風の本棚
斎藤孝「身体感覚を取り戻す」
2000.9.13
■斎藤孝「身体感覚を取り戻す/腰・ハラ文化の再生」
(NHKブックス893/2000.8.30発行)
以前、三浦雅士の「身体の零度」をご紹介したことがあるが、
本書は、その「身体」の問題を、現代日本のある種の危機的状況に対して
「身体」という観点から鋭く観た提言となっている。
「現在の日本で、カラダに何が起こっているか」という問いに一言で答え
るならば、<中心感覚>が失われているということになるのではないだろ
うか。(P4-5)
最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかり
ここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚
の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨
が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、
「腰が据わっている」や「肝(はら)ができている」や「地に足がついて
いる」といった感覚を自分の身において実感できている者はどれだけいる
であろうか。(P2)
現代の子どもたちの身体性とでもいうものは、
少し観察してみるだけでも、かなり危機的状況に陥っていることがわかるが、
すでに、身体性の変化は、戦後急速に進んできたように見える。
ぼくの親の世代とその上の世代をくらべてみてもその違いは明かである。
二一世紀を迎える現在の日本には、身体のさまざまなタイプが混在して
いる。その中でも大きな違いが見受けられるのは、現時点での七〇歳以上
の人たちのもっている身体文化や身体知と、六〇歳前後から下の年齢の人
たちとの違いである。(P2)
ぼくは、かなり自然環境が残っているところで生まれ育ち、
鍼や灸、ツボといったことが比較的に日常的に用いられている環境にいたのもあり、
「腰」や「肝(はら)」といった感覚からあまり遠くならず、
身体感覚として日本の伝統的な身体文化をまだ少しは残しているようであるが、
同世代の人たちの多くをみていると、そういう方でさえ比較的少ないようである。
まして、子どもたちは、そうした身体文化からはるか遠ざかっているようである。
著者は、日本の伝統的な身体文化を<腰肝(こしはら)文化>としてとらえ、
それを見直すことで、失われかけているからだの<中心感覚>を
再生させるための視点をさまざまな視点から検討している。
もちろん、たんに日本の伝統的な身体文化を取り戻すべきだというのではなく、
「身体感覚を取り戻す」ために必要であろう「文化遺産としての身体感覚と技」を
意識的に伝承するということの必要性を急務としてとらえているのだといえる。
「欧米社会における伝統的な身体感覚」にも適応することは避けられないのだが、
自己の<中心感覚>や他者との<距離感覚>といった基本的な感覚を
その適応力の基盤とするためにも、それが必要だというのである。
本書でとりあげられている視点は幅広いもので、
「型」や「技」といった視点、「息の文化」などはもちろんのこと、
ゲーテやシュタイナーなどまでとりあげられていて、
コンパクトながら、かなり総合的なものになっているのではないかと思う。
とはいえ、どうしてもシュタイナーについては、
アカデミズム特有の言い方で、次のようなことが言われたりもする。
シュタイナーの世界観は広く深いが、彼の言う「超感覚的世界の認識」
は神秘主義的色彩が強すぎるので、からだを論じる場合には注意深く
とりのぞかれるべきであろう。(P202)
現状では仕方がない部分はあると思うし、何を危惧しているのかも理解できるが、
「神秘主義的色彩」ということへの先入見の問題性もあると思うし、
とくに、他の宗教的な技法に対しては無批判であるだけに、
「からだを論じる場合には」どうして「とりのぞかれるべき」なのか疑問である。
シュタイナーの医学への示唆は了承しながら、
その認識の基盤については「とりのぞかれるべき」だというようなものだから。
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