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 (2000.9.13-2001.7.29)


斎藤孝「身体感覚を取り戻す」
岡野守也「自我と無我」
上遠野浩平:ブギーポップ・シリーズ
坂口尚
鈴木漠詩集
中沢新一「フィロソフィア・ヤポニカ」
五味太郎「大人問題」
日本古代史の秘密
糸井重里『インターネット的』
山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』

    風の本棚

斎藤孝「身体感覚を取り戻す」


2000.9.13
 
■斎藤孝「身体感覚を取り戻す/腰・ハラ文化の再生」
 (NHKブックス893/2000.8.30発行)
 
以前、三浦雅士の「身体の零度」をご紹介したことがあるが、
本書は、その「身体」の問題を、現代日本のある種の危機的状況に対して
「身体」という観点から鋭く観た提言となっている。
 
        「現在の日本で、カラダに何が起こっているか」という問いに一言で答え
        るならば、<中心感覚>が失われているということになるのではないだろ
        うか。(P4-5)
 
         最近、自己の存在感の希薄化がしばしば問題にされる。自分がしっかり
        ここに存在していると感じられるためには、心理面だけでなく、身体感覚
        の助けも必要である。現在の日本で、自分のからだに一本しっかりと背骨
        が通っていると言うことができる者はどれだけいるであろうか。あるいは、
        「腰が据わっている」や「肝(はら)ができている」や「地に足がついて
        いる」といった感覚を自分の身において実感できている者はどれだけいる
        であろうか。(P2)
 
現代の子どもたちの身体性とでもいうものは、
少し観察してみるだけでも、かなり危機的状況に陥っていることがわかるが、
すでに、身体性の変化は、戦後急速に進んできたように見える。
ぼくの親の世代とその上の世代をくらべてみてもその違いは明かである。
 
         二一世紀を迎える現在の日本には、身体のさまざまなタイプが混在して
        いる。その中でも大きな違いが見受けられるのは、現時点での七〇歳以上
        の人たちのもっている身体文化や身体知と、六〇歳前後から下の年齢の人
        たちとの違いである。(P2)
 
ぼくは、かなり自然環境が残っているところで生まれ育ち、
鍼や灸、ツボといったことが比較的に日常的に用いられている環境にいたのもあり、
「腰」や「肝(はら)」といった感覚からあまり遠くならず、
身体感覚として日本の伝統的な身体文化をまだ少しは残しているようであるが、
同世代の人たちの多くをみていると、そういう方でさえ比較的少ないようである。
まして、子どもたちは、そうした身体文化からはるか遠ざかっているようである。
 
著者は、日本の伝統的な身体文化を<腰肝(こしはら)文化>としてとらえ、
それを見直すことで、失われかけているからだの<中心感覚>を
再生させるための視点をさまざまな視点から検討している。
 
もちろん、たんに日本の伝統的な身体文化を取り戻すべきだというのではなく、
「身体感覚を取り戻す」ために必要であろう「文化遺産としての身体感覚と技」を
意識的に伝承するということの必要性を急務としてとらえているのだといえる。
「欧米社会における伝統的な身体感覚」にも適応することは避けられないのだが、
自己の<中心感覚>や他者との<距離感覚>といった基本的な感覚を
その適応力の基盤とするためにも、それが必要だというのである。
 
本書でとりあげられている視点は幅広いもので、
「型」や「技」といった視点、「息の文化」などはもちろんのこと、
ゲーテやシュタイナーなどまでとりあげられていて、
コンパクトながら、かなり総合的なものになっているのではないかと思う。
 
とはいえ、どうしてもシュタイナーについては、
アカデミズム特有の言い方で、次のようなことが言われたりもする。
 
        シュタイナーの世界観は広く深いが、彼の言う「超感覚的世界の認識」
        は神秘主義的色彩が強すぎるので、からだを論じる場合には注意深く
        とりのぞかれるべきであろう。(P202)
 
現状では仕方がない部分はあると思うし、何を危惧しているのかも理解できるが、
「神秘主義的色彩」ということへの先入見の問題性もあると思うし、
とくに、他の宗教的な技法に対しては無批判であるだけに、
「からだを論じる場合には」どうして「とりのぞかれるべき」なのか疑問である。
シュタイナーの医学への示唆は了承しながら、
その認識の基盤については「とりのぞかれるべき」だというようなものだから。

  風の本棚

岡野守也「自我と無我」


2000.9.28
 
■岡野守也「自我と無我/<個と集団>の成熟した関係」
 (PHP選書128/2000.10.4発行)
 
「滅私奉公」とほぼ同一視されてきた「無我」、
エゴイズムの蔓延につながる「自我の確立」。
その矛盾したようにみえる「無我」と「自我」のあり方に対して、
大乗仏教の唯識とケン・ウィルバーの思想をガイドにしながら、
到達すべき人間成長のビジョンを提唱する・・・
というのが本書のテーマなのだけれど、
どこか違和感を覚えながら読み進めた。
 
テーマ的にはとても興味深いものだし、
「無我」や「自我の確立」については、
その部分的な理解ゆえの錯誤が多いだけに、
その両者の関係をちゃんと位置づけて理解する必要性はあるのだけれど、
どこかが違う・・・という感じがしていた。
そのひとつが、あまりに図式的な人間成長の発達段階の説明の仕方だ
ということはある程度最初からわかっていたのだけれど、
それだけではなく、もっと根本的なところにある何かではないか。
そう思っていたところ、三分の二ほど読み進めた段階で、
やっとその部分がわかってきた。
と同時に、トランスパーソナル心理学についてもっていた違和感についても、
ああ、これだったんだ、ということが腑に落ちてきた。
 
次の箇所にあるようなところに見える、
巧妙に姿を変えた唯物論ではないだろうか、ということ。
 
         ウィルバーは、コスモスの進化は心で終わりではなく、魂や霊に達して
        おり、すでにここまで覚った人がいるではないか、と言う。ここまでのす
        べてを、百五十億年かけて生み出してきたのが、ほんとうの宇宙であり、
        物質からーー物質がベースであることは決して否定しないーー生命をも心
        をも魂をも霊をも生み出してきた。ここまで来たこの宇宙の百五十億年の
        歩みを、単なる偶然と捉えるのはあまりにも幼稚ではないか。むしろ、そ
        こにははっきりと秩序があり、方向性があるというふうに捉えるべきでは
        ないか、と言う。(P159)
 
         ダイナミックな百五十億年の働きを通じて形成・創造されてきた頂点に
        私たちがいる。それは私たちが勝手に決めたことではない。私たち人間が
        勝手に最高だと言っているのではない。そしていちばん上にいるからこそ、
        その基礎になるものに対して責任があるのである。
         つまり、宇宙は人間を通じて自己認識をし、花開くためにたゆむことな
        く進化し続けてきたと考えられる。それをウィルバーは「ビッグ・ブルー
        ム(大いなる開花)」と呼ぶ。つまり、ビッグバンはどこを目指している
        かというと、ビッグ・ブルームを目指しているというのだ。(P174-175)
 
         もし、私たちがそうした世界観を自分のものにした時には、生きること
        と死ぬこと全体がコスモスのプロセスだという視点から、生きることだけ
        ではなく、生きることと死ぬことの意味が見えてくる。この体とこの心の
        死ぬことも宇宙のプロセスなのだ。「この心とこの体を持った個人として
        の私だけが私だ」と思い込んでいると、「死んだらすべては無意味だ。生
        きている間に自分が楽しいことをするしかない」と思えてしまうが、この
        体、この心はなくなっても、私の生き死にしたことの影響はコスモスのビ
        ッグ・ブルームへと向かう進化のプロセスの一部として残っているのだか
        ら、無意味にはならないのである。(P193)
 
一読して明らかなのは、著者のコスモス理解である。
物質が心や魂や霊を生み出してくるのがコスモスの進化プロセスだという。
この理解で「無我」と「自我の確立」を説明すると、
きわめて直線的で図式的にしかならないように思う。
部分的に正しく見えるものが、いかにある種の困難をもたらすか、
ということを証明しているようでもある。
 
著者は、1947年生まれ。
プロテスタント・キリスト教の牧師の家庭に育ち、大学は神学部へ。
しかし、その神学部では、「近代的な理性・科学に照らしつつ
キリスト教の持つ意味を再解釈しようという<非神話化>」が
深刻な問題」になっていたという。
同時に、時代は「大学闘争」で新左翼・全共闘が力を持っていて、
行動はしなかったというものの、そこから
「人間の本質として社会の向かうべき方向は、「共同体主義」という
意味での「コミュニズム」だ」というふうに思ったという。
 
どのように神学とコミュニズムを折衷させていくか。
そういう観点から、著者の提示している考え方を理解していくと
少し見えてくるものがあるように思う。
むしろ、本書はそうしたことの証言としての
意味合いとして意味があるのではないだろうか。
 
ともあれ、本書は、著者の提示したテーマについて考える発端としての意味とともに、
そのアプローチがどの点で注意が必要かを発見させてくれるものとしてみれば、
興味深い著作になっているのではないかと思えた。

 

  風の本棚

上遠野浩平:ブギーポップ・シリーズ


2001.1.15
 
本を紹介するだけでは芸がないという感じもして、
この「風の本棚」というのをしばらく休んでいたのだけれど、
せっかくHPにもコーナーをつくっていることもあるので、
もそっとテーマ性のようなものをもたせながら、
再スタートしてみようかとか思っています。
テーマ性といってもそんなに大げさなものを考えているわけではなくて、
ああそういうの面白そうだなと思ったとき、
そのテーマとか作家とかに関してもうちょっと広がりのあるかたちで、
ご紹介できたほうが少しは役にたつのではないか、くらいのノリです。
 
で、最初はその軽いノリの気分を表現するために、軽いものから。
 
■上遠野浩平:ブギーポップ・シリーズ
 イラスト:緒方剛志
 (電撃文庫/発売元:角川書店、発行所:メディアワークス)
 
昨年の末までこの作者もこのシリーズもまったく知らず、
TVアニメで放送されていたり、劇場用アニメが公開されることになっていたり、
ということさえも知らずにいた。
もちろん、第一作の「ブギーポップは笑わない」が、
「電撃ゲーム大賞」とかを受賞していることも知らなかった。
そもそもそういう「電撃ゲーム大賞」とかいうのどうでもよかったわけだし…。
 
で、昨年末、なんか軽いもので、面白いのなんかないかな、
とか思っていたときに、どこかでちょっと聞きかじったもので、
探して見る気になったのだけれど、これが書店でなかなか見つからない(^^;)。
「電撃文庫」っていったい何だ?とか思っているうちに、
アニメ文庫のようなものの横っちょにあるのが見つかったので、
ぱらぱらと拾い読みしてみると、なんかイケソーというので、
読み始めたとたんに、けっこうハマってしまったわけである。
 
個人的な最初のイメージでいうならば、
ずーっと以前、テレビアニメでやっていた「妖怪人間ベム」を
学園風にしながら、ずっとハイパーにした感じだろうか・・・。
(よくわからないでしょうけど(^^;))
 
最近、アニメ的なものってどうも疎遠になっていたのもあって、
最初はどうかな、という感じもあったのだけれど、
まるで目の前でアニメがテンポよく流れている感じと、
そういうポップさとともに、軽くはあるんだけれども、
作者の上遠野浩平の不思議な深みのある文章が
不思議な魅力をもっているところや、
そこに登場してくるキャラクターがなかなか個性的なのもあって、
まるでずっと以前、毎週一回のアニメが待ち遠しいような感覚で、
どんどん読まされていったというあたりが実際のところ。
 
それに、各巻の「あとがき」がなかなかイケていて、
ついここでも「トポスノート」を書いてしまっていたりもした。
 
早い話、実際のところ、これはかなりの名作だと思う。
現在、以下の9巻でているのだけれど、駄作はないし、
たぶん読んで損はしないようにも思う。
ぼくの場合、なんだかよくわからず、タイトルの面白そうだった
最後の「エンブリオ」というのを最初に読んでしまったのだけれど、
できれば、やはり最初の「ブギーポップは笑わない」から読むと、
登場人物の伏線なども随時見えてきるので、そのほうがいいという気がする。
 
●ブギーポップは笑わない
 (1998.2.25発行)
●ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター Part1
 (1998.8.25発行)
●ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター Part2
 (1998.8.25発行)
●ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」
 (1998.12.25発行)
●ブギーポップ・オーバードライブ
 (1999.2.25発行)
●夜明けのブギーポップ
 (1999.5.25発行)
●ブギーポップ・ミッシング ペパーミントの魔術師
 (1999.8.25発行)
●ブギーポップ・カウントダウン エンブリオ浸蝕
 (1999.12.25発行)
●ブギーポップ・ウィキッド エンブリオ炎上
 (2000.2.25発行)
 
さて、この上遠野浩平のブギーポップシリーズを読んで、あらためて思ったことは、
あくまでも個人的な趣味ではあるのだけれど、
本格派だけを相手にするのではなく、
ポップなものもちゃんと見ておかなくちゃいけないなあ、ということだった。
そもそも、ぼくの仕事は広告づくりの仕事だし、
その広告づくりのベースになっている感覚っていうのは、
たぶんぼくが小さい頃からいろんなかたちでふれてきた
ポップなものたちのおかげというのは大きいわけである。
しかも、ぼくのなかのかなりな部分がそれで育ってきているというのもあったりする。
(もちろん、ぼくがいわゆる世界の名作とかいうのにあまりふれてなかったり、
純文学とか称するものが気持ち悪かったりもするというような言い訳もあるけれど(^^;))
 
であるからして、やはりここいらで、最近ちょっとご無沙汰気味のポップなものを、
しかも、こういうのを読んで育っているであろう青少年たちのような気分で、
楽しんでみる機会というのを大事にしていきたいと思っているわけである。
そして、そういうなかで、このブギーポップシリーズは、かなりいいのではないか、と。
まさに、ブギーなポップなわけだし・・・。
 
で、ちょうどそのポップということについて、
「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター Part2」の「あとがき」で
作者がけっこういいことをいっているので、ご紹介しておくことにしたい。
 
        小説でもマンガでも映像でもゲームでも音楽でも、要するに何でもいいの
        だが、いわゆるポップカルチャーというものがある。芸術、とゆーには少
        しアレで、しかし人の心を揺さぶるということにかけてはハンパなファイ
        ンアートよりも強かったりする、というようなものであろうか。このポッ
        プカルチャーの判断基準というのはムチャクチャ単純で、つまり「売れた
        ものが勝ち」というミもフタもないものだ。売れる、という表現ではアレ
        なので、受け手に認められる、と言い換えてもいい。受け入れられてはじ
        めて成立するのがポップカルチャーらしい。まー、それはそうで、それを
        言ったらなんだってそうじゃねえかよ、とか言われそうであるが、世の中
        には他人がどう思おうがこれはいい、というものだってやっぱり存在する
        のであって、そういうものはポップカルチャーとは言わず幻の名作とか伝
        統芸能とかいろいろな言い方をされるわけだ。別にそれらはすぐれていな
        いわけではなく、ただポップでないだけだ。
         誤解されることを承知で言ってしまうのだが、ほとんどのポップカルチ
        ャーというのはつまるところ「手抜き」というもので成立している。「ホ
        ンモノは堅苦しい感じがするからニセモノの方がいい」というところであ
        ろうか?ホンモノを作れるだけの力のある人でも、わざと力を抜いてニセ
        モノをつくったりする。これはなにかのたとえなのであろうか?つっつく
        とコワイ話になりそうなのでやめるが、しかしこの「手抜き」というヤツ
        は、実は「すでに硬直化した過去がほどよく抜けて未来への可能性がひら
        ける」とゆーよーなものでもあるのだった。(…)
         ポップカルチャーの最も良いところは、何と言っても権威が存在しにく
        いところである。皆無とは言えないが、まああんましない。ついこないだ
        まで大御所だったものが、あっというまに陳腐でつまんないということに
        なって、とっくの夢魔死に時代遅れとされていたものが「新鮮だ!」「こ
        れを忘れた昔のヤツはバカだ」とか言われて甦ったりするのもポップだ。
        実にいい加減であり、しかしなんとなくその渦中にあるときはそれにある
        種の必然性を感じていたりもする。あっというまに巨大になったかと思う
        と突然はじけてキレエさっぱりなくなってしまう。泡(ポップ)とはよく
        言ったものだ、ここには安易に頼れるわかりやすい基準などなく、たとえ
        ば小説の公募で大賞を取ったりしても、それだけではちっとも偉いことに
        はならないのだ。
        (P245-246)
 
流行とかいうのといっしょに、(流されるというのではなく)
感覚をシンクロさせていきながら、それ以前の自分の感覚とを
その都度比較してみるとよくわかるのだけれど、
感覚というのはほんとうによく変わる。
ファッションなどはもちろんだし、車のデザインなんかもそうだ。
以前すごくかっこよく思っていたフォルムや広告のデザインなんかを
何年かあとで見直してみると、すごくダサく感じたりする。
(これは広告を仕事にしているとほんとうによくわかる)
 
でもって、今自分がすごくカッコ良く感じているものがあって、
その感覚っていったい何なのだろうかということを
流されずにある程度意識的になれるのだとしたら、
けっこうそこで見えてくるというか、ピンとくることがけっこうあったりする。
そして、現在は常に進行中であって、自分の感覚というのも、
常に創造中というところがあったりする。
そしてもちろん、そのなかにほとんど変わらないものもあったりする。
そういうのって、かなり面白いのではないかという気がしている。
 
そういうときに、ポップなもののなかでも、
けっこうイケルものをためには集中的に体験してみるというのは、
それなりにとっても大切なことなんだと思う。
それよりなにより、そういうのはやっぱりとっても面白いのがいい。
時間を忘れて次が読みたくなる、見たくなるというのがいい。
 
こういうポップな感覚をずっと持っていたいなと思っている。

 

  風の本棚

坂口尚


2001.2.10
 
坂口尚の漫画に始めて出会ったのは、
『コミック・アゲイン』とかいう雑誌だったか。
『12色物語』のような短編。
 
その静かな世界は、ぼくの魂の底のどこかに、不思議な余韻を残していた。
今でもそこで描かれていた空気のようなものは、
ぼくのなかでそよいでいるような気さえしている。
 
たしかそのころ、高橋洋介やますむらひろし、高野文子のような作品にも
はじめて出会ったのではなかったろうか。
 
坂口尚というと知名度の高いマンガ家ではなく、
作品も決して多いとはいえないのだが、
手塚治虫の虫プロで「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などの
動画、原画、演出を担当していた、その人である。
 
その坂口尚の名前を久しぶりに耳にしたのは、1995年の死のときだった。
その後、『あっかんべェ一休』が、日本漫画家協会賞優秀賞を受賞したとき、
その作品を読んでみたいと思いながらも、見つからずにいた。
 
先日、『VERSION』という作品が、講談社漫画文庫の新刊で出ているとわかり、
早速呼んでみたが、久々に出会う坂口尚の世界にはまってしまった。
そこで描かれているのは、「我」の世界と生命の世界との戦い。
このテーマをここまで描けるのはやはり坂口尚ならでは。
 
そして、坂口尚にはその『VERSION』をふくめ、
『石の花』、そしてさきの『あっかんべェ一休』を加えた
長編三部作があり、すべてこの講談社漫画文庫に収められていることを知った。
 
そして、念願の『あっかんべェ一休』を読んでみたのだが、
これは期待に違わぬ傑作だった。
狂雲子、風狂子、一休さん、一休宗純。
読み始めたとたん、たちまち、一休という人間の魅力のなかに
放り込まれたまま、あの室町の動乱の時代の中、
伏線として描かれている世阿弥とともに、
ぼくのなかで、深く激しいドラマが展開していくのを感じていた。
 
機会があれば、ぜひ一読を。
『あっかんべェ』にふさわしい一休の魅力を存分に。
 
その一休の魅力を少しだけご紹介するために、
本書にもでてくる、かなりポピュラーな和歌をいくつか。
 
        門松は冥土の旅の一里塚
        めでたくもありめでたくもなし
 
        釈迦とふいたづらものが世にいでて
        おほくの人をまよはするかな
 
        仏法はなべのさかやき石の髭
        絵にかく竹のともずれの声
 
        わが宿ははしらもたてずふきもせず
        雨にもぬれず風にもあたらず
 
        夜もすがら仏の道をたづぬれば
        わがこころにぞたづねいりける
 
組織的党派的なものからすり抜けていく
風狂の魅力は一休ならではのものだと思う。
かなり有名なエピソードではあるが、
禅宗が基礎にある一休が浄土真宗の中興の祖ともいわれる蓮如とも
通じ合っているところなどもあらためて考えさせられるところである。

 

  風の本棚

鈴木漠詩集


2001.3.16
 
「鈴木漠」の名を思潮社・現代詩文庫の新刊で目にしたとき、
記憶のどこかにしまわれてはいるものの、
すぐにはそれと思い出すことはできなかった。
 
久々に、その言葉を幾度も幾度も読み返しながら、
次第にその言葉の深まってくる詩に出会った気がした。
この言葉には、以前出会ったことがあったはずだ・・・。
 
ちょうど、本棚を引越以来一年ぶりに片付けたのもあり、
審美社から1973年に出ている「鈴木漠詩集」を見つけることができた。
この本はほんとうに小さな本屋の片隅に眠るように置かれていた。
そのとき、その本の裏表紙に、この詩集に添えられた
作者のこんな言葉を見つけたのだった。
 
         ねがわくば、わが蜉蝣の死屍よ、冷えたことばたちよ。
        無い光のなかで、おのれ自身のためにこそかがやくときがあれ。
        
そう、そのときにも、その言葉はぼくのなかに
不思議に静かな湖面の波紋をつくりだしたのだった。
 
一人の詩人に出会えるということは、
ひとつの宇宙に出会えるということだ。
かつて思潮社の現代詩文庫を知ったとき、
さまざまなかたちの宇宙を体験することができた。
入沢康夫、吉岡実、天沢退二郎、北川透、金井美恵子、
那珂太郎、鈴木史郎康、生野幸吉・・・といった詩人たちの言葉。
 
あまりに詩が、詩という言葉が引き下ろされてしまい、ポエム化し、
真正の詩に出会い難くなっているからこそ、
こうした鈴木漠のような詩人の言葉に出会えるということは、
何ものにも代え難いものとなる。
しかも、こうした再開の幸福に浴すことができるとは!
 
思潮社の現代詩文庫として刊行された今回の「鈴木漠詩集」には、
かつての審美社のものから27年後の刊行ということもあり、
そのときのものにくわえ、その後に書かれた詩も多く収録され、
さらに深く静かな言葉たち、おそらくこれからも、
何度も繰り返し読むことになるだろう言葉たちと出会うことができた。
決して派手さはないけれど、しっかりと染みこんでくる言葉たち。
 
そうそう、わが敬愛する入沢康夫も、本書で鈴木漠を賛嘆している!
 
        詩神といふものがあるとして、鈴木漠の詩、そしてその詩にける
        「私」は、いはば、詩神との《絶えざる》《親密な》対話のほて
        りを浴びて、産みだされてゐると、いつも感じてきた。舟をうた
        ひ、鳥をうたひ、木をうたつて、その詩句は、典雅にして端正、
        しかも、きはめて強靱である。ひとつの美的襟度が揺らぐことな
        く一貫して保ち続けられてゐる点で、現代詩人中でも希有な存在
        と言へる。作風は、けつして声高ではないにもかかはらず、作品
        のひとつひとつは読むものの心にたちまち沁みわたり、じつくり
        と住みつく。再読、三読するにつれ、感動と驚嘆がますます深ま
        るのは、これが新の詩の泉から源を発してゐることの、まがふこ
        となき証しである。
 
ちなみに、入沢康夫が、久々に長編詩「遐(とお)い宴楽(うたげ)」を
「新潮」4月号に発表している!
 
さて、必ずしも鈴木漠の代表的な詩だとはいえないと思うが、
かつてもその言葉に驚いたことのある詩「絵本」(1963年刊「魚の口」から)と
今回出会った「変容」(1998年刊「変容」から)をご紹介することにする。
 
 
         絵本
 
         ぼくは水を欲した。鳥のように身をかがめた。水は燃え 光は
        くまなくあふれた。陶器の唇をひらいて 光を嚥んだ。光は水の
        ように流れ 世界をひたした。ぼくは光を欲した。すると世界は
        暮れ 硝煙と肉の焦げる匂いがした。ひとりの男が仆れ 紙の月
        があがった。男はまたぼくでもあったので ぼくはしきりにむせ
        た。そして血を欲しいと思った。ぼくは血を欲した、同時に世界
        の都市は焼かれ 暗い叫喚にけむった。窓はひらかれたまま 鳥
        は砂に墜ちたまま 窓も樹も小鳥の眼も いちずにぼくをみつめ
        た。ぼくは肉を欲した。飢餓がしずかにきて覆うた。仆れた男は
        白骨となった。男はまたぼくでもあったので 樹下に眠る聖者の
        ように ぼくは雨に曝された。ぼくは水を欲した。ただちに洪水
        をよびいれた。復活したら とぼくは考えた。水のような恋をし
        よう。するとやはりぼくは ひとりの園丁だ。すみやかに訪れる
        秋のなかに立つだろう。すべては水のようだと思う。羊も魚も胡
        桃も すべてが水のようだと思う。透明な祈りの声さえきかれる
        ので すべての眼に 火を点じた。やがて 羊や魚や胡桃のなか
        で あかあかと燃える火を映して 水は遠くに流れた。
 
 
         変容
 
        変容とは過去を脱いで
        常に現在であり続けること
        巣で交わされる鳥たちの睦言
        夕暮れの木を包む風も凪いで
        
        風はいかようにも形を変える布だ
        柔らかなその襞に触れるとき
        頑ななものらも固い装いを解き
        われ知らずその心や姿を変えるのだ
 
        その唇を離れた途端
        言葉の持つ実体は過去に帰属する
        かくてそれらの意味を中有に燻ずる
 
        現在であり続ける苦患 その嗟嘆
        それこそがわがポイエーシスだ
        花が帰る根 鳥がめざす古巣だ

 

  風の本棚

中沢新一「フィロソフィア・ヤポニカ」


2001.3.18
 
■中沢新一「フィロソフィア・ヤポニカ」
 (集英社/20001.3.10発行)
 
ここ数年、とくにオウム真理教の事件に関連した中沢新一の発言等が
ぼくにとっては非常に歯切れの悪いもののように思われていたところもあり、
その著書やエッセイ等をあまり注目しては読まなくなっていたのだけれど、
今回の、中沢新一的ディスクールの個性を発揮した哲学エッセイを読んで
久々に集中して、夜寝ることも忘れて楽しむことができた。
読後感もなかなかいい。
 
本書の最後のところで、西田幾多郎と田邊元の哲学について、
次のように述べているところがあるが、
ここに述べられている部分はひょっとしたら
中沢新一自身をもそこに投影したものではなかったのか、とも感じた。
 
実際、中沢新一はモダンシステムとでもいえるものに対して
鋭い視線を向けることができていたのはもちろんのことだし、
そういう意味でプレモダンーモダンであることから
常にみずからをずらし続けていることは確かだとは思っていたのだけれど、
東洋的なグルシステムとでもいえるコミューン形態に対して
そこに批判的な視点を向けることができていたかどうかは疑問だと思われるのだ。
そこにある種の郷愁、憧憬のようなものを向け、そうすることによって、
「個」や「自由」、それゆえに「愛」について語ることにおいて、
どこかで何かが欠落しかねないところがあったように感じるところがあった。
 
そういう意味で、本書「フィロソフィア・ヤポニカ」は、
とくに田邊元の哲学に向けた新たな視点を通じ、みずからが
「モダンという制度の外で、自由な哲学をおこな」おうとしているのだ、
ということを、ある意味で宣言しているともいえるのではないだろうか。
 
        私は、西田幾多郎と田邊元によって創造されたいわゆる「日本哲学」を、
        プレモダンへの回帰や土着的民族的な思考の復活として評価したり批判
        したりする考え方は、どれも正しくないと思うのだ。二人の思考はいつ
        も「世界」を意識しながら遂行されていて、民族やネーションの底を突
        き破っている。彼らはただ、モダンという制度(まさにこれは大文字で
        書かれるべき「制度」である)の外で、自由な哲学をおこなおうとした
        だけなのだ。西田哲学も田邊哲学も、まず時間において、モダンという
        制度の外にある。彼らはプレモダンーモダン(ーポストモダン)という
        具合に、前の世界でつくられてきたものが、なにかの「パラダイム革命」
        によって過去に送り込まれていくという、アカデミズムにおいても支配
        的な思考法を、正しいとは考えなかった。それに空間においても、モダ
        ンの制度が発生させる西欧ー非西欧の分離と非対称的な関係を、彼らは
        認めなかったのである。もしも彼らが、モダンに対するプレモダンの価
        値だとか、西欧に対しての「東洋文化」の独自性などを高唱して、価値
        転換のようなことを図ったのだとしたら、それは分離と非対称的関係を
        本質のひとつとするモダン制度を、たんに裏返した発想にすぎないし、
        そのことによって、むしろその制度は補強されていく。少なくとも西田
        と田邊による「日本哲学」にはそんな夜郎自大的なところは少しもない。
         そうではなくて、彼らは意識してモダン制度全体の外に立とうとして
        いたのである。
         モダンは社会と自然、人間と非人間を分離してそれぞれを純粋化しよ
        うとする、大規模なプログラムである。西田幾多郎の鋭敏な思考は、そ
        の分離と純粋化の運動の表現を、まず主体と対象(客体)の分離と純粋
        化として見出していた。そのことは彼が直観でとらえていた思想にそぐ
        わないものだった。そこで西田は「純粋直観」という概念を使って、こ
        の分離と純粋化を進める運動の外に出てみようとしたのである。彼は古
        くからあった「述語論理」の思考に徹底的な改良を加え、空前の深まり
        にまで展開していくことによって、主ー客分離の過程そのものを包み込
        む「絶対的術語面」としての「場所」にたどり着いたのであるが、こう
        することによって、西田幾多郎はきわめてデリケートなやり方で、モダ
        ンという制度の外で自由に思考する巧みな方法を手に入れることができ
        たのだ。
         田邊元はこの西田の達成を見届けながら、別の角度からモダンの外へ
        の超出を試みている。彼は科学の実験室からやってきて哲学者になった
        人だったので、モダン哲学が異質領域におこなっていることを「アナロ
        ジー」や「翻訳」の操作によって結合することの中から、新しい対象
        (正確にいえば前対象)を生み出している様子を熟知していた。しかも
        量子論の創生期に立ち会っていた哲学者として、モダン科学の最前線で、
        人間とモノとを分離し純粋化しようとするモダン制度の重要な一面が崩
        壊して、科学研究そのものが人間ー非人間のハイブリッドを、対象とし
        て分離不能な前対象として取り扱うようになっている様子を、驚きをも
        ってみつめていたのである。彼はそこから進んで、ハイブリッドを生産
        する翻訳・転換の機能を、「絶対媒介」の概念に徹底化した。「絶対媒
        介」とは、プレモダンな世界の神話思考で活用されていた二項間の仲介
        とは根本的に異質なもので、それはネットワーク状の運動体の全域で、
        絶え間なく生起する翻訳・転換のプロセスであり、それによってここで
        も、世界はすべて主体であると同時に客体でもある前対象へと変化をと
        げていく。田邊元はそれこそが存在の基体であるところの「種」である
        と言ったのだ。
        (P371-373)
 
「フィロソフィア・ヤポニカ」というのは「日本の哲学」だが、
たとえばシュタイナーの「自由の哲学」が、
まずは主ー客による「モダンという制度」を超え、
しかも「自由」を獲得し得る道を
感情神秘主義や意志の形而上学ではなく、
「思考」の可能性において示したものであるように、
(結局それは純粋思考的なイントゥイション認識への接近でもあったのだが)
本書は、日本の哲学である西田幾多郎と田邊元の「非モダンの哲学」を検討することで、
同じく「個」「自由」、そして「愛」というテーマを深く扱っているといえる。
田邊哲学を「愛の哲学」とさえ形容しているのである。
「愛」の基礎は「個」であり、「自由」であることは言うまでもない。
 
田邊元の西田哲学批判が、いってみれば、
西田哲学が「人生の悲哀」から立ち上がってくる情の哲学であることに対する
批判でもあったというところなど、深く首肯できるところでもある。
 
        家族を超えた人間の共同性を発見しようという意志、悲哀を超えたとこ
        ろに愛の可能性を探ろうとする意志。このような非哲学的なものこそが、
        「哲学」として表現された田邊哲学によりも、その思考の核心にあるも
        のである。…
        田邊元はたしかに、西田に比べれば家族共同体的な情愛に冷静だった人
        である。そのかわりに、彼はそのような情愛が崩壊ないしは絶滅したの
        ちの世界を生きることになる。完備完全なまったき個体同士の間に開か
        れる、愛の共同性の可能性を探究して、哲学的な概念によって一足早く
        その世界を垣間見ておこうとした人なのだ。
        (P329)
 
田邊元の「種」の論理にしても、
(これは深く誤解を生んでしまっているようだが)、
むしろ、「個」であることの可能性を究めようとしている論理として
とらえることができる。
それは、「同一性」の原理に包み込まれてしまう論理ではなく、
否定性を媒介にすることによって成立する。
その否定性ということが、ほとんど理解されていないようである。
ごくごく単純にいえば、「私は日本人である」ということで、
自分という個をたんにそのまま日本人という全体の一部である、
というようにとらえることはできないということでもある。
 
また、興味深いことに、本書には、プラトンの「ティマイオス」にでてくる
「コーラ」が、西田幾多郎の「場所の論理」、田邊元の「種の論理」に
影響を与えた、いわば「非哲学の広大な領域への入口をしめすもの」として
再三言及されているが、これについては、
ちょうど1998年にでた中村雄二郎の「術語的世界と制度」の
「第1章 序論」のなかでも、デリダの「コーラー論」とともに
とりあげられていたものでもある。
 
ところで、今回久々中沢新一的ディスクールにふれ、
その知性と感覚性、そして常に固定的な形をすり抜けようとするあり方に、
とても新鮮なものを感じることができた。
それは、田邊元が容易に誤解されてしまったような
ある種の危うさを持っているが、
その危うさゆえに可能でもあるようなスタンスなのかもしれない。
『チベットのモーツァルト』以来、刺激を受け続けてきた、
危うさとそこにかいま見えるシンボリックとでもいえる先見性を
あらためて見直してみたいと思っている。
それは、ある意味で、シュタイナー受容の可能性の問題、
つまり日本において受容可能なディスクールの問題等とも
関係してくるかもしれないからでもある。
たとえば、シュタイナーの『自由の哲学』の第二部として、
この「フィロソフィア・ヤポニカ」的な部分を付加していくことなども
考えていかなければならないのではないかということでもある。
そのなかで生じるある種の危うさに対しては、
注意深くあらねばならないのはもちろんなのだが。
 
最後に、中沢新一のこれまでの代表的な著書を参考までに。
そういえば、ちゃんと読んでいたのは、
『森のバロック』あたりまでではあるが
昨年の『女は存在しない』以外は、いちおう読んでいたりもする。
 
■『チベットのモーツァルト』(せりか書房/1983年)
■『雪片曲線論」』(青土社/1985年)
■『野ウサギの走り』(思潮社/1986年)
■『虹の理論』(新潮社/1987年)
■『悪党的思考』(平凡社/1988年)
■『蜜の流れる博士』(せりか書房/1989年)
■『バルセロナ、秘数3』(中央公論社/1990年)
■『東方的』(せりか書房/1991年)
■『森のバロック』(せりか書房/1992年)
■『ゲーテの耳』(河出書房新社/1992年)
■『ケルビムのぶどう酒』(河出書房新社/1992年)
■『幸福の無数の断片』(河出書房新社/1992年)
■『はじまりのレーニン』(岩波書店/1994年)
■『リアルであること』(メタローグ/1994年)
■『哲学の東北』(青土社/1995年)
■『ポケットの中の野生』(岩波書店/1997年)
■『女は存在しない』(せりか書房/1999年)

 

  風の本棚

五味太郎「大人問題」


2001.6.20
 
■五味太郎「大人問題」
 (講談社文庫/2001.5.15発行)
 
なかなかいい。
とってもいい。
すごくいい。
そう思ったので、久しぶりに「風の本棚」です。
 
これは、子供の問題はほんとうは大人の問題なんだ。
ということがよ〜くわかるようになる本です、たぶん。
でも、子供の問題はほんとうは大人の問題だということが
ほんとうのところよくわからない人はこういうの読みたがらないだろうし、
たとえ読んだとしても、いろんな意図的な誤解を持ち込んでしまうんだろうな。
 
ここにかかれてあるのを目次から拾いだしてみると、こんなところ。
 
とにもかくにも心穏やかではない大人たち
もうとっくにすっかり疲れきっている大人たち
なんだかんだと子どもを試したがる大人たち
どうしても義務と服従が好きな大人たち
どんなときでもわかったような顔をしたい大人たち
他をおとしめても優位を保ちたい大人たち
いつもそわそわと世間を気にする大人たち
よせばいいのにいろいろと教えたがる大人たち
それにしても勉強が足りない大人たち
いつのまにか人間をやめてしまった大人たち
 
最後の章の「いつのまにか人間をやめてしまった大人たち」には
こういうところがあったりもします。
 
        人間というやつは、わりあいあっさりと現役をやめてしまう。
        それ以前の区分が多すぎる。胎児から始まって新生児、乳児、
        幼児、児童、学童、生徒、学生、青年、成人、社会人、中年、
        中高年、高年、壮年、老人……ああ、ほんとうにめんどうく
        さいという感じです。で、乳児になれば新生児は卒業、学生
        になれば生徒は卒業、大人になれば子どもは卒業といった生
        き方になります。(…)
 
        ワカシ・イナダ・ワラサ・ブリなどと名前をつけて、出世魚
        なんて呼びますが、ブリ当人はずっとブリ、とくに出世した
        とも、したいとも思っていないはずです。
 
        「かつて子どもであったことを忘れてしまった大人たち」な
        どという表現があります。子ども心がわからない、あるいは
        単に昔が懐かしいというようなときに、ちょっと差別化をし
        たくて使う人が多いようです。細かい区分がありすぎるから、
        そんな表現が生まれます。ずっと一本つながっていれば、そ
        んな言い方しなくても済みます。あえて言うなら「かつて人
        間であったことを忘れてしまった大人たち」というところで
        しょう。
        (P190-191)
 
子どものときは、まだ生まれてきた環境になじんでいないので、
いろんなハンディがあるのは確かだけれど、
子どもだったときも、年を重ねた後であっても、
自分は自分であることに変わりはないわけで、
子どもだからみんな素晴らしいわけでもなくて、
やなガキはやなガキで、大人になってもそれは変わらないのはあたりまえ。
もちろん人の趣味はそれぞれなので、嫌さもそれぞれ、好きもそれぞれで、
要は大人、子どもという問題ではなくて、趣味の問題。
 
で、子どものときは子ども心をもっていて、
こうして年をとってくるとそれがなくなってしまうというようなものではなく、
ぼくはぼくなりに以前もっていたものも今だにあるし、
少なくとも思い出せばいろんなこともわかることが多いし、
それなりに興味があって新しく知ったことなどもいろいろあるはず。
 
でも、子どものころのことを忘れてしまっているというのは、
たぶん死んだふりに近いものがあって、
そういうふりをしたいだけなのかもしれない。
でないといろんなことが都合わるくなってしまうから。
都合がわるくなるから、上記の目次に挙げたような
「・・・大人たち」ということになってしまうんでしょう。
 
ちなみに、本書には「シュタイナー」もでてきますが、どこでしょ。
知りたい方はぜひお読みください。

 

  風の本棚

日本古代史の秘密


2001.7.1
 
古事記や日本書紀に書かれている日本の古代史は謎に満ちている。
というよりも、矛盾に満ちている。
そして、矛盾ゆえにこそ日本建国にまつわるさまざまが透けて見えている。
しかも、それがさまざまな形で現代に影を投げかけているといえる。
 
天皇という存在がそうであるし、寺や神社、祭など、
現代にも伝えられているさまざまを理解するためにも、
日本の古代史についてのアプローチは意味を持っているのだといえる。
 
しかし、それを明らかにするというのはなかなかに難しい。
とはいえ、ここにきてようやくいろんな側面から光が当てられてきたように思う。
 
まずひとつのアプローチとして、梅原猛の『隠された十字架』というような
法隆寺に関するすぐれた論考があり、
それは「祟り」というようなものを扱っているためか、
アカデミズムにおいてはいまだにまともに相手にされていないとしても、
そうした視点を承けるかたちでもさまざまなすぐれた視点が出されている。
 
実際、日本においてはさまざまなかたちで「祟り」が歴史を動かしてきた。
なぜ「祟る」のかという視点で日本古代を見ていくと
確かに非常に興味深いことがわかる。
しかもそれを日本建国の謎や天皇の謎などをめぐって見ていくことで、
古事記や日本書紀によって巧妙に改竄された歴史が見えてくるし、
歴史の闇に埋もれてきた「物部氏」の視点からの歴史書『先代旧事本紀』の
重要性もここのところとみに注目されるようになり、
「ニギハヤヒ」という存在がクローズアップされるようになったりもした。
そして、「アマテラス」や「スサノオ」、「卑弥呼」などについても、
新たな光が当てられるようになっている。
 
ちょうど、天皇の成立について、そして古代史の重要なキーマンについて、
次のような、わかりやすく概説しているものが出版されている。
 
■関裕二『古代史の秘密を握る人たち/封印された「歴史の闇」に迫る』
 (PHP文庫/2001.6.15発行)
■梅澤恵美子『天皇家はなぜ続いたのか/「日本書紀」に隠された王権成立の謎』
 (ベスト新書/2001.7.1発行)
 
この二人の著者は協力関係にあり、
この二冊は補い合っているかたちになっているので、
併せて読まれるとわかりやすいかもしれない。
とくに、関裕二にはこのテーマでたくさん著書があるので探せばすぐに見つかる。
またこれらの本の巻末には「参考文献」として重要なものが挙げられているので、
それらを参照されていくことで、日本古代史に光を当てていくことができる。
これらのなかで、かなり定番になっているものといえば、
■原田常治『古代日本正史』(同志社/1976)で、
必ずといっていいほど参照されているようである。
確かに、非常に示唆的な内容の労作になっている。
 
ちなみに、上記の梅澤恵美子『天皇家はなぜ続いたのか』と併せたかたちで、
おそらくもっとも新しい視点での古代天皇制について見ていくための格好のものが、
講談社から刊行されはじめている『日本の歴史』から刊行されたところ。
■『古代天皇制を考える』(講談社/2001.6.10発行)
 
また、さらに「ニギハヤヒ」に関しては、
■小椋一葉『消された覇王』(河出書房新社)
をはじめとした一連のものが面白い。
わかりやすく手軽に読めるものでいえば、たとえば、
■神一行『消された大王ニギハヤヒの謎』(歴史群像新書)
とかいうものもあったりする。
最近では、日本古代史といえば「ニギハヤヒ」に当たる、といえるほどに、
やたらと登場している感もあるので、何にでも載っているといえる。
(もちろん、アカデミズム系のものではいまだに無視だれているようだけれど)
 
さて、こうしたアプローチで欠けているのが、いわゆる霊的な視点で、
天皇に関して見ていこうとするならば、その視点は欠かせないはずなのだが、
こうしたいわゆる歴史関連のアプローチでは当然のごとく問題とされないし、
扱われているものはほんとうに少ない。
そんななかで、参照しておきたいのが、次のもの。
 
■アーガマ No116 1990 総特集「天皇霊」
 
これは「大嘗祭」を目前にして、「天皇霊」について考察された
数少ないもののひとつであり、しかもシュタイナーの精神科学との関連において、
考察していく場合にも、ひとつのガイドとなるのではないかと思われる。
特にこのなかに治められている次の2つの論考。
 
●高橋巌「天皇霊の本義」
●笠井叡「霊的天皇論」
 
また、ちょっと安易で飛躍がありすぎる内容ではあるが、
日本古代史に関して面白い視点を提供してくれるのが飛鳥昭雄のシリーズ。
だまされた気になって見ていくと、かなり発見があったりする。
偏見をなくして、いいとこどりをすれば、かなり貴重なものだと思う。
 
■飛鳥昭雄・三神たける『失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』(学研)
■飛鳥昭雄・三神たける『失われたイスラエル10史族「神武天皇」の謎』(学研)
■飛鳥昭雄・三神たける『失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎』(学研)
■飛鳥昭雄・三神たける『失われた契約の聖柩ト「アーク」の謎』(学研)
■飛鳥昭雄『失われたアークは伊勢神宮にあった』(雷出版)
 
また、ついでにご紹介しておくと、こんな本もあったりする。
飛鳥昭雄とは違った意味でのある種のバイアスがあったりもするが、
内容としてはかなり面白く読める。
 
■中矢伸一『封印された日本建国の秘密』(日本文芸社)
 
ここにご紹介できたものはほんの一部でしかないけれど、
日本古代史について見ていくという作業は、
シュタイナーの精神科学を日本において展開していく際においても、
ある種、避けてはとおれない側面なのではないかと常日頃から思っている。
 
それは、今私たちがこの日本において生きているということにおいて、
確実に肉体的にもエーテル的にも、アストラル的にも、
そして自我の形成においても確実に働いているはずのさまざまな影響は
いったいどういうものなのか、
またそれが未来においてどのようなかたちで
新たな展開を可能にさせるものなのか、
などについて見ていくためにはどうしても欠かせない作業のように思う。

 

  風の本棚

糸井重里『インターネット的』


2001.7.16
 
■糸井重里『インターネット的』
 (PHP新書/2001.7.27.発行)
 
糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞』を、
いつもというわけではないけれど、以前からちらほら見ていて、
糸井重里が今度は何をしようとしているのかを気にしていたりした。
(現在では、このサイト、1日に35万件のアクセスがあるという。
http://www.1101.com)
仕事柄、どうも糸井重里は気になる存在だから。
とはいえ、ぼくはそんなに仕事関係の勉強を深くしているほうではなく、
けっこういい加減にアンテナを張っているというくらいに過ぎないのだけれど…。
 
で、今回の『インターネット的』である。
さりげないけれど、なかなか言い得ている。
さすがの「糸井重里的」である。
シンプルでやさしい表現だけれど、
するするするっと、時代の今とその先に入っていく。
名人芸のひとつだなと思う。
 
         インターネットと「インターネット的」のちがいというのは、字面では単に
        T的Uがあるかないかのことなんですが、これは重要なポイントになってき
        ます。
         「インターネット的」と言った場合は、インターネット自体がもたらす社会
        関係の変化、人間関係の変化みたいなものの全体を思い浮かべてみてほしい。
        もっとイメージしやすいたとえでいうなら、インターネットと「インターネッ
        ト的」のちがいは自動車とモータリゼーションのちがいに似ているでしょう。
        (P16)
 
         どうもこれまで、インターネットについて語られてきたことは、財務の会社
        のようなものに見えて、ぼくとしては、あまり魅力を感じることができません。
         ネットを囲む環境ごと見つめていかないと、人間が取り残されてしまい、流
        行の概念だけが次々に浮かんでは消えていくような気がします。
         インターネットそのものは偉いわけではない。インターネットは人と人をつ
        なげるわけですから、豊かになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう
        思っているのかによるのだとぼくは考えています。極端なことを言うと、Tイ
        ンターネット的であるためにはパソコンすら必要ではないUということもあり
        得るわけです。(P11)
 
実際、インターネットについて語られていることの多くは、まったく面白くない。
それはおそらく、インターネットがさも実体のようなものとして語られ、
それそのものの価値を云々することに終始するか、
そうでなけれは、ほとんどいわゆるコンピュータ的なあれこれが
語られていることが多いからなのだろう。
そのとき、「インターネット」は死んでいるというか、
それを使って何をするのか、それは何を発想させ開いていくのか、
そしてそこにいる人たちがどういうあり方を創造しえるのか、
といったことがほとんど抜け落ちてしまうことになる。
 
この場所でも、「組織なきネットワーク」ということをいうことがあるが、
それは関係性そのもののあり方の変化と創造ということが重要なのであって、
まさにそれは「インターネット的」なものの可能性のことなのである。
 
さて、本書をいいな、紹介したいなと思ったのは、
「おわりに」の次のようなところだったりもする。
 
         もうこのへんで、書くのを止めておきます。いままでにぼくが書いてきた
        ものに比べて、ずいぶんと啓蒙臭の強いものになったような気がします。そ
        のことは、あんまりいいことじゃないと思っています。
         たまたま、インターネットの一番現場に近いところにいて、気がついたこ
        とを書いてみようと思ってはいましたが、誰かに何かを教えるようなことを
        書いてしまったとしたら、あらかじめ謝っておきます。(P234)
 
ぼくも、ここでいろいろ書いていて、
ひょっとしたらこれってずいぶん啓蒙臭が強いんじゃないか、とか思って、
すごく嫌な気持ちになることがあったりします。
もしそう感じられた方とかいらっしゃったとしたら、まさに謝らなくちゃいけない。
啓蒙したいなら、今のような職業を選びたいとは思わないし、
今の職業を続けていられるのも、そういうのからすり抜けたところで
生きていられるということでもあるのだから。
でもって、ここでも言いたいのは、次のようなことなのだと、
あらためて思った次第。
 
         ぼくの理想的な臨終の言葉は「あああ、面白かったーっ」です。これは、
        まだでしかありませんは、そう言いながら死にたいということだけは決めて
        います。(P236)
 
逆にいえば、面白くないことはしたくないっ!。
こうしてせっかく、インターネット時代に対応してHPやらMLやらやっているのだから、
今できることを面白くやっていきたい。
ここでやっていることも、「あああ、面白かったーっ」って思えるようでありたい、
そう改めて思っている今日この頃で、
そういう意味でも、この本はなかなかいいと思ったので、紹介させていただきました。
(なんだか、最近あまり本を紹介しないけれど、
あんまり当たり前なのは意外性がないし、どうも紹介しててシラケてしまうので、
そうならないのだけを、今後もぼちぼち紹介できたらと思っていたりします)

 

  風の本棚

山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』


2001.7.29
 
 
■山岸俊男『安心社会から信頼社会へ/日本型システムの行方』
 (中公新書1479/1999.6.25発行)
 
糸井重里の『インターネット的』で、
 
        ぼくの思い描く「インターネット的」社会の支えとなっている思想
        
        この本の結論は「正直は最大の戦略である」という言葉に集約
 
        「この学者の研究結果は、人間せんぶを勇気づけるんじゃないか」と
        かなり興奮した
 
とあったので、読んでみたところ、非常に示唆的だったので、
ご紹介しておきたいと思いました。
 
タイトルが「安心社会から信頼社会へ」、
サブタイトルが「日本型システムの行方」となっていますが、
本書では、「安心社会」とはどういう社会で、
「信頼社会」とはどういう社会なのか。
また日本の社会のあり方として、
「安心社会」から「信頼社会へ」という方向性は
いったい何を意味しているのか。
ということが本書では基本テーマになっています。
 
詳しくは本書を読んでいただければと思うのですが、
その基本的なところを少し。
 
         逆説的に聞こえるかもしれませんが、これまでの日本社会は信頼をあまり
        必要としない社会でした。少なくともアメリカを代表とする欧米社会に比べ、
        他人を信頼すべきかどうかを考える必要性が小さな社会だったといえるでし
        ょう。(…)これまでの日本社会では、関係の安定性がその中で暮らす人々
        に「安心」を提供しており、わざわざ相手が信頼できる人間かどうかを考慮
        する必要が小さかったからです。
        しかし現在では、これまでの日本社会を支えてきた安定した社会関係や人
        間関係の重要性が急速に小さくなりつつあります。(…)
         いつまでも継続することが保証された「コミットメント関係」の中にいる
        ことで安心が提供されていたのが日本社会の特徴でしたが、そのような関係
        の安定性による安心の保証が小さくなるにつれ、これからの日本社会では、
        われわれの一人一人が、「この場面では相手を信頼してよいのだろうか」と
        いうことを考える必要性が大きくなっていくことでしょう。
        (…)
         これからの日本社会で人々は、これまでのような外部に対して閉ざされた
        関係内部で相互協力と安心を追究することで得られない、新しい機会に直面
        するようになるでしょう。その際に、日本社会に不信の文化が育っていくこ
        とになれば、このような新しい機会をうまく生かして効率的な社会や経済を
        展開していくための大きな障害になると考えられます。(i-v)
 
本書でいう「安心社会」というのは、関係の安定した、
あえていえば相互監視のもとで誰が何をするかわかっていて、
それに反した場合の共同体的な制裁が前提となっていた社会のことで、
その中では、村八分だとか差別とかの構造なんかも
その暗部として存在していました。
 
地域社会を「学校化」することで、
教育効果をあげようとする動きなんかも、
「安心」を目的とした方向性だといえます。
(叱ってくれるおじさん、おばさん、というのもそうです)
しかし、そうした「安心社会」というのは、
「信頼をあまり必要としない社会」でもあるわけです。
 
「信頼社会」というのは、関係性が安定していない場合においても、
相手に対する「信頼」をベースとした関係を模索できる社会のことで、
もちろん、無差別的になにもかも信用してしまう「お人好し」になれというのでも、
「人をみたら泥棒と思え」というのでもなくて、
相手を最初からある関係性のなかで見るのではなく、
相手そのものを見るということを通じた関係性を育てていけるような、
そんな社会のことだといえると思います。
 
おそらく「自由」ということもその「信頼」と近しい関係にあって、
血縁だから、同じ地域にいるから、信条が同じだから、
同じ性別だから、同じ民族だから云々ということで
相手に対する「安心」を得ようとするのではなくて、
そういう「類」的なものから離れた、
相手そのものを見ることのできる可能性でもあるように思います。
 
今日は参議院選挙の投票日で、
夕方には出かける予定にしていて、
どういう「結果」がでるか少し興味深いところなのですが、
昨今当然のように言われている「無党派層」が
小泉人気でどう動くか云々について考えてみると、
なぜ「無党派層」が多くなっているかというと、
「自民党」という「安心社会」を
多くの人は「信頼」していない、ということでもあるように思います。
しかも「民主党」に対してもそれを「信頼」がおけるとは思えない。
そういう動きのために、自民党も民主党も、
「じゃあ、有名な人を担ぎ出そう」ということになって、
個人へのある種の「信頼」と「安心」をすり替えようとしたりもする。
 
しかし、あらためて各党の公約云々を見ていると、
(ある意味面白くはあるのですが)
これでは決して「信頼」できる要素というのは希薄なのがわかります。
実際のところよくわからないし、悲しいほどに内容がない。
 
その結果はともあれ、
日本の社会が、かつての固定した関係性ではなく、
新たな「信頼」のもとに可能な関係性を
育てていかなければならないということは確かなことで、
その意味でも、本書で述べられている研究結果というのは、
かなり「勇気」づけられるものなのではないかと思われます。

 

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