風の本棚5

(96/5.12-96/7.15)


岸田秀×山本七平/日本人と日本病について

神渡良平「宇宙の響き/中村天風の世界」

西川隆範「見えないものを感じる力」

マヤに関する二冊

東條真人「ミトラ神学」

ルドルフ・シュタイナー「宇宙のカルマ」

中矢伸一「日月神示二曰んの巻」

眠れる異能者への伝言

第十の予言

安岡正篤/やりたいことを必ずやり遂げる

スピリチュアル・ウォーカー

一語の辞典「個人」

ラマー 愛と魂への旅

聖書の土地と人々

スーフィーの物語

 

 

岸田秀×山本七平「日本人と日本病について」


(96/05/12)

 

■岸田秀×山本七平「日本人と日本病について」(文春文庫)

 フロイト派の精神分析をベースに「唯幻論」を提唱してきた岸田秀と戦後日本の最も重要な批評家・思想家であり、独特の「日本学」を展開してきた山本七平が、昭和54年に行なった対談の文庫化です。山本日本学というのは、戦後最も重要な思想の一つだとぼくは思っていますがその基本的な考え方を知るにも恰好のものではないかと思います。

 ぼくは、あまり愛国心のあるほうではなくて^^;、どちらかというと、「故郷喪失者」的なスタンスでいるのですが、それはそれとして、生まれ育ってきた日本と日本人については以前からとっても興味津々でいろんな論考などを読んだりしてきましたがそのなかでも、ほんとうに深く頷ける日本人についての考え方は、やはり、山本七平の数々の論考ではないかと思っています。山本七平は残念ながら、数年前に亡くなってしまいましたが、その山本七平の魅力的で示唆的な著書の数々は、文春文庫やPHP文庫でかなりの数、読むことができますので、日本人について興味のある方は、ぜひ読まれることをお勧めしたいと思います。

 さて、今回の「日本人と日本病について」のなかから、ぼくも日本人について、いつも気になっている「純粋信仰」についての部分を引用紹介させていただきたいと思います。 

岸田 (中略)戦争中は非国民という諸悪の根源をつくり、戦後は、かつて最高の善人、純粋人間であった軍人を、一握りの軍国主義者という名の悪人にする。しかも、その転換の奇妙さ不思議さに誰も気づいていない。

山本 「だまされた」という前提をつくるからでしょう。一億全員が詐欺にかかった。善人はだまされやすいんです。(笑)善意を百パーセント通すには神にならざるを得ないのに、現実は、善意の通らない社会は悪いという考え方が支配的ですからね。

岸田 一度、問題をひっくり返して考えるといいんですよ。なぜ、社会に通らない考えを善意と考えるのか、と。通らないのは、「善意」の側にそれだけの理由があるのではないか、と。

山本 そう、そう。それこそが真に問うことの第一歩になるはずです。ま、ここで信仰箇条ふうに症例を挙げるとすれば、社会ハ悪、我ハ善ナリ。そして、純粋ヲ尊ブベシ。(笑)特にこの純粋信仰というやつ、じつに興味深いですね。

岸田 特に動機が純粋であれば人を殺してもいいという、あの……。

山本 動機純粋論ですね。

(P.136)

 この純粋信仰という、極めて情的な極論は、この日本に生まれ育った者で、ある程度意識的でいる者ならば、それをため息混じりに感じることは、そう稀なことではないはずです。マスコミの論調は、戦前戦後を通じて、純粋を好む世論に対して、「社会ハ悪、我ハ善ナリ」を基調にし続けていますが、これはいまだに衰えるところをみせないほどの横暴ぶりなのは、ご承知の通り。自分を棚に上げて、自分は善だと疑いもしないで、糾弾する姿勢^^;。実のところ、自分が正しいという人に限って、その自分の悪についてはまったく無自覚でしかないわけなのに・・・。

 この「純粋信仰」のほかにも、日本人のあり方について意識的に考えていくうえで参考になる視点がこの対談には満載されています。ぜひ、一読を。

 

 

 

神渡良平「宇宙の響き/中村天風の世界」


(96/06/02)

 

■神渡良平「宇宙の響き/中村天風の世界」(致知出版社)

 神渡良平さんには、安岡正篤さん関係の好著がいくつかあるのですが、今回のテーマは「中村天風」で、前著の「中村天風・生きる心得」に続く中村天風関連の二冊目にあたります。

 今回の著作は、著者自身が、二年近くを費やして書いたと言ってるようにかなり力の入ったものになっています。

 もちろん、こうした類の本は、ビジネス書に類するものなので、神秘学的にみてみると、いまいちのところや、くどいところもあるのですが、そうしたことを考慮してみても、今回のものもふくめて、神渡良平さんの著作には魂が入っているように思います。

 さて、中村天風さんというと、最近、安岡正篤さんとならんで、ビジネスマンの精神形成のためのバイブル的な存在となっているようですが、それにはそれなりの理由があるのは、こうした方々のことを調べれば調べるほどなるほどと思ってしまうところが多いです。

 ぼくも、中村天風さんについては、少し読んだことのある程度ですが、安岡正篤さんの著作からは、ほんとうに多くを学んでいます。かつては、こういう、いわば「精神論」っていうの嫌いでしたけど、時代が、こうまで軽薄なものに満たされてくると、そうも言っていられない(^^;)。自分の精神を鍛えるためにも、こうした凛とした方々から、少しでも学ばなければというこの頃です。

 参考までに、本書からいくつか引用します。 

幕末の名著『言志四録』にこんな一節もある。

「分を欺かず。これを天に事(つか)えるという」

天を畏れる敬虔な宗教心とは、ただ単にお寺に行ったり、神社に詣でたりすることではなく、常日頃の生活で自分をごまかさず、誠心誠意行なうことだというのだ。宗教心をここまで日常生活に引き下ろして解釈してくれたありがたい。この意識に立つと、人が見ている、見ていないとは関係なく、自分が納得いくまで真心を尽くすことができるようになる。自分の内に住む天をごまかさなくなる。そういう意味で、「天」という概念を私たちの日常生活にもう一度取り戻すことは、私たち自身の精神の健全化のために欠かせないことのように思える天風先生がもたらしたものは、まさにこの天という概念なのである。(P414-415)

この決意こそが大事だ。決意とは、自分で決定した意志のことであり、主体的な選択を意味する。かつては自分の意志とは関係なしに、波瀾万丈の人生に投げ込まれたと思ったので、受け身であり、生き延びるのが精いっぱいだった。だから愚痴ったし、抵抗したし、ののしった。しかし、いまは自ら選択したのだ。

「どんな状況であろうとも、泣き言を言うことなく、ただ雄々しく生きていくことにしよう」

今度は自分自身の主体的な選択であるかぎり、潰されてしまうことなく、必ず超えて行ける。人間は弱くない。受け身のときは弱かったが、主体的に立ったときは滅法強くなる。こうなると、過去の体験のあらゆるものが、自分を強化する方向で生きてくる。かつてはマイナスでハンディだと悔やんでいたものがプラスに変わり、自分の血となり、肉となる。そうなってくると、改めて、貧しかったことも、淋しかったことも、大学に行けなかったことも、貧乏クジを引いたと思っていたことも、そうではなかったことに気づく。

「ああい言うことがあったからこそ、現在の自分がある」と感謝できるようになってくる。かつては恨みつらみの対象だったことが、そうではなく、それは自分が足らなかったから、そうとってしまったわけで、天には深い配慮があったことに気づく。改めて、天の配慮に感謝する。もう、怖いもの知らずだ。勇気凛々いかなる状況下でも突き進んでいける。(P402-403)

  あえてこうした内容に何か言葉をつけ加える必要もないですし、そうしてしまうと蛇足になってしまうのですが、「自分自身の主体的な選択」ということがほんとうに大切だということはいくら強調しても強調しすぎることはないように思います。その「自分自身の主体的な選択」こそが、「自由」、「自らの由」を保証するものであり、それ以外のものは、愚痴や言い訳にすぎないということをひとりひとりが自分の魂の刻み込んでいくこと。それ以外に、魂の成長はないのだということを知らなければならないのだと思います。

 自由がないから、こそこそ人の陰口を言って喜んでいたり、自由がないから、凍え人は村長を呼んできたりする(^^;)。そんな馬鹿げた悪循環を、ひとりひとりの内なる「天」の声を聞きながら、断ち切って、真の「自由」に向けて歩みを進めたいものです。たとえそれが、遅々とした歩みのようにしかみえなくても、それ以外のすべての依存的な在り方は、自分を堕落させるだけなのですから。

 

 

 

西川隆範「見えないものを感じる力」


(96/06/02)

 

■西川隆範「見えないものを感じる力

天使・妖精・運命/ほんとうの私を求めて」(河出書房新社)

 

 前回の「あなたは7年ごとに生まれ変わる」(河出書房新社)に続く、シュタイナーのアンチョコシリーズの第二弾。

 あえて、「アンチョコシリーズ」などと書いたのは、この西川隆範さんという方は、シュタイナーの思想を、どうも、受験参考書的に紹介しようというような方向性が好きなのではないか。そんな感じのことを最近とくに感じているからです。

 もちろん、内容的におかしいところはないですし、数多くのシュタイナーの著作、講義集からいくつかのテーマをピックアップしてもらえるという部分は、助かる部分もあるのですが、シュタイナー自身がよく言っていたように、「わたしのこの話しは、図式化できるようなものでもないし、そういうふうに受け取っては決していけないものです」というようなことをわざわざやってしまっているのではないかと思うのです。その点が、シュタイナー・ハウスでの教育に関するあれこれの教条的な側面をつくりだしてしまっているのではないかとさえ思えます。

 しかし、この本は半ば大衆向けというかニューエイジ風の軽い書き方をしているものの、内容的にはけっこう難解で、これだけを読んで果たして理解できる人がいるのだろうかという危惧をもってしまう人はぼくだけではないと思います。少なくとも相棒は、内容と形式がバラバラだと言ってました(^^;)。つまりは、シュタイナーの思想をある程度概観している人にはわかるけど、そうでない人には、わけわからないことだらけじゃないかということです。

 ・・・とまあ、あえて辛口のことを書いてしましましたが、正直いって、これを読んで、魂を成長させる方はいないのではないか、そんなことを感じたからなのでした(^^;)。

 

 

 

マヤに関する二冊


(96/06/02)

 

■高橋徹

「マヤの宇宙プロジェクトと失われた惑星/

 銀河系実験ゾーン この太陽系に時空の旅人マヤ人は何をした」(たま出版) 

■ホゼ・アグエイアス

「アルクトゥルス・プローブ/

 銀河連盟と現在進行中の調査、及びその物語」(高橋徹訳/たま出版)

 ぼくは、FMISTYのMES15で、「マヤンカレンダー」の日めくり爺をしてますがその「マヤ」に関するとっても興味深い著作と翻訳が同時に二冊でました。

 ちなみに、高橋徹氏のマヤに関する著作は、これまで

○「マヤン・カレンダー」(ヴォイス)

○「201X年終末大予言の秘密」(日本文芸社)

○「古代マヤ文明が日本を進化させた」(徳間書店)

などがあります。

 なぜ、今、マヤなのか、ということについて、ここで簡単に説明することはとってっもむずかしいのですが、誤解を恐れず言うと、マヤン・カレンダーのシステムやその背景にあるさまざまは、現在の時空という、一種封印された状態を解放するための非常に重要な鍵になっているのではないかということです。つまり、現在の人類は、今、当然あると思っている時間と空間の檻のなかに閉じこめられているということなのです。そして、そういう自縄自縛の檻から出るためのさまざまの秘密をマヤン・カレンダーは提供してくれるというわけです。

 ぼくは、この会議室では、シュタイナーの神秘学の考え方を基本的なガイドにして話しをすることが多いのですが、そうしたシュタイナーの神秘学ではとらえられにくい側面がこのマヤン・カレンダーに関することには豊富にあるようで、そこらあたりに、ぼくは興味をもっているんです。ちなみに、日本での隠れた星辰信仰などにも、そこらへんのことがたくさんあって最近では、そうしたことを調べることも多くなってきています。

 ま、それはともかく、今回ご紹介した高橋徹さんの「マヤの宇宙プロジェクトと失われた惑星」から引用しておくことにします。 

私たちの意識は、太陽系全体の惑星軌道の恩恵を被っている。というより、太陽系全体の構造や運動が、日々、私たちの意識を構成していると言ってよい。この観点に立てば、太陽系で何が起こるかは、即私たちの個人の生活に反映し、逆に私たちの意識が変化すれば、太陽系も変化する。大ざっぱに言えば、「銀河のカルマ的な流れ」は、太陽系の過去から現在へ向かう流れであると同時に、マクロの太陽系から、ミクロの人間個人に向かう流れである。これと反対に「太陽の預言的な流れ」は、現在から未来に向かう流れであると同時に、個人から太陽系へと変換される流れである。どちらも重要であり、「シンクロニシティ」という言葉で表わされるのは、この双方向性が瞬時に、どちらが原因かわからないような形で起こることを指している。言い換えれば、私たちの意識が変われば、太陽系も変わるし、太陽系が変われば、私たちの意識も変わる。そして、それらは相互作用を通して起こるために、どちらが先で後かはわからない。同時に起こるのである。(中略)

「銀河のカルマ」が、マクロからミクロ、あるいは銀河系から個へと向かう流れだとすれば、「太陽の預言」は、個を土台として出発する。これは個人のエゴにこだわることから、自由意志を通してより大きな宇宙への土俵へと自らが開かれていくプロセスである。ここで誤解のないよう言っておくが、「自由意志」はまず何よりも地球が持っている太陽の預言的な流れの中における「力」であり、人はそれを受け継ぐことができるのだ。

マヤは、このプロセスで大きな宇宙の進路、コースを引いている。個人がマヤ暦を使うことで、太陽の預言的な流れにおける天王星、すなわわち、「地球」という紋章の持つ「同期」の力が引き出される。これにより私たちは、より大きな世界、宇宙と同期していく。このプロセスを通して人類は集合的に自らの進む道を選択するようになるのだ。

このプロセスを通っていけば、否定的な「予言」は当たらなくなる。というより、人々の集合意識がそれを選ばなくなる。 (P274-275)

  とまあ、かなり難しそうなことが書かれてあったりしますが、言葉の見かけの難解さを外して、肝心なところをいうとすれば、結局は、神渡良平「宇宙の響き/中村天風の世界」のところで、 

「自分自身の主体的な選択」ということがほんとうに大切だということはいくら強調しても強調しすぎることはないように思います。その「自分自身の主体的な選択」こそが、「自由」、「自らの由」を保証するものであり、それ以外のものは、愚痴や言い訳にすぎないということをひとりひとりが自分の魂の刻み込んでいくこと。それ以外に、魂の成長はないのだということを知らなければならないのだと思います。

 こういうことを言ったように、まさに、「自分自身の主体的な選択」を、身近なところから始めることがそのまま大きな意味での宇宙的な進路の選択にもなるということなのです。

 今やってるシュタイナーの「いか超」も、その「自分自身の主体的な選択」こそが個人の魂の確実な成長となると同時に、大きな意味での人類進化というテーマの要でもるということをその意図としているといってもいいと思います。

 でもって、今、ぼくの興味の関心というのは、そうした日常的なところからの魂の成長と宇宙的な進化のプロセスとのさまざまな関係性を探ることにあります。そのなかに、シュタイナーがあり、安岡正篤があり、西田幾多郎があり、またこのマヤがあったりするわけです。

もちろん、このフォーラムでもあれこれもそれと切り離されたものではなく、「自分の言動に対する責任」云々も、まったく同じ関心から発しています。

 

 

 

東條真人「ミトラ神学」


(96/06/09)

 

■東條真人「ミトラ神学/古代ミトラ神学から現代神智学へ」(国書刊行会)

 本書は、「全神智学の集大成」と唱われていますが、ここで「神智学」といわれているのは、ブラバツキーの神智学だけを指しているのではなく、古代からさまざまな宗教等の根底にある秘教的真理の探求であり、表面上は異なった在り方を見せているそうしたさまざまな神智学を統一場的に解明しようという試みが本書であるといえます。

 裏表紙にはこういうコメントがあります。 

キリスト、仏教の弥勒、ユダヤの大天使メタトロン、イスラームのアル−マフディー、現代神智学のマイトレーヤは、古代イランの光の神ミトラをルーツとすると言われている。本書では、膨大な文献の博捜をもとに、ミトラ教神智学、東方神智学、現代神智学の歴史・神話・理論を解説し、汎世界的なミトラ信仰の系譜をたどりながら、その普遍的な構造を明らかにし、21世紀に向けて新たな神学の創生を試みる。全神智学を集大成した、画期的論考。

  本書は、約500ページ近くにもなる著作で、最初はそう期待しないで、途中でつまんなくなって拾い読みになってしまうかなとも思っていたのですが、一気に読んでしまいました。

とても内容の充実した、しかも読みやすい画期的論考だと感じました。ただ、著者の自筆の挿し絵だけは、マンガチックでいただけませんでしたが(^^;)。

 ともかく、ミトラというのは、まさに弥勒であり、マイトレーヤ。そこに、いわゆる太陽存在である、キリストやアフラ=マズダ、オシリスなどが深く関係してくるのはいうまでもありません。

シュタイナーにとっても、キリスト存在はメインテーマでもありましたし、弥勒に関しても言及されているわけで、そこらへんのことを概観する意味でも、本書は極めて広い視点を提供してくれます。

 もちろん、極めて広い視点をとっているだけあって、未消化である部分などがあるのは確かなのですが、そういうところを含めて考えてもこういう試みは、スゴイの一語です。ぼくにとっても、不案内であるゾロアスター教やマニ教、イスラム教関係のものを概観させてくれ、またそれに関する資料の数々を紹介してくれたという意味でも、とっても参考になりましたし、著者がぼくとほぼ同い年というのもあって、まだまだぼくは勉強が足りないという反省のための刺激にもなりました。

 それはそれとして、あえていくつか不満足なポイントを指摘しておくと、ここには、道教や陰陽道などの視点はまったく欠けていますし、なにより日本の神道についての視点もまったく抜け落ちています。

 実は、ぼくにとっても今いちばん興味のあるのが、そこらへんの視点なので、まだまだ全体像は見えてこないなあというのが実感です。

 ともあれ、本書は、ひとつの一里塚でもある好著ですので、少し高いですけど(4,600円!)、お買い得の一冊だと思います。

 最後に、「エピローグ」として書かれてある、ザラシュストラ(ゾロアスター)と弟子のスヴェトラーナの話の一部を。

さまざまな機会をとらえて、ザラシュストラは、いかに学ぶべきかを彼女に教えました。たとえば、次のようにです。

「わたしのことばのすべてを鵜呑みにするのではなく、わたしのことばを手がかりとして、ミトラの真意をくみとるのだよ。二つの知識を持って、それらがうまく結び付かないときには、どちらかがまちがっていると速断してはいけないよ。自分にはまだわからない方法でその二つは結び付いているかもしれないと留保しなさい」。(中略)

たとえ答えが間違っていても、自分なりに考えて答えるとザラシュストラは喜びました。ザラシュストラは自分が語ったことを彼女が金科玉条として疑わないで丸呑みすることがないように、たえず注意を払っているようでした。(中略)ザラシュストラは彼女のことばや祈るときの心の込めかたをよく見て、ミトラへの話しかけ方や呼びかけ方を教え、彼女がミトラの友としてふさわしい言動ができるように指導しました。魂の中に火をともすとか、火を見るということについても、ザラシュストラは「それは修行で感じることだ」というような曖昧な説明はせず、「自分で考え、自分で決めるようになることが、火がともるということだ」というように状況に応じて具体的に教えました。どんな場合でも、自分で考え、自分で決めるという自発性が見られるときには、その芽を摘むようなことはしませんでした。正義は相対的な概念だから、超越して達観することが悟りだという考え方や、ルールの意味を考えず、それを金科玉条として崇めるような考え方をどちらも偽りの光に惑わされた考えとして退け、真の「正義への思い」とは、絶えず正義の境界線がどこにあるのかを自問自答することだと教えました。そして愛には正義と慈悲の二面があることを教えました。この他、数限りないことを教わりました。(P443-444)

  

 

 

 

ルドルフ・シュタイナー「宇宙のカルマ」


(96/06/27)

 

■ルドルフ・シュタイナー「宇宙のカルマ」(松浦賢訳/イザラ書房)

 イザラ書房から訳出されていたシュタイナーのカルマ論の最終巻がこの「宇宙のカルマ」ということになります。シュタイナーの最晩年に講義されたカルマ論はまだ数冊あるのですが、なぜか途中で、訳者も西川隆範から松浦賢に変わり、残念ながら全5巻になってしまいました^^;。

 で、イザラ書房からでたシュタイナーの「カルマ論集成」は

1『いかにして前世を認識するか』

2『カルマの開示』

3『カルマの形成』

4『歴史のなかのカルマ的関連』

5『宇宙のカルマ』

 という5巻が揃ったことになり、ともあれ、シュタイナーのカルマについての捉え方が概観できるようになりました。カルマについて関心のおありの方はぜひ参照していただきたいと思います。「カルマ」といえば、ともすれば、否定的なイメージがありますが、カルマをそういうふうにとらえてはならないということが理解できるからです。

 さて、この5巻はほかの4巻と違って、訳者が変わったというのもあって、訳文が、あえて意図した逐語訳になっているところが少し読みにくいといえばいえますが、こうした内容が日本語で読めるのはうれしいものです。

 最後に、本書のなかからどこか引用させていただこうと思いましたが、最近、仕事で葬儀についてのあれこれに関わっているというのもありますので、カルマとは直接関係ないですが、それについての部分を引用しておきます。ちなみに、ここに描かれているのは、シュタイナーの人智学の考え方からキリスト教を新しくとらえなおそうとしてうる「キリスト者共同体」での葬儀に関してです。 

みなさんが死者の祭儀として、つまりすでにみなさんの大部分が参列した火葬や埋葬の式典の祭儀として目のあたりにしたものについて思い出していただくことにしましょう。(中略)

みなさんは、このような祭儀が行なわれるのを目のあたりにします。みなさんは前の方の棺の前で、ある種の祭儀が執り行なわれるのを目にします。みなさんは司祭によって祈りの言葉が語られるのを聴きます。(中略)

もしここに鏡があって、こちらになんらかの対象や存在があるとすると、みなさんは鏡の中に、鏡に映った像を見ることになります。このときみなさんは、「実体を備えたもの」と「鏡像」という、二つのものを前にしているわけです。それと同じように、死者の祭儀が行なわれるときには、みなさんは二つのものと向き合うことになります。棺の前で、司祭の手で執り行なわれる祭儀は、単なる鏡像にすぎません。それはまさに鏡像であり、鏡像以外のものとして実在することは不可能です。では、この場合、鏡は何を意味しているのでしょうか。遺体の前に立ち祭儀を行なうことによって、司祭がここで行なっているもののもとになる像は、それと隣り合わせになった超感覚的な世界に存在します。私たちがここで物質体と、実際には依然として残っているエーテル体の前で地上の祭儀を執り行なうとき、超感覚的な世界では天上の祭儀が別の側から、つまり存在の別の側にいる霊的存在たちによって執り行なわれます。私たちが死者との別れの祭儀を執り行ないながらここに立つのと同じように、超感覚的世界では死者の魂的なものと霊的なものが、迎え入れるための祭儀とともに受け入れられるのです。このような現実的な根源(超感覚的な世界で行なわれる祭儀)を持つときにのみ、私たちが地上で執り行なう祭儀は真実のものとなります。(P238-239)

  葬儀が単なる形式と化してしまって久しいものがありますが、引導を渡す役目も葬儀を行なう者も、死者も、生者もすべてが、儀式の本来の意味を認識し、それに基づいてそれを執り行なうようになればとそう願わずにはいられません。

 儀式の意味云々とはいっても、ぼくとしては葬儀はしないつもりですが^^;。  

 

 

 

中矢伸一「日月神示二曰んの巻」


(96/06/27)

 

■中矢伸一「日月神示二曰んの巻」(KKロングセラーズ)

 相も変わらず、日月神示の引用部分の素晴らしさと中矢伸一氏文章のギャップがきわめてアンバランスな日月神示ものです^^;。今回は、日月神示の内容とスウェーデンボルグの著作との近似性を述べながら、その引用をベースに、それについての解説とかなり暴走気味の私見でつないでいるような内容となっています。

 ちなみに、タイトルの「二曰ん」というのは「じしん」つまり、「地震の巻」を主なテーマとしているということのようです。

 今回特に注目に値するテーマは、「善と悪」及び「霊界での音楽」「霊人の言葉」あたりです。参考までに、それについて本書に引用されてある日月神示の箇所を少しだけご紹介させていただきます。 

善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となることによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。(地震の巻第九帖)

霊界における音楽もまた同様であって、愛を種とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。すなわち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。(地震の巻第十一帖)

  日月神示を紹介いただけるのはとても参考になるのですが、どうも中矢氏の要らぬフィルターがあるので困ってしまいます。どうせなら、テーマごとに、引用だけのものをつくってくださればいいのに、とさえ思ってしまいます。

 善と悪のテーマにしても、中矢氏は、日月神示独特のものであり、「過去のあらゆる宗教家や思想・哲学者たちの考え方を根底から改めさせるもの」だということをいうわけなのですが、ここらへんにも、中矢氏の勉強不足や排他的な姿勢が明らかに現われているようにも思うのです。

 「知らない」だけなのに「あらゆる・・・」と言い切ってしまうんですから^^;。

 ちなみに、善悪については、悪の効用論はアウグスティヌスにさえありますし、ライプニッツは「悪は善への不可欠の条件」であるとしていたり、シェリングはそれをふまえながら善と悪との同一性、相即などを説いていたりします。また、天台宗では、それと同じく「善悪相即」「善悪不二」が説かれてもいます。「悪は是れ善の資なり。悪なければ亦善もなし」といように。もちろん、シュタイナーの善と悪の考え方は、ほとんど日月神示のそうした考えを霊学的に詳細に展開したものであるといえるでしょうし、そもそも善悪二元論にみなされがちなゾロアスター教やマニ教にしても、それをちゃんと理解すれば、そうした考え方と近しいことは一目瞭然です。

 中矢氏の気概は理解できるのですが、その暴走気味の無知には少しばかり疲れます^^;。

 その「食」についての理解も、みずからの「理想」の部分と、それにたいするもっと深い理解の欠如とが絡まって、いやはやという感じです。せっかくの中矢氏の気概も、上滑りになってしまいがちですから、困ったものです。それに、おそらく中矢氏の日月ものの著作で得る収入という観点でいえば、おそらく日月神示でもっとも儲けている方ということになるでしょうから、そこらへんのことを考えれば、もっと勉強してもらいたいなと思います。もちろん、その著作によって得る収入を拒否されているのだとしたら、その点に関しては、ぼくの誤解にすぎないわけですけど^^;。

 ともあれ、スウェーデンボルグをふくめ、引用部分の素晴らしさはなかなかの一冊でした。

 

  

 

眠れる異能者への伝言


(96/06/28)

 

■オリエント倶楽部「丹後超古代秘話/眠れる異能者への伝言」(たま出版)

 装丁もあまりぱっとしないし、ちょっとした超古代史ネタの本だと思って、遊び半分であまり期待しないで読んだのですが、予想に反して、すごくスリリングで面白い本でした(^^)。

 丹後半島に伝わる鬼伝説、巨石遺構、ヒヒイロカネ、徐福伝説関係の不老不死伝説……といった古代史、超古代史に関する事柄の探求を通じて、「人間とは何か」ということを鋭く追求する・・・といっても、これは読んでみないと、そこらへんの関連は理解しがたいので、ここでそれを簡単に説明するのは難しいかなと思いますが、本書の編纂意図に関しては、「まえがき」でこう述べられています。 

本書は、単に超古代史のロマンを探訪する歴史紀行ではなく、閉塞した現代社会の転換と打開になり得る方向性を、丹後の地を解析するなかで読者に指し示すために編纂されたのである。(P9)

  タイトルに「眠れる異能者への伝言」とありますが、「異能者」とは、いわゆる「鬼」のことでもあり、その力が封印されていくというのがこの日本のこれまでの歴史でもあったわけですがその封印された力を目覚めに導くこと。そのことがまさに混迷を深める現代社会を打開する道でもあるというのですが、その封印された力は、それを古代からのものとして顕在化させるだけでは足りない。その力に何かが加わってこそ現代に生きる力として目覚めることができる。 

異能者が力を発揮するには、昔から受け継いだ型だけの和では不十分なのだ。家のため、町のため、国のため、そして社会や組織のためにどれだけ多くの生が犠牲になったか。世界に例をみない日本の型の文化が、本来の実に転換しなくてはならない。その転換を果たさず、古いしきたりの型を復活させたところで、異能者は目覚めることができない。

それでは眠れる異能者が触発される根本命題とは何か。誰しもの足下にありながら、数万年に渡り封印され続けた有史依頼の大命題−−人間とは何か、自己とは何か、イノチとは何か、そして究極の実体とは何か…なのである。(P190)

  本書では、その「答え」を明示してはいないけれども、そのキーになることについてさまざまなことを示唆しています。

 そのひとつが「自我」。現代のさまざまな問題は、人間の自我の暴走によって引き起こされたものである。そういっても過言ではないと思うのですが、まさにその「自我」を成長させるということが、人間のこれまでの歴史の課題だったのではないか。そしてそこにこそすべての「鍵」が隠されているのではないか。そうぼくは読み取る事が出来ました。 

これまで書き連ねてきた日本の崩壊現象の根とは、有史以来、人体にまかれた

「自己」という一粒の種の必然的帰結なのである。

この「自己」という種が芽を出し、自我形成していく過程の中で、さまざまな執着や欲望が形となって表われるのである。(P233)  

異能者とは、かつて人体の主導権が今のようにエゴに持たされていなかったころ、すなわち、万物、万象をうみだす根源のハタラキと一体化していたころの記憶の持ち主であり、その記憶を元に巨石を天空に浮遊させ、ヒヒイロカネを操り、不老不死を求め根源世界の復活のために奔走した。光と闇の二極に分化した以降、異能者達はオニと称され、世俗を騒がす化け物のレッテルを支配者からはられ、追いつめられ抹殺された。

以来、文明が成熟し大転換を迎えつつある今日、異能者達は長い長い眠りから目覚め、成熟して開花した自我の花に、受粉する役目を果たすことになる。種子が発芽し、二枚葉をひらき、芽をのばし、つぼみを付け、無数の花が咲き乱れているのが世紀末の今であるとするなら、受粉により一体どんな実がなるのだろうか。

きっとこれまでの科学や哲学やすべての学問の及ばない実=種子が付くに違いない。なぜならすべての学問は、その実をつけるための栄養に過ぎなかったのだから。(P241-242)

  こうした問いかけは、ぼく自身問い続けてきたものでもあり、主に、それをシュタイナーの神秘学や西田幾多郎の哲学やから学んできたのですが、まさに、「汝自身を知れ」こそが究極のテーマでもあるように思います。

 本書には、さまざまな「異能者」たちとの対話も収録されていて、それもなかなか素晴らしい内容になっています。特に、神社本庁教学顧問・中西旭氏という明治38年生まれの方には、こんな方がまだ日本にはいらっしゃるのだな、という感慨を持ちました。

 一読に値する書です。

 昨日ご紹介した本の著者中矢伸一さんも、こういう姿勢であればいいのにと思います。せっかくの気概がうわすべりして、むしろ逆行してしまっては何にもなりませんから。

  

 

 

第十の予言


(96/06/29)

 

■ジェームズ・レッドフィールド「第十の予言」(角川書店)

 ベストセラーになっているという「聖なる予言」の続編がでたというので早速読んでみました。お話としては、お世辞にも、あまり面白い話だとはいえないし、どこもかしこも啓蒙的なところの塊なのがかなり鼻につきます(^^;)。この本の中では、繰り返し自分の「バースビジョン」を思い出すことの必要性が語られていますが、それをもっと多面的に描くことができれば、それを軸にして、もっと面白くスリリングな話になったんだろうと思います。

 ま、それは別にして、ここに盛り込まれている内容は、それなりに重要なことばかりであるのは確かだと思いますので、読んで損をするような本では決してないとは思います。

 「バースビジョン」というのは、自分が生まれてくる前に、生まれて自分がどういう課題をもって人生を送るのを理想的なビジョンとしているのかということなのですが、本書を読んで、そこらへんのことを、各自がふりかえってみるきっかけにできれば、そして、それが現代の地球に生きている一個の人間としてどう意味づけられるのかを考えるきっかけになるならば、十分意義深いのではないかと思います。

 

 

「安岡正篤/やりたいことを必ずやり遂げる生き方」


(96/06/30)

 

■寺師睦宗「安岡正篤/やりたいことを必ずやり遂げる生き方」(三笠書房)

 ぼくの尊敬する三人といえば、シュタイナー、西田幾多郎と、この安岡正篤だといえますが、この本は、その安岡正篤に師事した漢方医である著者がその思想の人生哲学の部分を自分なりに一冊にまとめあげたという本で、安岡正篤の思想をみるのになかなかの好著なので、ご紹介したいと思います。

 ちなみに、この本は、今年の2月に刊行されたもので、いつも鞄に忍ばせて、少しずつ少しずつ読んでいたものですから、読み終えたのが今日になってしまいましたが、安岡さんの人生哲学のもつ力強さとしなやかさを再認識した感があります。

 安岡正篤といえば、なんといっても王陽明に端を発する陽明学の巨人ですから、その知行合一を基軸とする思想の足腰の強さをそこから学ぶには最適なのではないかと、日頃から感じていますし、安岡正篤は決して神秘学的ではないとしても、その姿勢はまさにシュタイナーと同じ基盤に立っているようにぼくはとらえていますしそれを指摘してある著書さえ数年前にでているくらいです。

 シュタイナーと安岡正篤の共通性をもっとも実感できるように思えるのが安岡正篤の「知命と立命」(プレジデント社)あたりで、そこに描かれている考え方は、まさにカルマ論の陽明学版であるとさえいえますしシュタイナーの言葉と非常に近しい響きさえそこからは感じられるくらいです。

 さて、この本にはほんとうに多くの実践知が盛り込まれていますが、そのなかでひとつ「雑識・知識・見識・胆識」ということについて述べられているところを引用紹介させていただきます。 

学問に関する安岡先生の言葉の中で、もう一つ強く印象に残っているのは、「雑識ではダメだ」というものだ。

「雑識」とは、いい加減な知識、中途半端な知識ということである。先生は「知識」と「見識」、さらに「胆識」とをはっきり分けておられた。「知識はいくらでも得ることができるが、価値を正しく判断できる見識を身につけるには体験を積まねばならない」

と先生は話しておられるが、いくらたくさん「知識」があっても、体験を積まなければ、単なる「雑識」でしかなく、「見識」ではない。(中略)

したがって、私たちは知識を豊富にすることにより、見識をしっかり身につけることを考えなければならない。(中略)

そのうえで実際の問題にぶつかって、いろんな矛盾を体験し、的確な判断とスピーディーな実行力が身につく要になると、その見識を具体化することができるようになる。これを安岡先生は「胆識」と読んでおられた。(中略)

学問というのは、自分の仕事、自分の生活とけっして切り離されて存在するものではない。むしろ、自分の仕事や生活をより充実した内容のものにしていくのが学問なのである。学問というと、なんだか学者だけの専売特許のように思われるかもしれないが、けっしてそういうものではない。したがって、自分の仕事や生活を犠牲にして学問をしようなどと考えるのは、とんでもない間違いだ。どんなに忙しくても、どんな境涯にあっても、その気になれば学問はできる。(P25-27)

 これはもう当然のことで、学ぶということの本質が、この「雑識・知識・見識・胆識」ということに尽くされているように思えます。そして、それこそが「知行合一」の核になる考え方なわけです。

  

 

 

スピリチュアル・ウォーカー


(96/07/02)

 

■ハンク・ウェルスマン「スピリチュアル・ウォーカー/5000年後からのメッセージ」

                          (真野明裕訳/早川書房)

 これは、人類学者で化石発掘の調査員でもある著者が、5000年後の未来の人物と体験を共有し、それを科学者としての冷静な視点に基づいて記録したという非常に興味深い内容のノン・フィクションです。しかも、一気に読み上げてしまったほど、とても面白いものです。

 ここには、人類が破局的な状態を向かえながら、5000年後に半ば原始的だと思える状態になっていることが描かれていますが、こうした未来像というのは、あくまでもひとつの可能的現実であって、そういうふうな未来に必ずしもなってしまうというのではないと、ぼくなりにとらえてはいますが、この本に描かれている内容を真摯に受け止めてみることは重要なことであるように思います。

 具体的な内容については、関心のある方に実際に読んでもらう以外にそれをちゃんと伝えることは難しいと思いますが、ここに盛り込まれている霊学的な内容がきわめて充実しているということは指摘しておくべきかなと考えますので、そこらへんに関係した部分を少しだけ引用紹介させていただきます。

ナイノアはウィリアムを見やった。「わたしたちのほうでは、魂、イホは一人一人の大事な精髄、もしくは意識とされている。独立した、より高次な、霊的な次元の自我、アウマクアとは別のものでね。アウマクアは霊界に住んでいる。自然界のあらゆるものがそれを持っているけど、人間のような魂をもっているかどかは、わたしたちは知らない。」

ウィリアムは無言のまましばし考え込んだ。それからナイノアにこう言った。「わしらもあらゆるものが大事な、おのおのの精髄を持っていると感じている。わしらの考えでは、この精髄には三つの面がある。まず第一に、わしらがドルニオクと呼んでいるものがある。これは命あるものないものも含めて個々のもののそれぞれの霊だ。これはあんた方がアウマクアと呼んでいるものと同じかもしれない。

ほかに、生き物に命を吹き込む息吹き、オネルニクがある。それが霊魂の第二の側面だな。動物と人間だけがオネルニクを持っていて、これのおかげでわしらは大気の霊、ズィツラと交流できる。動物と人間はオネルニクを持っているので、それを持たない植物や岩などよりも力がある」(中略)

「ドルニオクとオネルニクを持っている上に、わしら人間はそれぞれ名前も持っているという点で、ほかのあらゆる目に見える存在とはちがっている。わしらは自我のこの面を名前の魂、オディクと呼び、それにはかなりの力がある。人間が動物や植物や石などより力を持っている主な理由は、わしらにはオディクがあるからなんだ。つなりね、動物だってちゃんと魂を持っているんだが、植物や岩には一つしかない」(P279-280)

  神秘学では人間は、物質体、エーテル体(生命体)、アストラル体、メンタル体で構成されているということを考え合わせながら読むと、基本的なとらえかたの類似性が理解できると思います。ただ、ここでは、植物と石の現われを区別してないというのが興味深いところです。

 ただのお話としてみても、とても面白い話なので、なにかお話を読みたいと思うときにでも、読まれるといいのではないでしょうか。  

   

 

 

一語の辞典「個人」


(96/07/04)

 

■作田啓一「個人/一語の辞典」(三省堂)

 三省堂から「一語の辞典」というのが刊行されています。これまで刊行されたのは、「こころ」「文化」「技術」「性」「小説」「気」「家」「天」「人権」で、それに続いて刊行されたのが今回の「個人」です。

 「個人」というのは、individualの訳語として明治17年になって、ようやく今のような感じで使われ始めたということで、このように明治以降西欧からはじめて輸入された言葉に、society、つまり「社会」があります。そのそも、日本には「世間」という言葉はあっても、「社会」に対応する言葉はありませんでした。そうした日本特有の「世間」については、阿部謹也さんの「世間とは何か」(講談社現代新書)というのがでてまして、日本特有のそうした在り方について興味深い内容が展開されています。

 さて、「個人」ですが、日本には「個人主義」が根づかないとはよくいわれますがそれが何故なのか、その「個人主義」とは一体何なのか、またそもそも「個人」とは何なのかについて、西欧の歴史を辿り、同時に日本でそれに類似した在り方の歴史を辿りながら、本書では極めて興味深い議論が展開されていきます。

 もちろん、「個人」という在り方は「自我」の在り方と深い関係をもちますので、日本人について考える際には、そこらへんの視点は欠かせないところです。

 さて、少し引用紹介しておくことにします。 

個体の統一性に立脚する個人主義への懐疑が西欧に広がったのに対応し、日本では一九六〇年代後半以降の経済のいちじるしい成長を契機として、日本見直し論が台頭してきた。その論調の一つに、自己中心的な西欧文化はイギリス病やフランス病をもたらしたが、思いやりと察しの日本文化は繁栄と安定を導いたのだから、日本人は西欧の個人主義をもはや模倣する必要はない、という論がある。この論は集団やその長への成員の献身ではなく、成員相互の間柄の尊重を、日本人の重要な特性であると主張しているので、論者はみずからの立場を集団主義ではなく間柄主義あるいは関係主義であると規定する。我々には間柄主義は集団主義(ホーリズム)の一側面であるにすぎないと思われるが、その点についてここで議論する必要はない。問題は、この間柄という概念である。それはもちろん、諸個人間の単なる結合ではなく、諸個人を越え、彼らを規制する、そして彼らが分有する場のようなものと考えられている。しかし、間柄は我々が定義したような世俗外個人と超越的存在との関係ではない。それゆえ、間柄に属しているのは世俗外個人=超個人ではなく、没個人とでも名づけられるようなものである。超個人と没個人との違いは、いくら強調しても強調しすぎることはない。(P106-107)

  日本における「世間」というのは、人と人との関係の集団的な様態でもあり、そこに「世間様が許さない」というような表現が生まれたりもします。それに対して、契約宗教であるキリスト教などでは、人はそうした人と人との集団的な在り方を越えて、「個」が直接、神と向き合うようなありかたを可能にしてきました。

 日本には、そうした超越的なものとの関係での「個」という考えは育たず、どうしても集団ベースの没個人的な在り方に方向づけられてきています。そうした在り方が「自我」の在り方にも深く関係していきているわけです。

  ともかく、「個」「個人」ということを考えていく場合の、基本的な観点が包括されているように思える本書は、「日本人」を考えていくうえでも、恰好のガイドブックにもなるのではないかと思います。

  

 

 

ラマー 愛と魂への旅


(96/07/08)

 

■ダレル・T・ヘア「ラマー 愛と魂への旅」(飛鳥新社)

 灰谷健次郎さんの訳による、とても読みやすく、魂にも栄養になる、翼のある兎のラマーのお話です。啓蒙的なところがかなり多いけれど、とても大事なことがほんとうにわかりやすい表現で語られています。

 著者のプロフィールのところで、本書を「90年代のニューエイジの傑作として全世界で反響をよんでいる」といっていますが、いわゆる「ニューエイジ」のいいところがでている佳作だと感じました。

 恒例により、本文より少し引用紹介を。 

「これがカエルの教えよ。バールーさんがこれを創ったのは、だれもわたしたちの代わりに、考えることも選ぶこともできないし、わたしたちが何を感じるか何をするかを、人が決めたりできないんだってことを、忘れないようにするためなの」

「それは、どんなときでもなの?」

(中略)

「そう、どんなときでもよ。そやって、わたしたちは成長していくんですもの……たとえ、人に賛成してもらえなくても、自分にとって正しいと思うことを、考えたり選んだりしながらね」

(中略)

「でも、まちがって選ぶこともあるんじゃない?それで、あとで後悔するようなことをしたりしない?」

(中略)

「だれだって、ときにはまちがうけど、まちがいを恐れていたら、正しいこともできなくなるわ。自分で決めるからこそ、正しいか正しくないかのちがいがわかるようになるの」(P61-62)

 ここでいう「カエルの教え」について細かく説明すると長くなりますから、かいつまんでいうと、 

人生のどんな小さな分かれ道も、自分で選ばなくちゃならないんだってことを、わたしたちに教えてくれる(P61)

  ということです。ちなみに、バールーさんというのは、彫刻家の名前です。

 この引用にもあるような、とても大切な指針が物語のなかにわかりやすく埋め込まれている、そんな話がこの「ラマー」なのです(^^)。

  

 

 

聖書の土地と人々


(96/07/12)

 

■曾野綾子・三浦朱門・河谷龍彦「聖書の土地と人々」(新潮社)

 聖書に興味がでてきたのは、そう昔のことではなく、ほんの数年前のことで、それまでは、仏教などにくらべて、そう親近感はなかったのですが、今では、ちゃんと手元に聖書を置いておくようになっていますし、特にキリスト教についての理解を深めたいとさえ強く思うようにさえなっています。とはいっても、今ある宗教団体としてのキリスト教に興味があるわけではありませんが。

 そうした前置きはともかくとして、この本は、カトリックの作家夫婦である曾野綾子と三浦朱門が、現地の案内役である河谷龍彦と実際の「聖書の世界」をつくった土地と人間について生き生きと楽しく語っているもので、抽象的なかたちではなく、具体的な生きたものとして聖書の世界を実感するには格好のガイドなのではないかという気がします。とはいっても、ぼくとしては、実際のところはあまりに不案内ですから、あくまでもぼくにとって、聖書の実際の背景としての風土がよくわかったということです。

 では、いくつか引用紹介を。 

河谷 旧約の厳しさというかユダヤ人の厳しさに対する福音の愛は、イエスの背景に厳しい砂漠の姿を置かなければなかなか浮かび上がってきません。ガリラヤ湖畔のやさしい風が吹いて、そういったところだけでなく、エルサレムあたりのファリサイ的岩盤といった厳しい自然の中で、イエスが愛という言葉を吐かれた。日本で愛という言葉を聞くと、何かなよっとした感じですけれども先ほどのパウロではないが、旧約の律法の世界、あの灼熱の砂漠を背後にして愛ということは、砂漠的人たち、トーラーを支えに生きている人たちにとっては、滅びよということと同じではなかったか。非常に切れ味の鋭いドスを突きつけられたような言葉が愛ではなかったかと思うのです。(P272-273)  

三浦 (…)民主主義を絶対の方法みたいに思っている人がいるけれども、本当は民主的にやれることなんて大してないんです。例えば学問的な真実、物理的な原則なんていうのは、民主的に決められっこないですよね。民主的に決められることというのは、簡単にいうと日常生活の次元の部分だけであって、より本質的なものでは民主主義なんていうのは何の役にも立ちはしない。

その意味では、二千年前と今とは、事態は何も変わっていないと思うんですよね。ですから、民主主義というものを何よりも大切と信じている人々には、ぜひとも砂漠の旅をしてもらいたい。方角を一つ間違えたら、オアシスに行き着けないばかりか、一族全滅になる世界ですから。(P325)

  この引用箇所だとちょっと堅そうな話のような印象があるかもしれませんが、「キリストはどんなパンを食べていたか」のようなきわめて具体的な衣食住をはじめとした興味深い話がたくさんあって、そうしたことを今我々の暮らしている日本のそれと比較するなどして聖書ならではの発想を楽しく学ぶには格好の本ではないでしょうか。

 

 

 

スーフィーの物語


(96/07/15)

 

■イドリース・シャー「スーフィーの物語/ダルヴィーシュの伝承」(平河出版社)

 スーフィーたちの語り継いできた知恵と寓意に満ちた82の物語。それらの物語は、読み手次第でその秘められた意味が明らかになるといいます。スーフィーについては以前からとても関心があったのですが、このようなまとまった物語集としてふれるのははじめてのことで、とても興味深く読むことができました。 

 確かに、一見何気ないただのお話のようにも読めるものでも、そこには隠された宝物が隠れていることがわかります。なかには、「群盲象をなでる」話や「猿のつかまえ方」の話やグリム童話にも収録されているような話もありますが、そうした話はどれも、深い叡智を伝承の形で伝えてきたものなのだということがわかるような気もします。

 グリム童話といえば、いわゆるメルヘンということになりますが、メルヘンについてのシュタイナーの視点を参考にしていくと、こうしたスーフィーの物語に隠された意味についても理解のためのガイドになるようにも思います。

 また、スーフィーといえば、もちろんイスラムなのですが、イスラムに関する故井筒俊彦氏のさまざまな業績などを合わせて読まれれば、こうしたスーフィーの物語についての理解はさらに深まるものと思います。

 参考までに、本書の参考文献にも挙げられている井筒俊彦さんの著作やその他の参考になると思われるものをいくつか挙げておくことにします。 

■井筒俊彦訳「コーラン」(岩波文庫)

■井筒俊彦「コーランを読む」(岩波セミナーブックス/岩波書店)

■井筒俊彦「イスラーム文化」(岩波文庫)

■井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫)

■ルーミー「ルーミー語録」(井筒俊彦訳/岩波書店)

■R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」(平凡社ライブラリー)

■黒柳恒男「ペルシアの詩人たち」(オリエント選書2/東京新聞出版局)

 さて、恒例の引用紹介を。 

昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時がくると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうであろう、と。ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。

やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れ始めたのを観て、男は街に戻っていったのだった。

人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われているのに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともに聞こうとはしなかった。

男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気から奇跡的に回復した男と呼ばれたのだった。(P24-25)

  この話を実際の社会にあてはめてみれば、なかなか背筋の寒くなる話です^^;。はたして、自分はどうなのか?なんて……。

 こうした話がたくさんつまった、なかなか素晴らしい本だと思います。昔話でも読む感覚で楽しく読むこともできて、しかも内容が深い本書は、なかなかのお買い得ではないかと思います。


 ■「気まぐれ読書館5」トップに戻る

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る