風の本棚6

(96/8.03-96/9.22)


シュタイナー「人間理解からの教育」

中矢伸一「正釈 日月神示II」

ゲリー・ボーネル「アカシャの秘密」

稲垣良典「天使論序説」

大峯顯「宗教と詩の源泉」

松岡正剛「知の編集工学」

グレゴリオ聖歌のこころ

浅田次郎「蒼穹の昴(上・下)」

新ゴーマニスム宣言スペシャル/脱正義論

桜井章一「雀鬼流/極意と心得」

「シュタイナー先生、こどもに語る」

バベルの謎/ヤハウィストの冒険

 

ルドルフ・シュタイナー「人間理解からの教育」


(96/08/03)

 

■ルドルフ・シュタイナー「人間理解からの教育」(西川隆範訳/筑摩書房)

 シュタイナーの訳書の新刊書です。原題をそのまま訳すと「人間存在の理解からの教育の芸術」となるでしょうか。本書は、1924年の夏にイギリスのトーキーという町で行なった連続講義の記録で、シュタイナーの教育に関する講義録のなかでは、もっとも読みやすくかつ包括的な内容になっていますので、シュタイナーの教育に関する考え方の概観をみるには恰好のもののように思います。

 シュタイナーの教育に関する考え方には、人智学ならではのトータルな人間理解が盛り込まれています。この講義録は今から70年以上も前に行なわれたものですが、次に引用する、この講義録の最初の部分にも提示されているようにその内容は、まさに現代においてますます差し迫って必要な内容になってきているように思います。 

19世紀およびそれ以前にも、多くの傑出した人々が教育について大切なことを善良な意図からおこなわれたものについて、「教育に関して可能なことすべてが試みられた。しかし、そこにはほんとうの人間認識が欠けていた」と、いわなくてはなりません。

15世紀以来、唯物論があらゆる領域を支配するようになっていますが、唯物論が支配する時代には、ほんとうの人間認識が存在しません。そのような状況において、教育について考えられてきたのです。そのために、教育改革についての考えが表明されても、それは砂上の楼閣のごとき、基盤のない建造物のようなものだったのです。(P13-14)

  現代の「教育改革」と称するさまざまな試みも、まさに「砂上の楼閣」としか思えず、能書きだけが立派で、きわめて抽象的で内実のないものばかりでしかありません。まさにそこには、「ほんとうの人間認識」が存在していないのです。

 教育だけにかぎらず、差別や戦争などに関しても、そこには「ほんとうの人間認識」が欠如しているがゆえに、解決に向かうはずもないですし、そこには「人間の尊厳」という名ばかりの建て前だけが繰り返されるだけです。

 そうならないための「ほんとうの人間認識」としての「人智学」が、ますます必要とされてきているように思います。それはまさにトータルな意味での「人間学」だからです。

 そうしたトータルな人間理解への最初のステップとしても、今回訳された「人間理解からの教育」は、非常にすぐれているように思います。ぜひ、一読を進めたい一冊です。

 

 

 

中矢伸一「正釈 日月神示II」


(96/08/03)

 

■中矢伸一「正釈 日月神示II」(徳間書店)

 お馴染みの中矢伸一氏の日月神示ものがまたでました。

 今回の日月神示の紹介は、ぼくにとっては、これまでではいちばん参考になりました。というのも、今回は、古事記の冒頭などの記述と、それに対応する日月神示の記述が対照されていて、その比較からさまざまなことを考えることができ、そのことによって、アマテラス、ツクヨミ、スサノオについて理解するための視点を整理することができているように思うからです。

 しかし、それはそれとしてタイトルに「正釈」というのをつけたがるように、どうも、「正」といえばいうほど、視野の狭さが露呈されている部分は否めません。古事記の冒頭部分やそれに対応する日月神示の部分は、ただただそうした比較に終始したのでは、結局なにも見えてこないわけです。たとえば、創世記的な記述をシュタイナーの神秘学と比較するくらいすれば、見えてくるものはまったく違ってくるのではないかと思うのです。

 そこらへん、「神示」ということへの中矢氏のこだわりが邪魔してしまって、どうしても視野が広がってこない部分があって、残念です。あまりに他の宗教理解や思想理解が皮相なので、だからこそ自画自賛になって自足しているところなどもあるわけです(^^;。

 とはいえ、今回は、かなり示唆に富む解説書になっているのは確かで、読んでみても損はしないのではないでしょうか。

 

 

 

ゲリー・ボーネル「アカシャの秘密」


(96/08/12)

 

■ゲリー・ボーネル「アカシャの秘密」(大野百合子訳/VOICE)

 「アカシャ」といえば「アカシック・レコード」という宇宙進化の記録で、シュタイナーの「アカシャ年代記より」も有名ですが、これは、「時空を超えて、人類の原初から未来へと渡るすべての出来事と感情までも記録した究極の宇宙の書。その秘密をQ&A形式で分かりやすく解きあかし」たという本で、この秋には、この第2弾の「アカシックレコードを読む」も訳出されることになっているようです。

 アカシック・レコードに関するあれこれをここでご説明するのも長くなりますので、ここではあえて省略させていただくことにしまして、ここに書かれているいくつか重要なポイントをご紹介しておきたいと思います。 

人生の中で起こる「出来事」は基本的に変えられません。唯一変えられるのは「レスポンス」(出来事に対する私たちの反応)だけです。「レスポンス」の幅を広げ、どのような「レスポンス」をするかで、次に人生で起こる出来事を変えることができます。

  このことは、「運命」を「宿命」ととらえるか「立命」ととらえるかということと深く関わってくることになりますし、もちろん「カルマ」との関係にも。また、これは「時間」ということについてのとらえ方にも関わってきます。つまり、過去世−現在世−未来世ということを直線的にとらえるか「並行自己」としてとらえるかということです。

 本書にはこうあります。

私たちは、たくさんの「平行自己」といっしょに人生を生きています。「平行自己」とは、「なりえるかもしれない自己」のことです。

  これは、仏教でいう「縁起」という因果性、関係性という考え方であるともいえます。時間と空間は、縁起している、というふうにとらえてばいいでしょうか。そしてその「縁起」のキーになっているのが、「レスポンス」なわけです。

 もちろん、本書では「縁起」について述べられているわけではないのですが、そうしたことを考えながら読まれるとかなり参考になるのではないかと思います。しかし、少しばかり気をつけなければならないのは、こうしたニューエイジ本特有の安易な表現形式ですから、できれば、ここに極めて軽く書かれてることを、さらに深めていかれることをお勧めしたいと思います。

 

 

 

稲垣良典「天使論序説」


(96/08/13)

 

■稲垣良典「天使論序説」(講談社学術文庫/1996.6.刊)

 ここ数年、「天使」が静かな?ブームになっているようでシュタイナー関係の天使論などをはじめいろんな天使論があるなかで、この本は、学問的研究の対象として「天使」をとらえた、むしろ異色?の著作です。

 異色の、といっても、著者は、哲学を主に、「トマス・アクィナス」を専攻されている方で、この本の内容の多くは、ここ数年の間に、各大学などでの講義をきかっけとして生まれたもののようで、ある意味できわめて「まっとうな」天使論だといえるのかもしれません。

 著者がこのユニークな著書で試みていることは、きわめて示唆に富んでいるように思います。現代という一見理性的かつ科学的に思われる時代は、天使という対象をメルヘンチックに貶めているような、むしろ偏狭な時代です。そんな時代だからこそ、こうした「天使学」の意味も大きいと思うのです。

 では、いくつか引用紹介を。

 まずは、なぜ「天使」を学問的対象としようとしているかという問題提起の部分です。

私はあえて天使をメルヘンの世界から学問の領域へと移すことを提案したい。その理由はごく単純であって、われわれは天使、つまり感覚ではとらえることができない、純粋に可知的で精神的な存在を学問研究の領域から閉め出すことで、理性あるいは知性という自らの認識能力を発達させる(それは人間の自己実現に属することである)機会を自ら閉め出しているのではないか、ということである。(中略)

天使を学問研究の領域へ復活させることを提案するもう一つの理由は純粋な精神的存在、すなわち「身体なき精神」としての天使について、いわば一種の思考実験という形で研究を行なうことによって、人間の研究、つまりわれわれの自己認識が多くの虚偽や誤謬を免れることができるのではないか、ということである。(P20-21)

 学問が唯物論化して久しいものがありますが、確かに、そのことによって、あらゆる可能性はむしろ狭められてしまっているととらえたほうが現実にあっていると思います。そんな貧しさの学問をもっと可能性あるものにするためのひとつの試みとしてこうした「天使学」が学問の対象とされることは非常に好ましいと思います。

 さて、次の箇所は、ぼくが大拍手したい部分でもあります(^^)。  

サル研究のメリットは高く評価したい。しかし、そのようにサルから学ぶことが多くあることを認めつつも、「チンパンジーを見ていると、人間のどこが特別なことなのかと疑問がわいてきます」という科学者の感想には首をかしげざるをえない。(中略)科学や学問の営為は、つまるところ人間が自らを理解し、自らを実現するため、つまりより充実した意味で「人間となる」ためのものではなかったのか。思い上がりではなく、まさしく人間のどこが特別なのかを自覚させてくれない学問は自己抹殺的な学問というべきではないだろうか。(中略)

それにつけても、どうしてサルに向けられるのと同じ程度の学問的関心が天使に向けられないのか、不思議だといわざるをえない。というのも、もしも「サルからヒトへの進化」という問題が学問的関心の対象になりうるのなら、人間は将来どのようなより完全な存在へ進化するのかという問題も当然学問的関心の対象になってよいのではないか、と思われ、そのさい人間がそれへと向かって進化してゆく高次の存在としての天使を考えることはそれほど見当違いではないように思われるからである。じっさい、われわれが進化について本当に真剣に考えているのであれば、目を過去あるいは後方だけに向けるのは不十分であって、これからの進化がめざす未来あるいは前方をできるかぎり見きわめようとする試みが要求されるであろう。進化の目標についてのヴィジョンを欠いた進化論は、私には科学の名を借りた独断か偏見のようなものとしか思えないのである。(P34-35)

  「サル学」というのが、昨今あまりにもクローズアップされていて、ほとんどの結論が「人間とサルはそんなに違わないじゃないか」となってましてあまりにも馬鹿げたそうした論調には、日頃から憤っていたものです(^^;。

 正しい学問的関心があるならば、なぜ人間は、現在の愚かしい状態も含めて、まさに、サルではなく人間なのかということを問うべきだと思います。そして、人間は、そうした愚かしさをどのように克服して、新たな進化の段階へと進むべきなのか。そういう可能性の学問でなくて、なにが学問だ!といいたいわけです。サルから学ぶものはそれはそれでけっこうだけど、それで人間がわかったなどと思う愚かしさにだけは陥ってはならない。そう思うのです。

 この文庫は200ページにも満たない薄さですので、手軽に楽しめると思います。そして、そのうえで、シュタイナーの天使についてのとらえ方を学べば、「あなたにも天使がわかる!」っていうわけです(^^)。

 

  

 

大峯顯「宗教と詩の源泉」


(96/08/13)

 

■大峯顯(おおみねあきら)「宗教と詩の源泉」(法蔵館/1996.5.30刊)

 現代では、宗教がブームになる時代でありながら、そのブームということにおいて、宗教性が限りなく希薄になり、コンビニ化しているかのような感さえあります。

 詩も同じで、詩がブームになり、短歌や俳句やはたまたポエムと称するものをつくる人の数は大勢になっているのに反比例して、その言葉の根底から「自分自身の存立の基礎へつれてゆくいとなみ」が失われ続けているのではないか。そんなことが思われてなりません。

 存在の根底への血のにじむような歩みとしての言葉、そして宗教。そうしたものが形骸化の一途を辿るなかで、現代人には何が可能なのか。それは、廃虚としての現代から咲く一輪の花でなくてはならない。だからこそ、詩は死なねばならない。宗教は死なねばならない。そしてその上で、すべてを包括した不死鳥が羽ばたかねばならない。そんなことを思い思いして、やはり瓦礫の日々……。

 この論文集は、宗教と詩をめぐってひらひらと舞落ちる花びらのようなそんなテーマのいくつかがおさめられているのですが、どれも、ぼく自身あれこれと考えてきたようなテーマでもあります。神秘学という地点からいえば、偏狭さもあり、また若干の感傷的過ぎるという感もあるようなそんな論述でもありますが、どれもそれなりの感慨をもって読みすすめることのできた好著であるといえます。

 さて、本書には、表題にもあるような「宗教と詩」などをテーマとした次のような哲学論文がおさめられています。 

・今日の宗教の可能性/大いなる生命へ

・西田幾多郎と夏目漱石/ポエジーの意味するもの

・西田哲学における東洋と西洋の対話

・悲哀の弁証法/西田哲学における情意的なものについて

・宗教の源泉/西田哲学と浄土真宗

・詩と宗教/芸術と宗教とのつながり

・ニヒリズムの超克/西谷啓治における「空」の思想

・花は救いとなったか/西行のさくらの歌

・人間的自由の根底/親鸞とシェリングの自然

 「宗教と詩」というテーマについての基本的な考え方は、著者の次のような言葉に集約されるでしょうか。 

宗教と詩との二つは、著者の考えでは、人間存在が人間存在として世界(宇宙)の中にあるということの根底にかかわるような、人間のいとなみである。かつてヘーゲルは、人間が有限で移り変わる世界を超えて、永遠で無限な絶対者とつながる領域として、芸術、宗教、哲学の三つを選び、これらを「絶対精神」と呼んだ。ヘーゲルのこの考え方は、この三つを人間のいとなみの最高のものとする、教養・文化主義的な色あいをもっているが、著者が考える宗教と詩は、そういうものではない。人間を高みにみちびくところのものではなくて、むしろそれがないと、人間が人間としてありえないようないとなみ、人間を自分自身の存立の基礎へつれてゆくいとなみのことである。人間のいとなみはみな、人間がこの世に生きていることを自明のこととして前提しているが、宗教と詩はそうではなくて、われわれの人生はそもそも何のためかという問いの次元にかかわる。詩が宗教と似た一種の超越の出来事であるのは、詩は言葉それ自身の源に触れるような経験だからである。(P249-250)

 ともあれ、詩と宗教の廃虚のなかから、本来のそれらが芽吹くときを期待しながら、また、自らの詩性のなさを恥じるとしましょう。

 

 

 

松岡正剛「知の編集工学」


(96/08/13)

 

■松岡正剛「知の編集工学」(朝日新聞/1996.8.1刊)

 松岡正剛は、この20年来、ぼくの先生でした(^^)。とはいっても、直接面識があるわけでもないし、あえてそういうことを避けてきたともいえるわけなのですが^^;、「遊」によってぼくは、編集のかっこよさを実感できたのだし、そこに盛られている極めて雑多な宝物にわけもわからずドキドキし、それ以来、そうした松岡正剛風「編集」の発想を自分のなかに育て続けてきたともいえます。

 とはいっても、そういう発想を育てながらも、ぼくとしては、そういう傾向に逆らう傾向も自分の中に育ててきたわけですし、最近では必ずしも松岡正剛的編集に賛同しかねる部分も多々あることはあるのですがそれは別にしても、松岡正剛的編集からはほんとうに多くを学びました。

 今回のこの「知の編集工学」は、その松岡正剛の編集の発想をまるごと披露したもので、ぼくにとっては「ああ、こういう本がやっとでてきたなあ」という感慨のようなものがあったりします。

 著者によると、この本は「編集工学」という方法についての入門書であり、「編集は人間の活動にひそむ最も基本的な情報技術である」というテーマを展開する試みです。

 著者は「情報」ということについて、三つの見方を持っているといいます。つまり、「情報は生きている」、「情報はひとりでいられない」、そして「情報は途方にくれている」ということです。

 ここでいう「編集」とは、もちろんのこと、雑誌の編集のような意味での非常に狭い意味での編集ではなく、あらゆることについていえる「編集」ですしですから、自分そのものをどう編集するかといことにこそ、深く関わってくるような「編集」のことが重要になってきます。

 そうした「自己編集化」とでもいえることについて、本書から引用紹介してみることにします。 

私が考える編集は、まさにこうしたワクワクする<自由編集>の実現にある。しかし、それは自分の属する世界と無縁であるためではなく、逆にその根幹にかかわるためのものである。<方法の自由>と<関係の発見>にかかわるためなのだ。

私たちはすでに投げ出された存在なのである。歴史のなかに投げ出されているし、生まれて自意識が芽生えたときにも、すでにあらゆる先行性が準備されている。編集はその只中から出発をするトランジット・ワークなのである。次のようにいえばいいだろうか。  

私たちは、そして、それは、すでに名前がついている。だから、どんな一意的な名辞にも新たな自由を加えてやるべきだ。それらは、それを待っている。

私たち(それら)は、すでに記述された中にある。それならば私たち自身を複数の属性によって記述していくべきなのだ。

私たち(それら)は、すでに組織化されている。たしかに私たちはすでに生物として組織化され、家族の一員として、日本人として、すでに組織化された出発点をもっている。事物や現象も同じことである。ということは、私たち(それら)はどんなばあいにも複数の「親」をもち、その情報を継承しているのである。

私たち(それら)は、とっくに何かと関係づけられている。そうだからこそ、もっと関係をふやし、その属性をつなぎあってしまうほうが、楽になる。私たち(それら)はつねに相互関係ネットワークの中にいるものなのだ。

私たち(それら)は、もともと制限をうけている。しかし制限をうけているということは、そこにいつでもルールを創発させることができるということだ。もっというのなら、いつだって自己修正ルールを生成することができるということである。

このように私たちが「すでに投げ出された存在」であるからこそ、<自己編集化>をはじめられるのだ。(P319-321)  

 こうしたことは神秘学的に自己をとらえるときにも役に立ちます。私という存在はカルマ的連関の中に生まれてくる。そのなかで、「立命」をしていくにはどうするか。それこそが未来創造的な「自己編集化」なのだ。人間は、「間」の存在であり、縁起によって時空を旅する存在であり、だからその存在そのものがまさに「編集的」なのだ。

 ・・・というふうに。

 ともあれ、情報と編集をこのようにあらゆる事象にあてはめて遊ぶという発想は、なにをするにつけ、非常に役立つことは間違いありませんので、そういう発想の開発のためにも、本書はとても役立つのではないでしょうか。

  

 

 

グレゴリオ聖歌のこころ


(96/08/14)

 

■岳野慶作「グレゴリオ聖歌のこころ」(宮武誠一編/創風社出版/1996.5.26刊)

 この本は、ぼくの知人の宮武誠一さんが、故岳野慶作のグレゴリオ聖歌についてされた講義をテープ起こしして、何年もかかって編集された労作です。

 岳野慶作は、パスカルを中心として哲学、宗教学を研究されていた方で、この本のもとになったお話は、ぼくのいる地方にあるカトリックの大学である「聖カタリナ女子短期大学」で講義されたものだということです。

 さて、この本では、グレゴリオ聖歌に関するさまざまな知識がカトリックの典礼などとの関係でさまざまに解説されていますが、それはそれとして、ぼくが非常に重要だと感じたのは、グレゴリオ聖歌は祈りであるということでした。本書のなかでも、南無阿弥陀仏という祈りについての話がありましたが、その本質において、どちらも祈りであることが重要なのだということが非常に深く示唆されているように感じ、感銘を受けました。 

主キリストを絶えず呼吸しているのと同じように、阿弥陀仏を絶えず心に呼び込んでいる。祈っている間は絶えず阿弥陀仏と一緒に生きているという、すばらしい祈りの仕方なのです。

  また、祈りであるからこそ芸術であるともいえます。芸術とは本来、神への捧げものにほかなりません。そういう意味で、著者は「内的人間」でグレゴリオ聖歌を、また芸術を、とらえることの重要性を強調しているのだといえます。

 もちろんそうした視点は、カトリックという枠を超えて、またカトリックの典礼という形式への批判を含めて、さらに深く、その霊性にアプローチしていく必要があるものと思いますが、まずは問題提起ということで本書を受けとめることは意味のあることだと思われます。

やはり、人間を理解する、人間の芸術を理解するには、外ばかりで理解してもだめなのではないでしょうか。今はわれわれの感覚だけで芸術をとらえる、そういう流行の時代ではあるでしょうが、それでは人間がかわいそうだという気がします。そういう意味では、グレゴリオ聖歌の技術を勉強するだけではなく、その霊的な意味、人間学的な意味、それも合わせて勉強されたらいかがかと思うのです。そういう勉強は、少し何か神学、哲学めいてきますけれども、ただ耳で聴くだけが音楽だとは思わないで、人間の深い魂の叫び、喜び、祈り、そういうものを表現する音楽のすばらしさを理解していただきたい。(P262-263)

 編者からの話によると、この本は、カトリックではとても好評ということですが、やはり、そういう枠の中だけではなく、もっと広く、こうした問題的を含んだ本が話題になっていけばいいなと、そう感じています。

  

 

 

浅田次郎「蒼穹の昴(上・下)」


(96/08/17)

 

■浅田次郎「蒼穹の昴(上・下)」(講談社/1996.4.刊)

 面白い物語が読みたい!そう思って書店でいろいろ物色してるうちに目にとまったので、どうかなぁ、とか思いながらも買って読み始めたら、これがもう、面白くて、夜もろくに寝ないで一気に読み上げてしまいました(^^)。

 評のなかに、「三国志」や「竜馬がゆく」などのように面白いというのもあったように、なかなかにわくわくして読めるように思います。著者も、「この物語を書くために私は作家になった」とさえ言っていますから、それほど力をいれて書かれたものだということは間違いなさそうです。

 舞台は、清朝末期の、西太后の時代。阿片戦争以降、日清戦争を経たあたりの、中国の長い皇帝の時代がまさに音を立てて崩れようとしている時代。その中で、進士を目指す梁文秀と同郷の貧農の子、李春雲とが星に導かれながら繰り広げる感動のドラマとでもいえばいいでしょうか。

 この物語で特筆すべきは、星に導かれ、とはいいながら、その星の命を越えて、いわゆる立命していく人間の力を力強く描いているというところだと思います。

 清という王朝について、ぼくとしてはこれまでほとんど不案内でしたので、それを理解するうえでもけっこう勉強になりました。最近、古代からこの清朝までの中国の歴史に、これまでよりもずっと興味を引かれてまして、この清より前の明や宋の時代も、もっと勉強してみたいと思っているところですし、特に古代の中国を舞台にした格調高い物語を次々と生み出している宮城谷昌光の歴史小説なども読み始めているところで、あらためて、中国の壮大な歴史から学ぶものの大きさを実感させられています。

 しかし、こうして楽しみながら勉強していくのって、とっても有意義ですが、興味のあることが増えすぎて、またまた時間の使い方に頭を悩ませる日々が続きそうで、うれしい悲鳴です。

 それはともかく、この「蒼穹の昴」。ちょっとエンディングあたりに未消化の部分はあるかなと思いますが、物語としてなかなかに良くできていますので、何かお話が読みたいなと思ったときなどにでも、ぜひ手にとってみてください。

 

 

 

「新ゴーマニスム宣言スペシャル/脱正義論」


(96/08/30)

 

 

■小林よしのり「新ゴーマニスム宣言スペシャル/脱正義論」

                 (幻冬社/1996.9.5刊)

 今回の「新ゴーマニスム宣言スペシャル」は、なかなか読みごたえがあった。もう、これは、現代人にとって、欠かすことのできない認識だと思う。

 このスペシャルでは、「薬害エイズ」の問題をめぐる著者の奮闘ぶりと、その運動の功罪をめぐる極めて重要な問題提起がなされている。最初に書き下ろされている「薬害エイズ 個の連帯という幻想の運動」の最後に「さらばだ個の連帯は幻想だった」と叫びにも似た強烈なセリフが置かれているのが強烈に響いてくる。

 このテーマは、組織と個人という、古くて新しい永遠のものだ。個の確立なくして、真の連帯は不可能だということ。つまり、いかに重要なプロテストも、個としてではなく、組織のなかに組み込まれた個人とはもはやいえない個人によってなされるとき、それは新たなファシズムの熱狂にも似た状態が惹起されてしまうのだ。それは、かつての赤軍派運動もそうだったし、オウム真理教などの組織宗教もそう、そしてまた、社会運動を称して行なわれる多くの運動もなんら変わるものではない。現代日本で特に巧妙化しているのは、弱者が即権力者になり、それが組織化するというあり方なのだ。

 今月のSAPIOでの「新ゴーマニスム宣言」の連載では、従軍慰安婦問題がとりあげられているが、その内容も、「弱者」という権力に対して無力な日本人たちの愚かさを露呈していると思う。つまり、きれい事を大上段に振りかざして「私たちは正しい」「弱者は正しい」といいながら、自分としては、個人としては、なんら責任をとりたがらない姿勢に現われている。

 「正義」など、もはや「正義」ではなく、「正義」の仮面をかぶった責任回避でしかなくなっているのだ。自分では何も考えようとせず、組織のイデオロギーにすがりながら、それで自己実現でもしたような気になっている状態。

 やはり、日本人は、単なる蟻塚にすぎないのだろうか。蟻塚の一員でないと、もはや日本人ではなくなってしまっているのか。

 せめて、こうした「ゴーマニズム宣言」のような姿勢があり、それが指示されているということに希望を見出したいものだ。

 最後に、本書の巻末にある「脱正義論--あとがきにかえて」から、著者の言葉を聞きたい。 

わしはバカだから情でやった。しかし、たとえテロでムショに入っても商売にできると計算してやった。勝てるからやった。言論を暴力として使った。そして原告被害者にも学生にも弁護士にも何人かの面白いやつがいて、つきあってて楽しかった。

ただ学生がいまだに自分らが正義だったと信じ込んでいるのは許せん。原告の大貫さんを早稲田のイベントでシカトしたじゃないか。組織防衛のために、このわしにやったのと同じようにシカトして謝罪すらしなかったじゃないか。大貫くんは今年、亡くなった。心がうずかんか?正義だけだったと言えるか?

おまえらは厚生省と同じじゃないか。組織に個を溶解させたおまえらは、個を主張しすぎる大貫くんという原告を、やっかい者として村八分にしたじゃないか!

おまえらが非難している官僚は、おまえら自身の姿だ。「薬害をなくすために、これからも勉強会をする」だと?そんなおまえらが、将来、確実に薬害を起こすんだよ。

自分のやましさにもしっかり目を向けろ。厚生省を疑い、弁護士を疑い、原告を疑え。管直人を疑い、櫻井よしこを疑い、わしを疑え。「ええトシこいて被害者にムチ打つようなスキャンダラスな絵を平然と書いて恥じぬ暴力的漫画家」小林よしのりを特に疑え!

そして自分をきっちり疑え!信じ込んでいる自分の「正義」から抜け出せ。今が「脱正義」の時だ!

 

 

 

桜井章一「雀鬼流/極意と心得」


(96/08/31)

 

■桜井章一「雀鬼流/極意と心得」(三五館/1996.6.5)

 この桜井章一という人は、雀士である。ぼくは麻雀をしないので、そのことでこの本を手に取ったわけではなく、桜井章一の生き方が、まさにシュタイナーの思想をある意味で体現しているようなそんな素晴らしいものだからだ。

 昨年になるが、この桜井章一について、こんな本がでた。

■林田明大「雀鬼と陽明/桜井章一に学ぶ心の鍛え方」(三五館/1995.11.14)

 著者の桜井明大は、数年前に、陽明学をテーマとし、それをシュタイナーの思想と比較した、次のような画期的な著作をだした方だ。

■林田明大「『真説・陽明学』入門」(三五館/1994.10.19)

 陽明学者でもある安岡正篤の思想とシュタイナーの思想との類似性については、ぼくとしてもかつてより注目していたのであるが、こういう著作がでたのを驚きとともに受け取ったものだった。その類似性は、やはり王陽明の思想とシュタイナーの思想の基本認識が共通しているところからでているように思う。

 桜井章一に関する著書がでたときは、個人的に麻雀をしないのもあって、しばらく読まなかったのだが、ふと思うところがあって手に取ったところ、その、まさに陽明学的でありシュタイナー的な認識を、学問的云々ではなくまさに実践のなかから学びとっている人物である桜井章一の生き方に、知らず知らずのうちに引き込まれてしまった。

 そして、今回、その桜井章一自身による著書がでたわけである。その「まえがき」から引用する。 

外面的なことに身を任せるのではなく、自分という内面に身を任せるなら、自分という存在に確信を持つことができるはずなのだ。換言すれば、外面的なことだけに関心の目を奪われていては、いつまでたっても主体性を確立することなどできない。

自分に確信が持てる人は、世間をしっかりと見極めることができる。そうなることで、自分を見失うこともなく、世間に自分を身売りすることもなく、生きていけるのである。

人が自由を求めるのなら、管理されるほうを選んで、自分を不愉快な人間にしてはいけないのだ。

わが道を生きるとは、われを見捨てず、われを人任せにせず、自分の内面を心を思いを大切にし、われを知ることにある。楽しい人生というのは、そんなところにあるのではないだろうか。自分の内面が豊かになり、楽しければ、この世もきっと楽しいものになることだろう。(P3-4)

 これは、まさに「道徳的ファンタジー」を地でいった生き方であり、シュタイナーの「自由の哲学」の骨子の部分でもあるように思う。

 先日、人智学の実践に関することを少しだけご紹介したが、教条的な人智学者たちにくらべて、この桜井章一は、なんと、まさに「人智学的!」なことであろうか。  

  かたちにとらわれるのではなく、精神において自由を体現して生きること。そのことを学ぶために恰好の書だといえる。シュタイナー思想を理解するためにも最適の書ではないかと思う。

  

 

 

「シュタイナー先生、こどもに語る」


(96/09/15)

 

■ルドルフ・シュタイナー「シュタイナー先生、こどもに語る」

 (松浦賢訳/イザラ書房/1996.7.21)

 これは、シュタイナーがヴァルドルフ学校で、始業式や終業式などの折りに主に生徒たちに語った内容を収めたもので、とても興味深いものです。最近、「シュタイナー教育」という変なブランドがでまわっていたりするからこそ、こういう、シュタイナーの基本的な姿勢を伝える本書は、誤解の多い「シュタイナー教育」を理解するために恰好のものではないでしょうか。

 そうしたことについて、本書に挟み込まれてる「シュタイナー文庫だより14」の訳者の松浦賢とイザラ書房の渋澤賛の対談で話されている内容が参考になると思われますので、それをご紹介することにします。 

渋澤 翻訳されて感想はいかがですか。

松浦 いや、驚きました。なにしろシュタイナーは小さなこどもたちを相手にしても、話のレベルをほとんど下げていないんですね。

渋澤 こどもに分かりやすいように話すとか、そういった感じはあまりしなくて(中略)

松浦 意外でしたね。いままでシュタイナー教育に抱いてきたイメージが根本から大きくゆさぶられる思いでした。

渋澤 具体的にはどういうことですか。

松浦 つまりキリストから発する精神を受け入れることなしに、シュタイナー教育を実践することはできないんですね。なぜならシュタイナーは成長するこどもの精神の根源はキリスト精神に由来すると断定しているからです。といっても、これは宗教の話をしているのではありません。宇宙的実在としてのキリストから発する光がこどもの身心を育てるのだという、精神科学的認識の話なのです。こどもの父兄や教師にむかってシュタイナーは繰り返しこの点を強調しています。

 相手が子どもだというと、すぐに幼児言葉を使ったりする方が多いですけど、そういうあり方は、子どもをどういうふうにとらえているか一目瞭然です。それは自分の小さい頃を思い出しさえすればわかることで、幼児言葉で話されるときに、まともな感覚だと、その大人が自分を子どもだと思って、一個の人格として扱っていないわけですから、あまりいい気持ちはしないはずです。

もちろん、わざわざ抽象的で難解な内容を話す必要はないですけど、ちゃんとした個人として子どもをみなしたとすれば、幼児言葉や稚拙な表現を選ぶことなどできないはずなわけです。

 もちろん、シュタイナーは子どもに対して抽象的で難解なことを語りかけているわけではありません。けれど、内容としてみれば、子供たちに対して真摯な語りかけをしていているのがわかります。日本でも、林竹二さんという教育者がいらっしゃいましたが、その子供たちへの授業内容の記録をみれば、こうしたシュタイナーの姿勢と通じるものがあることがわかります。「子どもだからわからない」、そんな偏見を去らなければ、真の教育は不可能ではないのか、ということが、このシュタイナーの記録から痛切に理解されてきます。

 また、日本でシュタイナーがさまざまに紹介されている際に、もっとも重要な事項である「キリスト」についてふれられることがあまりに少ないように思います。たとえば、重要な訳者である西川隆範にしても、仏教について持ち上げるのに比してキリストについての言及があまりにも少ないのがわかります。もちろん、その「キリスト」は通常の「キリスト教」とは違います。それを「キリスト」と呼ぶかどうかではなく、そういう宗教性の根本を理解することなくして、教育は不可能だということです。

 ともあれ、実際のこの記録を読んでみられることをおすすめしたいと思います。これを読めば、日本で「シュタイナー教育」と称されているものが、その根本において、どこか変であることが理解されるのではないでしょうか。

 最後に、この本の中から、シュタイナーが実際に子どもに語りかけているところをご紹介させていただくことにしたいと思います。

みなさんはしばしば、動物たちがうらやましい、と思うことがあるかもしれません。空を見上げて、鳥が飛ぶのを見るとき、みなさんは「もし飛ぶことができたら、空中に浮かぶことができるのに」と考えるかもしれません。たしかにわたしたち人間は翼をもっていないので、鳥のように飛ぶことはできません。しかし、いいですか、わたしたちは精神的なもののなかに向かって飛ぶことはできます。つまり、わたしたちはふたつの翼で飛翔することができるのです。左の翼は<勤勉さ>、そして右の翼は<注意深さ>です。この翼を目で見ることはできません。それでも<勤勉さ>と<注意深さ>というこのふたつの翼は、わたしたちが人生のなかに向かって飛ぶことのができるように−−じっさいに人生の役に立つ人間になれるように−−してくれます。(P17-18)

  シュタイナーは、折に触れてこの<勤勉さ>と<注意深さ>の必要性を強調します。そして、怠けないでしっかり勉強しなければならないことを説きます。通常、シュタイナー教育というと、こうしたイメージは希薄のように思いますが、シュタイナーは、学校をでて、真に有能な人間になるために勉強することがいかに大切かということを、ほんとうにくどいぐらいにくりかえします。そしてそれは単なるお題目ではなく、真の魂の力を育てることができるための、切実な子供たちへの語りですから、「届く」のではないでしょうか。

 大事なのは、真実の言葉で語りかけること。だからこそ、その言葉は魂の奥底にまで「届く」のではないでしょうか。そんな言葉を、探し続けたい。この本を読んで、あらためて、それを切実に感じました。

 

 

 

バベルの謎/ヤハウィストの冒険


(96/09/22)

 

■長谷川三千子「バベルの謎/ヤハウィストの冒険」(中央公論社/1996.2.10)

 ずっと気になってはいたのですが、ようやく読むことのできた本です。で、これがすごくスリリングで面白い本なので、ご紹介しておくことにしました。これは、主に旧約聖書の創世記のヤハウェに関するところをユダヤ教徒やキリスト教徒には決してできないであろうような仕方で、見事に解読した傑作で、スリリングなミステリーとしても読めるものです。

 また、これは神秘学的な解読という側面はまったくなく、あくまでも学者による解読というスタンスではあるのですが、これを、たとえばシュタイナーの「創世記の秘密」(水声社)などと併せて読むことで何かが鮮明に浮かんでくるようなところがあります。シュタイナーも、よく聖書をちゃんと読めばわかる、ということを繰り返し言いますがこれは聖書をちゃんと読んだ成果として特筆すべきものではないでしょうか。

 まず、「ちゃんと読む」前提として、旧約聖書、特に「モーセ五書」はいったい誰によって書かれたのか、ということを把握していくことが必要になります。五書のなかには、同じ一つの物語が異なった語り方で繰り返されたり、神が、一方ではエロヒム、また一方ではヤハウェ・エロヒムと呼ばれていたり、また用語や文体も異なっていることから、モーセによって書かれたとされている五書は4種類の文書資料パッチワークのように切り張りされてできあがっている、というのが現在の旧約学では前提とされているのです。

 それについての理解のために、本書からその部分を引用しておくことにします。 

アイヒホルンは、神を「エローヒーム」と読んでゐる文書を「E」と名づけ、神を「ヤハウェ」と読んでゐる文書を「J」と名づける。そして、これが基本的には、現在「文書資料」と呼ばれてゐるものの区別の出発点となったのであった。

その後いくつかの資料が新たに区別されて、現在では、「律法(トーラー)」の五書は、次の四つの文書資料からなつてゐるとされてゐる。まづ、アイヒホルンが「J」と名づけた資料は、いまでも「J資料(ヤハウィスト資料)」と呼ばれてをり、紀元前九〇〇年、あるいはそれ以前に、南王国ユダで成立したと考へられてゐる。

アイヒホルンが「E」と名づけた資料は、現在では「E資料」と「P資料」とに区別されてをり、そのうちの「E資料(エロヒスト資料)」は、J資料のほぼ一世紀のちの北イスラエル王国で成立したものと思はれる。「P資料」は「祭司文書(Priestly Code)」とも呼ばれ、バビロニア捕囚の直前に、おそらくは祭司の職にある者によって書かれたものとされてゐる。

またさらに、最後の「申命記」のみは、これらとは全く別の書き手によるものであることがわかり、この資料は「申命記」のギリシア語訳「デウテロノミオン」の頭文字をとって「D資料」と呼ばれる。これは、紀元前六二二年頃、南王国ユダの神殿から「発見」されたと言はれてゐるのであるが、実際にはその時に執筆されたものらしいといふ。(P58-59)

  さて、ここで「ヤハウィストの冒険」としてクローズアップされているのはこの四つの資料のうちの「J資料(ヤハウィスト資料)」と呼ばれているもので、その資料を解読していきながら、その著者の意図が浮き彫りにされていくというとてもスリリングな読物となっています。

 これを、シュタイナーの神秘学的な解読と併せて読んでいくとき、「ヤハウェ」とはいったいどういう存在なのか、「ヤハウェ」はいったい何を意図していたのかということが推察されますし、また、そのことは、「裏ユダヤ」ともいわれる日本人の霊性に関しても、大きな示唆になるのではないかと思われます。

 


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