風の本棚25

 (2000.2.13-4.24)


●池田晶子「考える日々 II」

●松岡正剛「知の編集術」

●松岡正剛「日本流」

●ミヒャエル・エンデ「ものがたりの余白」

●村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

●日本・ユダヤの封印の古代史 2「仏教・景教編」

●シュタイナー「人間の四つの気質」

●森真一「自己コントロールの檻」

●井波律子「中国文章家列伝」

●フィリップ・プルマン「神秘の短剣」


 

風の本棚

池田晶子「考える日々 II」


2000.2.13

 

■池田晶子「考える日々II」

 (毎日新聞社/1999.12.25発行)

 

「考える日々I」はちょうど一年ほど前の正月に、コタツでみかんを食べながらという感じで読んだのだけれど、今回の「II」は、転勤・引越の渦中のなかで、ぼちぼち読んだという感じで、とても対照的な読み方になった。どちらの読み方でも、「考える」ということがいかに重要か、いかなる状況にあっても、「考える」ということを放棄してしまってはならないということを再認識させてくれる。

もちろん、内容的にもスタイル的にも、池田晶子節はまったく変わっていないが、今回あらためて思ったのは、池田晶子が自分を「文筆家」としていて、そこから書いているということのある種の傾向性についてだった。あまり適切な比較であるとはいえないだろうが、いくつかの点でぼくとは違っているなという点でそれが感じられた。

もちろんそれは「考える」ということにおいて異なっているというのではなく、それが「生」において色づけられる仕方の違いとでもいうのだろうか。早い話が、ぼくは「文筆家」ではなく、職業的にはビジネスマンであって、常に、否応なく、「渦中」にいることになるということにおいて、さまざまに制約された環境のなかで、「考え」ているということである。「考える」ということが常に、ビジネス環境のなかで翻弄されやすくなるわけであり、逆にいえば、「考える」ことの困難さが増すぶんだけ、それがある種の鍛えられ方をされるということだろうか。たとえば、池田晶子は至極もっともな仕方でパソコンを拒否しているけれど(^^;)、ビジネス環境のなかでは、それに流されないような仕方で、その活用についてアプローチしていくことが求められるということなどなど…。

人は、日常に翻弄されればされるだけ、「そういうものだ」という思考の硬直化のなかで、ロボットのようになってしまい、今ここに私がいること、世界があること、などなどについて、ほとんど驚かなくなってしまう。目の前のいろんな諸問題を片付けることに忙しく、ほんとうはそれらの根底に常になければならない驚きに対して、見ざる言わざる聞かざる、の状態になってしまうわけである。そういうなかで、驚きを持ち続けるのはなかなかに難しい。しかし、それが失われたとき、人はもはや生きてはいないのだ。そして、生きてはいないとき、「考える」ということは存在しない。もちろん、その生きているということは、死をもそのなかに含んでいる。

さて、その驚くということの重要性に関して、なかでちょっと面白い話があったので、それについて少し。

ある小さな出版社の企画で、池田晶子が「中学生の教科書を書いた」というのである。そしてその内容は、「一、生死」「二、宇宙」「三、善悪」という順序で説き起こしたものだという。「死ぬということはどういうことなのだろうか」「宇宙の果てはどうなっているのだろうか」「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」これらの根源的な問いに対して、「知らないと知っている」という立場から説いているということらしい。

 中学生に向けて書きながら、あらためて感じたことは、私は、われわれは、「いかに知らないか」、やはりこれに尽きていた。不可解な大宇宙に、不可解にも存在し、日々を生きているわれわれは、そのことの何であるかを全然知らない。ぜんたい、どうなっているのか。

 今さらながらこの根源的な問いを、自身のうち深く、底が抜けたように感じる時、しかし逆にこの不可解、不思議の感覚こそが、われわれの倫理の核となるのだということをも、はっきりと私は知るのである。なぜなら、不可解を知るということは、謙虚になるということ以外ではあり得ないからである。

 子供に善悪の感覚がなくなっているのは、まず間違いなく、この不可解、不思議を忘れているからだ。眼前には、わかりきった人の社会しかないからだ。万引、売春、人殺し、それらが悪いことなのは、「社会にとって」悪いからだと思っているのだ。だから居直る、「なぜ悪い」。

 馬鹿だね、ちっとも悪くない。そんなことが「社会にとって」悪いことなら、どうして「お前にとって」悪いことがあるはずがあるだろう。

 お父さん、お母さん、先生方、お説教はダメです。道徳も哲学も要りません。教えられません。必要なこと、できることは、唯一おどかすことだけ、大宇宙の謎の前に立たせ、後ろからその背中をどついてやるのです、「ワッ!」。

(P249-250)

おそらく、その「ワッ!」ということを、自分で自分に仕掛けられるようにするというのが、シュタイナー教育の核心なのだろうと思う。だから、「自由への教育」であり、「自己教育」なのだ。決して、マニュアル的に教えてもらうようなものであってはならないと思う。でないと、「不自由への教育」ということになってしまうから。

 

 

風の本棚

松岡正剛「知の編集術」


2000.2.19

 

■松岡正剛「知の編集術/発想・思考を生み出す技法」

 (講談社現代新書1485/2000.1.20発行)

二十歳前後にいちばん影響を受けたのは、「受容美学」と並んで、松岡正剛の「遊」だった。この「遊」というコンセプトは、「神秘学遊戯団」の「遊戯」に反映していたりもするくらいである。「遊」のめくるめく「編集」は、めっぽう刺激的で、本書のサブタイトルにもある「発想・思考を生み出す技法」を意識的にせよ、半ば無意識的にせよ、たくさんもらっているように思う。

松岡正剛は、「編集」について次の方向を提示していて、本書もこのことを「アタマの片隅において」、読み進めることが示唆されている。

1・編集は遊びから生まれる

2・編集は対話から生まれる

3・編集は不足から生まれる

 

1・編集は照合である

2・編集は連想である

3・編集は冒険である

最近では、少し前にでた「知の編集工学」(朝日新聞社)や本書など、「編集」そのものをテーマにしたものが刊行されるようにもなっている。かつては、そうした「技法」からのアプローチというよりも、ある種のカオスのような在り方から、そうした「技法」を自分で発見していったところもあって、それがこうしてマニュアル的に書かれてしまうようになってしまうと、なんだか少し興ざめのような気もしないではないが、確かに、こうした「技法」は実際に使いこなしてはじめて生きてくるわけなので、これはこれで「編集工学」という知として重要なことなのだと思う。

しかし、シュタイナーの精神科学にふれるようになって以来、どうも松岡正剛的な「編集工学」に物足りなさを感じるようになっている。もちろん、それが必要ないというのではないのだけれど、それだけではどうにも「腑に落ちない」のである。スーパーマーケットにならんでいる野菜と日比野さんの野菜の違いに、ある種決定的に気付いてしまったようなものかもしれない(^^;。もちろん、「編集工学」は技法なので、比べるのもおかしなことなのかもしれないが、精神科学は、決して「技法」としてとらえることはできないように思う。バッハに「フーガの技法」という素晴らしい曲があるけれど、その名とは裏腹に、重要なのはむしろ「技法」を越えた何者なのかなのだと思う。

ところで、松岡正剛とその仲間たちは、今、「編集の国ISIS」という「編集実験農場」のようなものをコンピュータ・ネットワークの中に作ろうとして準備しているらしい。その国が「開国」したときには、少しばかりつきあってみようかなと思っている。ぼくにとっては、かつてのような魅力を感じるものではなくなっているが、それは別にして、とても重要な試みであることは確かなのだから。

 

風の本棚

松岡正剛「日本流」


2000.2.24

 

■松岡正剛「日本流/なぜカナリアは歌を忘れたか」

 (朝日新聞社/2000.3.5発行)

「日本流」ならぬ、松岡正剛流のスリリングな一冊。

サブタイトルに「なぜカナリアは歌を忘れたか」とありますが、本書の序章は意外にも童謡の話から始まります。もちろん、歌を忘れたカナリアは「日本」のこと。

以前から感じていたことではあるのだけれど、なぜ多くの有名な童謡の歌詞がとても不思議な表現内容になっているのか。そのことへの示唆が、これからの時代の日本への「日本流」へのアプローチのための重要な問題提起ともなっていて、まるでミステリーのようなところから、本書は説き起こされています。

「かなりや」は、大正8年(1918)に西条八十の詞と成田為三の曲で「赤い鳥」に楽譜が載せられていました。この時代から昭和への時代の流れの底にあるものが、そこには暗示されているのかもしれません。

唄を忘れた金糸雀は

後の山に棄てましょか

いえ いえ それはなりませぬ

「日本流」を「後の山に棄て」るかどうか。やはり、それは「いえ いえ それはなりませぬ」なんだと思います。

もちろん、その「日本流」というのは、昨今話題になっている「国民の歴史」というような一元化されたようなものではなく、(そもそも「日本」をひとつだというとらえかたそのものが問題なのですけど)松岡正剛の言葉でいうならば「一途の多様」「多様の一途」とでもいうものです。

 私は日本が好きです。また、日本が懐かしい。

 そして、ときどき嫌いになってしまいます。ただし、本書で「日本」というばあいは、「いろいろの日本」ということであって、特定の日本でもないし、理想の日本でもありません。

 ふつうは何かに限定しないで日本を語っていくのは無謀です。広がりすぎる日本というのは、日本の歴史文化のうえでもろくなことはない。どちらかというと歴史上の良質な日本はスモールサイズ感覚ともいうべきもので、すでに清少納言にして「小さきもの」の重視を、村田珠光にして「侘びたるもの」への転換を、松尾芭蕉にしてそれこそ「細道」を、それぞれ標榜させたものでした。

 しかし、私は本書では日本を限定したくはない。日本という言葉に一定の日本や特定の日本のことを意味させたくないのです。「一途の多様」というか、「多様の一途」というか、そういう日本を見ていきたいと思っています。多様性を、いまをはやりの複雑性とか非線形とか多文化性とかいってもいいですが、ここではただ多様といっておきます。

 では、何をもって限定せずに、何をもって多様なのかというと、私は縄文日本とか戦国日本とか大正日本とかがよくて、携帯電話とコギャルと老人が多い日本がよくないとは、思わない。夜店に金魚すくいと電気あめとソース焼きそばが同居し、沖縄にロックと三線とウタキが並立し、格闘技に空手とキックボクシングとプロレスがまじるという、そういう日本の多様がおもしろいのです。

 初詣とクリスマスとバレンタインデーがあることは必ずしも混乱ではないし、インターネットで英語と日本語がちゃんぽんになってしまっているのもいい。それらはたとえば北原白秋が「硝子」と「ぎやまん」を同時に使ったように、宮沢賢治が岩手の空を「カルボン算」と「交流電燈」で交ぜたように、おもしろいと思っているのです。

 ただ、気に入らないのは、そのような日本の多様を最近の日本ははしゃいでいるばかりで、寂しがらないところです。「おもしろい」ということ「寂しい」ということが断絶してしまっているところです。多様が一様になり、一途が拡散になっている。これはつまらない。

 ようするに私は「いろいろにほん」が好きなのであって、寂しげで祭りのあとのような「色は匂へど散りぬる日本」が好きなのです。

(P28)

引用が長くなりましたが、本書では、松岡正剛流の「一途の多様」「多様の一途」としての「日本流」を再編集していこうという、その可能性を探ろうという試みがさまざまな角度からなされていて、通常の「日本論」のようなものとは一線を画しているように思います。おそらくは、こうしたところから、「日本」を見ていくことが急務なのではないだろうか。

ちょっと余談になりますが、松岡正剛が本書で、たとえば「わび」というのは、「わびる」とである、そこから「侘び茶」という意識が生まれたと述べているのですが、ミヒャエル・エンデが「作家とは難破した船の遭難者だ」と述べていることとどこかで通じているのかもしれないと思いました。

引用ばかりになりますが、エンデの「ものがたりの余白」(岩波書店)からその「難破」について。

「難破する」という表現でわたしが意味するのは、直截な言い方をすれば、裸のお尻で砂利の上にしりもちをついたことがなければならない(ということ)、言い換えれば、本当にどうしたらよいかわからない状況に、実際に陥ったことがなければならない、ということです。人生においてもそう。どの観点からももう終わりだという状態です。(…)

 それをわたしは「難破」と言いました。本当に敗れ去ったときです。実際に失敗したことがなければならない。そうでなければ、ものを書くのは休日のお遊びにすぎない。余暇の暇つぶしだけです。だけど、職業として行うとき、真剣なとき、わたしはいま芸術全般を言っているのですが、文章を書くのも、陶器を作るのも、茶道でも、みんな同じです。生死をかけた闘いに敗れてはじめて、これら(芸術)に道が通じる。それ(敗北)を味わったことがなければ……、その感触を知らなければならない。そうでないと、すでに話したように、芸術はしろうとの道楽にとどまります。(P28-29)

おそらく、日本そのものが、今まさに「敗北」しつつあるように見えます。ある意味では、敗北したところからしか何も始まらないのかもしれません。そうしてそれを「わびる」ところから、「生死をかけた闘いに敗れ」るところから「日本流」が、「一途の多様」「多様の一途」として浮かび上がってくるのかもしれないという気がします。だから、今問題なのは、敗北を認めないところ、わびないところなのでしょう。だからこそ、「国民の歴史」のような、一元化された統一への指向が姿を見せてしまう。それはやはり、ある種、亡霊のような姿にしかならない。けれど、「日本流」を「後の山に棄て」してまわないためにも、その「一途の多様」「多様の一途」へのアプローチが必要なのではないかと思います。

 

風の本棚

ミヒャエル・エンデ「ものがたりの余白」


2000.2.25

 

■ミヒャエル・エンデ「ものがたりの余白」

 聞き手・翻訳 田村都志夫

 (岩波書店/2000.2.21発行)

エンデの晩年、病院もふくめた場所で、田村都志夫氏が、聞き手として収録した話を集めたもの。『エンデ全集』の月報に「エンデのラストトーク」として連載されたものに、「夢について」「死について」が加えられてあるということである。「エンデのラストトーク」は読んではいなかったので、ぼくにとってはこの「トーク」のすべてを始めて読むことになった。

そして、読んでいる間中、まるで、目の前にエンデがいて、話を聞いているような、そんな不思議な気持ちになってしまった。エンデの目をじっとみながら、その熱や息づかいさえも感じながら、聞き入ったり、うんうんとうなずいているかのような。いつまでも聞いていたい語り。ひょっとしたら、ぼくのなかでいつも語られているかもしれないような語り。そして、語られている内容は、これまで読んだことのあるどのエンデの言葉にもまして、どれもぼくにとってはとても近しいというか、魂の深みに直接届くものだった。

シュタイナーの精神科学の内容も、エンデにおいては、おしきせのものではなく、エンデの精神のなかに織り込まれていて、エンデという個性の養分のひとつになっていることを感じることができた。ぼく自身、できればエンデのように、精神科学の内容をまさに生きることで、それを自分の個性そのものへとすることができればいいのだけれど、もちろんそれは遠いはるかな夢のようなことなのだろう(^^;。

さて、本書のタイトルは「ものがたりの余白」とあるが、こういう「余白」こそが、ある意味ではもっとも豊かなものなのかもしれない。そういう余白にこそ、たとえばこういうことがさりげなく語られうる。これは、エンデがみずからの「死」を前にしたころの「トーク」で、まさに「死について」という章のなかにあるものです。

ーーエンデさんは、木々が葉を落とす。そこには別の力が現れている、とおっしゃったことがありますが、その別の力とは何なのですか?

エンデ 外的には、それは死にゆくプロセスです。しかし、内から見れば、木のなかからまったく異なる力が出てくると思うのです。つまり、春から夏にかけて、木のなかで、宇宙に向かって輝き出る力は、秋にはちょうど逆になる。それは宇宙から木の根へ入り、大地のなかへと向かうわけです。たとえば、新しい樹木を植えるとき、庭がある人ならだれでも知っていると思いますが、できるだけ晩秋に植える。力が木の根に入り、大地へと向かうからです。春に植えると、その木は弱るんですね。

ーーここでおっしゃる大地とは何なのでしょうか?この根源のような暗闇は?

エンデ この暗闇は……、そうなると、これも陰と陽になります。もちろん闇のなかへ入る。隠れた側に入るのですね。かたちを作り出すなかで、つまり花に、果実に、葉に、姿を現す力は、外的には消えてしまう。そして、外的にはもう存在しないから、だからこそ力は自由になり、内へと入り、そこでかたちを作る。変容する。

 同じことは人間の人生の年齢についても言えるのじゃないでしょうか。それは、いわば、精神化するプロセスといえます。死へ向かうプロセスは、おそらくどれも精神化するプロセスじゃないでしょうか。 純粋に生物学的な意味でもそう思うのですが。力を解き放ち、もっと精神的な現実のなかへ至らせるプロセス。それらの力が何か(外的なもの)を築いたり、外的なかたちを作るのに使われるときよりも、もっと精神的な現実へと解き放たれるプロセスなのです。

(P258-260)

さて、エンデに関してですが、このメーリングリストでも話題になったエンデの「お金」に関する考え方などについての本がNHK出版から「エンデの遺言」として出ました。これについても、興味深いところなどがあれば、またご紹介してみたいと思います。

 

 

風の本棚

村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」


2000.2.27

 

■村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

 (新潮社/2000.2.25発行)

村上春樹初の連作小説。阪神淡路大震災の後、1995年2月。そのとき起こったなにか。それが6つの物語のかたちで書かれています。

直接的にはまったく関係のない6つの物語。「UFOが釧路に降りる」、「アイロンのある風景」、表題にもなっている「神の子どもたちはみな踊る」、「タイランド」「かえるくん、東京を救う」、「蜂蜜パイ」。

最初の5編は「地震のあとで」という連作として「新潮」に連載され、それに最後の「蜂蜜パイ」が書き下ろしのかたちで加えられています。その「蜂蜜パイ」のエンディングがなかなか泣かせる。そして、その書き下ろしを読んではじめて、この「連作」というのがなんとなく伝わってきた気がしました。

ストーリーについてはあえてご紹介を控えますが、心のなかにぽっかりとあいた穴、暗闇、深い井戸のようなもの、それを見ようとしたときに、どこにもゆけない自分、どこにもみいだせない自分の根拠のようなものが、ブラックホールのようにどんどんひろがっていく。そのきっかけとしての、あの大地震。

シュタイナーは、「第五福音書」において、キリストが磔刑にあった後、起こったという地震で、イエスの死体の横たわる墓が揺すぶられ、墓の上に載せてあった石が振り落とされ、地を裂き、イエスの死体は地の裂け目に落ちていき、ふたたびその裂け目が閉じられたと述べていますが、その秘儀のありさまが、ひとりひとりにそれぞれのかたちで、あらわれはじめているかのようなそんな物語たち。

ひとは、まず自分の闇のなかにある空虚さを直視するところから、はじめなければならない。それを避けているところからは、光は射してこない。むしろ、闇のなかから、空虚さのなかからほのかに浮かび上がってくる光、自分の魂のそこから紡ぎだしてくる光こそが、唯一の希望の可能性でもあるような、そんなことを感じながら、本書を読み進むことができました。

おそらく、この連作は読む人の数だけ、それぞれに訪れる光は異なったものとなるのだろうし、そのことにこそこの連作の試みの意味があるようにも思えます。つまり、自分だけの光をどこに見出すかということ。

とても不思議な余韻のある今回の村上春樹でした。

 

風の本棚

日本・ユダヤの封印の古代史 2「仏教・景教編」


2000.3.11

 

■久保有政+ケン・ジョゼフ/ラビ・マーヴィン・トケイヤー(解説)

 「聖書に隠された日本・ユダヤの封印の古代史2【仏教・景教編】」

 (徳間書店/2000.2.29発行)

ユダヤ教ラビのトケイヤーの「日本人研究」30十年の集大成という「聖書に隠された日本・ユダヤの封印の古代史」の姉妹編ともいえるもの。今回は、その訳者でもある久保有政と日本の古代史・秦氏・景教などの研究家でもあるケン・ジョゼフとの共著のようなかたちで、景教と日本との関わりが興味深く描かれている。

秦氏などを機軸にした日本古代史の謎については、「秦氏の謎」(飛鳥昭雄+三神たける/学研」などのものがこれまでにもでていて、それらなども参考にされているようである。

ユダヤ、原始キリスト教、そして景教が古代日本にどのように影響しているか、いやというよりも、それらの影響でいかに古代日本が形成されていったか、ということについてその概観を見るためには、けっこういいかもしれない。もちろん、それは一般に常識とされている日本像とはかなりかけ離れた絵空事のように映るかもしれないし、いわゆるアカデミックな立場からは相手にされないような内容だろうが、おそらくはこうした視点を導入していかなければ、日本という謎の根幹にあるものに迫ることは困難なのではないかと思える。

とはいえ、トケイヤーの論にしても、今回の論にしても、また、もちろん「飛鳥昭雄+三神たける」ものにしても、すべてを図式的にとらえすぎているというところや、そこに神秘学的な認識の深みが欠如しているところなど、読んでいてけっこうフラストレーションがたまってしまうところもある。特に宗教思想的な解説などになると、ほとんど幼稚な図式的理解をあてはめてそれでよしとしてしまっているようなところが多く、あまり面白くはない。

従って、この種のものを読む際には、豊富なネタ、ガイドが盛り込まれているものとして受け取り、それらがいったい何を意味しているのか、そしてそれが今、そしてこれからにとって、どのような意味でアクチュアルなものであり得、それをどのように展開していく必要があるのか、ということなどについて自分でじっくり検討してみる、という姿勢が不可欠なのではないかと思う。

しかし、それはともかく、本書でとくに興味深いのは、本来の仏教とされているものと、現在日本で仏教とされているものとの大きな違いが、「景教」という原始キリスト教の日本への深い影響を機軸に、わかりやすく(?)概観されているということだった。

この種の本には、かなり眉唾ものがあったりもするのだけれど、そうしたなかから見えてくる古代日本の真実というのは、なかなかにスリリングで、そうしたことを見ていくことを通じて、今の日本がなぜこうなのか、またどのような可能性を秘めているのか、などについてのヒントが得られるのではないかと思う。

 

風の本棚

シュタイナー「人間の四つの気質」


2000.4.9

 

■シュタイナー「人間の四つの気質」

 (西川隆範訳/風濤社/2000.3.23発行)

すでに、「トポスノート」でもそのなかの一部をご紹介したように、本書は、一貫したテーマを扱った連続講演ではなく、精神科学を日常生活に生かすためのさまざまな示唆をいろんな講演から集めて一冊にしたもの。

どれも比較的読みやすいものばかりで、それぞれに日常生活のなかでさまざまなことを(神秘学的な意味で)実践的に考えるきっかけとなる重要なテーマが扱われている。

収められているテーマは以下の通り。

●実際的な思考方法

●人間の四つの気質

●心身を元気にする七つの方法

●なぜ服を着るか

●何を食べるとよいか

●知恵と健康

●心魂の調和を築く五つの方法

●人体のリズム

●人生設計(一)

●人生設計(二)

●運命にどう向き合うか

西川隆範氏の翻訳の意図は、「はしがき」や「あとがき」にもあるように、シュタイナーの示唆をできるだけ身近なものとして受け取れるように、またはじめてシュタイナーを読む人にできるだけ敷居を低くしようということがあるようにも思うのだけれど、やはりこういうダイジェスト翻訳のようなかたちは、どこかノウハウ本のような感じがしてしまう。もちろん、訳された講演はそれぞれにとても重要なテーマを扱っていて、それを読めるというのはうれしいし、シュタイナーの示唆は、決して安易なかたちでノウハウ化できないということがありますから、それはそれでいいのだと思うのだけれど、それぞれの講演のなかで扱われているテーマは、連続講演のようなかたちで多面的にも深められていくところを読みたいものだと思ってしまう。

しかし、いつも思うのだけれど、「エーテル体」「アストラル体」云々という言葉になじめない人には、それについて説明されたところで、こういう読みやすい講演もやはりなかなかとっつきがわるくて、というか胡散臭く感じられるか、それともその言葉があるだけでよくわからなくなってしまう、ということろがあるんだと思う。

「はしがき」にも、「以上の点を踏まえておけば、シュタイナーが述べていることは、決して難しくありません」とあるのだけれど、問題は「以上の点を踏まえておけば」ということが可能かどうかということ。西川隆範氏は、その点をできるだけ解消しようとして、他の著書などでもあるように、軽めな言葉遣いをしてみたりもしているようなのだけれど、そこらあたりは実際のところとても難しいのではないかと思う。「踏まえ」ようとは思わない人にとっては、それさえも読もうとはしないだろうし、「踏まえ」ている人にとっては、その軽さは冗長な蛇足になってしまうだろうから。

ところで、本書には、ぼくの知らなかったシュタイナーのプロフィールがあった。あまりシュタイナーの個人的なところに興味がそれほどなかったというのもある。それは、本書の内容には関係ないけれど、以下のとおり。

まずはシュタイナーの名前。ルドルフ・ヨゼフ・ロレンツ・シュタイナーというらしい。

それから、シュタイナーの兄弟について。「三歳年下の妹レオポルディーネは成人後、裁縫をしながら、両親の面倒を見ました。五歳年下の弟グスタフは聾唖でした」ということ。シュタイナーも、家族のことでは、けっこう辛い思いをしたのかもしれない。とか、勝手な想像をしてしまったりもした(^^;)。

自伝でも述べているように、シュタイナーは個人的なことをあまり公には語りたがらなかったというか、神秘学の探究において、そのことにあまり意味を感じなかったようである。ぼくもそう思っているのだけれど、それぞれの個人においては、この講演集にもあるように、日常生活にも関わることでの探究ということは非常に重要になってくるように思うし、シュタイナーもそれをとても重要視したのだろうと思う。

なお、この風濤社からは、西川隆範訳によるシュタイナーの講演の翻訳として、「精神科学から見た死後の生」「天使たち 妖精たち」というのが刊行されるらしい。

 

風の本棚

森真一「自己コントロールの檻」


2000.4.17

 

■森真一「自己コントロールの檻/感情マネジメント社会の現実」

(講談社選書メチエ 2000.2.10発行)

「マクドナルド」に典型的に現れているように、ファーストフード的なマニュアル化が促進されている。アメリカのディズニーランドなどもそうだということだが、ひとり一人がマニュアルに書かれてある行動をすることで全体としての管理・運営が円滑になされていくことなっているという。

本書は、そうした「マクドナルド化」が、ファーストフードだけではなく、あらゆる状況に浸透してきているということを踏まえながら、そのマニュアル化が「心理主義」的な「感情マネジメント」にまで及び、それによる「人格崇拝の高度化・厳格化の産物」として、むしろそうした合理主義的な方向を破壊するようなさまざまな「非合理的な帰結」を生み出していくことを検証していく。

現代では「キレる」という言葉に典型的に表現されているように、自分で自分をコントロールできなくなってきていると思われているが、本書では、なぜそういうことになっているのかという問いに対して、むしろ、社会が「自己コントロール」を過剰なまでに要請しているがゆえに「キレる」とか「摂食障害」やら「アダルトチルドレン」というような「非合理的な帰結」が生じるのだということが示唆されている。

「マクドナルド化(McDonaldization)」は、アメリカの社会学者G・リッツァーが使い始めた用語である。それは「ファーストフード・レストランの原理がアメリカ社会やその他の多くの領域を支配しつつある過程」を意味し、M・ヴェーバーの合理化論を継承・発展させるなかで産まれた。(…)

 リッツァーによると、「社会のマクドナルド化」の基本原理は、「効率性(efficiency)」「計算可能性(calculatability)」、あるいは「数量化(quantification)」、「予測可能性 (predictability)」、「テクノロジーによるコントロール」の四次元からなる。(…)

「感情の知性」は、ファーストフード・モデルに共通する四つの原理を行為者に提供する。その原理を自己に適用していくことで個人は、あらゆる状況に適切に関与し、移動していく行為者になろうとする。現代の合理化の象徴的存在であるファーストフード・レストランが、あらゆる地域に浸透しつつあるのと同様に。

(…)

現代社会は高度な自己コントロールと感情マネジメントを要請する社会である。なぜなら、現代社会の基底をなす人格崇拝および合理化の両規範とも高度化・厳格化してきており、そのような社会状況で生活する人々は高度に自己の感情をマネージしていかなければならないからである。心理学的自助マニュアルをはじめとする心理学的知識は、この状況に適応しようとする多くの人々のニーズに応えるとともに、当該状況の維持・再生産に寄与していると考えられる。

(…)

人格崇拝の高度化・厳格化とは、個々人の「聖なる自己」がより神聖になるために、以前なら他者の人格を傷つけるとみなされなかった行為も、一種の「不敬罪」と感じられるようになり、非難・処罰の対象になる傾向を意味した。それゆえ、このような傾向を示す社会的状況は人々により高度でしかも繊細な感情マネジメントを要請し、多くの人が日々その状況に適応しようと努力している。無数の自助マニュアルが書店に並んでいるのがその証拠となろう。

しかし、そのように多くの人々が人格崇拝規範・道徳を遵守しようと努力しようとすればするほど、結果としてますます人格崇拝は高度化する。そして、規範が厳しくなっている分だけ、「不敬罪」は増加する。また、「聖なる自己」がより神聖になっている分、「不敬罪」への反発はますます過激になる。もし、いわゆる「キレる」という怒りの爆発がひんぱんで、より激しく強度になっているのだとすれば、まさしくそれは人格崇拝の高度化・厳格化の産物だと考えられるのである。

(P150-193)

だれでもが、自分でいちから考えて行動していくのではなく、マニュアルに書かれてるとおりのシンプルな行動をしていくこと。それをあたりまえだと思うようになってしまった人間は、自分のそうしたマニュアルどおりの行動の意味を自分でふりかえることはなくなる。

それが、単にファーストフードの世界であるならばいいのだけれど、昨今流行になっているともいえる「心理的自助マニュアル」のように、自分の心をファーストフード化してしまうとしたらどうだろうか。

心理カウンセリングや精神分析を受けたり、自助マニュアルに従って自分の心をカバーしたりしている人にとって、それがファーストフード的なものだとは思えないかもしれないのだけれど、実際のところ、それは心のマニュアルという枠のなかに自分の心を押し込めて、その型どおりでないものを排してしまうことにほかならない。

寝る人の体をベッドのサイズに合わせて切り落としてしまうベッドの魔物の話があるが、まさに「心理的自助マニュアル」のようなものは、そういう魔物なのかもしれない。しかし、そのマニュアルを提供する心理学者やカウンセラーは善意からそのマニュアルを提供しようとしている。そうしたことを考え始めると、最近のそうした方向性は、かなり不気味な光景に見えてくる。

これも「自由」ということととても似ているのだけれど自分の心を制御していき、感情を高次のものに変容させるということは、外からのマニュアルにしたがってするのではなく、まさに「自発」「自然(じねん)」ということにおいてこそ意味を持つ。そうした「自由」から発したものではなく、マニュアルによって「マネジメント」された心は、おそらく、闇の部分からとんだしっぺ返しを食らってしまうのではないだろうか。

 

 

風の本棚

井波律子「中国文章家列伝」


2000.4.20

 

■井波律子「中国文章家列伝」

 (岩波新書662/2000.3.17発行)

本書『中国文章家列伝』は、前漢(前206-後8)から清代(164-1911)まで、二千年をこえる時間帯から、特筆すべき中国の「文章家(文章による表現者。広義の文人)」十人を選び、その生の軌跡を追跡したものである。

と「まえがき」あるが、本書で取り上げられている人物たちは、以下のように、司馬遷と蘇東坡を除けば、浅学のぼくにとっては、ほとんど始めて知った人物ばかり。これは知っておいて損はないだろうと思い、新書版の気安さもあって、読み始める。

構成は三部になっていて、第一章では、「危機を生きた文人」。「危機的な状況のなかに身を置きながら、さまざまなスタイルの文章表現を生のよすがとして、自らを押し潰そうとする力に抗し続けた四人」がとりあげられている。

●司馬遷(前145-前86)/「発憤著書」の歴史家

●孔融(155-220)/偏屈な才子

●けい康(224-263)/抗う竹林の隠者

●顔之推(531-591)/処世に徹した文人

第二章は、「快楽を求める文人」。「いかなる状況においても自らの生を楽しみ、書くこともまた快楽の一種であった三人」。

●蘇東坡(1036-1101)/逆境に動じぬ生の達人

●楊維てい(1296-1370)/「文妖」と呼ばれた快楽主義者

●鄭板橋(1693-1765)/自立する文人画家

第三章は、「物語世界の創造者」。「軽視されてきた戯曲・小説のジャンルにあえて筆を染め、傑作を著した三人」。

●元槇(779-831)/中国最初の小説家

●湯顕祖(1564-1616)/大戯曲家の反骨精神

●呉敬梓(1701-1754)/気ままに生きた風刺作家

これまで中国に関しては、儒教や仏教に関連した人物を除けば、白居易などの著名な人物を数えるほど知っているだけだったが、こうしてわずかながらもこうして紹介された「中国文章家列伝」を見ていくと、その歴史と表現者の圧倒的な長い歴史をあらためて感じさせられてしまう。

また、「文人」ということになると、必ずといっていいほど「科挙」が深く関わっているということもあらためて実感させられた。試験のきわめて苦手なぼくのようなタイプにとっては、そうした「科挙」の制度は、とほうもないものに思えるのだけれど、その「科挙」によって重視されてきた伝統の重みを縦軸のようにして、その縦軸を巡りながら、中国の歴史はある意味で展開してきたところがある。

ケルトが文字を持たなかったがゆえに、その古代の歴史がローマ帝国やキリスト教の聖職者などを通じて書き表されてきたのに対して、「漢字」を古くから使ってきた中国は、その歴史が古代から表現されてきた。その歴史の厚さを、こうして「文章家」という観点から見てみるのもなかなか興味深い試みではないかと思える。

なによりも、中国の歴史を辿りながら、さまざまな人物がその生を駆け抜けてきているのを概観ながらも見ることができるのは、現代という時代に生きて日々、一喜一憂している自分ということを思うときに、けっこう勇気が湧いてくる。彼はこう生きたのか。それでは、自分はこう生きることもできるのではないか、と。

または、かつて自分もそうした中国において生まれていたのかもしれぬ。どんな生かは知らぬが、その生は今この私のなかにも生きているのかもしれぬ。であれば、その生の粋を今に生かすにはいかにすればよいのか、とも。

 

 

風の本棚

フィリップ・プルマン「神秘の短剣」


2000.4.24

 

■フィリップ・プルマン

 「神秘の短剣/ライラの冒険シリーズII」

 (新潮社/2000.4.20発行)

ライラの冒険シリーズのI「黄金の羅針盤」に続く第2弾。今回の「神秘の短剣」は前回よりももっと面白く読めた。

こういうファンタジーものは、ともすれば現実感覚を喪失させてしまうような、そんな側面もあったりもするのだけれど、「神秘の短剣」を読みながらずっと感じていたのは、今この逃れがたい現実に対する意志のようなものがぼくのなかから静かに湧いてきたということだった。

実はとくにこのところは、理不尽な内容の仕事でほとんど四苦八苦していて、土日もなく、帰りは午前という感じだったりもしていたのだけれど(^^;;)、通勤などの電車のなかなどを使って読み進めたのが本書だった。頭の中は仕事のことで半ばぐちゃぐちゃになっている状態で、そうした状態をなんとかしようと思って、シリーズ第2弾の本書などは好都合だとも思ったのだけれど、実際のところは、本書を読みながら、平行して、今ここで生きているぼく自身の物語を常に感じることになった。

ファンタジーで重要なのはそうした性格を有しているかどうかだ、といってしまうと、ちょっと教育的なにおいがしたり、ある種の限定を行ってしまいかねないというところがあるのだが、もちろん、「現実感覚」の重要性というのは直接的なそれではない。むしろ、虚構ゆえの虚構だけがもつ、常識的な世界ではとらえられにくい「現実」のなかにある何か、自分のなかに確かにあるはずなのだけれど、見えにくい「虚」、そうしたものを「虚」×「虚」として垣間見せてくれるものである。

さて、本書では、前回「I」をご紹介したときにもふれた「ダイモン」というテーマがさらに深められているようにも思う。だれでもが有している守護動物とでもいえるダイモン、しかも子供のときにはその形を変えるのに対して大人になればそれが固定する。しかし、パラレルワールドともいえる別の世界では、人間はそうしたダイモンを有してはいない。いわば、ダイモンが人間の中にあるのだともいえる。しかし、今度はそうした人間を襲うスペクターという存在が登場する。子供には見えず影響もしないが、大人の魂をむさぼり食っていく存在。本書の最後には、ダイモンが食われるシーンもでてくるが、このスペクターという存在はけっこう考えさせられるところがある。

また、本書の表題にもなっている「神秘の短剣」は、どんなものでも切ることのできる剣であり、かつパラレルワールドへの通路を開くこともできるもの。そしておそらくは今後、第3巻での完結に向かって、重要な働きをしていくのだろうと思われる。

シリーズのI「黄金の羅針盤」から今回のIIがでるまで、約半年くらいかかったので、おそらくは秋くらいには、シリーズのIIIがでるようにも思うが、今からとても楽しみにしている。

 


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