風の本棚4

(96/2.26-96/4.27)


老いに関する3冊

神々の指紋

伯家神道の聖予言

エドガー・ケイシー/魂の進化

鳥山敏子「賢治の学校」

司馬遼太郎「この国のかたち五」

黒川紀章「新共生の思想」

山折哲雄「日本人の宗教感覚」

ヨースタイン・ゴルデル「カードミステリー」

エルザ・バーカー「死者Xから来た手紙」

寺田寅彦「柿の種」

「無心と神の国/宗教における<自然>」

 

 

老いに関する3冊


(96/02/26) 

 

■ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するにつれて若くなる」

               (V.ミヒェルス編/岡田朝雄訳/草思社)

■竹内敏晴「老いのイニシエーション」(岩波書店)

■曽野綾子「戒老録」(祥伝社)

 なぜ、今、「老い」を問題にしようとするのか。そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。ここを読まれている方は、まだ二十代〜三十代の方が多いでしょうし、ぼくもまだ三十代ではあるのですが、なぜ、「老い」なのだろうかというわけです。

 上記に掲げた三冊は、新刊というわけでもなく、上の二冊は、ヘッセのものが昨年の四月、竹内敏晴のものが昨年の三月に刊行されたもので、曽野綾子さんのものは、昭和六十三年のものですし、特に、神秘学とは関係するとはいえないのですが、「老い」について考えるにあたってとても参考になるのではないかと思ったのです。

 さて、なぜ「老い」なのかということなのですが、般若心経が先日からここで話題になっていますので、仏教の「生老病死」のなかでは、もっとも地味にもみえる「老」について考えてみるのもいいかなと思ったのと、上記の曽野綾子さんの「戒老録」が書かれる「芽」が三十七歳の誕生日に発していたということなので、先日三十八歳の誕生日を迎えたところでもありますし、普段は考えないそうしたテーマを考えはじめるいい時期かなとも思ったわけです。

 それと、神秘学がらみの話になりますけど、古代においては、「長老」ということが深く意味をもっていたにも関わらず現代においては、それがなぜ意味をもたなくなってきたのかということがあります。古代においては、歳をとることそのものが成長を表わしていたそうなのですが、現代ではもはやそうではなく、それは二十歳頃でストップするそうなのです。ということは、自己啓発を続けないと、むしろ二十歳頃から退化してしまうわけで「老い」を問題にするということは、みずからがいかに成長していくかということに常に取り組んでいかなければならないということでもあるのです。

 同年代の方々の多くを見ていると、確かに二十歳頃で成長がストップしたまま今では、すでに死を待つのみとしか思えない方々が多くいらっしゃいます^^;。「死を待つのみ」というのは、成長できるという意識がなくて、歳とともに身体的な故障をあれこれいうようになっているだけということです。

 幸いぼくの場合は、三十歳を越えて三十五歳くらいになって、やっと成人したかなという感じで、その後のほうが体調もいいようですし、やりたいことも日々どんどんふえていっているものですから、そういう状態が続く限り、「老い」は成長を意味するようで、まさにヘッセの上記の本のタイトルのように「人は成熟するにつれて若くなる」ともいえるような感じなので、ありがたいなあと思っています(^^)。しかし、ぼくがいちばん老け込んでいたのが、二十歳頃でして、ほんとうにそのころは、人生終わってたなあという感が強くありました^^;。今から思い起こせば、なんという愚かさかと思うのですが、今になって思えば、そのころ、ある意味では死んだともいえるので、結果的にはよかったかなという感慨があったりします。

 ということで、個々の本について具体的にご紹介するのもここではできそうもありませんので、参考までに、それらのなかから少しずつ引用紹介させていただくことにしたいと思います。

二十五歳の時、私は何と狭量だったか。狭量さのことを、人々は純粋と言うのだろうか。私はある意味では、暗い育ち方をしたから、幼い時あら純粋であったことなど一度もないような気がする。私は純粋でもないくせに、ただ狭量であった。

それが四十歳に近くなるにつれて、少しそうでなくなった。それは私が、他人の立場を推察できるという技術を、遅まきながら、少しずつ身につけるということができるようになったからであろう、などというと、何という体裁のいいことを言っているのだろうと、われながら思う。つまり、私はそれだけいいかげんになったのだ、いいかげんな自分を容認するためには、都合上他人のいいかげんさも認めなければならない。私はほんの少しだけ、確かにどの人にも、その人がその人である必然的な理由が背後にある、と実感として思えるようになった。

   (曽野綾子「戒老録」P3-4)

人間らしく老いること、そしてそれぞれ私たちの年齢にふさわしい心構えと知恵をもつことは、ひとつのむずかしい技術である。たいていの場合、私たちの心は肉体よりも年をとっているか、遅れているかどちらかである。このずれを修正してくれるもののひとつに、内面的な生の感覚のあの動揺、人生のひと区切りや病気の際に私たちを襲うあの根源的な戦慄と不安がある。これらに対して人は自らを卑小に、無力に感じても仕方ないと私は思う。これは、ちょうど子どもたちが、命にかかわる障害を受けたあと、泣いたり衰弱したりすることによって最もよく平衡を取り戻すようなものである。

・・・

叡智と私たちとの関係は、アキレスと亀の論証のようなものである。叡智が常に先行しているのだ。それに到達するまでの途中は、その魅力を追いかけることは、それでもやはりすばらしい道である。

(ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するにつれて若くなる」P104-105)

肉体は衰える、と一応言ってみよう。だが人間存在全体としての「からだ」は?衰えるのだろうか?

習慣としてのからだとは、人が、なんとか一つの生を安定して成り立たせようともくろむ、一つの詐術である。制度にとりかこまれたそのからだを、解体し組みかえ、新たに生きようとする衝迫は生涯にわたって波のようにくり返し打ち寄せてきたのではなかったか。

老いとは、習慣としてのからだが、気づかれぬままに固化してゆくこと、衰えてゆくことだとすれば、それを内から広げ、やぶり、芽として現われる新しい「からだ」−−それが「いのち」ということだろう。死に至るまで。死もまた、慣習としてのからだの解体なのだろうか。だが、このプロセスを一人で生ききることはほとんど不可能だ。他者とふれあい、ぶつかりあい、支えあって、ようやく実現する−−という言い方自体、甘えでもあるけれども。

               (竹内敏晴「老いのイニシエーション」P182)

 

 

神々の指紋


(96/03/06)

 

■グラハム・ハンコック「神々の指紋」(上・下)(大地舜訳/翔泳社)

 これは、いわゆる古代史ものだが、1513年にコンスタンチノープルでピリ・レイスが作成した有名な南極大陸の地図のことから始めて、ペルー、ボリビア、中央アメリカ、そしてエジプトへとその探索は着実に、古代史のミステリーに迫っていく。神話としてしかみなされてこなかった古代の世界のベールが、確認可能な資料からの仮説の積み重ねを通じて取り除かれていく。

 たとえば、チャネリングものや、ゼカリア・シッチンの著作などのような最初から宇宙人を持ち出す^^;というのではないような、こんなきわめてきまじめなやり方を積み重ねていく著作は個人的にいって、とっても好きだし、読み進めながらも、いっしょに仮説を検証していく楽しさに満ちているので、これまで、こうした古代史ものにあまりふれられたことのない方にはとってもおすすめの1冊、いや上下巻の2冊です。

 とはいっても、最近2冊ほど訳されたゼカリア・シッチンの「人類を創成した宇宙人」(徳間書店)などの著作も、神話の勉強にもなるし、ぼくはこういうのもとっても好きなのです(^^)。

 なにはともあれ、古代史はとっても面白いので、機会があればぜひに。

 参考までに、最初にある、著者から日本の読者へのメッセージを。

『神々の指紋』は日本、そして世界中のすべての国々に深い関係があります。なぜなら、本書は人類の遥か昔の「先史時代」に隠された巨大な謎を解こうとしているからです。その謎とは、1万2000年の昔に想像を超える地殻の変動が起こり、ほぼ完全に壊滅させられた高度に発達した世界規模の文明のことです。(中略)

『神々の指紋』はそれらの研究の成果の最新レポートであり、集大成でもあります。もうすぐ衝撃的な発見があるでしょう。その大発見がある可能性の高い地域は、巨大な遺跡があるエジプトのギザのピラミッド周辺です。ここでは、長期にわたって日本の考古学者も活躍しています。

これから数年の間に、これらの発見は人類の歴史に対する見方を根本的に変えてしまうことでしょう。

  そういえば、エドガー・ケイシーも、たしか1998年に、エジプトのピラミッドから大発見があるというリーディングをしていたようですがそういうのは別としても、歴史は、通常のアカデミックな学者が自分の派閥争いのためにわけのわからない姑息な学説をこねくり回しているのとはまったく異なった広がりをもっているのは確かのようです。

 そして、人類は、忘れ去ってきたそうした自らの歴史を再発見するとともにこれからどう歩んでいかなければならないかも、紡ぎ出していくのではないでしょうか。

 なかなかに、面白い時代になってきた世紀末です(^^)。

 

 

 

伯家神道の聖予言


(96/03/06)

 

■羽仁礼「伯家神道の聖予言」(たま出版)

 伯家神道とは、明治になるまでの神道の主流であったとされる神道の流れで明治においてその流れは途絶えてしまうものの、著者は、出口王仁三郎などもある意味ではそれを継承しているといいます。そして、伯家神道の教えや霊界物語、日月神示、火水伝文などを綴り合わせることで、そこに真のメッセージが見えてくるというのです。

 著者の論は、けっこうアバウトだし、粗雑なものではあるけれども、たとえば、平田篤胤と伯家神道などについても説明しているところや石屋についても、その安易なとらえ方に警鐘を発しているところなどもあり、軽い読物としてはそれなりに参考になるのではないでしょうか。ただ、日月神示と火水伝文を並列的に扱うなどというところは、その言霊の違いがわからない方のようで少しどうかなとも思ってしまうところもちらほらです。

 しかし、本文にも書かれてあることではありますが、伯家神道では日本が2012年に亡びてしまうと予言されているようで、その2012年というあたりは、マヤの暦などでも、大きなサイクルの転換点にあたるとされているなど、そこあたりに、亡びる云々は別として、別な時間の流れが始まるのかななどいろいろ想像してみると楽しいものです。

 ちなみに、ぼくはここ1年半ほど、マヤの暦をベースとしたドリームスペルという暦に興味をもっていてあれこれ勉強していますが、そうした時間の流れのサイクルなどについて、別の文明形態との比較などいてみるのも面白そうです(^^)。

 ま、必読書とはいいかねますが、軽く読む分にはいいのではないでしょうか。

 

 

 

エドガー・ケイシー/魂の進化


(96/03/11)

■W.H.チャーチ「エドガー・ケイシー/魂の進化」

  〜魂の起源からその運命まで、進化する魂の足跡をたどる(中央アート出版社)

 エドガー・ケイシーのリーディングというのは、とっても定評があって、すごく精度が高いので、スピリチュアルなことにあれこれアプローチするにはとっても参考になるのですが、本書は、ケイシーのさまざまにわたるリーディングから表題のように「人間の魂の進化」に関する部分を参考にしながら、著者が人類のたどってきた道のりを、興味深い古代史を中心に解説したとっても物語性豊かな本になっています。

 シュタイナーは、宇宙進化と人間の進化に関して、詳細かつ壮大にアプローチしていますが、エドガー・ケイシーのものがどちからといえばかなりストーリー重視なにに対して、シュタイナーの視点は、非常に認識的なのが特徴になっています。だから、シュタイナーの著作は読みにくいといえばいえるのですが、ケイシーのものだけを読んでいると、やはり認識的な側面が足りないですから、ケイシーのわかりやすさとシュタイナーの認識的な側面とを補いあって読むといいんじゃないかなと思います。

 今回ご紹介している本書などは、そうした意味で、シュタイナーの著作と平行して読みながら、あれこれ想像力をたくましくしていくのにいいんじゃないかなと思う次第です。

 参考までに、訳者(石原佳代子)の「あとがき」から。

本書の主人公はもちろん「ロゴス=言葉」たる「キリスト」だが、実はもう一人隠れた主人公がいる。神に反抗して…天界から追放されたという光の天使ルシファーである。創世記に「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類を惑わす者」と呼ばれたルシファーは、神の子だけに与えられていたはずの自由意志を与えられていたという。

古代の神話や象徴に隠された真実、相関関係を探求しなさい、とケイシーも言っているが、筆者にとってまず興味深かったのは、ルシファーがここで「巨大な竜」と表現されていることだった。(中略)それはおそらく人間という存在の秘密を開示するものでもあるのだ。(中略)さらに面白いのは、悪の大王ルシファーをあらわすといわれる数字「666」が、日本語では三つの六、すなわち「ミロク」と読めるということだ。日本語というのは実に不思議な言葉である。ミロクとは、五六億七千万年後に人類を救うとされている菩薩なのだ。巨大な竜、ルシファーのもつこの二面性。はたしてルシファーとは何者なのか。(中略)

日本神話を見るとその答えもおのずから明らかなように思える。天界から地上界に追放されたという三神の一人、スサノオ。この日本の「ルシファー」は、地上界におりてヤマタノオロチを退治し、人間を救う「キリスト」となる。

神には善も悪もない、とケイシーも言っている。ルシファーとは後世の宗教が切り捨てたキリストの一面にほかならない。スサノオ=キリスト=ルシファーであり、それはひいては「天から堕ちた神々」である人間、「天から堕ちた竜」にほかならないのだ。竜が自らの本性である光に目覚めたとき、内なる天の岩戸が開く。そこで人は進化の本当の意味を知るだろう。

                               (P333-335)

 なかなか興味深いでしょう。もちろん、本文のなかに、スサノオだとかミロクだとかについて述べられているわけではないのですけど。

 最後に、インターネットでケイシーについてあれこれ情報を得るならば、「Edgar Cayce home page」があるといことをつけ加えておくことにします。

■http://www.ip.net/are/cayce.html

興味のある方は、一度のぞいてみてください。

では(^^)。

 

 

 

鳥山敏子「賢治の学校」


(96/03/13)

 

■鳥山敏子「賢治の学校」(サンマーク出版)

 津村喬さんと出されている雑誌「賢治の学校」(世識書房)については、かなり前にご紹介したことがありますが、この鳥山敏子さんは竹内敏晴さんとならんで、ぼくにとっては、言葉や身体をひらいていくための、ほんとうに豊かな視点をいただいた、とっても尊敬している方です。

 鳥山さんは、数年前までずっと小学校の先生をされていて、その間に、「いのち」や「からだ」「ことば」などといった教育にとっていちばん大切なことを、授業を通じて、学び教えてきた方で、それらの記録は太郎次郎社や晩成書房から著作の形で多くを読むことができます。

 今回、こうして刊行された新刊は、「賢治」というテーマを通して、そうした教育にとって必要なことを書き記されたとっても心に、また身体にも沁みてくる、いとおしくなるような本になっています。

 宮沢賢治の童話や詩からは、読み返すたびごとに、驚くほどの新鮮な息吹が感じられ、どきりとさせられ、磨滅しかけていた心に新鮮なものが注ぎ込まれる感覚を味わうことになります。

 この本の帯には「みんなが賢治にかえる、みんなが賢治になる。」と書かれてありますが、たしかにとっても大切なことのように思います。もちろん、賢治は、ある意味では、社会的不適応だともいえますし、また、悪しきものさえを通じた抱き込んだ世界の展開だとかいうことは困難な人だったのは確かではありますが、賢治のもっていた、世界を生き生きと感じとれる感受性は、これは、すべての人がもっていなければならないもののように思えます。

 この「賢治の学校」は、そうした、人間にとっていちばんたいせつな感じ方を深く感じさせてくれるとっても貴重な一冊になりそうです。

 賢治の生誕100年ということで、また全作品の校訂がまた出されていますし、地元の岩手県では、キャンペーンにも登場していますが、そうしたことを、ただただブームにするのではなく、賢治を通して、そこからどれだけ「すきとほったほんたうのたべもの」をもらってたべることができるかを大事にしたいものです。

 では、本文の紹介は、(ぜひお読みいただきたいので遠慮して^^;)津村喬さんの寄せられた巻末にある文章から少し。 

賢治がもう一度大きな注目を浴びつつある生誕百年に向けてこの本が出されていくことを私は本当によかったと思う。この一冊がなかったら、というとオーバーかもしれないが、賢治はただの「文豪」として商品化されて終わってしまいかねない。だが鳥山敏子の「からだ」によって、賢治は二十世紀末のほかならぬこのときの、阪神大震災やオウムの事件やもんじゅの事故の時代の、自分の勤める会社と波長が合わずに苦しんでいる男たちや、夫の有形無形の暴力との戦いに疲れはてている女たちや、過酷な競争とイジメの泥沼のなかでもがいている子どもたちのかけがえのない兄貴分として姿を現わすのである。私たちは賢治を、評価したりアラさがしをしたりほめたたえて大明神にしたりしたいのではない。私自身の、いじけて閉じてしまったからだをもっとのびのびと開き、感受性を雲までとどかせるのに賢治のことばが役だってくれるというだけのことで、偉いの偉くないのということではない。そのことがいまとても切実な課題だから「賢治の学校」は出現してきたのであって、むろんそれはシュタイナー学校やニイルの学校などと同様、仮の名前である。「人間の学校」でもいいし、「万物の学校」「衆生の学校」でもいいのだ。星の数ほど「賢治の学校」を、というのは夢物語のように聞こえるかもしれない。しかしこれは何かのイデオロギーでたくさん支持者を増やそうというのでもないし、儲けのためにチェーン展開をしたいという話でもなく、ただ賢治のような感性をもった「からだ」に気づき、学びを持ち寄って親たち、子供たち、教師たちのいのちの場をお互い支えあってつくっていこうという呼びかけであるから、賢治のことばにふれてからだのなかに動くものがあった人の数だけ「賢治の学校」がそこからはじまっていっても少しもフシギはないのである。だれにとっても「それ」が起こるというのは、実はそんなにむずかしいことではない。賢治の作品を声に出して読んでみたり、しぐさにしてからだで演じようとするだけで、びっくるするほどの気づきがある。子供たちのような、原始人のような、と鳥山さんはいっている。それは外から学ぶものというより、自分のなかから思い出すことなのだ。この本を読んで、たくさんのことを思い出してほしいと思う。

  そう、「自分のなかから思い出すこと」。竹内敏晴さんに「ことばがひらかれるとき」という名著がありますが、まさに、「ことば」も「からだ」も「ひらいて」いけば、「思い出す」ことができるように思います。

 「思い出す」ために、一読を(^^)。

 

 

 

司馬遼太郎「この国のかたち五」


(96/03/17)

 

■司馬遼太郎「この国のかたち五」(文芸春秋)

 

「この国のかたち」のシリーズは、楽しみに読んでたので、

この五巻目でたぶん終わりになるかと思うと少し寂しい気がします。

 

今回のテーマは、「神道」「朱子学」といった

日本人の精神史を考えるうえでは非常に興味深いもので、

今回もあっと言う間に読み終えてしまいました。

最後に、「人間の魅力」というテーマで語られたものの記録も

収録されていて、その中で語られている坂本龍馬、吉田松陰、

大村益次郎、高田屋嘉兵衛などの話に、あらためて、

まさに「人間」が歴史のなかで生きている面白さを感じることもできました。

 

司馬遼太郎さんの歴史観に、神秘学的な視点を取り入れれば、

ものすごく面白いと思うのですが、無い物ねだりだともいえます。

もしそういう視点が入っていれば、これほどの受け入れられ方は

まず望めないものだというのもおそらくは正しいという気がしますから。

 

しかし、歴史は、単に民族の継承のような直線的な見方では、

ほとんどそのかたちだけしか見えてこないように思います。

人の転生というのは、ある役割をもってさまざまなところで行なわれ、

それによって、ある国の、ある地域の歴史が形成されていきます。

 

日本の歴史も、その時代によって、そこで活躍する人間は

さまざまな色彩をもっているわけですし、

今も、そしてこれからもある時代を形成するべき人たちが

ある霊的関連のもとにこの日本に生まれ変わってきます。

 

そういう視点をもって見ていけば、民族主義的な偏狭さから

自由でいることもできますし、

また、そこで育まれてきたものの意味を深くとらえることも

できるように思います。

 

これからの私たちの課題というのは、単なる人類学的な歴史観を越えて、

そうした霊学的な観点を身につけていくことではないかといえないでしょうか。

そういう視点において、司馬遼太郎の残した歴史観を、

「再構築」していく作業の重要性がでてくるんだと思うのです。

 

 

 

 

黒川紀章「新共生の思想」


(96/03/22)

 

■黒川紀章「新共生の思想/世界の新秩序」(徳間書店)

 

 この本は、言わずと知れた黒川紀章の「共生の思想」のニューバージョンです。この「共生の思想」が最初に刊行されたのは、1987年のことといいますからもう10年近くが経っているわけですが、その間に、この「共生」という言葉はかなり広まってきたように思います。そうしたなかで、これまでの「共生の思想」をさらに深めながら、かなり構成を変え、新しい内容をつけ加えたものが、今回の「新共生の思想」として刊行されたわけです。

 黒川紀章は、もちろん現代を代表する建築家の一人として有名で、その独特の視点から、新しい時代のための機軸となるコンセプトを「共生」ということで提示し、それがひらくビジョンを展開してます。そのコンセプトは、けっこう魅力的で、一読の価値はありますが、その反面、けっこう薄っぺらな理想論である側面もあるようで^^;、そこらへんを考慮しながら、ネタとしてとらえていくのが、いいかもしれません。

 ただ、この本のまえがきに提示されてある次のような観点は、「中道」といこととも関係して、重要なものだと思えますので、ご紹介かたがた、確認しておこうと思います。

●共生とは対立、矛盾を含みつつ競争、緊張の中から生まれる新しい創造的な関係をいう。

●共生とはお互いに対立しながらも、お互いを必要とし、理解しようとするポジティブな関係をいう。

●共生とは、いずれの片方だけでは不可能であった新しい創造を可能とする

●共生とは、お互いのもつ個性や聖域を尊重しつつ、お互いの共通項を広げようとする関係である。

●共生とは、与え・与えられる大きな生命系のなかに自らの存在を位置づけるものである。 (P6-7)

 引用のために書きうつしながら、こうした考え方とうのは、とっても大事だなあと改めて感じました。もちろん、こうした考え方をもっと神秘学的にとらえていく必要があるというのが、ぼくの基本的な考え方の枠組みなわけですけど。

 とにかく、けっこう勉強になる本であることは間違いないですので、700ページ近くになる分厚い本ではありますが、一読の価値ありです。

 ちなみに、「共生の思想」の英訳版も全文が収められている黒川紀章のインターネットのホームページがありますので、お暇な方はのぞいてみられればいかがでしょうか。

 ■http://wwwl.sony.co.jp/KUROKAWA/

 では(^^)。

 

 

 

山折哲雄「日本人の宗教感覚」


(96/03/22)

 

■山折哲雄「日本人の宗教感覚」(NHK人間大学テキスト)

 この4月からNHKの人間大学でのテキストです。神秘学的に見るとかなり不十分な宗教観ではありますが、いわゆる学者の描く「日本人の宗教感覚」についていえば、とってもいい線いっているのではないかと思いながら読み終えました。

 テキストのなかから、ふたつほど重要な視点をご紹介しながら、それについて少しばかりお話してみようかと思います。おそらくは、このテキストをネタに、テキストとはかなりかけはなれたことをお話することになるでしょうけど、ま、参考にしていただければ幸いです。 

日本人は、仏教からは無常観と浄土観を、そして空や無のイメージを受け入れ、それにたいして儒教からは自己修養、西洋からは個人主義をそれぞれ積極的に受容して、それらをうまく重層化させながら、みずからの人格形成に役立ててきたのではないでしょうか。

ただ問題なのは、それらが互いにどのように重なり合い、どのような形でふれあっているかが、もう一つはっきりしないということです。けれどもこれらの思想的特質がともかくわれわれの人生観や世界観のうえに、陰に陽に作用していることだけは確かなようです。

そしてここが大切なところですが、これらの三系統の思想的要因を、われわれの意識の底の方で支えているのが神道的な感覚ではないかと私は思っています。神道というのはまことに不思議な世界で、宗教ともいえないような、思想ともいえないような、極度に柔らかな自然感覚にみたされた世界なのですが、しかしこの柔軟この上ない自然との神道的な共鳴感覚が日本人の世界観を大きく押し包んでいることに注意しなければなりません。(P117)

  日本は裏ユダヤだということがいわれたりします^^;。その意味をぼくなりに考えたところをいいますと、ユダヤ民族というのは、本来、それまでの人類のもつあらゆる要素をあわせもっていた存在で、そこからイエス・キリストがでてきたわけです。そして、その時点で、ユダヤ民族はその使命を基本的に終え、その後は、民族性を解消していく必要があったのだといいます。しかし、現実にはそうならず、それゆえに、大きな火種になってしまいました^^;。

 それはともかく、日本が裏ユダヤだというのは、ある意味では日本人も人類のもつあらゆる要素をあわせもっている存在で、それゆえに、「外から」くるさまざまな要素を受け入れながら、この日本という坩堝のなかで溶かしていくことが可能になったわけです。

 上記の引用にあるような「神道的な感覚」というのは、かつて神的なものとつながっていた時代の感覚で、そういう感覚を、他の民族のようには捨て去らないままに、さらに、先の裏ユダヤ的な「血」をも加えながら今に至っているように思います。

 しかし、この日本には、イエス・キリストはでていません^^;。おそらく、今の日本には、かつての「キリスト衝動」のようなあり方がまた別の形で起こらなければならないのではないか、それが「裏ユダヤ」ということの意味ではないかというのがぼくの考えです。

 さて、次のポイントです。 

最近、われわれの周辺に「共生」という言葉が氾濫するようになりました。地球環境の問題やエコロジーの思想に絡んで意識されるようになった用語ですが、これはさきにのべた宗教世界における多元主義が日本の土壌に伝統として育ってきたからこそ、自然にいわれ出すようになったのかもしれません。その意味で、「共生」という言葉はまさに日本産の日本語という性格をはじめからもっていたといっていいでしょう。

しかし「共生」だけでは、私は人生観としても宗教観としてもきわめて不完全なものだと思います。なぜならそこには、生きることだけに執着するある種のエゴイズムの匂いを感ずるからです。それにたいして、「共生」という思想は「共死」の思想に裏づけられてこそ、はじめて本物になるのではないでしょうか。この場合、「共死」は無常観とも深くかかわっているはずです。空や無の感覚ともつながっているでしょう。そしてその場面においてはじめて、日本人の本来の宗教観は完結した像を結ぶのではないでしょうか。日本的な「修養」や「個人主義」という観点からみても、共に生き、共に死ぬということがあってはじめて人間の成熟した人格形成が可能になるという人間観が抱かれるようになったのです。(P119)

 黒川紀章の「新共生の思想」もご紹介しましたが、確かに、「共生の思想」には「共死の思想」はないですよね^^;。上記引用の「共生」に、「共死」という観点を加えるということはなかなか鋭いなあと関心させられました。

 ただ、どうも、そうした「生」と「死」に関するもっとうがった観点はなくて、かなり漠然としているのが今いち物足りないところでしょうか。

 最初の引用部分に関してもそうですが、神道について語られると、どうも過去向きの宗教観になってしまうようです。これは、縄文だとかいうことについて語る梅原猛さんなどについてもいえるのですがやはり、過去どうだったかということを回帰的に問題にするのではなく、過去は過去としてその意味を理解しながら、今、そしてこれからはその課題が、どう変化しているのかなどを問題にしていかなければいけないのではないかと思うことが多いです。

 ともあれ、このテキストは、「日本人の宗教感覚」について考えていくにはとっても読みやすくわかりやすいものだと思いますので、お暇な折にでも立ち読みなどされてみてはいかがでしょうか。

 

 

ヨースタイン・ゴルデル「カードミステリー」


(96/03/31)

 

■ヨースタイン・ゴルデル「カードミステリー」(徳間書店)

 ヨースタイン・ゴルデルといえば哲学小説としていまだ話題になっている「ソフィーの世界」の作者なのですが、この著者が「ソフィーの世界」の前に発表した作品がこの「カードミステリー」です。

 「ほんとうに面白い小説」としてヨーロッパ各国で話題を呼んだということですが、読み始めて、あっと言う間に読み終えてしまったほどの面白さでした。いや〜、こんな面白い話は、そう見つからないなあというのが正直な感想です。

 この「カードミステリー」よりも面白かったお話で、思い出すのはミヒャエル・エンデの「はてしない物語」とハンス・ベンマンの「石と笛」といった素晴らしい物語くらいでしょうか。「ソフィーの物語」もそれなりに面白かったことは面白かったのですが、最後のあたりで少ししらけてしまって、もう一歩だったのに比べて、今回の「カードミステリー」は、最後までとってもわくわくしながら読めました。

 最後の「訳者あとがき」にもあるように

ノルウェーの批評家は、この作品は『ガリバー旅行記』と、『ニルスの不思議な旅』と、『不思議の国のアリス』の面白さを合わせ持っている、と評しました。  

 というのが、なるほどなという感想です。しかし、それよりも、著者が「日本の皆様へ」のなかで言っているように 

ご承知のように、トランプ一組には、52枚のカードと一枚のジョーカーがあります。ジョーカーはハートでも、ダイヤでも、クラブでも、スペードでもありません。いわば、よそ者です。でも、よそ者だからこそ、なじみのない現実を見て驚き、考えに考えて、ほかのカードには真似できない力を発揮します。私たちも生まれたときは、この世を初めて見る『よそ者』でした。つまり、ジョーカーだったのです。ですから、ジョーカーの要素は、誰の中にも残っているはずです。私たちの中のジョーカーをよみがえらせれば、きっと今まで見えなかったこの世の絆が見えてくるに違いありません。そして、新たな疑問が湧いてくるでしょう。

  というのが重要なテーマだと思います。

 あらためて考えてみれば、ぼくにとってっも「神秘学徒」であるということは常に「よそ者」、シュタイナーのいう言葉でいえば「故郷喪失者」である「ジョーカー」であるということではないかと思います。人は、本来、そうしたジョーカーであるはずなのに、その可能性があるはずなのに、次第次第に、この世の常識、「そういうものだ」に溺れていき、ロボットになってしまいます。そうならないためには、常に「なぜ」を内的自由意志の証として次々に湧き起こらせなければなりません。

  そのことを強く感じさせられるとともに、とにかく、とっても面白くてしかたのないお話がこの「カードミステリー」です。ぜひぜひ、ご一読を。

 

 

 

エルザ・バーカー「死者Xから来た手紙」


(96/04/03)

 

■エルザ・バーカー「死者Xから来た手紙」(キャシー・ハート編/同朋出版社)

 いわゆる自動書記ものですが、これは、1914年にロンドンで刊行された幻の書の復刻版の翻訳です。詩人・小説家エルザ・バーカーの手から、死者Xからの53通の手紙が届くというもの。Xというのはデイヴィッド・パターソン・ハッチという哲学にも造詣の深い判事で、死後まもなく、そこでの見聞などを話していくというものです。

 内容的にはそう深いことが語られていることではないのですが、死後の最初の基本的なところをきちんとおさえながら、ルポ風に書かれていていわゆる「死後の世界」についての理解を求めていくという意味では、ある意味では最良のもののひとつなのではないかと思います。

 シュタイナーの「神智学」という著作がありますが、この本を理解するための導入としてでも読まれれば、抵抗感が少なくていいのではないでしょうか。

 しかし、こうしたいわゆるスピリチュアリズム関係の本などを読むにつけ、シュタイナーの遺した膨大な著作や講演集などは、霊的世界だけではなく、この地上世界やその両者の関係などもふくめて、その全体像と個々の詳細なあり方という双方の深い認識を得るにはこれ以上のものは望めないほどのものなんだろうなということがわかります。おそらくは、死後もここまでのものはなかなか認識しがたいのだと思うのです。このご紹介した本でも繰り返し述べられているように、死んだからといって死後の霊的世界のことが理解できるわけではなく、ある意味では、今こうして地上にいる間に、基本的な認識がなければ死後もそれに応じた認識のままにまた生まれ変わってくるだけのようですから。

 さて、この本の最後のほうの部分から、重要なところをいくつかご紹介させていただくことにします。

おのれの魂を熟知しなさい。自分はなぜこういうことをするのか。なぜこう感じるのか、その理由を知らなくてはいけない。どんなことでも疑問が生じたら、黙って腰をおろし、真実が心の奥底からわき上がってくるのを待つことだ。自分の中にどんな動機があるのか、常に考えなさい。「わたしはこれこれの理由により、こういう行動をとらねばならない。よって、わたしはその理由のためにこれをする」などと言ってはならない。そういう論法は自己欺瞞だ。親切なことをすることきには、なぜ自分はそれをするのか考えなさい。そうすれば、親切な行為にさえ、自己探求という隠れた動機があることがわかるはずだ。そういう動機に気づいたら、自分に対しそれを否定してはいけない。その動機を、しっかり自覚するのだ。といっても、わが家の壁にでかでかと書いて宣伝する必要はない。そうやって、自分の動機をひそかに自覚していれば、他人がどういう動機をもっているのか考えるときに、共感や思いやりを深めることができるだろう。

常に理想を求めるように努力しなさい。ただし、感情について考えるとき、本当は理想的でない感情にまで、理想的だというレッテルを貼ってはいけない。自分に正直になることだ。その勇気がもてるようになるまでは、自己の魂を探求しても、進歩はほとんど望めない。(P238-239)

努力の喜び!それが永遠の命の根幹であり、力の根幹なのだ。地上の人々には、これを最後のことばとして贈りたい。彼らに伝えてほしい----努力することを楽しみ、組み合わせと創造の無限の可能性に胸ときめかせ、未来に備えつついまの瞬間を生きろ、いっときの挫折や失意にとらわれるな、と。

彼らがこちらに来て、それまでに過ごしたいくつかの人生を正しく理解すれば、自分の悩みの種は大部分が些細なもので、どの光もどの影も人生を作り上げるには不可欠だったと気づくだろう。(P243)

  引用部分が、霊界もののイメージからは遠いものになっていますが、人間は、生と死を貫いている存在なのだから、ある意味では、そうとりざたすることでもないのかもしれません。もちろん、基本的な認識があることはどうしても必要なことなのですが。

 ともあれ、なかなか元気のでる本なので、神秘学のイントロ的な入門としてお勧めしたいなあと思う1冊です。

 

 

 

寺田寅彦「柿の種」


(96/04/22)

 

■寺田寅彦「柿の種」(岩波文庫)

 寺田寅彦の随筆は、ぼくにとっては高校時代から、おりにふれて、深い共感とともにつきあってきたともいえるもので、今回、岩波文庫に加えられた一冊は、その親しみをさらに深めてくれるものとなりました。

 この「柿の種」は、大正八年頃から昭和十年頃までの間に、俳句雑誌「渋柿」の巻頭一ページに「無題」として載せられた短い「即興的漫筆」を集めたものなのだそうですが、その短い文章のなかに、寺田寅彦らしさがにじみでてくるように感じます。さりげなさのなかに深みを見せるいい文章でもあります。

 今回、ひさしぶりに寺田寅彦の書いたものを読んでみて思ったのですが、予想をこえて、自分との、考え方、感じ方が近いなあと驚いています。いや、むしろ、正確にいえば、ぼくが寺田寅彦の影響を受けていて、それに育てられてきたといったほうがよさそうです。

 以下、その最初の一編を。

日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。このガラスは初めから曇っていることもある。

生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。

二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴がひとつ明いているだけである。

しかし、終始ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。

ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。

それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。

穴を見つけても通れない人もある。

それは、あまりからだが肥り過ぎているために……。

しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。

まれに、きわめてまれに、天の焔を取って来てこの境界のガラス板をすっかり溶かしてしまう人がある。

 物理学者であった寺田寅彦は、科学と芸術、そして宗教をともに見ていこうとしていた人であった。そうぼくは基本的にとらえているのですが、この引用箇所などは、そこらへんのエッセンスの部分を表わしているようにも感じます。

 一編一編が味わい深いこの文庫を鞄の隅にでも放り込んでおいて、おりにふれて、一編ずつを読みながら、そこから、自分の感受性を磨くために使ってはいかがでしょうか。

 

 

 

 

「無心と神の国/宗教における<自然>」


(96/04/27)

 

■八木誠一+秋月龍みん「無心と神の国/宗教における<自然>」(青土社)

 八木誠一はキリスト教からのアプローチ、秋月龍みんは仏教、特に禅からのアプローチということで、宗教の根底にある問題を対話によって探ろうというシリーズはこれまでに以下の6冊ほど出ていますが、今回はその7冊目。

●「歴史のイエスを語る」(春秋社/1984)

●「般若心経を語る」(講談社/1985)

●「キリスト教の誕生」(青土社/1985)

●「親鸞とパウロ」(青土社/1989)

●「禅とイエス・キリスト」(青土社/1989)

●「ダンマが露わになるとき」(青土社/1990)

 これまでも非常に興味深いテーマが語られていましたが、今回は、これまでにもまして重要なテーマが語られています。

 帯にある紹介でいうと、こういった内容になります。

イエスの<アウトマテー(おのずから)>、親鸞の<自然(じねん)>、禅の<無心>などを手がかりに、宗教における<あるがまま>の概念をあとづけ、<絶対受容>が示す信仰の深みをたどり、宗教における根源的なものの境位をさぐる、仏教とキリスト教の宗教哲学対話。

  この対話で重要なキーとなるのが、これまで福音書でもあまり注目されてこなかったイエスの「天は地で実を結ぶ」「地がおのずから実を結ぶ」という言葉。通常は、天と地を結ぶというテーマは、キリスト教ではほとんど無視されてきたとさえ思われますし、またその「おのずから(アウトマテー)」ということも注目されませんでしたが、それこそが、親鸞の「自然法爾」や禅の「無心」ということと非常に近いとらえかたなのだということが、興味深く語られています。

 今回の対話のなかで興味深い部分をひとつだけ引用しておくことにしましょう。

八木

この前の対談『ダンマが露わになるとき』の中で問題になったと思うのですけれども、パウロにおける「自己」ですね。つまり「私の中に生きているキリスト」を「自己」と押さえたわけですけれども、これは同時に神的であって同時に人間的であると。対象的なキリストではなくて「私の中に生きているキリスト」ですから、神的であって同時に人的、あるいは天的であって同時に地的だということになるのですね。ということは、「自己・自我」と言った場合の「自己」が同時に、単なる個を超えた超越性を持っていながら、しかも身体的に内在的である、むしろ身体的である、つまり同時に神的であり人間的であるという二重性を持つということですね。これは「聖なるもの」ということです。自我だって自己を映す限り、もちろんそういう性格を持ってくるのですけれども、まずは「自己」を「天的・地的」、あるいは「神的・人間的」と押さえて、露わになった自己のことを「うちなるキリスト=ロゴスの受肉したもの」と、この前に言ったと思うのですね。

秋月

その場合もしかし、天と地の矛盾はあるわけですね。

八木

ええ。矛盾があって、しかもそれは一なので。あるいは言い換えてみれば、自己なら自己というものを我々が分別的に考えると、同時に天的でしかも同時に地的であると言わなければならない。これは不可分・不可同です。

秋月

ちょうど大拙先生が同じようなことを言っておられるのです。『日本的霊性』の中で大地性ということを言い出しておられるのですが。この場合でもやっぱり、天と地ということを言いながら、大地性を言っているのですね。人間は大地において天と地ということを生きるのだ、というような言い方をされているわけなのですね。ちょうど大拙の言う大地性という言葉もやっぱり、天と地ということを押さえた上で大地と、こう言っているのですね。だから理屈っぽく言えば、天と地という矛盾があって、そこで大地という天と地の矛盾の自己同一が出てくると。その大地においてはじめて人間が人間であり得るという構造と、いまおっしゃった「地」の構造とがほとんど同じように響くものだから。ちょっとそれを言ってみたわけなのですけれどもね。(P111-112)

 人が天に近づくためには、己を空しくしなければなりません。しかし、人はこの地上で自我を持ってはじめて人間といえます。そこで、「天は地で実を結ぶ」ということが重要になってきます。天は天、地は地というふうに切り離されているものが、人間のなかで結ばれるというわけです。そして、その結びのためには、自我を空ずる必要がある。最初から、自我なしでいくというのではなく、自我がありながら、その自我において「自己」に目覚めるといいますか・・・。それが「私の中に生きているキリスト」ということでもあります。自我を器にして、そこに神性を注ぎ込むことのできる聖杯にするということもそれと近しいテーマです。

 このテーマは、シュタイナーの神秘学においても、根幹をなすテーマのひとつであるともいえます。先日からSTEINER FRAGMENTSで少しずつご紹介しようとしているのも言ってみれば、こうした「天と地の結び」ということを具体的にさまざまな側面から、宇宙進化論的にアプローチしようというものでそれこそが、「新たなるイシスの探求」ということになります(^^)。 

 機会があれば、ぜひ一読をおすすめしたい一冊です。シュタイナーと西田幾多郎の思想の共通基盤を観ていくという意味でも、大変参考になると思います。


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