風の本棚3

(95/11.15-96/1.29)


沢村貞子「老いの道づれ」

ルドルフ・シュタイナーの大予言

魂の同伴者たち

シュタイナー「悪の秘儀」

柳宗悦「美の法門」

西田幾多郎・三冊

インターネット・ストラテジー

ミネルヴァの森の哲学教室

西研「実存からの冒険」

鷲田清一「ちぐはぐな身体」

天使が私に触れるとき

シュタイナーのカルマ論

テオドールから地球へ

 

 

沢村貞子「老いの道づれ」


(95/11/15)

 

 12日付の朝日新聞の天声人語を読んで、さっそく購入して、涙を流しながら読んだ本があります。

●沢村貞子「老いの道づれ」(岩波書店)

 ですが、相棒といっしょに、こんな生き方が理想だねと頷きあっていました。沢村貞子さんといえば、もと女優で、八十七歳になったところ。ぼくぐらいの歳だとテレビでもけっこう出演されていたのは度々見たことがあるでしょうね。でも、こういう方だとはこれまでまったく知りませんでした。 

 「天声人語」のほうから、それをご紹介してみることにします。

「五十年ぴったり寄り添ったなんて、自分ではうれしがってますけどね、戦後の五十年は、皆さんどんなに苦労した方が多いか、その中で私たちが一所懸命やりましたなんて、ちょっと気恥ずかしい」

「でも主人は、そんなことないよ、いつでも二人でいっしょでしゃべってたからね、夫婦というものはメシ、フロ、ネルだけじゃなくて、話していたほうがしあわせだよ、ってことを皆さんに知らせたほうがいいよ、って」

きのうの誕生日は、結婚五十年の金婚式の日でもあった。けれども恭彦さんはその日を待たず、去年の七月に亡くなった。だから、さっきの話も、沢村さんが毎朝話しかける。居間に飾られた恭彦さんの写真との語らいなのだ。・・・その隣に、ちりめんの、沢村さんの好きな風呂敷に包まれて、骨壷がある。墓はない。妻が死んだら、夫の骨といっしょに相模湾に流してもらうことになっている。<待っててね。ねえ……あなた。>で本は、閉じられる。

いま、沢村さんは読書三昧。最近、エンデの『モモ』を、読み返した。「人間は、ほんの少しだけ地球の上で生きている。そのほんの少しの時間を何に使うか、この本は、それを教えてくれるんです」  

 「カルマ論」とかについていろいろお話していますが、結局のところ、「せいいっぱいよりよく生きようとする」、そのことだけで十分なんだと思うのです。地上での「ほんの少しの時間」、それをせいいっぱい生きる。あとは、執着を残さない。 

 仏教でぼくが嫌いなのは、「生老病死」「愛別離苦」・・・といった四苦八苦を説くこと。四苦八苦を通してしかわからない喜びがあるということ、そのことをこそ説くべきではなかったのか、そう思えてきます。

 この沢村貞子さんの著書は、生きることそものをいとおしくさせ、また死に際しても、寂しさを越えた信頼感を感じさせるものです。ある意味では、難しい仏教の教理を越えているのではないか。そう深く感じながら、流した涙なのでした。

 

 

ルドルフ・シュタイナーの大予言


(95/11/16)

 

■渋沢賛+松浦賢「ルドルフ・シュタイナーの『大予言』」(イザラ書房) 

 なんだかものものしい「ノストラダムスの大予言」を思わせるタイトルですが^^;、なんだか、イザラ書房の渋沢賛という方は、どうもこういう表現が好きらしい。おそらく、「売り」を意識してのタイトルだと思うのですが、嫌ですね^^;。

 シュタイナーの営為を「予言」とかいう形でとらえるのはどうかと思いますが、未来を的確に見通していたとはいえるように思いますので、テーマ別にシュタイナーの発言を紹介してもらっているという意味では、それなりに読む価値があるとは思います。ただし、シュタイナーの発言を細切れにして、「予言」的な部分だけをピックアップするやり方は、どちらかというと、避けたい方法ではあります。 

 一応、そのことだけは前置きしておいた上で、その内容を。この本は、第一部と第二部に別れていまして、第一部が「宗教・カルト」「教育」「政治・経済・社会」「医療・科学技術」、第二部が、「アーリマン」の働きについて、シュタイナーの発言の紹介とその説明がなされています。

 内容としては、共産主義の崩壊やチベット密教の堕落などなど、非常に的確なシュタイナーの未来に関する発言が紹介されているのですが、そこで重要なのは、それはただただ「未来はこうなる」と言っているのではなく、「なぜそういう方向性に向かうのか」ということが述べられているということです。「予言」というと、なんとなく「わたしは未来を知っている」的なイメージがありますが、シュタイナーは、神秘学的な見地にたちながら、「こういう原因はこういう結果を引き起こす」ということを講義していたわけです。 

 たとえば、現代の知育教育の弊害がもたらすものについて、シュタイナーはこういう講義を残していますが、これは正しく認識し、正しく判断すれば、ある程度だれにでもちゃんと理解できることです。

現代の人間は確かに精神生活を営んではいますが、それは精神的な世界と関わりあうことのない純粋に知的なものです−−中略−−この知的な生活とは、どのような種類のものでしょうか。この知的な生活は、人間の現実的な関心と結びつくことはほとんどありません。私はここで皆さんに、「内なる感激から学問に仕えるためにではなく、単に外面的な職業を得るという目的のために、さまざまなレヴェルの教育機関を出たり入ったりしている人間が、今日どれだけたくさんいるでしょうか」と、問いかけてみたいと思います。このような人々の間では、自分たちが学んでいる学問と魂の直接の関心が結びついていません。このような傾向は小学校の時期にまでさかのぼることができるのです。人生のさまざまな段階において実に多くのことが学ばれるわけですが、ここには本当の感激や関心が存在しません。知的生活が、それに没頭する多くの人にとって極めて外面的なものになるのです。現代ではきわめて多くの人々があらゆる精神的なものを生涯することを余儀なくされますが、その成果は図書館に保管されるだけで、精神的な生活として生き生きとしたものになることはないのです。知性主義的な精神生活の中では、人間的な魂の暖かさが燃え立つこともなければ、人間的な感激が存在することもありません。そしてこのような生活の中から発達してくるものすべてが、アーリマンの登場をそれ自身の意味において促すのです。(P149-150)

 最初に述べさせてただいたように、これを「予言」として読むのではなく、現在の我々の認識をサポートするためのガイドとして読むときに、この本は、けっこう参考になるように思います。

  

 

魂の同伴者たち


(95/11/20)

 

■アダム・ビトルストン「魂の同伴者たち/スピリチュアル・コンパニオンズ」

         (シュタイナー天使学シリーズ2/大竹敬訳/イザラ書房)

 イザラ書房から(たぶん)全4巻ということで出されてることになっている「シュタイナー天使学シリーズ」の第2巻目。

 シュタイナーは生前、「天使」に関してのまとまった講義をしていませんが、これは、その天使論を一冊にまとめてそれを深い認識のもとにシェークスピアなどの例をひきながら美しくまとめたものであり、非常に意義深い一冊であり、シュタイナーの神秘学を学ぶ上では、非常に貴重なものだと思われます。ぼくとしても、ここまでまとまった天使論は非常に参考になりました。

 また、著者のアダム・ビトルストンという方は、シュタイナーの助言で設立されたキリスト者共同体の司祭を長年努められたかただということで、それだけにこれだけの深い内容になったのだと納得しています。

 ただ、この本の帯に書いている内容だけはどうも感心したものではなくて、帯には「シュタイナー+シェイクスピア」とかあるのですが、どうもそこらへんのイザラ書房の「売り方」には疑問がわいてしまいます。

 この翻訳が刊行されたのは数週間前のことだが、内容の深さと、読んでしまうのが惜しいのとで、読み終えるまでけっこう長くかかりました。そうこうするうちに、このシリーズの3巻目のシュタイナー「悪の秘儀/アーリマンとルシファー」も出ていますのでこれもまた読み終えたら、「風の本棚」としてご紹介したいと思ってます。

 ちなみに、この「シュタイナー天使学シリーズ」は次の通りで、第4巻目も12月には刊行されるそうなので、楽しみ。

1)シュタイナー「天使と人間」

2)ビトルストン「魂の同伴者たち」

3)シュタイナー「悪の秘儀」

4)リントホルム「天使がわたしの触れるとき」

 さて、内容ですが、シュタイナーの天使論によると、天使の位階は、人間に近い方からいうと、第三のヒエラルキアの天使、大天使、アルヒャイ、第二のヒエラルキアのエクスシアイ、デュナミス、キュリオテテス、第一のヒエラルキアのトローネ、ケルビム、セラフィムという9位階で、この本ではまさにそうした天使たちが「魂の同伴者たち」として非常に生き生きと描かれています。

 ちなみに、わかりやすくいうと、第一のヒエラルキアは魂の世界に、第二のヒエラルキアは生命の世界に、第三のヒエラルキアは物質の世界に影響しています。これについては、現在行なっている「薔薇十字の神智学」の読書会の最初のあたりにも略述してありますので、ご参照いただければと思います。

 では、この本のなかから、通常、もっとも注目されていない第一ヒエラルキアと「物」の関係に関しての、非常に注目すべき視点を示唆しているところを、少し長いですがご紹介してみることにします。

ヒエラルキアについて考えをめぐらせていると、次の疑問が何度も頭をよぎるものです。「現実(reality)」とはなんだろうか」realという英語はラテン語で「物」を意味するresに由来します。したがって、ラテン語に近い言語を用いる人々は、現実とは物の問題であると教わるわけですが、特にそのことを意識しているわけではありません。その一方でオランダ語やドイツ語では現実(reality)は「機能」や「有効性」と関連があります。おそらく地球上の人間の大半は、物理的な事実と過程に関係があるものとして現実を捉えていることでしょう。しかし、こうした考え方から抜け落ちているのは、外的事実に対する私たちの概念は、人が知覚したり、考えたことから生まれているという事実なのです。言い換えれば、私たちの概念は、「意識」の内部の出来事から生じるのであって、単なる空間と時間から生じるわけではないのです。物に意識がなくて、物を感知したり理解する人が誰もいないとしたら、物とはいったいなんなのでしょうか。存在していないのと同じことではないでしょうか。現実(reality)は、意識のある存在とその活動と存在同士の相互関係から成り立つ、と考えたほうがはるかにわかりやすいのです。

私たちはまったく意識を持たないように思える物体を扱いながら、生涯の大半を過ごしています。しかし、それは幻想であるというのが本書の主旨なのです。石や人間の作った工芸品も植物と同様に透明になって、私たちに創造的な霊的存在の世界を垣間見せてくれると思ってはいけないのでしょうか。

(中略)

容易に理解できることですが、物に対して無関心な態度を取ると、物の方も人間に対して無関心な態度を取るようになることがあります。そして、物を大切にすれば、人も大切にしてくれるようになるものです。私たちは物にも人にも関心を持っていることが実際多いのです。一般に、物は人が作り、人が所有するものだからです。ところが、私たちは物は取り替えが効くと考えがちなのです。その一方で、人間を取り替えることは不可能だと承知しているのです。まるで、物質の世界が「私をどのように用いてくれるのか」という大きな疑問を私たちに問いかけているようなものです。問いかける存在がいないと思いこんでしまうと、人間は破壊者となってしまうかもしれません。この世では生命のない物体と思える存在から本当は問いかけを受けていると信じている人間の心の中には、畏敬の気持ちが育つこともあります。次のような発言をするようになるかもしれません。「動物や成長を続ける植物の背後に存在する霊的存在は偉大で崇高な方々である。しかし、私は、もっと遠方まで探求を続け、一層深い畏敬の念を感じるようになる必要がある。みずからの忍耐力と犠牲のおかげで、無生物の世界を作り出している霊的存在の世界を求めていこうとするならば」(P193-196)

  物を「取り替えが効く」としか考えず、それに注意を払わない不遜があります。その不遜は、その物を作り出している存在への畏敬の不在がその根源にあります。

 古くからの霊性を比較的残している日本人は、「供養」ということで、単に人間や動物に留まらず、「物」にまでその「供養」を行ないます。それはおそらく、そうした「物」を作り出している存在たちのことを意識の深いところでわかっているからなのではないでしょうか。

 民芸の美などに深い理解を示した柳宗悦さんの「新編 美の法門」という晩年の仏教美学に関する著作集がもうまもなく岩波文庫からでるそうですが、この柳宗悦さんの営為というのは、そうした「物」への深い畏敬ゆえのものです。

 現代は「唯物論」的な考え方が蔓延していて、それがゆえに、逆説的に、「物」についてまったく理解できなくなっているのが実状です。

 この「魂の同伴者たち」という著作は、人間の魂に働きかける天使から、こうした物に働きかけている天使まで、幅広く扱いながら、現代に生きるわれわれのもつべき視点の一端を味わい深く指し示してくれる好著だと思います。

 

 

 

シュタイナー「悪の秘儀」


(95/11/26)

 

■ルドルフ・シュタイナー「悪の秘儀/アーリマンとルシファー」(イザラ書房)

 イザラ書房から刊行されている「シュタイナー天使学シリーズ」のシュタイナー「天使と人間」、ビトルストン「魂の同伴者たち」に続く第三巻目。シュタイナーの講義から「アーリマンとルシファー」に関して語られているものを集めたもので、これはイザラ書房と訳者が独自に編集しているものです。ちなみに、シュタイナーが「アーリマンとルシファー」だけをテーマとして一連の講義をしていたということはないようです。

 この「悪の秘儀」の主な内容を目次からご紹介してみます。 

・第1章「人間との関係におけるキリスト、アーリマン、ルシファーの本質」

・第2章「キリストの行為と、キリストに敵対する霊的な力としての

     ルシファー、アーリマン、アスラについて」

・第3章「ルシファーとアーリマンの受肉について」

・第4章「アーリマンの学院と人類の未来に関する三つの予言」

 どの章も非常に意味深い内容を含んでいて、シュタイナーに感心のある方なら必読ではないかと思われます。

 この「悪」のテーマに関して理解を深めるために、参考になる講義などを挙げておくことにしますので、興味のある方は参照してみてください。

●シュタイナー「人智学運動のカルマ(一)(二)(三)」

(上記項目は、「輪廻転生とカルマ」(水声社)所収)

 これは主に、第4章の「アーリマンの学院・・・」に関係しています)

●シュタイナー「善なる人種と悪しき人種」

●シュタイナー「六六六/バビロンの没落/新エルサレム/ミカエルと龍」

(上記項目は、「黙示録の秘密」(水声社)所収)

●シュタイナー「マニ教」(西川隆範訳)

●笠井叡「悪魔論」

(上記二項目は、月刊アーガマ'90年8月号所収)

●シュタイナー「ルチフェル」(藤本佳志訳)

(上記項目は、AZ35,1995春号所収)

 さて、この「悪」のテーマについて問題にするということは逆説的な意味で「キリスト」を問題にするということでもありますので、そのことについて第1章の「人間との関係におけるキリスト、アーリマン、ルシファーの本質」からキーポイントになる部分をご紹介して、この「悪の秘儀」のご紹介に代えようと思います。

 また、第2章には、「カルマ」の本質に関わる内容も含まれていますので、それについては、「薔薇十字会の神智学」の読書会の「番外編」として追ってご紹介させていただくことにしたいと思います。

キリストという人物は、現代の人々が描写しているような存在ではありませんでした。本来キリストという人物は、「アーリマン的なものとルシファー的なものの間に均衡、つまりバランスを保つということを可能にするような教義をすべての人間に伝える」という意図を持っていました。「キリスト的である」ということは、まさにアーリマン的なものとルシファー的なものの間に均衡を求めることを意味しているのです。・・・

例えば、肉体的な意味においてキリスト的であるということは、何を意味するのでしょうか。肉体的な意味においてキリスト的であるということは、私が人間についての正しい知識を身につけることを意味します。人間は病気になることもあります。例えば人間は胸膜炎に罹ります。「人間が胸膜炎に罹る」ということは何を意味するのでしょうか。これはすなわち、「人間の中にルシファー的なものが多すぎる」といこうことを意味します。ある人間の中に、あまりにもルシファー的なものが多すぎる、ということが分かったら−−要するに人間が胸膜炎に罹るときには、その人の中にあまりにも多くのルシファー的なものが存在していることになるわけですから、私は次のように言わなくてはなりません。「仮に私が秤を手にしているとして、秤の一方が跳ね上がったとすると、私は錘を取り除かなくてはならない。一方が沈んでしまうときには、私は錘を乗せなくてはならない。」さらに私はこう言います。「ある人が胸膜炎に罹ったら、この場合はルシファー的なものが強すぎ、アーリマン的なものを幾らか加えてやらなくてはならない。そうすれば再びバランスが回復するはずだ」

(中略)

キリスト的なものとは、均衡にほかならないからです。私がいま皆さんにお話してるのは、「人間を肉体的に治療する際に、キリスト的なものはどこに存在するか」という問題です。キリスト的なものの本質は、「人間が均衡を求める」ということの中にあるのです。(P34-38)

 こうしたキリスト観というのは、けっこう意外な側面でもありますが、仏教で「中道」を説くというのはまさに「キリスト」を説いているということだということは、容易に類推可能だと思われます。中道の道は八正道の道でもあり、三諦円融の道でもあります。また、「不二」ということも、この中道との関係でとらえていくときにその真の意味が明らかになってくるのではないかとぼくは考えています。

 

 

 

柳宗悦「美の法門」


(95/12/01)

 

■柳宗悦「新編 美の法門」(水尾比呂志編/岩波文庫)

 

   『大無量寿経』、六八の大願、第四に曰う、

    設我得仏  設(たと)い我仏を得んに

    国中人天  国の中の人天(にんてん)

    形色不同  形色不同にして

    有好醜者  好醜有らば

    不取正覚  正覚を取らじ

この一言があるからには、これによって美の一宗が建てられてよい。意味は「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好(みよ)き者と醜き者とがあるなら、私は仏にはなりませぬ」というのである。このことは更に次のことを意味する。「仏の国においては美と醜とに二」がないのである。(P88)

   柳宗悦さんのこの「美の法門」からは、非常に衝撃を受けたことを思い出します。もちろん、これは、すべての形や色を同じにしてしまえというのではなく、美と醜との「不二」を説いているのだということを理解する必要があります。その美と醜との「不二」の「自在」があるというのです。

 「不二」というのは、美と醜というような二項対立的なあり方を止揚することでもあります。人はすぐにすべてを善いか悪いか、黒か白かというように、二つの観念を対立的にとらえ、そのことにとらわれて世界そのものを呪縛してしまうことに慣れてしまっています。そのことにメスを入れたのが「不二の法門」であり、それを「美」というテーマで展開したのが、柳宗悦さんなのです。

心の問題も美の問題も究極は一つである。心のわだかまりをほぐせ。これが救いとなる。わだかまりの元は、自己である。聖者が「捨ててこそ」というのは、この滞りの元たる己が消えると心に平安があるとの教えである。これで一切の苦厄が度されるのである。製作の場合でも、こだわらぬ自由に入ると、美しさに迎えられる。来迎ならざるはない。別の言葉でいえば、自由人たることである。自由が一切の主人になることである。光が照ると世界の凡てが昼となって夜がおのずから消えるのと同じく、おのずからこの自由の光が、一切を美しくしてしまうのである。だから醜さが消えてゆく。(P41)

  この文庫本には、柳宗悦さんの仏教美学の四部作である『美の法門』『無有好醜の願』『美の浄土』『法と美』とその四部作の「序」ともいえる「仏教美学の彼岸」「仏教美学について」が収録されています。同じ岩波文庫に「南無阿弥陀仏」という著書がありますが、これは、他力の神髄について、深く分け入った著作で、この「美の法門」と併読されれば、理解はより深まるものと思われます。

 この美の法門は、針に至るまで「供養」をするような日本人の「物」に対する態度と密接な関係をもっています。それはシュタイナーのいう「四大霊の解放」ということでもあります。

 シュタイナーは、古代においては、「呼吸」ということが重要性をもっていたが、現代では、「物」に深く分け入っていくようなあり方が重要だといいます。五感を世界に開いていくことによって、みずからをも解放していくことができるのです。

 そのことを理解するためにも、柳宗悦さんの「美の法門」は最適のテキストではないかとぼくは考えているのです。 

 

 

 

西田幾多郎・三冊


(95/12/06)

 

■上田閑照「西田幾多郎/人間の生涯ということ」(岩波書店・同時代ライブラリー)

■思想1995/11月号「西田幾多郎没後50年」(岩波書店)

■小坂国継「西田幾多郎/その思想と現代」(ミネルヴァ書房)

 岩波の思想はもう先月号になってしまいましたが^^;、先月の11月は、西田幾多郎に関する重要な書籍が、三冊もでました。

 上田閑照さんは、西田幾多郎の研究者としてもっとも定番の人であると同時にドイツ神秘主義、特にマイスター・エックハルトの研究者でもあります。また、西田幾多郎の関連で、禅に関する研究、著作もあります。今回の「西田幾多郎/人間の生涯ということ」は、西田幾多郎の思想に関する研究というのではなく、その生涯を追いながら、「生きることの意味」を問いかける興味深いもの。

 また、思想の11月号は、今年は西田幾多郎の没後50年ということで、それを記念して、西田哲学に関してさまざまな方が次のような論文を寄せたものです。 

・坂部恵「思想の言葉」

・中村雄二郎「西田哲学と日本の社会科学」

・新田義弘「学問としての西田哲学/非・対象の現象学」

・野家啓一「歴史の中の科学/西田幾多郎の科学哲学」

・大橋良介「群論的世界/西田哲学の「世界」概念」

・木村敏「西田哲学と医学的人間学」

・E.ヴァンマイヤー「西田とハイデッガー/比較哲学の試み」

・上田閑照「西田幾多郎/「あの戦争」と「日本文化の問題」」

・B.スティヴェンス「京都学派の問題」

・J.C.マラルド「世界文化の問題/西田の国家と文化の哲学の体得へ」

・大峯顕「西田幾多郎と夏目漱石/その詩的世界の意義」

・源了圓「近代日本における伝統観と西田幾多郎」

・遊佐道子「アメリカで西田研究を考える」

 この思想の特集に関しては、西田幾多郎について不案内な方にはあまりおすすめできないかなという感じはありますが、お買い得ではあります。

 さて、三冊目の小坂国継さんの「西田幾多郎/その思想と現代」は、それとは違って^^;、おすすめの一冊です。小坂国継さんの西田幾多郎に関する著作は、「東洋の論理−西田幾多郎の世界」(北樹出版/残念ながらこれは未読^^;)、「西田幾多郎と宗教」(大東出版社)についで三冊目ということですが、この「西田幾多郎と宗教」も、とってもおすすめの著作で、これはこの夏に読んで非常に刺激を受けた一冊でした。

 この「西田幾多郎/その思想と現代」は、西田幾多郎の後期、完成期の思想を扱ったもので、「弁証法的世界」、「行為的直観」、「ポイエシスとプラクシス」、「歴史的身体」、「絶対矛盾的自己同一」、「逆対応」といった非常に重要な概念が、その問題点への指摘も含めて、とてもわかりやすくきちんとまとめられてあります。

 これについては、追って、「西田幾多郎入門」として、解説していきたいなと考えていますので、興味のあるかたはご期待ください。一度は、この会議室でもまとまって西田幾多郎をご紹介したいなとずっと思ってましたので、いい機会になりそうです。

 ちなみに、ぼくの基本的な考え方の核の部分は、シュタイナーとこの西田幾多郎で尽きるといっても過言ではありません。そういう意味でも、西田幾多郎はシュタイナーとならんで、

 

 

インターネット・ストラテジー


(95/12/08)

 

■松岡正剛・金子郁容・吉村伸

 「インターネット・ストラテジー/遊牧する経済圏」(ダイヤモンド社)

 今、ぼくはインターネットをはじめようと思ってその基本的なところから少しずつ勉強しはじめているところなのですが、そうした中、この対談集に出会えたことはとてもラッキーだなと思ってます。

 とくに、「情報工学」という視点からアプローチしている松岡正剛さんの視点がここに加わっていることで、ぼくにとって非常に示唆的なものになっています。

 さて、この本のプロローグとして置かれている金子郁容さんの「三つのインターネット・ストラテジー」ということについて少し見てみることにします。

本書では、そのタイトルであるインターネット・ストラテジーという言葉に、次のような三つの意味合いをこめている。その第一の意味合いとは、世界中のコンピューターをつないでワールドワイドなコミュニケーションを可能にしたインターネットという強力なツールを得たいま、個人としてまた企業としてそのツールをどう有効に使いこなし、また、いかにしてビジネスに結びつけるか、その戦略ということである。

(中略)

第二の意味合いは、インターネットが与え始めているこのような社会・経済への本質的な影響の下で、われわれが個人としてまた企業としてどう考え、どうふるまい、どのような新たなる関係を築いていけばいいかということに関する、第一の意味合いよりは深い意味での戦略である。現在起こっているいろいろな現象をていねいに観察すると、インターネットは秩序を壊し、関係変化を促すものであると同時に、その反対のベクトルをももっていることがわかる。つまり、インターネットは世界をつなぎ自由な情報のやりとりを可能にすることで、多種多様な共同体をつくりだし、新たなる秩序を自己編集的につくりだす。ここには人々の間に広がる意識的なレベルの統一性とか世界感覚とでもいうものをもたらす力が見て取れる。(中略)インターネット・ストラテジーの三番目の意味合いは、このような多様性の中でのまとまりとでもいうべきものをつくりだす新しい組織論にわれわれがどうかかわるかという戦略である。インターネットは機械システムというよりは、世界を覆いながら伸縮自在の関係を自分でつくりだし、鼓動し息づいているという生物的なイメージがあるが、たとえば「DNAは生き残りの戦略として遺伝プロセスの自然淘汰メカニズムに対抗するために多様性を確保する」などという言い方があり、また人体には自己と非自己を差異化する免疫ネットワークの戦略もありうる。そのように新しい組織論とは、ある種の統一的世界感覚をつくりだす意識体としてのインターネット自身の戦略といえるかもしれない。(P8-9)

 

 重要なコンセプトとして、「組織なきネットワーク」というのがありますが、それは、ヒエラルキー的な組織としてのあり方ではなくて、作用そのものが自己組織化していくというネットワークのあり方をただただアナーキーな方向にもっていくのではなく、その危険性をはらみながらも、自己認識という自由を基盤におき、自発性によって伸縮自在の生きた形を形成していくことなのではないかなとぼくは捉えています。

 最近、ヘーゲルなどがちょっとしたブームということですが、それは「共同体」ということに対する関心の高まりでもあるように思います。それは「阪神・淡路大震災」で一躍注目をあつめた「ボランティア」というコンセプトとも関係してくることで、その「共同体」の問題を、インターネットは顕在化し、そのビジョンを提示していく可能性を秘めているのではないでしょうか。

 しかし、インターネットというコミュニケーション・ツールによる可能性は個々人の人格的能力とでもいうものによってサポートされてはじめて、未来への新たな可能性をひらいていけるように思います。それが、単なる既存の組織の破壊を意味するだけではならないと思うのです。

 さて、ぼくも、これからインターネットをお遊戯しながら、それがひらくビジョンを体験してみたいと思っています。

 そういうなかで、この「インターネット・ストラテジー」は非常に示唆的で、必読の一冊なのではないでしょうか。

 

 

 

ミネルヴァの森の哲学教室


(95/12/12)

 

■山口實「ミネルヴァの森の哲学教室」(TBSブリタニカ) 

 「ソフィの世界」が話題になっていますし、それはそれで西洋哲学史の概観を面白く描いているのは、画期的なことかなと思うのですが、やはり、哲学はもっと深くさまざまな問題に切り込んでいくほうが、ずっとスリリングだと思います。

 シュタイナーも最初は、ゲーテの自然学の研究ととともに、哲学の問題として、人間の自由をはじめとした根本問題をさまざまに探求していました。そしてそれがその後に展開される神秘学の認識的基盤にもなっていたわけです。

 今回ご紹介する山口實さんの「ミネルヴァの森の哲学教室」は、生命の問題の根本の部分についての、非常に分かりやすくしかも非常に深い切り込みがなされているように思います。

 この本を手に取るまで、ぼくは、この山口實さんのことを知らなかったのですがこの方はカントの「純粋理性批判」の解説に取り組んでいるのをはじめとして最近、「生命のメタフィジックス」という著書など書かれたということでそれも早速読んでみようかなと思っているところです。カントといえば、シュタイナーの「自由の哲学」というのは、カントを超える認識を提示しようとしたものでもあります。

 この「ミネルヴァの森の哲学教室」は、アテネの女神、アテナがミネルヴァの森のフクロウに「生命」ということについて二十三夜に渡ってお話をしていくという設定で書かれていて、毎回、ひとつのテーマがわかりやすくとりあげられています。全体としては、「生命は物質だけから偶然に誕生するか?」「すべての生命の根源である<驚異的な叡智を持つ生命>が存在するか?」という二つのテーマが扱われています。

 たとえば、こんなふうな具合に話は進められてゆきます。「第一夜/生命の存在はどのように証明されるか?」より。  

女神 また、あなたは、とても心のやさしいフクロウさんだから、悪いことはしないけど。仮にもしも何か犯罪を犯したとしたら「私のやったことは機械の必然的な運動の結果だ。だから何も責任を問われる筋合いのものではない」と本心から言うかしら?

フクロウ 言えないでしょうね。

女神 なぜ?

フクロウ <その行為をしなくてもすむ自由があったのに、それをあえてした>ということが内心、自分で分かっているから。

女神 そうね。機械と生命が根本的に違うのは、そこなの。機械には自由がないということなの。機械は、どんなに判断を素晴らしく出来るように見えていてもあくまで物理的な法則の上に厳密に乗って動いているだけなの。

フクロウ そう言われてみて、あらためて人間の社会をのぞいてみると、確かにどこもかしこも「自由と責任」の問題ばかりですよねえ?感謝したり、怒ったり愛したり、憎んだり。みんな「自由と責任が問題にされていることばかり。実際「自由と責任」が問われなくなったら、人間社会なんて、なくなっちゃうんじゃないかな。人に感謝するのも、その相手が<やらなくてもいい自由があったのにやってくれたからですよねえ?怒るのは、<こちらに失礼なことをやらなくてもすんだ自由があったのに、あえてやった>からなんだ。(P11-13)

  このように、非常に重要で深い問題を、きわめてわかりやすく、実感できる形で、この哲学は展開されています。 この内容からでも、ほんとうにいろいろなことを考えることができるでしょう。

 たとえば、唯物論という問題を、この自由と責任から考えてみると、唯物論の最大の問題は、その認識から「自由や責任」がでてくることができない。だから、そこに生命や愛ややさしさといったことが無視されてしまう。そういうことになることがわかります。

 「ソフィの世界」で、哲学に興味をもたれた方は、ぜひ、目を通してほしいなと思う一冊です。 

 

 

西研「実存からの冒険」


(95/12/15)

 

■西研「実存からの冒険」(ちくま学芸文庫) 

 著者の西研さんは、以前ここでもご紹介したように、とっても興味深いヘーゲルと共同体の問題を扱った「ヘーゲル・大人のなりかた」(日本放送出版協会)の著者でもあり、また、ぼくとほとんど同世代ということもあって、ぼくには感覚的にとっても受け入れやすいところがたくさんあります。

 さて、この著書は西研さんが1989年に出された処女作ということですが「ヘーゲル・大人のなりかた」で見せた軽やかな話ぶりの原点とでもいうものを感じさせる好著です。

 扱われているのは、ポストモダンと称されるトレンドの原点でもあるニーチェ、それからハイデッガー、そしてポストモダン批判というあたりですが、ハイデッガーでのあれこれが少しいまいちかなという以外は、なかなかに鋭くてしかも限りなく平易で楽しい哲学書としてとってもすぐれていると思います。

 えっと、この中に盛り込まれているテーマは、第三章の「現象学=実存論とは何か」の最初に書かれていることかなとぼくは受け取りました。

ニーチェは「絶対の真理なんてものはないんだ、人間にとって大事なことは高揚なんだ」といっていた。ハイデッガーも、絶対的で客観的な真理を認めずに、人間の実存から出発して、自分の死の了解が生き方のかたちを新しくすることを指摘したのだった。

ニーチェを源泉とするポスト・モダンの思想も、フッサール、ハイデッガーとつづく現象学=実存論の思想も、「絶対的で客観的な真理があるはず」という考え方をどう批判するか、ということが一つの重要なモチーフになっている。これは、若い人たちのあまりピンとこないんじゃないかな、と思う。「そんなのあたりまえだろ、いちいちそんなことやって何の意味があるの」というのが正直なところじゃないか。そう思うのも当然なのだ。マルクス主義という強力な「真理の体系」が、現在、もうすっかり勢いをなくしてしまったからなのである。ポスト・モダンの思想は、直接にはマルクスに対する反発から起こってきたもので、ぼくじしんも少し前までは大なり小なりポスト・モダン的だった。けれども、その真理や道徳、共同体、自我などに対する批判は、不徹底なものだった。ポスト・モダン的な思想家たちは、あいもかわらず、真理や共同体というコトバに×をつけ、「共同体から外へ出ること」「他者が大事だ」などということを繰り返している。

ぼくが現象学=実存論という思考の系譜を取り上げたのは、それが真理や道徳に対するより徹底した批判であり、しかも、それは、人間が考えたり言葉を交わしたりすること、つまり「思想」の営みの意味をはっきりさえてくれたからだった。つまり、現象学=実存論は、展望を拓いてくれるのである。(P196-197)

 つまり、「これが真理の体系だ」というあり方のキリスト教やマルクス主義のように、真理や道徳、共同体が外から絶対的に押しつけられたことに対するアンチテーゼとして、ニーチェなどを引き合いにだしながらちょっと前にがんばったのがポストモダンと言われる思想だったのですが、それは多くがアンチテーゼのバリエーションとして、浅田彰のように分裂病的なスキゾ・キッヅのように逃げ回ったり、中沢新一のように近代以前のネタで煙にまきながらお遊戯したりするようなそんなどこにも出口が見つからなくなるようなものでしかありませんでした。

 けれど、そういうのでいいわけはなかったのです。それが明らかになったのが、象徴的なオウム事件だったのではないでしょうか。ポスト・モダンはオウムを批判しきれないのです。だって、彼らは真理や道徳をただ遊び半分に否定して見せただけなのだから。

 シュタイナーは、ニーチェの時代にすでに、ポスト・モダンを越える視点を哲学として提出していましたし、西田幾多郎も戦前において、そこらへんの問題にがっぷり四つに取り組んでいたのです。ただ、それが現代にいたるまで、いや現代でもほとんど理解されてないのです。

 外的に押しつけられた真理や道徳は人間の自由を奪うものです。だから、そこから自由になる必要がありました。けれど、ただそれらを否定すればいいというわけではなかったのです。

 では、どうすればいいのでしょうか。誤解をおそれずにいうと、人間は真理や道徳を創造しなければならないのです。人間は、「世界」を対象としてみて、自らをそこから離れた立場にいて、そこから真理や道徳を引き出してくるのではなく、「世界」の内から「世界」を見ているのです。

 西田幾多郎は、前者の立場を「意識的自己の立場」と呼び、後者の立場を「行為的自己の立場」と呼んでいます。つまり、こういうことです。「私が考える故に私があるのではなく、私が行為するが故に私があるのである。考える故に私があると考えるならば、考えるということが既に行為の意義を有する故でなければならない」。人間は、世界から働きかけられながら、同時に世界に働きかける存在です。

 シュタイナーの自由の哲学のテーマも「善はそうあるべくしてあるのではない、それを意志することでそれを創造しなければならない」人間は生まれながらにして自由なのではなく、自由を創造しなければならない。そういうことでした。

 つまり、真理や道徳、共同体、自我といった問題を外的なものとしてそれにアプローチするのでなくそれを自由意志によって創造していくということ。「そうすべきだ」ではなく「そう意志する」というような自由で主体的な創造行為としてとらえること。それが大切なことではないかと思うのです。

 ・・・なんだか、書籍の紹介からはなれてしまいましたが(^。^;)、今回ご紹介した書籍は、そういう考え方への入り口としてみれば、非常にわかりやすく意義深いものではないかと思います。 

 

 

鷲田清一「ちぐはぐな身体」


(95/12/18)

 

■鷲田清一「ちぐはぐな身体/ファッションって何?」

      (筑摩書房/ちくまプリマーブックス93)

 おそらくこれは、ファッション論としてはかなりラディカルなもの。しかも、この筑摩書房の「ちくまプリマーブックス」というのは、高校生に向けて書かれたものなので、とっても気軽に読めるのが素敵です。

 著者の鷲田清一氏は哲学者だし、この本も正真正銘の哲学書。「ファッション」は哲学にならないと考えていたら大間違いで、これは「身体」から「アイデンティティー」の問題までが、深く深く関わっているとっても切実な問題なわけです。

 ぼくが「ファッション」に関して読んだ最初の思想的な本は、かつて大ファンだったロラン・バルトの「モードの体系」でしたが、この鷲田清一氏の著書にも、「モードの迷宮」「最後のモード」なんていうのがあるから、おそらくバルトの大ファンだったようです。ちなみに、ロラン・バルトには「言語は権力である」という言葉がありますがそれはかつてぼくにとっても衝撃的な影響を与えたように思います。

 これはまったくの余談ですけど、そのロラン・バルトも突然のように交通事故で亡くなってしまいましたし、フーコーはエイズで、ドゥルーズは自殺で、とフランスの重要な思想家・哲学者はわりと劇的な死に方をしているようです。

 前置きが少し長くなりましたが、本の紹介に戻りましょう。 

 この本は、身体論を導入部として、そのうえで、ファッションについてのラディカルな考察に移るわけなのですが、その導入のところで、「身体は<像>だ」というように身体を確固としたものとしてではなく、こわれやすいイメージとして提示します。

ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れて見ればこんなふうに見えるんだろうな……という想像のなかでしか、ぼくの身体はその全体像をあらわさないと言っていいはずだ。つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり<像(イメージ)>でしかありえないことになる。言いかえると見るにしろ、触れるにしろ、ぼくらは自分の身体に関してはつねに部分的な経験しか可能ではないので、そういうばらばらの身体知覚は、ある一つの想像的な「身体像」を繋ぎ目としてたがいにパッチワークのようにつながれることではじめて、あるまとまった身体として了解されるのだということだ。ぼくらが着る最初の服は、この意味で、<像>としてのからだの全体像なのだ。そして、身体はその意味で想像の産物、解釈の産物でしかないからこそ、もろいもの、壊れやすいものなのだ。(P11-12)  

 「身体」は、自分というアイデンティティーの支えであることが多いわけですがその身体が「イメージ」それも、非常に壊れやすいものだというのです。

 わたしたちは、こうした壊れやすい身体のイメージを補強しようとして、ほんとうにさまざまなことをしています。つまり、<わたし>という存在の「輪郭」を補強して、<わたし>と<わたしでないもの>を明らかにしようとするわけです。そうでなくては、不安でしかたがないのです。

 そのための方法としては、皮膚感覚を使ったフィジカルなもののほかに、<わたし>というものの性別や性格、職業、ライフスタイルなどを目に見えるかたちで表現していくというやり方があります。

イメージとしての身体に切れ目を入れる。それが身体の表面にさまざまの意味を発生させるもっとも基本的な手法だ。たとえば一枚の布をまとうとしよう。布の両端を紐かボタンでとめると布は筒になる。するとそこに<内>と<外>が出現することになる。そしてその内部が、ぼくだけの「秘密の」空間となる。つまり、見せる/隠すという二つのベクトルが、布をまとうという一つの行為のなかに発生しはじめるのだ。すると、ひとの視線は布とそこからのぞく肌との境界に吸い寄せられる。境目をどこに設定するか、というのが服飾のポイントになってくるわけだ。(P15)

  こうした身体の切れ目である<見せる/隠す>その「境界」。その「境界」が、<わたし>と<わたしでないもの>の「境界」になっていきます。そしてその「境界」をあいまいにすることを「きたない」ととらえ、それをさまざまな「タブー」としたりしていくことになるわけです。

それはたぶん、それらの存在を認めれば、意味の差異、意味の秩序というものが成り立たなくなるからだ。それは秩序の根幹にかかわる。ひとは連続的な存在のなかに<意味>という不連続の切れ目を入れて、差異の体系として秩序をかたちづくる。男/女、おとな/子ども、内部/外部、自己/非自己、親族/他人、正常なこと/異常なこと、食べられるもの/食べられないもの、有害なもの/無害なもの……いろんな区切りを世界のうちに設定していき、そうした意味の体系によってじぶんたちの生活に一定の安定したかたちを与えているのだ。だからそれが崩れる気配にはとても敏感である。それを防衛するために、それを少しでもあいまいにするもの、ないがしろにするもの、侵犯するものを、どんどん摘発していく。それがさまざまの禁止事項なのだ。(P26-27)

 もちろん、だからこそ、その境界を侵犯することが限りなく魅力的なことになり、そこからの誘惑に心引かれることにもなります(^^)。隠せば見たくなり、いけないといわれればやりたくなる^^;。そこに真理があるかのように、それを探り当てれば何かがわかるかのように。

 しかし、そこに真理があるのだろうか、ないのではないのだろうか、意識をそらせることで問題そのものを回避させるように仕組まれているのではないか著者は、そういう問題提起を行ないます。

物語の結末、ことの真相、最終的な真理というのは、じつをいうと、暴露されてしまえばたいして意味のないことの場合がほとんどだ。そこに真理があるというより、そこに真相が隠れていると感じさせることがポイントになる。

(中略)

ぼくらにとってこの最終的な真理とはいったいなんだろうか。生きることの根拠、つまり、じぶんがじぶんであり、他人と秩序だった関係をむすびつづけること(たとえば家族や隣人や同僚として)、そのことが、偶然のこと、つかのまのことではなくて、当然そうあるべき根拠をもっていたということを確信させてくれるようなことがらであるが、そんなものはあるのだろうか。あるいは、ぼくらはそういう秩序の根拠をじぶんたちのうちに見出すことができるのだろうか。たぶんない。(P40-41)

  今回、この本をご紹介するにあたって、いちばん言いたかったことがこのことに関することです。著者は、この引用のように、「ぼくらはそういう秩序の根拠をじぶんたちのうちに見出すこと」が「たぶんない」と言っているがはたしてそうだろうかということです。

 これは「自由」と「個」ということについての非常に重要な問題です。

 先日、西研さんの「実存からの冒険」をご紹介しましたが、そのアーティクルの最後に、こういうことを述べました。  

シュタイナーの自由の哲学のテーマも「善はそうあるべくしてあるのではない、それを意志することでそれを創造しなければならない」人間は生まれながらにして自由なのではなく、自由を創造しなければならない。そういうことでした。

つまり、真理や道徳、共同体、自我といった問題を外的なものとしてそれにアプローチするのでなくそれを自由意志によって創造していくということ。「そうすべきだ」ではなく「そう意志する」というような自由で主体的な創造行為としてそれが大切なことではないかと思うのです。

 単に、根拠が自分にない、ということを言ってしまうだけでは、世界は恣意的な無秩序にすぎないと言っているのと同じです。

 もちろん、世界を「恣意的な無秩序」として意志するとしたら、世界はまさに「恣意的な無秩序」と化してしまうことでしょう。

 最近の哲学的アプローチというのは、どうも「恣意的な無秩序」と「快楽」に逃げてしまう傾向にあります。そこからは、なにも生まれてこないことにそろそろ気づくべきではないでしょうか。

 ま、そのことは別として、今回ご紹介した本は、とっても楽しい気づきに満ちたスリリングなものですので、ご一読を。

 

  

 

天使が私に触れるとき


(96/01/18)

 

■ダン・リントホルム「天使が私に触れるとき」(松浦賢訳/イザラ書房)

 イザラ書房から翻訳・刊行されていた全4巻の「シュタイナー天使学シリーズ」、シュタイナー「天使と人間」、ビトルストン「魂の同伴者たち」、そしてシュタイナー「悪の秘儀」に続く、第4巻目。

 著者のダン・リントホルムは、ノルウェーのシュタイナー学校の教師ですが、その著者が自分の体験を含めて、さまざまな方から聞いた天使体験を書き留めたのが本書です。

 天使体験といっても、これみよがしな天使との壮大なドラマというのではなく、人生のなかで差し込んできた超感覚体験の光といった感じのエピソードで、「ちょっとしたインスピレーションに過ぎないではないか」とでもいえそうな形としてはささやかだともいえる体験もそのなかには収められていて、天使体験を特別視させてしまうようなこれみよがしな語り方は慎まれています。

 ですから、ここでいう天使はもちろん人間がわがままを押しつけたり欲望を満たすために存在したりするような存在として描かれているのではなく、時には、人間を試練に突き落とすかのようにも思える存在です。人間が通常の感覚で幸福だとか不幸だとか思っていることも、生死を越えた人間とした見地で見たときにはまったく違った観点でとらえることができるのではないでしょうか。

 「解説とあとがき」に、とても重要なことが述べられてますので、それをご紹介したいと思います。

天使の高みから地上の世界を見つめ直すことによって、わたしたちの人生に対する取り組み方はおのずと変わっていく。天使学を学ぶ意義は、まさにこの点にあると言わなければならない。このような新たな視点を獲得するときもはやわたしたちは地上的な幸福や不幸に翻弄されることはなくなる。安易に有頂天になることも、闇雲に絶望することもなくなる。このとき初めてわたしたちは、高次の存在に対して謙虚になることを学ぶのである。真の敬虔真の信仰はここから生まれる。

(中略)

この世でわたしたちが体験することは、すべて魂のためのレッスンなのだ。わたしたちの魂が成長し、進歩するためには、たとえ地上的な視点から見ると不幸としか思われないような出来事でも、ありのままに受け入れることが必要なのである。そして、リントホルムが述べているとおり、わたしたちが「自分自身の人生は、天使にとって導かれている」と確信するとき、初めて人間と天使との接触が生じる。つまり、わたしたちが天使がもたらす人生の課題をみずから進んで受け入れる決心をするとき、天使はこのような人間の思考や感情の中から力を取り出すのである。天使は人間の善き考えや感情を必要としているのだ。(P207-208)

  この本は、とっても読みやすい、絵でもつければ、

心温まる、または少し厳しいけれど心に学びを与えてくれるそんな絵本にでもなるのではなかと思える天使本です。

 

  

シュタイナーのカルマ論


(96/01/24)

 

■ルドルフ・シュタイナー

 「シュタイナーのカルマ論/カルマの開示」(高橋厳訳/春秋社)

 これは、1910年、シュタイナーが、まだ神智学協会のドイツ支部長をしていた頃に、2週間に渡って集中的に行なったカルマ論講義です。

 この「カルマの開示」という講義集の邦訳は、すでに2年前、イザラ書房から西川隆範氏の翻訳で刊行されていましたが、今回はその同じテキストを高橋厳氏が翻訳したものです。イザラ書房版が3200円なのに対し、今回の春秋社版が2575円だし、翻訳も今回のもののほうが丁寧にされているようですので、購入されるようでしたら、(装丁はいまいちだけど^^;)新刊のほうがおすすめです。

 シュタイナーのカルマ論に関する講義は、再び晩年に集中的になされますが、この1910年のカルマ論の内容は、それに劣らず素晴らしい内容が盛られています。

 今回、別の翻訳ではありますが、2年ぶりに読み返してみて、身体の内から感動の熱がわき上がってくるのを感じていました。これは、ほんとうにおすすめでできるシュタイナーの講義集ですので、もし、シュタイナーを何か読んでみようかなとお考えの方がいらっしゃればぜひこの機会にこの新刊をお読みいただければと思います。

 愛と光に織りなされたこの生の意味が、深く深く読む者の内に沁みわたってくることと思います。

 今回は、あえて、引用は避けておきますが、この内容については、おりにふれてコメントしていこうと考えています。

 

  

テオドールから地球へ


(96/01/29)

 

■ジーナ・レイク

 「テオドールから地球へ/地球は第4密度へと移行する」(たま出版)

 本書は、いわゆるチャネリングものですが、いわゆる宇宙人からのメッセージという形で、地球に関係している主な存在たちについて、そしてそうした存在たちとのサポートのうちに、「第4密度」へと移行しようとしている地球にいる我々がどうあるのが望ましいのかについて、語られています。ちなみに、今は、第3密度から第4密度への移行期にあるのだそうです。

 この本がでる前にも、地球に関わっている存在たちについての邦訳文献にはリサ・ロイヤル&キース・プリースト「プリズム・オブ・リラ」(ネオデルフィ)というのが3年ほどまえにでてましたが、今回の「テオドールから地球へ」は、それをかなり読みやすくして、トータルなメッセージとして語られているという感じですし、アメリカ政府と秘密裏にあれこれやっていたり、その他の働きかけをしているというふうに伝えられている存在たちについてもある程度概観を与えてくれているように思います。 

 こうしたことの真偽に関してはあれこれと意見の分かれるところではありますがここにはなにがしかの真実があるようにぼくには感じられます。もちろん、UFOだとかに過剰なまでの興味をかき立てられるままに、そうしたことへの関心が自己目的化していく向きは自粛しなければなりません。UFO、異星人情報というのも、我々がいかによりよく生きるかということに関わるものでないかぎり、悪しき方向に流れてしまうものだからです。

 この本で主に紹介されているのは、プレアデス人、シリウス人、オリオン人、そしてグレイとゼータ(ゼータ・レチクル)についてです。

 その詳細については、関心のある方にお読みいただくとしまして、ここでは、この地球という磁場でこれから起こっていくであろう「統合」ということについての部分を少しご紹介させていただくことにします。

未来における世界は、二つの意味において統合されることになります。すなわち、陰陽の両極が統合され、また、さまざまな地球外生命体達を含めた全ての種属が統合されることになります。

(中略)

他を受容するということは、邪悪なものをも受け入れることを意味しています。統合された社会においても邪悪なものは存在しますが、そうしたネガティビティでさえもその存在がありのままに受け入れられ、ポジティビティに力で押さえつけられるのではなく、社会が持つ愛を注ぐことによって、その性質の転換がはかられるのです。統合された社会においても、陰極を通じてのネガティビティは、その存在を肯定されなければなりません。統合された社会にも陰陽の両極が存在しますが、それら二つの極は均衡しているのです。両極がそれぞれ作用し合うことのない社会においては、両者の統合は重要な意味を持ちません。なぜかというと、そうした社会には統合すべきものが何一つとしてないからです。ですが、地球を含むさまざまな世界において、両極の統合はひとつのゴールです。(P250-258)

  この部分を引用したのは、こうしたビジョンにおいても、ある種、統合的な「中道」の考え方がひとつのガイドになるからです。そして、それは「自由」とは何なのか、またその積極的意味は何なのかを深く考えさせてくれるものでもあります。

 自由というのは、ポジティブな可能性しか与えられていない存在には存在しないものだということは理解できると思います。つまり、迷ったりする可能性がないということなのです。私たちは迷う可能性、悪を行なう可能性のなかで、そうでないもっと統合された可能性を創造していかなければならないのです。

 この本は、そうしたことを理解する上でも、それなりに参考になると思います。 


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