風の本棚 27

 (2000.7.29-8.29)


●シュタイナー「精神科学から見た死後の生」

●青柳恵介「風の男 白洲次郎」

●松岡正剛「日本数寄」

●池澤夏樹「ハワイイ紀行」

●大住祐子「シュタイナーに<看護>を学ぶ」

●死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」

●五味太郎・小野明「絵本をよみつづけてみる」

●上橋菜穂子「夢の守り人」

●福田和也「悪の対話術」

●伊藤遊「鬼の橋」

 

風の本棚

シュタイナー「精神科学から見た死後の生」


2000.7.29

 

■シュタイナー「精神科学から見た死後の生」

 (西川隆範訳/風濤社/2000.7.20発行)

西川隆範による風濤社からのシュタイナーの翻訳の2冊目。今回は、「死後の生」がテーマで、それに関するシュタイナーの講義をいろんなところから集めて編集したものになっている。次回に刊行される3冊目は、「天使たち、妖精たち」がテーマらしい。

「死後の生」といえば、イザラ書房からでている「死後の生」(高橋巌訳)があるが、これはそのタイトルからもわかるように、テーマ的に深く関連しているので、併せて読むのが理解のためにもいいのではないかと思う。

本書を読むとわかるのだけれど、というかごくごく当然のことなのだけれど、精神科学は、「生」のみを問題にしているのではなく、いわば、生と死を貫く精神科学的認識とそれに伴って必要な私たちの姿勢ということが重要となる。

タイトルに「精神科学から見た死後の生」とあるが、「死後の生」ということは、精神科学においては大前提となっている。しかも、生と死を切り離して見るのではなく、それを精神科学的認識において密接に関わったものとしてとらえる。だから、よくシュタイナー教育云々で、霊的な問題が不問にされてしまうようなそういうあり方は、まったく精神科学的ではないということがいえる。生と死を貫く精神科学的認識に基づいているからこそ、この地上で生きる私たちの生の意味や教育の重要性も見えてくるわけである。

そういう意味で、生者と死者が常に密接に関わっていること、そしてそれを深く認識する必要性についてさまざまな角度からアプローチされている本書は、とても重要な内容を数多く含んでいると思う。

また、本書では、「キリスト」ということについても、なぜこの地上において「キリスト衝動」が重要であるかが述べられていて、必読の部分があるように思う。

収められている講義は、「編訳者あとがき」に従えば次の通り。

■精神科学から見た死後の生(一)

■精神科学から見た死後の生(二)

 連続講義「神智学と薔薇十字神秘学」

(1909年5月〜6月、ブダペスト)の第3講と第4講

 (GA109「輪廻問題との関連における霊的経済の原則」所収)

■死んでから生まれ変わるまで(一)

■死んでから生まれ変わるまで(二)

 連続講義「人間の本質・人間の運命・宇宙の進化」

(1923年5月、オスロ)の第1講と第2講

 (GA226「人間の本質・人間の運命・宇宙の進化」所収)

■死後の宇宙体験

 (1912年12月15、ベルリン)

 (GA140「死と再受肉のあいだの生についての神秘学的探究」所収)

■死者との交流(一)

(1913年10月10、ベルゲン)

 (GA140「死と再受肉のあいだの生についての神秘学的探究」所収)

■死者との交流(二)

 連続講義「地上の死と宇宙の生」

(1918年1月〜3月、ベルリン)の第3講

 (GA181「地上の死と宇宙の生・アントロポゾフィーから人生への贈り物・

       現代と未来のための意識の必要性」所収)

■死者と私たち

(1918年2月10、ニュルンベルク)

 (GA182「生の変容としての死」所収)

 

風の本棚

青柳恵介「風の男 白洲次郎」


2000.8.1

 

■青柳恵介「風の男 白洲次郎」

 (新潮文庫/2000.8.1発行)

どんな人間になりたいか、と聞かれたら、白洲次郎のような人間になりたいと答えたい。本書を読んで、率直にそう感じた。

生まれてこのかた、どんな人間になりたいかというのがなかった。職業的には、自分には公務員と教育者と銀行家にはなれない、というのは小さな頃からあったし、政治家にも宗教家にも、財界人にも、官僚にも、あまりなりたくはない。シュタイナーは、すごいとは思うが、とてもシュタイナーのようになりたいという気もない。

のだけれど、本書を読んで、こんな人になりたいと思ってしまった。本書を読んでというより、あらためてそう思ったといったほうが適切かもしれない。以前に、白洲次郎の遺言「葬式無用 戒名不用」をご紹介したときから、そう感じていたところがある。

なにも、本書のタイトルに「風の男」とあるからそうだというのではなく、誕生日が一日違いだからというのでもない。その徹底した、筋の通った生き方に共感した。

「非常にプリンシプルに厳格な人だった。明治生まれの人は筋を通すが、白洲は単に筋を通すだけでなく、いつも自分の頭で考えた自前の筋を持っていた」という評が本書のなかで紹介されているが、そのプリンシプルさがすごい。権威で人を見ず、その人そのものを見るというプリンシプルさ。

現代では、白洲次郎よりも、白洲正子のほうがその名を一般に知られるようになっているが、白洲次郎のスゴさは、ある意味で、そこにも現れていると思う。白洲次郎のスゴさは、生きることそのもののダンディさにある。

ぼくは、到底、現状では、白洲次郎のようなダンディにはほど遠い。白洲次郎は、「僕はよく傍若無人だと言はれるが、僕の死んだおやぢに比べれば、傍若無人なんて縁が遠いと思ふ」と述べているが、ひょっとしてぼくのなかには、ある種の「傍若無人さ」があって、そこが、むしろ生まれてくるときに自らが選んだ環境によって半ば閉じられてしまっているのではないかと思っている。(ひょっとして、「お前は充分に傍若無人だ」という人もいるかもしれないが(^^;))しかし、もしぼくが白洲次郎のような環境下に生まれ育ったとしたら、傍若無人さだけがにょきにょきと育って、肝心なダンディさが発育不全になってしまっていただろうから、人はそれなりに適した環境下で生まれ育つのだろうという気はしている。

白洲次郎のようなすぐれた生き方はできないだろうが、自分なりに、「非常にプリンシプルに厳格で、単に筋を通すだけでなく、いつも自分の頭で考えた自前の筋を持ってい」るようなそんな自分でありたいと思う。

ともあれ、こんな人物が昭和史にいたという驚きが本書を通じて実感されるのではないだろうか。幕末には坂本龍馬がその生を駆け抜けたように。

 

 

風の本棚

松岡正剛「日本数寄」


2000.8.5

 

■松岡正剛「日本数寄」(春秋社/2000.6.30発行)

新しい世紀を目前に、この日本の世紀末にふさわしい「趣向」をもった松岡正剛ならではの、めくるめく一冊。

 いま、日本は漠然としすぎている。

 疲れているわけではない。一部には熱意もある。ところが、何かが発揮されないまま、すっかり沈殿したままになっている。歴史と現在が大胆に交錯しないからである。本書は日本文化史にひそむ話題ばかりをとりあげているが、その行間の一端に今日につながる隙間を透いていただければ幸いである。(p372)

たしかに、日本はいま「漠然としすぎている」と思う。そのことを回避しようとする多くの動きも、過去の日本に回帰しようとするものであったりするように、ある一色で塗り直そうとかいうようなものばかりが目立ってしまう。「歴史と現在」を「大胆に交錯」させようとするのではなく、それは、「現在」を「過去」のなにかにすり替えようとするような、きわめて安易なものにすぎないところがあるのではないだろうか。そこには新たな創造はなく、「伝統」という名の死骸が待っているだけだ。「伝統」が生きるのは、そこにスリリングな創造の可能性が新たな「趣向」のなかで見出されようとするときなのではないか。でないと、「沈殿」したものが、ただに混ぜ返されて泥水になるだけのこと。

松岡正剛は、「数寄」という「趣向」によって「日本」のさまざまの「更新登録」を図ろうとしているように見える。

 数寄とは「何かで何かを漉く」ことをいう。

 何かと何かというのは、何でもよい。人であってもいいし、物であってもいい。物語であっても、事態や景色であってもいい ただし、その「漉く」ということが「透く」でもあり、「鋤く」でも「剥く」でもあって、また「好く」なのである。

 そこで、たとえば徳一において空海を漉くとか、ノ貫において利休を透くとか、溝口において俊成を、そのまた逆の、俊成において溝口を剥くということが、あるいはもっと端的にいうのなら、須恵器を長次朗の茶碗に通過させることが、山田耕筰を小山内正之助で鋤くことが試みられてよいことになる。できれば、さらなる小異によって時代や思想の大同を通過痛撃して、これらを更新登録させる方法のほうが、より数寄らしい。そこは無常迅速なのである。(P371)

この「数寄」という「何かで何かを漉く」という発想は、なにかにつけ、スクエアな専門主義の跋扈しがちな日本において、非常に有効なものではないかと思えるのだが、実際のところ、その「数寄」が嫌われてしまうがゆえに、日本はあまりにも「漠然としすぎ」るままなのではないだろうか。

もちろん、その「数寄」は日本文化のことだけではない、たとえば、シュタイナーの精神科学においても非常に重要なものになる。でなければ、「更新登録」どころか、せっかくシュタイナーの残したファイルさえ保存される前に、失われてしまいかねないのではないだろうか。

この「神秘学遊戯団」という試みも、ある意味では、上記の最初の引用を使っていうならば、こう表現できるかもしれない。

 いま、日本のシュタイナー受容は漠然としすぎている。

 受容されていないわけではない。一部には熱意もある。ところが、何か肝心なところが欠落したまま、すっかりスクエアななかで固定し、マニュアル化され、カルチャースクール化されようとしている。

肝心の精神科学が顧みられないがゆえに、それが現代日本のなかに大胆に貫かれ(durch-christen)ないからである。神秘学遊戯団は多くの場合、シュタイナーの精神科学とは無関係であるかのように見える話題が多くとりあげられてているが、その行間の一端に精神科学につながる隙間を透いていただければ幸いである。

さて、本書はさまざまな「数寄」に満ちているが、ここに盛られた「趣向」から何が受容されるか、そしてそれをもとに各自が何を何によって「漉」いていくか。それが、重要なことではないかと思える。それは「日本数寄」ならぬ「自分数寄」にもなるのだから。

 

 

風の本棚

池澤夏樹「ハワイイ紀行」


2000.8.9

 

■池澤夏樹「ハワイイ紀行(完全版)」

 (新潮文庫/平成12年8月1日発行)

『ハワイイ紀行』というタイトルを目にしたとき、著者が池澤夏樹ということから、ちょっと頑固なナチュラリストの旅行記だと思ったが、編集の仕方が面白そうなのと、テーマに少し心ひかれるものを感じ、このかなり大部な文庫を読みはじめたところ、最後まで一気に読み通してしまった。本書は、1996年に単行本で刊行されたものを文庫化するにあたって、その後の取材による第11章と第12章が追加されている。なかなか凝った本になっていて、おそらく著者自身が写したであろう写真などもいい味をだしている。

この『ハワイイ紀行』ではぼくとしてはほとんどはじめて、人に話を聞くことを主体に一冊の本を作った。これはどちらかといえばジャーナリズムの手法である。本文にも書いたけれども、最初は普通の旅行記でいいと思っていた。しかし、ハワイイ諸島という狭い範囲に限定されたポリネシア系先住民の文化にぼくはあっという間に引き込まれ、いろいろテーマを決めては人に会って話を聞くことに夢中になった。島は限定された空間だから、人は全体を見ることができる。あるいはそう錯覚することが許される。過去と現在をつかんだ上で、おぼろな未来まで透かし観ることができる。 (P555)

ぼくは残念ながらハワイイに行ったことはないし、どうしても通俗的なリゾートの部分がイメージされがちだったのだけど、本書が「ハワイイを通俗的なリゾートと見て敬遠していた人たちを連れ出すきっかけになったという噂も聞いた」と述べているように、たしかに、ふつうイメージされる『ハワイイ紀行』というタイトル以上のものが本書には豊富にもられているし、おそらく著者の予想を超えたところでのテーマの広がりの可能性も開かれているように思う。

個人的にとくに興味を引かれたのは、「フラ」と「チャント」そして「レイ」について。ある意味では、「フラ」は、オイリュトミーと通底しているところが少なからずあるように思えるし、「レイ」は「自然から霊力(マナ)を引き出すために」作るというように、自然の叡智に通底するなにかがあるように思えた。興味深いことに、(おそらく池澤夏樹はシュタイナーのことは関心ないだろうが)「フラ」に関するところで「ウォルドーフという小さな私立学校」がでてきている。

さて、池澤夏樹の作品にはこれまでも少なからずふれているが、いまひとつ乗り切れないものを感じていた。ナチュラリスト的な素朴実在論的な視点が、魂の表面をかすめていく感じだろうか。たとえば、マウナケア山頂の巨大望遠鏡「すばる」がとりあげられている第12章で次のように述べているところなどに典型的に現われている。

 ビッグアイランドに行く観光客は、昼間はビーチで遊んでもいいから、夜になったら寒くて空気の薄いマウナケアの山頂で星を見ている天文学者のことを思うべきだ。彼らがつかむ天体の姿が明日の自分たちの世界観を作るということに思いを寄せるべきだ。宇宙があって、われわれの銀河系があって、太陽があって、その惑星の一つである地球の上に自分たちがいるという、ものごとの順序をあらためて思い返すべきなのだ。(P554)

この素朴な善良さに対しては、なかなか説得できる言葉は持ちにくい。望遠鏡で見る宇宙が「明日の自分たちの世界観を作」りえるのだろうか。重要なのは、今もっている自分の世界観を問い直すことなのではないかと思うのだが、その自問自答に対する扉が開いているようには見えないのだ。

とはいうものの、「人に話を聞くことを主体に」というところが功を奏したのか、本書を読みながら、ハワイイについての興味が著者の認識とは離れたところでも、かなり大きくなってくるのを感じた。この夏、いっしょに過ごす一冊としてはオススメ。

ちなみに、本書で知ったハワイの歌い手「イズラエル・マカウィウォレ」の声はなかなか素晴らしく、夏にぴったりのBGMにもなる心地よさ。著者オススメの「FACING FUTURE」というアルバムは見つけられなかったが、その次にでていたアルバムの輸入盤を見つけることができた。イズラエルは、体重300キロを超える巨漢で、肥満のために1997年に亡くなったらしいのだが・・・。

 

 

風の本棚

大住祐子「シュタイナーに<看護>を学ぶ」


2000.8.12

 

■大住祐子「シュタイナーに<看護>を学ぶ/世界観とその実践」

 (春秋社/2000.7.31発行)

メースの「シュタイナー医学原論」が少し前にでましたが、シュタイナーの医学関連のものが続いてでるというのは、それだけ機が熟しているということなのかもしれません。

本書は、看護婦・保健婦をされていた著者が、実際にドイツの「シュタイナー看護研究所」に留学し学んだことをふまえながら、シュタイナーの精神科学の視点から「医療・看護」について書かれたもので、内容的に深いにも関わらず、とても読みやすいものとなっています。

著者は、父親の死に直面し、それまで死について深く考えずにいたことに思い至り、看護という仕事においては、人間そのものをもっと考えなければならないと、シュタイナーの精神科学を学び始めました。

 看護を学びながら、そしてそれを仕事としながら、人が生き、死んでいくというあまりにも当たり前のことを考えてもいなかった。健康のため、といいながら、その人にとって健康とは何なのか、どういう価値観、人生観を持って生きている人なのか、というようなことを考えることもなく、一方的に健康を押しつけていたのではないか……。そのように悩んでいた中でのシュタイナーとの出会いでした。

 もっと真剣に人間について考えることをしなければ、これ以上仕事を続けていくことはできないのではないかと悩みました。生きることとは、 死ぬこととはどういうことだろうか。「健康」や「病気」の本当の意味は?それらがわからなけば「治す」こともわかりません。子ども達の教育についてももちろんでしたが、このシュタイナーの世界観の中に、私の求めている答えを見出せるのではないのか、との思いが日々強くなっていき、行動へと駆り立てていきました。(P5)

そして、子ども二人を連れて留学。(こうした父親不在というあたりが、シュタイナー関係の特色のようだけれど(^^;)・・・たぶんある傾向性はあると思う。本書でもでてくるのは、仕送りのときに一文字だけ・・・)最初の一年はビザの関係で語学を学び、そしてシュタイナー看護研究所へ。そのシュタイナー看護研究所での様子が、まず第I章「シュタイナー看護研究所に留学する」で述べられ、そして第II章「シュタイナーから医療・看護を問い直す」で、人智学的な人間観・世界観から見た病気や治療についてまとめられ、第III章「シュタイナーを『実践』する」で、そうした著者の認識体験から得た療法から「リズミカルマッサージ」、そして「湿布」について具体的に紹介されています。

こういう方が、医療に限らず、さまざまな分野で数多くでてくるようになると、人間そのもの・世界観そのものを問い直すことを基本にせざるをえなくなり、世の中そのものの変革・変容につながっていくのではないかと期待させられます。

ご紹介の最後に、「あとがき」より。

 日本ではまだこのような世界観に立つ医療の実践が公には行われていません。これからどのような形で日本の医療の中に実現されていくかを考えてみますと、そこには多くの困難があると言えるでしょう。中でも一番の困難さは、ドイツやスイスでの人智学病院のやり方をそのまま真似るのではない、という認識を持つことでしょう。ドイツやスイスで現在行われているのは、人智学の世界観をもとに、その社会システムやさまざまな状況を背景にして現在のような形をとったものです。ですから、私たちが日本の現状のなかで、どのように実現していくかを考えなければならないのです。

 薬剤にしても、現在用いられているものをそのまま当てはめるのではなく、日本で長く用いられている生薬などを研究していくことも必要です。心身不二と言われるように、風土の違いはそこに暮らす人々の肉体だけでなく、魂的なところにまで及んでいます。ですから病気の治療に対しても、その土地での作物が薬として作用することもあり得ます。人智学医療が植物や鉱物から治療薬を求める以上、日本においてこの分野での研究がまず始められなければならないでしょう。

 もう一つの大きな困難は、そもそもの、人智学を理解することです。シュタイナーは、教育や医学面での講演だけでなく、農業や社会経済のことなど、人間が生きていくことに関するすべての領域といえるほど、広範囲にわたる講演をしています。また、この地球がどのようにしてでき、現在に至っているか、という話もしています。これらについては、全集としてスイスの出版社から出されている講演録に載っています。 (P238-239)

やはり、大きな困難かもしれませんが、「そもそもの、人智学を理解すること」を基礎にしながら、そうした認識に立って、個々の関心領域へアプローチすることがなによりも重要なことなのではないかと思います。

「神秘学遊戯団」のHPで全集を紹介しているのも、あまりに部分的になってしまっている日本でのシュタイナー受容のために少しでも役に立てたらというものでした。先日も、初期キリスト教美術を卒論で取り上げようと考えられている方からメールをいただき、『内的霊的衝動の写しとしての美術史』(GA292) の古代キリスト教の彫刻、石棺とレリーフ の部分を参考にしたいということで、ちょうど手元にあったものをお貸ししたりもしたのですけど、そうした裾野の広がりというのはとても心強く感じたりします。

さて、著者には、W.Holzapfelの「医術の拡大」(東京…人智学にもとづく医療・看護研究所)という訳書があると本書には紹介されていますが、ネットで調べてみてもよくわかりません。ご存じの方は、どうすれば手にはいるかご紹介くださればと思います。

 

 

風の本棚

死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」


2000.8.15

 

■マイケル・ニュートン博士

 「死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」

退行催眠による「生」と「生」の間に起こること、全記録」

(澤西康史訳/VOICE 2000.8.11発行)

退行催眠によるカウンセリングを通じて、死後の世界をいわばルポしたもの。前世療法というのがあるけれど、その手法に近いもので、それを使ってさらに広範囲に調査範囲を広げ、死後の世界がどういうものなのか、また生まれてくるときにはどういうプロセスを経るのかがかなりまとまったかたちで紹介されていて、なかには理解不足ではないかと思えるところもあるのだけれど、全体としてみるとなかなか説得力がある。

ちょうど、先日、シュタイナーの「精神科学から見た死後の世界」というのをご紹介したところだけれども、シュタイナーのアプローチと共通しているところと、異なっているところをいろいろ考えながら、併せて読むのもいいかもしれない。

同じものでも、角度を違えてみることで、より立体的になるし、ある意味では、カルマ的な視点に関しても、この地上世界がいかに「劇場」であるかということが本書を読むと実感されてくるのではないかと思う。本書のいいのは、いろんな魂のいろんな段階のタイプの人の多様な視点から、死後の世界のことがわかりやすいかたちで自然にはいってくるところだろうか。

とはいえ、やはりシュタイナーの精神科学的な視点は欠かせないと思う。精神科学は、まずやはりより視点が広範囲だし、「魂」のことだけではなく、この地上の生では欠かせない肉体の謎に関しても多くの視点を提供してくれる。そうした視点が欠けると、どうしても肉体はただの借り物だというだけで、その秘密に迫ることはできなくなるから。

さて、最後に本書のなかから、興味をひかれたところを少し引用紹介したい。

ニュートン 源泉そのものがすでに完璧であるのに、自分よりも不完全な知性をさらに生み出す必要があるのですか。

被験者 私たちは創造主の創造を手助けしているんです。このようにして、自己を変容し、より高い完成の領域へと高めることによって、私たちは生命を構成する基本的な要素に、なにがしかのものを付け加えるんです。(…)

源泉はそれ自身を成就するために創造するんです。

ニュートン その点が疑問なんですよ。なにかが欠けているのでないかぎり、絶対的なものがさらに絶対的なものになろうとすることはないでしょう。

被験者 (…)私たちが目にするもの……源泉が……私たちの知りうるすべてであり、創造主は私たちを通じて……私たちを誕生させることで自分自身を表現しようとしている、と私たちは考えているんです。(…)

ニュートン では、源泉は自分自身を成長させるために、意図的に不完全な魂とその魂が宿る不完全な生命体とをつくりだして、なにが起こるのかを見守っているということですか。

被験者 そうです。だから私たちはこの決定を尊重し、生命が起源に戻っていくプロセスを信頼しなければいけないんです。食べ物のおいしさを知るには飢えなければならないし、暖かさの恵みを理解するためには寒さを味わわなければならないし、両親のありがたさがわかるには、子どもにならなければいけないんです。変容が私たちに目的を与えるのです。

(P307-308)

 

 

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五味太郎「絵本をよみつづけてみる」


2000.8.15

 

■五味太郎・小野明「絵本をよみつづけてみる」

 (平凡社ライブラリー/2000.8.9発行)

あまりに暑いので少し気分転換になるものをと思い、手に取ったのだけれど、気分転換どころか、面白くて、刺激的で一気に読み進めてしまった。暑いのはなくならないけど、どこかで精神がシャキン!とするところがある。

帯には、「売りことば」としてこうある。

会社よりも、子育てよりも、ケータイよりも

面白いって、絵本は。

だから、絵本でGO!

「絵本をよんでみる」というのがあって、これは久々の続編(文庫オリジナル)らしいが、絵本がこんなにすごいとはちょっと想像できなかった。だから、ぼくなりの「買いことば」をこうして書いておくことにしたが(^^)、このすごさをここで紹介することはなかなかむずかしいと思う。

主に紹介されている絵本は次の7冊。

●長新太作「ちへいせんのみえるところ」ビリケン出版

●マリー・ホール・エッツ作「ジルベルトとかぜ」(たなべいすず訳)冨山房

●新宮晋作「いちご」文化出版局

●林明子作「こんとあき」福音館書店

●レイン・スミス作「たのしい ホッキー ファミリー!」(青山南訳)ほるぷ出版

●トミー=アンゲラー作「すてきな 三にんぐみ」(いまえよしとも訳)偕成社

●タイガー立石作「とらのゆめ」福音館書店

このなかで、とくにスゴかったのは、次の四つ。

・長新太作「ちへいせんのみえるところ」

・マリー・ホール・エッツ作「ジルベルトとかぜ」

・新宮晋作「いちご」

・レイン・スミス作「たのしい ホッキー ファミリー!」

最初に紹介されている「ちへいせんのみえるところ」で、そのスゴサのなんたるかがじわじわ近寄ってきて、「ジルベルトとかぜ」で深く納得し、「いちご」では、ある種絶句してしまうことになった。そうして「たのしい ホッキー ファミリー!」で大笑い(^o^)/。

で、少し「いちご」のところから少し。

五味 ぼくはやっぱり、ものの見方というのが好きみたい。「何を見るか」より「どう見るか」に興味があるんだね。だからたとえば、アーヴィング・ペンが撮った写真を見ると、アングルとかフレーミングとかあるいはフォーカスの仕方とか、まさにものの見方だよね、それに感動する。へえ、こういう見方があるんだ、って。絵もまったくフレーミングだよね。こんな切り取り方があるなんて、びっくりだな、と思う。ぼくはそういう感じが一生楽しめたら、退屈しないぜ、と思ってるね。

 結局ぼくは、表現というのはヴィジョンやものの見方を提示するしかないんじゃないか、という気がするのね。で、新宮晋はいちごをこういうふうにとらえた。もちろん、この本を嫌いな人もいると思うんだよ。いちごってこんなんじゃない、って。でもぼくはこれが大好きで、ものごとを新しくとらえようというのが、とっても楽しい世界、かなりの冒険の世界だと思ってるんだね。ぼくの好きなダダもそうでしょ。 (P74)

そういえば、シュタイナーもこういうところがあったりする。「どう見るか」ということを斬新な方法で切り込んでくる。「霊」という言葉が嫌いで、やたら「精神」にしてしまう人もいるし、はなからこういうのってダメだという感じの人もいるだろうけど、それにもかかわらず、世界そのものを「どう見るか」が迫ってくるのは、これほどの冒険ってないんじゃないかという気がしている。

もちろん、シュタイナーは絵本じゃないけど、シュタイナーの本には、こういう帯でもつけたくなるなと思う。

会社よりも、子育てよりも、ケータイよりも

面白いって、シュタイナーは。

だから、シュタイナーでGO!

 

 

風の本棚

上橋菜穂子「夢の守り人」


2000.8.21

 

■上橋菜穂子=作・二木真希子=絵 「夢の守り人」

 (偕成社/2000.6発行)

手にとってみるまで、作者の名前も作品の存在もまったく知らなかった本だけれど、なかなかにすぐれもののファンタジーで、読み始めるとその世界にすーっと入っていくことができた。今はやりの「ハリーポッター」もそれなりにいいけれど、(二作目の翻訳が来月でるそうです)テーマ的いっても、こういう深い作品は見逃せないなと思う。

本書は、<守(も)り人>三部作m「精霊の守り人」「闇の守り人」に続く三作目。どれから読んでもストーリー的にOKらしかったので、なかでいちばんテーマ的に面白そうな三作目の本書を選ぶことにした。紹介してもさしさわりはないと思うので、本書のなかから紹介文を。

人の世界とは別の世界で花をつけ実を結ぶその<花>は、人の夢を必要としていた。一方、この世をはかなんでいる者は、花の世界で、永遠に夢を見続けることを望んだ。いとしい者を花の夢から助けようとして、逆に魂を奪われ鬼と化すタンダ。タンダを救おうとするトロガイとチャグム、そしてバルサ。

と書き写してみて、この紹介が少し違うことに気づく(^^;)。「逆に魂を奪われ鬼と化すタンダ」ではなく、「魂はかろうじて奪われなかったが、肉体を奪われたタンダ」のほうが適切か。(読んでない人にはどうでもいいことだけれど、読んだ立場からは気になる(^^;))

それはともかく、登場人物の個性がよく描かれていて、読んでいて、ぼくのなかにもそれぞれの人物が生きて動いていくのがわかる。上記の紹介文にはないが、重要な登場人物のひとりである「ユグノ」という放浪の歌手や「歌」についてのテーマも心くすぐるものがある。それと、グレートマザー的な「母」の闇の部分についても、なかなか、辛辣なまでに、よくテーマ化できているのではないかと思う。また、全体のテーマそのものもよく考えられていると思う。ただ、ちょっとばかりよく考えられすぎているのではないか、というところもなきにしもあらずだけれど・・・。

さて、最後に、この作品のなかからとくに気に入ったところを。

「ここにいるのは自分を不幸だと思っている人たちだ。その不幸には、きっと二通りある。

 ひとつは、不治の病にかかっているとか、とりかえしがつかないことをしてしまった、というような、行き止まりにきている人たち。

 もうひとつは、別の人生もあるはずなのに、なぜ自分はこんなに不幸なのか、と、運命を呪っている人たち。」

 タンダは、チャグムに目をもどした。

「別の人生って、なんだろうね、チャグム。ほかの人の場合はわからない。でも、おまえの場合、いまのすべてをすてる気なら、バルサもおれも、命をかけてでも、おまえを別の国へ逃がしてやるよ。……それは、あの一年まえのおまえでさえ、わかっていたはずだよ。

 でも、おまえはあのとき、自分の人生をなんとか生きてみようと思っていたはずだ。帝になる人生という、おぞましく暗い闇にむかって、さみしい思いをかかえながらも、しっかり顔をあげていた。……それはね、おまえが、そういう自分の姿が好きだったからなんじゃないかな。」

 タンダは、小さく吐息をついた。

「おれにはね、人がみんな。<好きな自分>の姿を心に大事にもっているような気がする。なかなかそのとおりにはなれないし、他人にはてれくさくていえないような姿だけどね。

 すくなくとも、おれはその姿をもって生きてきた。そして、どうしたらいいかわからないわかれ道にやってきたら、どっちに歩んでいくほうが<好きな自分>かを考えるんだ。」

「最後の決断は、おまえのものだよ。ーーこういうと、ずるくきこえるかい?」

 チャグムは、かすかに首をふった。

「ここは、なにもない夢のなかだ。夢だと気づいてしまっても、おまえがつくりあげたバルサとおれとトロガイ師の幻にかこまれて、死ぬまでねむっていたいと、思えるかい?」

 チャグム目をとじ、かすかにふるえていた。

「それとも、目ざめて、自分の人生を終わりまで生きるかい?……それを望むなら、おれが、帰る道を教えてやるよ。」 

(P175-177)

 

 

風の本棚

福田和也「悪の対話術」


2000.8.23

 

■福田和也「悪の対話術」

 (講談社現代新書1517/2000.8.20発行)

「悪」、しかも著者が福田和也だというので、やはり、読まずばなるまい、と読んでみた。

内容は、ほぼ予想した通りのものだったが、やはり、「ひとを<嫌う>ということ」を書いた中島義道とかとは、ある種の外に向かうエネルギーは似ているところがあるように思うのだけれど、意識化の度合い、ある種の突き抜けた品格が違うとあらためて感じた。言葉そのものの持つ力も抜けが違う。

ちょうど、「甘美な人生」も文庫化されたところだが、近頃、内容があって元気な人の筆頭に挙がるのではないかと思う。とはいえ、本人も言うようにわりとライト寄りのスタンス。ライトに限らず、ある種の思いこみというか趣味には、やれやれという感じもしないし、やはりフランス文学出身だなななどどいうところもあるけれど、読んでみる価値のある人ではあると思っている。

ところで、「悪の対話術」。FRaUに「悪と、大人の、対話法」として連載されたものをベースにしているということだが、連載当時もおそらく、けっこう人気(反発も大きかっただろうけど)があったのだろうなと推察される。

ここで述べられていることは、その好き嫌いは別として、至極あたりまえのことばかりなのだろうけど、そのあたりまえのことを確認してみるという意味でも、かなりすぐれた「対話術」の指南書になっていると思う。そして、その基本になっているのが、「悪の自意識」です。

 対話の技術を考えるということは、そのまま「悪」の領域に踏み込むことです。

 つまり、対話について考えるということは、人と人とは善意さえもっていれば互いに理解しあうことが出来るとか、通じ合うことが出来るなどという欺瞞から抜け出すことなのです。

(P11)

まったくその通りだと思う。誤解なきよう、その補足説明も少しだけついでにご紹介しておくことにする。(もっと誤解が深まるかもしれないですけど、それはそれで仕方がない(^^;))

 善意というのは、自己肯定のためのアリバイなのですね。善人であることによって、人はこのきわめて錯綜した世界において、自分を完全に守ってくれる便利な云い訳なのです。「だって、私は善かれと思って」と云えばすべてが許されてしまう、許されると思っている。私の経験からしても、人を傷つけたり、裏切ったりして、一番平然としているのが、「いい人」たちです。

 それに対して悪人というのは、世界の複雑さを前提に生きています。善をなすにも、悪をなすにも、この世は容易ではないということを知悉している。

 だから、それをどう受け止めるかは別として、他人の反応にたいして敏感であるし、何よりも自分がすることにたいして、善を働くにしろ、悪を働くにしろ、意識的なのです。

 意識的であるということが大事なのですね。つまり、自分は、イノセントで無垢な存在ではない、と認識することですね。それは当然、大人であるということでもあります。自分は善人だとか、無垢だとか、世間を知らないとかいったことにこだわって、それによってえ許されると思っているのは、すべて同様の、子供っぽい、幼稚な思い込みにすぎないのです。

(…)

 意識というのは徹底しなければなりません。あらゆることに意識的であろうとする努力を自分に課さなければなりません。

 そんなことをしていると、自意識過剰で病気になってしまう、と思うかもしれません。確かにそうですね、大人の道は厳しいものです。心弱い者には、歩き難い。

 しかし、一度成熟をめざして歩き出したら、止まることはできないのです。(…)

 その徹底した意識に裏打ちされた自信こそが、つまりは自信の意識的表現が、体話術の神髄なのですから。

(P12-15)

やはり、「悪の自覚」という意識魂的テーマは、現代人にとっては必須の課題なんだろうと思う。そういう意味でも、本書は、意識魂の基本を身に付けるための、ひとつのガイドとしても気軽に面白く読めるものかもしれない。既に、ここに書かれてあることを意識化している人にとっては、自分を戯画化したりしてみるためのものとして、また、まったくこうしたことを意識化していない人にとっては、ひとつの貴重な試金石として・・・。

 

 

風の本棚

伊藤遊「鬼の橋」


2000.8.29

 

■伊藤遊「鬼の橋」

 (福音館書店/1998.10発行)

上橋菜穂子の「守り人」シリーズを見つけてから、児童書のコーナーを注意してのぞいてみるようになって見つけたのが、「第3回児童文学ファンタジー大賞受賞作」だという本書。

「児童文学ファンタジー大賞」というのは初耳だし、その他の受賞作とやらもよくわからない。それに、とくに「児童文学」と銘打つ必要もよくわからないし、そんなに意味もないかなと思うだけれど、おもしろければそういうのはどうでもよくなってしまう。

「鬼」というのがわりと好きなのと、主人公が小野篁(おののたかむら)という興味深い人物だということ、それに著者の次のようなスタンスが気に入ったので読んでみることにした。

 この物語は本になる前にファンタジーの賞をいただいたのですが、ファンタジーとは何なのか、今もって私にはよくわかりません。ただ、物語を書こうとすると、舞台は生まれ育った京都になり、記憶の中にあった伝承が一人歩きを始めました。時は平安時代。夜が今とは比べものにならないほど暗く、闇の中に鬼やら物の怪やらが潜んでいたころ。そんな怪しいものたちといっしょに人々が生活していた時代に、私は強く心ひかれました。当時のことを記した史料にむきあっていると、なにげない記述のあいまに、生きた人間の姿がちらちらと見えはじめます。その姿に目を凝らすうち、立ちふさがっていた千年の時の隔たりはいつしかなくなり、平安の闇の真っただなかにいる自分に気づく……その瞬間こそが、私にとってのファンタジーの世界なのかもしれません。(P341)

物語は、小野篁が元服するまでの少年時代、冥界にいって鬼に食われそうになるやら、そこで坂上田村麻呂に会うやら、角を半分なくして、人間になろうとする鬼やら、その鬼に慕われる少女やらが登場して、そのなかで、小野篁がいわば成長していくというものだけれど、平安の闇のなかに自分もいるような、そんな気持ちになって読み進めることができた。

なにより、その語り口がわざとらしくないのがいい。おそらく、作者はこの物語を自分で生きていたのだなとわかる空気がある。どうも、最初からファンタジー、ファンタジーしているものは、その語りからしてわざとらしくてどうも好きになれないところがあるが、こういうのが、むしろファンタジーといわないがゆえに、良質のファンタジーになっているところがあると思う。たとえば、今昔物語を読んだときに、ああこれはファンタジーだな、と実感されるようなそんな感覚がある。

ところで本書で興味深かったのは、やはり鬼が人間になるというところ。妖怪人間ベムという漫画映画があって、けっこう気に入っていたけれど、やはり、鬼であり妖怪であることの悲しみというのは、なぜか共感してしまうところがある。ひょっとしたら、ぼくもかつて鬼だったことがあり、その悲しみが今も残っているのかもしれないとか思ったりもする。

平安時代というと、最近、陰陽師などが流行っているが、そのなかで人が鬼になるという話もあったりする。そういう鬼の悲しみをともに生きてみること、そして鬼になってしまった存在が、もう一度人間になろうとすること、そういうことを本書を読みながら考えてみるのもいいかもしれない。自分の心のなかにある闇に目を凝らすということでもある。

 


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