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 (2001.12.12-2002.1.19)


●甲野善紀・前田英樹『剣の思想』
●中山市朗・木原浩勝『捜聖記』
●ノヴァーリス全集
●恩田陸『黒と茶の幻想』
●梨木香歩『からくりからくさ』
●中沢新一『人類最古の哲学』
●綛野和子『日本文化の源流をたずねて』
●小林直生『死ぬことと生きること』
●鎌田東二「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』精読」
●高橋明男『ゲーテからシュタイナーへ』

 

 

風の本棚

甲野善紀・前田英樹『剣の思想』


2001.12.9

 
■甲野善紀・前田英樹『剣の思想』
 (青土社/2001.10.30発行)
 
「剣」といえば、「忍術」「忍者」とともに、
小さい頃から漫画や小説、映画、ドラマなどの影響もあり、
その世界に、あこがれではあまりないけれど、人並みの?興味だけはもっていた。
 
その後、宮本武蔵の『五輪の書』や沢庵の『不動智神妙録』、
そして大森曹玄の『剣と禅』、それからヘリゲルの「日本の弓術」など
武術・武道に関するさまざまを通していろいろ考えてきてはいるのだけれど、
今回の『剣の思想』は、またそれらとはちょっと異なった角度から
それらがとらえられていて興味深いものとなっている。
そういえば、HPに今読めばばかばかしいほどに稚拙ではあるけれど
「武術論」というので書いたものをまとめたのがあることを思い出した(^^;)。
いちおう、関心だけはある、という意思表示以上のものではないのだけれど…。
 
さて、本書は、古武術研究家で武術家の甲野善紀と
新陰流剣術の使い手であり
フランス思想・言語論を専門としている前田英樹との
「剣」をめぐる往復書簡。
現代思想の2000年7月号から2001年6月号に連載されたもの。
 
甲野善紀については、いつくかその著作を読んだことがあるのだけれど
前田英樹という学者にして新陰流剣術の使い手である方のことは
名前くらいしか知らなかったので、
その両者の往復書簡とは?ということで読み始めた。
 
帯の紹介に、「根源的武術論」とあり、
 
        戦国時代に突如として結晶した太刀筋という無限の体系ーー。
        我と敵との<身の自然>を超えて実在する晴れやかな世界を
        開示する。
 
とあるので、自分では剣道をすこしだけかじったくらいで、
武術についてはほとんど無知なぼくにしても、
やはり興味をそそられてしまったわけである。
その「我と敵との<身の自然>を超えて実在する晴れやかな世界」とは
いったいどういう「世界」なのだろう?
 
読み進むうちに、たとえばスポーツと剣術を比べた「歩くこと」について、
「道」と「術」について、型の稽古と模擬実践について、
根源の「太刀(かた)」についてなど、
さまざまな点で示唆されることが非常に多く、
読み終えてからしばらく経っていてどうしようかとも思ったのだけれど、
やはりご紹介だけはしておこうと思った次第。
できれば、これからいくつか「トポスノート」にも
それらのテーマについてとりあげながら、
いっしょに考えていくためのヒントにできればと思っているところである。
 

 

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中山市朗・木原浩勝『捜聖記』


2001.12.22

 
■中山市朗・木原浩勝『捜聖記』
 (角川書店/2001.12.5発行)
 
『捜聖記』は、「そうせいき」と読む。
「聖徳太子」を「捜す」「記録」のこと。
(「創世記」と読みが同じなのが面白いですね)
「本作品はフィクションです」とあるものの、
ぼくがこれまで聖徳太子について読んだもののうちで
これほどどきどきしながら興味深く読めたものはない。
聖徳太子関連の神社仏閣やその由緒書をガイドに、
丹後半島などを歩き、膨大な資料をもとに
浮かび上がってきた事実?とは・・・。
 
本書の視点は、アカデミックな研究の貧しさにとらわれることなく、
だからといってだたの憶測だけを暴走させるのではなく、
いろんなアプローチの可能性を想定しながら
より整合性のある視点を「捜」していこうとしているもので、
最後まで読み進めても納得できるものとなっている。
そしてそれが「フィクション」としてアレンジされているのも
なかなか心憎いところ。
 
ちょうど先日丹後半島に出かけ
「間人」という知名、鬼、竹野神社、籠神社などに
興味をひかれていただけに、
それらの聖徳太子との関連が見えてきたのも
本書を読んだ大きな収穫といえる。
 
日本の古代史を見ていくためには、
秦氏、そして百済と新羅がキーになるだろうなと
以前から注目しておりにふれて調べていたのだけれど、
聖徳太子を見ていくためにもそれがポイントになっている。
 
高校の頃、広隆寺の半跏思惟像に魅せられたことがあるのだが、
それは百済から伝えられたとされている。
しかし、その半跏思惟像は、
新羅における花郎の弥勒信仰からつくられたもので、
百済では見られないものだという。
 
        「俺が思うに、その百済の学者たちにょる『日本書紀』編纂の意図の一つは
        聖徳太子を仏教の聖人に仕立て上げることだったと思うんだ。山背大兄皇子
        以下、上宮家殺しを図ったのが蘇我入鹿だろ。その入鹿の首を刎ね、蘇我を
        滅ぼしたのは中臣、後の藤原氏。このクーデターが大化改新だ。で、そのク
        ーデターの合理性を藤原氏は上宮一族の弔いだったと位置づけた。藤原は滅
        ぼした蘇我の仏教政策をそのまま引き継ぐことになるから、入鹿を悪者にし
        て上宮家の仇という大義名分の下で殺し、蘇我に代わって正統なる聖徳太子
        の仏教を引き継ぐ権利は我々藤原一族にあるんだと公明正大に主張した。そ
        れが『日本書紀』だったと思うんだ。だから聖徳太子を徹底的に仏教の聖者
        に仕立て上げる必要があった。思うに、小姉君を稲目の娘としたカラクリは、
        ここにあったんじゃないかな。そうすると聖徳太子は正統なる蘇我の血を引
        く皇子ということになって、血統的に蘇我仏教の聖者としての疑問の余地が
        なくなる。そしたら、同じ蘇我なのに、聖徳太子一族を皆殺しにした蘇我は
        許せない、同族殺しに仏教徒としての資格なしと、藤原氏の正当性を前面に
        押し出せる。聖徳太子が仏教の聖者であればあるほどこれが都合よくなる。
        しかし実際は、太子は海部の血を引く神道派から出た皇子であり、外交も新
        羅に向いていた。となるとそれをそのまま書いたんじゃ、仏教の聖者はなり
        たたない。そこでまず、太子の新羅外交の痕跡を消す必要があった。太子が
        蘇我仏教の聖者なら、その外交先は百済でなきゃならない。だから「書紀」
        で反新羅の太子を創作して、同時に聖徳太子の寺の弥勒半跏像の脇に薬師如
        来や阿弥陀を置いて、百済仏教化して行った。ここに『書紀』編纂に関わる
        新羅憎しの百済の学者たちとの思惑の一致があったんだと思う。しかも太子
        の外交の先には、母国百済を滅ぼした憎き新羅軍、その新羅軍を率いたのが
        花郎の金ゆ信であり、その信仰に弥勒があったんだ」(P275-276)
 
日本の古代史においては、
百済系の勢力と新羅系の勢力が争っていて、
天皇の多くもそのどちらかの系列に属していることが多いようである。
天武天皇と天智天皇も前者が新羅系、後者が百済系、
聖武天皇と桓武天皇も前者が新羅系、後者が百済系である
ということを別の本でも読んだことがある。
源氏と平氏にしても、その二つの勢力を代表するものとして見れば
いろんなことが見えてくるかもしれない。
今の天皇は百済系だともいえるのだけれど、
おそらくその裏には新羅系の流れがあって、
その二つの流れによって日本の霊的磁場が形成されているようにも見える。
たとえば、伊勢神宮の外宮と内宮のこともそれに添って見てみると
そこにある「型」があるようにも思う。
 
本書には、かつて母系の継承だった天皇のこと、
聖徳太子と牛信仰のこと、ミトラとの関わりなど、
さまざまなテーマが満載されていて、
こういう紹介ではわずかなことしかご紹介できないが、
今後おりにふれて見ていくことにしたい。
 

 

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ノヴァーリス全集


2001.12.28

 
待望のノヴァーリス全集が刊行されました。
現在は全3巻のうち以下の2巻まで刊行されています。
おそらく第3巻は、これまでも訳のあった
「青い花」「ザイスの学徒」だと予測されます(実際は?)ので、
これまでほとんど日本語で参照することのできなかった
「断章と研究」等、ノヴァーリスの遺した作品の全体像が
現時点でほとんど参照できることになりました。
 
■ノヴァーリス全集1
 (沖積舎/平成13年9月7日発行)
 収録内容
 ・初期詩篇・ゾフィー詩篇・フライベルク詩篇・後期詩篇
 ・夜の讃歌・賛美歌・さまざまな覚書・信仰と愛または王と王妃
 ・対話と独白・キリスト教またはヨーロッパ
 
■ノヴァーリス全集2
 (沖積舎/平成13年11月22日発行)
  収録内容
 ・断章と研究(1797年まで)/断章・フィヒテ研究・ヘムステルホイス研究
 ・断章と研究(1798年)/より高次の知識学のための断章・詩
  ・唯詩論・さまざまな断章もしくは難問・テプリッツ断章
  ・テプリッツ断章への補遺
 ・フライベルク自然科学研究(1798-99年)
 ・断章と研究(1799-1800年)/断章と研究I・自然学、医学に関する覚書
  ・断章と研究II・断章と研究III
 
この翻訳は、ノヴァーリス研究会(青木誠之・池田信雄・大友進・藤田総平)
によるもので、10年を超える時間を要しているということです。
 
「神秘学遊戯団」のHPでも「ノヴァーリス・ノート」を書いていますが、
そのベースになっている中井章子さんの「ノヴァーリスと自然神秘思想」(創文社) と
あわせて読むことで、(特に第2巻)ノヴァーリスの構想を見わたすことができます。
このノヴァーリスの構想は、人智学の源流ともなっているものであり。
シュタイナー理解のためにも、必須のものだともいえますので、
この翻訳は日本においてもシュタイナー理解のための
非常に重要なエポックになるといえるかもしれません。
何かと世界中が騒然としていると見える
21世紀の最初の年に刊行されたというのも意味深いことかもしれません。
 
あらためて断章・研究の数々を読んでみると、
その短い言葉のなかに人智学のきらめくような種子が見えてくるようです。
たとえば、思いつくままに開いてみると、
断章と研究(1798年)に、こんな言葉が見つかります。
 
        40 世界はロマン化されねばならない。
 
        44 われわれは自分自身を理解したとき、世界を理解することになる。
        われわれと世界は相互補完的な半身どおしだからである。
 
        47 人間になること、それはひとつの芸術である。
 
        56 人間とは何か。霊の完璧な比喩である。したがって真の伝達はすべて
        比喩的である。
 
        59 人間とはわれわれの惑星がそなえる高次の器官、地球を上位の世界と
        結ぶ神経、地球が天に向ける自然なのだ。
 
なお、ドイツ語の原文に関しては、ドイツのネット(ドイツのGutenbergプロジェクト)
を検索すれば容易に無料で手に入りますので、原文の参照もできます。

 

 

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恩田陸『黒と茶の幻想』


2002.1.5

 
■恩田陸『黒と茶の幻想』
 (講談社/2001.12.10発行)
 
最近、『光の帝国』などもテレビドラマになっていたりするが、
ここ数年の恩田陸の精力的な執筆は驚くほどのもので、
ここ1年ほどのあいだに刊行されたものだけでもかなりの数になる。
 
しかし、現在のところなぜかいわゆる「賞」とはほとんど無縁のようで、
最初の作品の「六番目の小夜子」が、
日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作となっているくらいのようである。
だから、「賞」と作品の関係というのも水もので、
参考程度というくらいにとらえておくのがいいのだろうな、と思う。
 
恩田陸の作品を最初に読んだのは、文庫になった『光の帝国』で、
それ以来、どこか気になる作家のひとりになって、
新作がでるとついつい読んでしまうことになる。
作品によっては、エンディングに不満の残るものもあったりするのだけれど、
作品のなかに盛り込まれているさまざまな要素や語り口、
登場人物の性格づけなど、ぼくの趣味に合うというのだろうか。
宮部みゆきのような、ある意味で「情」の勝っている作品群よりも、
その「情」を醒めた目で、しかもさらに深いパッションをもって
人の心の深みを静かに見ているところがあり、
その点が恩田陸の作品の魅力的なミステリーになっているんだろうと思う。
 
さて、今年最初に読んだ恩田陸がこの『黒と茶の幻想』。
600頁を超すボリュームなので、
この忙しいときに!とちょっと敬遠していたのだけれど、
やはり読み始めると、今回もその世界にはまり込んでしまうことになった。
 
学生時代に同学年だった、利枝子、彰彦、蒔生、節子の4人が、
卒業から十数年後に、鹿児島の南に浮かぶY島に旅をすることになり、
そこにひろがる太古の森の中で、それぞれの「過去」の闇が、
その4人それぞれのの視点から綾なす光に照らされ、
交錯しながら浮かび上がってくる・・・。
 
全体は、4部に分かれていて、
第一部が利枝子、以下、第二部、第三部、第四部が、
それぞれ彰彦、蒔生、節子の視点から語られながら、
その不思議な旅が進んでいく。
それぞれの最初に語り出されている、それぞれの「森」の描写が
それぞれの登場人物の性格に照らされて象徴的なものとなっていたりする。
まるで、『神曲』の森のように・・・。
 
それぞれの書き出しのところを挙げてみる。
 
第一部「利枝子」
        森は生きている、というのは嘘だ。
        いや、嘘というよりも、正しくない、というべきだろう。
        森は死者でいっぱいだ。森を見た瞬間に押し寄せる何やら
        ざわざわした感触は、死者たちの呟きなのだ。
第二部「彰彦」
        森に入ると、いつも誰かに愛されているような気がする。
        もちろんそんなものはロマンティックな錯覚だ。けれど、
        森に踏み込んだこの瞬間だけは、必ずふわりと手を差し延
        べられたような安堵を覚えるのだから仕方がない。
第三部「蒔生」
        森の中の道の向こうから誰かがやってくる。
        俺のよく知っている誰か、そしてあまり会いたくない誰かが。
第四部「節子」
        森は日曜日の朝に似ている。
        約束された静寂と安息。かすかな期待と憂鬱。
        なんにでも使えるはずなのに、いつもなんにも使うことがで
        きない日曜日。その日が来るのを楽しみにしているのに、来
        るとすぐに終わる時のことを考えてしまう。
 
それぞれがそれぞれの「森」を歩きながら、
そこで何かに出会っていくミステリー。
そのミステリーの森をこうしたぼくのような読者の心のなかにも
いつのまにかつくりだしてくれる、
そんな不思議な魅力を湛えた作品になっている。
 
ところで、タイトルの『黒と茶の幻想』というのは、
いったいどういう意味なんだろうと、最後まで考えていたのだけれど、
いまだに、これが「黒と茶」だったんだ、という正解は見えてこない。
おそらく、先の「森」と深い関係にあるのだろうけど。
そういえば、昨年、一年をかけてでていた文庫シリーズの
「上と外」というタイトルもかなりシンボリックなものだったような。
 
しかし、「謎」というのは、やはり内面化し、
それを見ようとするときに、カタルシスもあり、
またかぎりない衝撃になったりもする。
そして、それが安易な答えを拒んだまま
「森」のなかにときおり射してくる光のように
見え隠れしてくるときに、「謎」は、
その不安や苦悩や葛藤にもかかわらず、
不思議に甘美な笑みのように微笑んでくるものかもしれない。

 

 

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梨木香歩『からくりからくさ』


2002.1.8

 
■梨木香歩『からくりからくさ』
 (新潮文庫/平成14年1月1日発行)
 
『西の魔女が死んだ』や『裏庭』もいいけれど、
この『からくりからくさ』から受けた感銘はさらに深いものがあった。
梨木香歩の作品は一作一作その表現力と深みと加えているように思える。
 
ジャンルからいえば、児童文学、ファンタジーに属するのだろうが、
そこに描かれているのは、その静かな筆致にもかかわらず、
深く激しく、読む者の魂の変容を迫るほどのものである。
ファンタジーの役割は、まさにその変容にあるという意味では、
染織や織物、人形、能面といった
日本の伝統的なものをモチーフにしているだけで、
それを使って非常に現代的なファンタジーを作品にしている
ともいえるのだろう。
最近ハリーポッターが異常なまでの話題になっているが、
そうした西部劇式の勧善懲悪的な娯楽作品をダシにしながら、
その余波で、こうした『からくりからくさ』なども
多くの人に読まれていくようになればと思う。
 
さて、物語だが・・・、
祖母の遺した家で、共同生活を始める4人の女性たち。
祖母から譲られた心を持つ不思議な人形「りかさん」とともに
生活しているともいえる容子、
(『りかさん』という別の作品も梨木香歩にはあります)
アメリカから鍼灸の勉強のため日本に来ているマーガレット、
美大で染織を学んでいる紀久と与希子。
彼女たちの静かな生活のなかで、
不思議な縁の文様が次第に見えてくるように
物語はさまざまな謎を浮き上がらせ
人の思いのさまざまを織り込みながら展開していく・・・。
 
        誰かがーー壮大な機(はた)を織り続けている。(P441)
 
というように、非常に細かい文様から大きな文様までが
さまざまに絡み合いながら、たとえば次のような表現に見られるように
いわば光と闇の統合と変容が織り込まれている。
こうしたなかに、クルド人のような民族問題までもがでてくるように、
自然なかたちで非常に多視点的に語られることで、
読者の意識を多次元化していくことにもなっているのも、
この作品の非常にすぐれたところではないかと思われる。
 
         紀久は、あの炎を見たとき、これは自分の蛇の夢の始末なの
        だという気がした。
         男の嫉妬も女の嫉妬も、恨みも怒りも憎しみも、それは本当
        は大したことではない。それはほんの入口、業火の溶鉱炉のよ
        うなマグマへ導く、案内の蛇のようなものだ。
         私たちは、人は皆その同じひとつの溶鉱炉でつながっている。
         あの炎を見たときの体の芯が溶けるような感覚は、確かに快
        感だった。破滅的であったが同時にまた例えようもないほど清
        浄なものにさらされた恍惚感でもあった。
         拷問を受けた末に自分を裏切った友を持ち、自らもまた拷問
        を受け、職人の命である指を落とされ、恋人を奪われ、殺人を
        犯すほどのすさまじい怨念の面を彫り、生き抜いた赤光は確か
        にこれを見たのだろう。そして自分たちにそれを伝えた。問題
        はその次の展開だ。(P436-437)

 

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中沢新一『人類最古の哲学』


2002.1.14

 
■中沢新一『人類最古の哲学/カイエソバージュ1』
 (講談社選書メチエ231/2002.1.10発行)
 
この「カイエソバージュ」というシリーズは
(全部で5冊刊行されることになっているらしいが)
中沢新一がここ数年の間に「比較宗教論」という名前で
大学で行なった講義の記録。
 
その一冊目にあたるのがこの「人類最古の哲学」。
この「人類最古の哲学」というのは、「神話」を指していて、
レヴィ=ストロース、南方熊楠、カルロ・ギンズブルグ等をガイドにしながら、
シンデレラ物語に隠された「哲学」を明らかにするとともに、
それを踏まえながら、自然と文化との均衡点で生きることができるように
現実と幻想との仲介をする「思考する哲学」としての
「神話」の重要な役割が示唆されている。
 
         神話論を、バーチャルな論理の領域の問題としてだけ語ることもでき
        ます。しかしそれは、結局神話を「様式だけ」からとらえることになっ
        てしまうでしょう。神話や民話の中から、論理や構造をとりだすだけで
        は、原初の哲学としての「内容」がすっかりなくなってしまいます。そ
        うなれば、カントもヘーゲルも同じ論理を使っていました、と研究の末
        に報告するようなものです。神話の「内容」とは、その具体性の世界と
        の関わりの中にみいだされます。
         神話はたしかに現実の世界の中で起こっていることよりも、ずっと自
        由な思考をしているように見えますが、じっさいには別の種類の拘束に
        しがたっているのです。この拘束は神話の思考が具体性の世界に触れる
        ところから生まれているものですから、バーチャルな領域で神話を自由
        自在に、まるでおもちゃのように扱っていると、このことは見えてきま
        せん。神話はまぎれもない哲学です。それが、宇宙の中で拘束を受けな
        がら生きている人間の条件について思考しているからです。この拘束に
        ついての理解がないところで繰り広げられる神話ごっこは、どうやって
        も哲学となることはできずに、ただの「様式」だけで終わることになり
        ます。そうなるとどんなにすぐれたアニメ作品であっても、それは快感
        原則のためにささげられるただの消費物です。
        (P185)
 
中沢新一は、この講義で、
「神話が知識材として中石器時代から新石器時代にかけて、
地球の広大な領域に拡がっていった」、半ば実証的な事実から
「シンデレラ物語」の人類的分布などを興味深く展開し、
その多様なありかたを見ながら、同時に
その「原シンデレラ」ともいう「神話」の基層にあるものを
示唆しようとしている。
 
しかし、「原ー」というように「神話」を過去のものとしてとらえ、
過去に遡っていくというよりも、
「神話」をまさに生きたものとしてとらえ、
通常語られるシンデレラ物語(シャルル・ペロー版)への批評精神から
北米インディアンのミクマク族が、新しいシンデレラ物語である
「見えない人の話」を語り直しているようなかたちでの
現代的な意味での神話創造までが興味深く紹介されている。
 
重要なのは、「神話の思考」をすることであって、
この思考というのは、結局のところ
シュタイナーの「メルヘン論」に近いというか、
中沢新一の語るところを霊学的な光に照らしていくならば、
そうなるのではないかと思われる。
(*シュタイナーのメルヘン論については、次の訳書に
それについて講義がおさめられている。
■シュタイナー『メルヘン論』
 高橋弘子訳/水声社/1990.6.10発行)
そのなかの「霊学の光のもとにみた童話」の最後にこうあるように。
 
         そのように、霊学が広まっていくことによって、真のメルヘン収集家、
        真のメルヘンの理解者、メルヘンの語り手が望んでいたことが現実にな
        ります。それは自らメルヘンの友であったある人物が、講演の中でしば
        しば語っていたことでもあります。その講演は私も聴くことができまし
        た。美しい詩的な言葉でした。その言葉の中に私たちは、メルヘンの、
        今日的な意味での霊学の考察の成果を要約することができます。メルヘ
        ンを愛し、メルヘンを収集し、メルヘンを評価するすべを心得ていたこ
        の人物は、講演の中でいつもこの言葉を語りました。私たちは、霊学的
        に考察されたメルヘンの意味を次のように要約できるでしょう。「メル
        ヘンは伝説は、人間が生まれた時に人生遍歴にそなえて故郷から授けら
        れる善き天使である。それは人生の遍歴を通じて、人間の忠実な伴侶で
        ある。そして、それが人間に付き添うことによって、人生は真に内的に
        生き生きとしたメルヘンとなることができる。」(P49)
 
ところで、世界の民話(メルヘン)について
日本で広くまとまったかたちで紹介されているものには、
たとえば昭和52年〜53年頃だからかなり前にはなるが
「ぎょうせい」からでている「世界の民話」シリーズが刊行されていて、
古本屋で少し前に見つけていろいろ折に触れて楽しんでいる。
今読んでいるのは「コーカサス」編。
ふつうはなかなか知ることのできない地域のものから
どきっとするような「神話の思考」を垣間見ることができたりもする。

 

 

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綛野和子『日本文化の源流をたずねて』


2001.1.14
 
■綛野和子『日本文化の源流をたずねて』
 (慶應義塾大学出版会/2000.4.10発行)
 
正月とかいうような、年中行事の時期になると
なんでこんなことするのかな、と小さい頃から思っていて、
その後、ことあるごとにそのなぜを解消しようと
いろんなものを調べてみるようになったが、
そのときにガイドになるのは、民俗学である。
もちろん、それは歴史的な由来等を調べるのが主で、
その霊学的な根拠とかを説明してくれるわけではないので、
結局のところ、そうした儀式の意味はわからないのだが、
とにもかくにも、その由来の一端は知ることができる。
 
で、今年の年末年始は正月というのではなく
個人的にあわただしいものだったのだけれど、
こういうときには、正月についてとか、
さまざまのことをまとめて再確認してみる、
という気になるわけで、本書を読み始めてみたところ、
なかなか面白く、また少し厚めではあるけれども、
これ一冊で民俗学の事始めには適しているだろうということで、
ご紹介してみることにした。
 
著者は、綛野和子という方で、
かつて慶應義塾大学で折口信夫から学んだ最後の世代に属していて、
本書は、その折口信夫の講義を辿りながらの講義録となっているということだが、
刊行直前の1999年6月に亡くなっている。
ちなみに、本書は第20回日本文芸大賞民族文化賞を受賞しているが、
内容的にも非常に幅広くかつそれなりの深みがあって、
折口信夫の民俗学をまとまって読んだことのない浅学のぼくのような者に
それを知る糸口としてもまた適しているのではないかと思われる。
 
本書の構成としては、まず序章として、
「年中行事と民俗学」ということで、
日本で生活していればだれでも関わってくることになる
さまざまな年中行事の由来などがわかりやすく述べられている。
そして、第一章「神様と女性の役割」、第二章「信仰と宗教」、
第三章「祭りと芸能」、第四章「道具と木地師」、第五章「暮らしと名字」
となっているが、神社について考えたり、
日本の歴史について考えたりするときに、
それぞれ非常に重要になってくるさまざまが、
とても親しみやすく語られている。
 
さて、せっかくなので、最初の「年中行事と民俗学」から
「はる・なつ・あき・ふゆ」についてと
お正月に関連したところを少しだけご紹介してみることにしたい。
親しみやすいテーマについての少し意外な由来がわかるのは
うれしい驚きではないだろうか。
 
まず、「はる・なつ・あき・ふゆ」について。
 
         方々の神社で秋祭りがありますね。いろんな秋祭りがあるのは、そも
        そも稲の刈り上げの時期に地方差があるからです。…
         「刈り上げ祭り」をする前の日までを、…もう飽きるほど稲が実って
        くれたというので、祭りの前の日までを「あき」と申します。…そして
        いよいよ「祭り」をし、神様に感謝を捧げる晩がやってまいります。
         お祭りは大体夜するもので、昼間にするということは昔はなかったの
        です。その夜お祭りをする時に、新しく収穫した稲を神様に供えて感謝
        をし、そして新しいお米で皆が御飯をいただいて、新しい稲の中に含ま
        れている新しい新鮮な魂を自分達の中に取り入れて、新しく復活して元
        気を…出す…、これを、魂が殖える、魂が自分達に触れて、そして「殖
        える」ということで、その祭りの晩を「ふゆ」と申します。魂が殖えて
        いくから「ふゆ」と申します。そうしてその殖えていく魂が、どんどん、
        どんどん風船が膨らむように殖えていくと、パンパンに張り詰めます。
        この状態を「極限」と申します。極限というのは日本語で「いちはつ」、
        一番果て、一番端っこ、もう極限になったからということで、「いちは
        つ」と申します。
         そうしていちはつの状態になり、お祭りが終わって、翌朝になり白々
        と夜が明けてきますと、本当に張り詰めた状態、人間が新しく生まれ変
        わるような状態になるわけです。
         これを初めて「はる」になったということで「はつはる(初春)」と
        申します。この言葉が中国の漢字、秋・冬・春という字にそれぞれ当て
        嵌めて、「あき」「ふゆ」「はる」そういう季節を表わす言葉に変化し
        ていきます。…
         「いちはつ」というのは「極限」ですが、これは、しはつ→しはす→
        しわす、となって、今は師匠が走り回るという字になりましたから、何
        のことか意味がわからなくなってしまったのですが、これは極限という
        ことで、極限は大晦日ということではないのですけども、前の年の一番
        最後だということになっております。
         …「なつ」という言葉は、昔は野生の鹿がたくさんおりまして夏から
        秋にかけてその野生の鹿の角が落ちます。今は観光客が突かれると危な
        いというので奈良では鹿の角切りをしますね。人為的に切ってしまいま
        すが、鹿の角は再生する力があって、また翌年生え変わってきます。そ
        の再生する力を非常に神秘的に感じた古代の人が、鹿にはそれだけの威
        力があるというので、鹿の脳みそ、これは「なつき」というものですが、
        その鹿の脳みその「なつき」という言葉を使って「なつ」という用語が
        できたと言われております。
        (P11-13)
 
続いて、お正月について。
 
         正月から春になりますから、春とか秋とか夏とかいうのは、季節、季
        節の節目でして、これを「節日(せちび)」と申します。節日には神様
        に御馳走、節供をいたします。御馳走をして我々もお相伴に与ります。
        それがお正月の「お節料理」です。…また、よく世間では、正月三日間
        は女の人の骨休めだと申しますが、本当は骨休めではなくて物忌みに籠
        るのです。女の人が三日籠って何もしないでじっとして、慎んで静かに
        しているのです。…
         正月には村人達が、注連縄や門松の立っている有力者の大百姓のうち
        にそれぞれ鏡餅を持ってまいります。「鏡餅」というのは、持ってきた
        人の「魂」です。
         魂の「たま」という言葉は、丸いものをたまといいますね。それで、
        魂というのは丸いと昔の人は思っていましたから、丸い鏡餅を作って有
        力者のうちへそれぞれ持ってまいります。ですから有力者の家には鏡餅
        が一杯並ぶわけです。
         段々後になりますと、鏡餅が自分のうちに幾つあつまるか、それが有
        力者の人達の自慢の一つになります。…有力者のうちに小作人だとかい
        ろんな労働をしていたお百姓さん達が、鏡餅を持って行って主従関係を
        誓うということで、それが鏡餅の本当の意味です。
        (P16-17)

 

 

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小林直生『死ぬことと生きること』


2002.1.16
 
■小林直生『死ぬことと生きること』
 ーーキリスト者共同体は「死」とどう向き合うかーー
 (ぶっくれっと1/涼風書林/2001.11.1発行)
 
日本のキリスト者共同体のホームページができているのを知って、
その刊行物を参照してみたところ、
上記の新刊がでているのがわかったので、早速取り寄せて読んでみた。
 
シュタイナーの人智学の観点からとらえられた「死」について
わかりやすくしかも深いところから述べられているとともに、
キリスト者共同体における「葬儀」について、
興味深い実際が紹介されていて、
ある意味では、死生観についていえば、
シュタイナーの適切な入門書になっているのではないかと思われた。
葬儀のあり方をとらえなおしてみようとするときに
必要な視点も示唆されている。
 
以前から思っていることだけれど、
小林直生さんの言葉は、静かでそして深い…。
 
本書には「付録」として、
「シュタイナーによる『死者への祈り』」などが
小林直生さんの解説で紹介されている。
 
この最初にある
「死者と生者の共同体をつくる『コトバ』」というのが
とてもよかったので、それを。
 
        私の心のあたたかな命が
        あなたの魂のもとへと流れます
        霊なる世界の中で
         あなたの寒さをあたためる為に
         あなたの暑さをやわらげる為に
        私の想いがあなたの想いの中に
        そしてあなたの想いが
        私の想いの中に生きますように
 
ちなみに、キリスト者共同体出版局として
「涼風書林Verlag Der kuehle Wind」というのができていた。
 
この「涼風」というネーミングは、
ネストリウス派のキリスト教が
中国の長安に伝えられたとき
現在は「聖霊」として訳されている言葉が
「涼風」として訳されていることからきているとあった。
 
        「涼」とは「暑」と「寒」の中心にあって、人間の「霊性」を
        最も有効に働かせてくれる状態だと伝えましょう。私たちもこ
        の聖霊の「涼風」によって、そして両極端を克服するこの「中
        心の力」によって、キリスト教の新たなる姿を世に伝えたく想い
        ます。
 
このトポスのメインテーマのひとつも「中」なる力なので、
ぼく(KAZE)も、できれば「涼風」となれればいいのだけれど…(^^;。
 
この「涼風書林」から刊行されていると
HPに紹介されているものは次のとおり。
 
●ルドルフ・フリーリンク『キリスト教の本質について』 
●フリードリッヒ・リッテルマイヤー『我らが父よ - 人間形成の道としての主の祈り -』
●ハンス=ヴェルナー・シュレーダー『キリストへの道・クレド 』
● ハンス=ヴェルナー・シュレーダー『人間聖化式の体験について』
●キリスト者共同体の会刊 『キリスト者共同体概要』(旧版)
●ハンス=ヴェルナー・シュレーダー『祈り - 修練と経験 -』(準備中)
 
また、「ぶっくれっと」の続刊として、
次の二冊が予定されている。
●小林直生『悪を救済するキリストの力』
●小林直生『キリスト者共同体について』
 
注文は、下記まで。
〒101-0061 東京都千代田区三崎町3-6-15-201
キリスト者共同体内 涼風書林
Tel/Fax 03-3221-5111
 
■キリスト者共同体のHP
http://www.kirisutoshakyodotai.org/
 
■涼風書林のアドレス
ryofu@kirisutoshakyodotai.org

 

 

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鎌田東二「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』精読」


2002.1.18

 
■鎌田東二「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』精読』
 (岩波現代文庫・文芸45/2001.12.14発行)
 
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』には、第一次稿から第四次稿まであって、
通常『銀河鉄道の夜』といわれている作品は
その最後の稿を指していることが多く、
全集とかのヴァージョンを読まないと
その違いというのが問題になることは少ない。
以前から、初期稿にでてくる「ブルカニロ博士」とかのことは
気になってはいたのだけれど、その各稿を
ちゃんと比較して読んでみたことはなかった。
(本書にはそのすべての稿が載せられている)
 
第一次稿と第二次稿では「ブルカニロ博士」が登場し、
第三次稿では「ブルカニロ博士」に加えて、
「黒い帽子」をかぶった「そのひと」が現われる。
 
第一次稿ではブルカニロ博士はジョバンニに金貨を渡し、
第二次稿ではさらに「緑いろの切符」をポケットに入れる。
(林のなかでとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢で見た
あやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました)
そして第三次稿ではブルカニロ博士から
「切符についての注意や励ましはるが、ブルカニロ博士自ら緑色の
「あやしい天の切符」を手渡すことはなかった」。
 
そして「そのひと」が「やさしいセロのような声で現われる。
「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん」
そしてこう語る。
「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうに
こんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカンパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカンパネルラといっしょにまっすぐに
行かうと云ったんです。」
「あゝさうだ。みんながさう考える。けれどもいっしょに行けない。そして
みんながカンパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおま
へといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりお
まへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと
一しょに早くそこに行くがいゝ、そこでおまへはほんたうにカンパネルラと
いつまでもいっしょに行けるのだ。」
 
「そのひと」は「ブルカニロ博士」だと読まれることが多いようだが、
鎌田東二はその違いに注目する。
 
        宮沢賢治は、第三次稿を書く前に「黒衣の歴史家があやしい歴史の著述
        を示す」という別紙メモ記している。ここにいう「黒衣の歴史家」が、
        第三次稿に登場する「大きな一冊の本」を持った「そのひと」に当たる。
        (P80)
 
そして、第四次稿には、「ブルカニロ博士」も「そのひと」も登場しない。
 
        ブルカニロ博士と「そのひと」を完全に消し去ることによって、こうし
        て結局、最後に残ったのはジョバンニただ独りということになった。
        (P81)
 
今回、その違いを鎌田東二のガイドで読んでみることで、
『銀河鉄道の夜』を通じて宮沢賢治のおこなってた旅が
いったいどういうものだったのかを再認識することができた。
 
         こうしてみると、『銀河鉄道の夜』の最後の章が「ジョバンニの切符」
        というタイトルを持っていることの含意は深いものがあることがわかる。
        本書の第二章で指摘したように、この小題は第三次稿と第四次稿にのみ
        見られる章題である。しかも、宮沢賢治の童話としてはもっとも長編の
        『銀河鉄道の夜』の約半分の分量を持っているのがこの最後に置かれた
        「ジョバンニの切符」という章である。
         とすれば、宮沢賢治はこの「ジョバンニの切符」という章に特に深く
        託するものがあったと考えるべきであろう。この章の推敲が、『銀河鉄
        道の夜』全体の構造とトーンを根底的に変えたからである。その変化は、
        一言で言えば、教導者に導かれる者から、単独者の旅人となるジョバン
        ニの孤独と、「みんなの幸福」を希求するその果てしない不可能性の探
        究への企投の深遠さ、距離である。別の平たい言い方をすれば、依存体
        質から自立への変化。水平軸から垂直軸への屹立。自己超越と自己受容。
        あるいは、自己の使命を自己自身で引き受ける覚悟。
        (P94-95)
 
この「教導者に導かれる者から、単独者の旅人」への推敲過程に、
あらためて宮沢賢治の現代性を見ることができたように思う。

 

 

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高橋明男『ゲーテからシュタイナーへ』


2002.1.19

 
■高橋明男『ゲーテからシュタイナーへ』
 (NOA企画/2001.11.3発行)
 
高橋明男さんが「霊学のための市民大学」の活動の開始にあたり、
『ゲーテからシュタイナーへ』という冊子をだされた
ということを知ったので、早速読んでみました。
 
いくつか疑問点があったので、それについては
早速ご本人に直接ぶつけてみたところなので、
その点は、またどこかでご紹介することにしますが、
シュタイナーの人智学への姿勢として、
シュタイナー思想を特別なものにしてしまわないこと、
自由の基盤としての「考える」「知る」ということの大切さ、
「シュタイナー業界」に関する疑問、
一人ひとりがシュタイナー思想を理解しようとすることが必要であること、
そして「思想を開く」ことが重要であるということ、
そして、高橋明男さんがはじめようとされている
「霊学のための市民大学」には「講師」はいない、ということ、
また、「個別の私」と「普遍の私」という二重性のなかで、
「個別の私」に立脚した「普遍の私」へむかう「知」への方向づけなど、
非常に共感するところがたくさんありましたので、
ご紹介させていただくことにしました。
 
以下、いくつか引用紹介させていただきます。
 
         僕自身の反省を含めて言えば、これまでの「シュタイナー業界」では、
        一人ひとりが本当に理解することよりも、「いい人であること」「当たり
        障りなくしている」ことのほうが重んじられてきたように思います。誰か
        の講演を聞いて、「これは間違っている」と思っても、何も言えずに不満
        だけを抱えて帰ってくる自分がいました。うっかり異論を唱えたり、「間
        違い」を正そうとすれば、「あの人はまだ人格的に未熟だ」といった目で
        見られてしまう。そういう空気が、日本だけではなく、世界のいたるとこ
        ろで、シュタイナー思想を学ぶ人々の間に蔓延しているように感じます。
         何よりも、この状況を打破したい。そのためには、一人ひとりがシュタ
        イナー思想の基本的な考え方を本当に理解することが必要です。疑問があ
        ればそれを率直に提出し、いくらでも議論する。そして一歩一歩共通の理      
        解を積み重ねていく。そういう努力が当たり前になされるようになって初
        めて、シュタイナー思想は「特定の集団」の思想から、一人ひとりの個人
        の「私の思想」に変わるのです。シュタイナー思想を一人ひとりの個人の
        手に取り戻さなければなりません。そのとき、シュタイナー思想は、世界
        のさまざまな思想・芸術・宗教の流れと切り結ぶことができるようになる
        でしょう。そのとき初めて、シュタイナー思想が本来もている大きな可能
        性を発揮することができるでしょう。
         僕はそのような努力を「霊学のための市民大学」と名づけました。そこ
        での大前提は、この市民大学に参加する人たちは、みな完全に対等である
        ということです。まさにこの「対等」ということ、一人ひとりの個人の絶
        対的価値ということこそ、シュタイナー思想の核心をなしているのです。
        それを僕は「私」の原理と呼んでいます。
         以前、僕は「霊学のための市民大学」について、そこでは「誰もが講師
        であり、学生である。講師と学生の役割はそのつど入れ換わる」と書いて
        いました。しかし、いま僕はこの表現を次のように改めます。この「霊学
        のための市民大学」には「講師」はいないのです。すべての参加者は対等
        な「探究者」としてそこに関わります。「探究者」の一人ひとりは、自分
        のテーマを持ちよって「研究発表」をすることはあるでしょう。そのとき、
        さらなる探究のためにカンパや喜捨を求めることもあるでしょう。しかし、
        誰か特定の人物が「講師」として教える側にまわることはありえません。
        どんなに貴重な経験や知識を持っている人でも、この「市民大学」では対
        等な探究者の一人なのです。(P7-8)
 
ぼくのように、シュタイナーに関わっているとはいっても、
最初から組織とか権威とかいうのを無視して
自分勝手にこうしてやっているのとは違って、
さまざまなかたちで「シュタイナー業界」に関わってこざるをえず、
そのさまざまを見てきたであろう高橋明男さんがこうしたことを表明し、
本書の最後には「これからは妥協はしません」と述べているわけで、
その取り組みには並々ならぬ覚悟が感じられます。
その最初の「宣言」が本書だということで、
やはり一読の価値はあるのではないかと思います。
 
さて、本書の注文は書店ではできませんので、
以下の宛先に直接注文してください。
料金は1,000円+送料180円です。
料金は郵便振替で
NOA企画(Projekt zur Neuorientierung der Anthroposophie)
郵便振替口座 01750-2-32423
  

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