいなあとそうも思っています。

 仏教やキリスト教は死んでも、ブッダの意味やキリストの意味さえ深くわかたっとしたなら、それでいいと思うんですよね。

 こういう過激な話は、誤解のもとになるのでほどほどにしますけど^^;、ほんとうに出口王仁三郎はすごい人です。もう、こんな人はまずいないと思うんですよね。

 もちろん、シュタイナーもすごい人ですけど、それと同じくらいすごい人じゃないかと思っているわけです。

 なんか、本の紹介にはならなりませんでしたが^^;。


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