風の本棚24

 (1999.12.16-2000.2.8)


●フィリップ・プルマン「黄金の羅針盤」

●小林恭二「悪への招待状」

●中島義道「ウィーン愛憎」

●河合隼雄「これからの日本」

●桂文珍「文珍流・落語への招待」

●和尚「隠された神秘」

●ローラント・キュープラー「命の航海」

●高橋克彦・ゲリーボーネル「光の記憶」

●高橋巌「神秘学入門」

●山折哲雄「悪と往生」

 

 

風の本棚

フィリップ・プルマン「黄金の羅針盤」


1999.12.16

 

■フィリップ・プルマン「黄金の羅針盤/ライラの冒険シリーズI」

 (新潮社/1999.11.5発行)

 

 ライラという女の子を主人公とした、良くできた大冒険ファンタジー。パラレルワールド的な設定があって、全3巻からなるという物語は、この第1巻の舞台が「われわれの世界と似た世界であるが、多くの点で異なる」、第2巻は「われわれが知っている世界」、第3巻が「各世界間を移動する」、となっている。第2巻と第3巻はまだでていないので(たぶん今後出るのだと思う)よくわからないのだけれど、第2巻以降で、そのパラレルワールド間の関係などが明らかにされる、ということなのだろうと思う。

 ストーリーは、あえてご紹介しないことにするけれど、この第1巻で描かれている人間観が面白いので、それについて少しご紹介したい。

 この世界の人間は、すべて動物のかたちをした「ダイモン(守護聖霊)」を持っていて、いつも友達のように、連れ添いながら語り合っている。このダイモンは、人間とペアで近距離の範囲につねに存在していて、通常は、このダイモンと切り離されたら死んでしまう。また、魔女たちという女性だけとても長生きをする種族が登場するのだけれど、その魔女たちのダイモンは、人間からかなり遠く離れても存在できる。

 興味深いのは、子どもの頃は、ダイモンはその子どもの心の動きを反映して、いろんな動物の姿をとっているのだけれど、大人になると、その姿は固定することになる、ということ。なかなか考えさせられる設定のように思う。

 この物語には勇猛なクマも登場するのだけれど、クマは人間ではないので、ダイモンが存在しない。ダイモンが存在していないとか切り離され失われるということを、この世界の人間たちは、とても怖れている。

 蛇足になるかもしれないけれど、このダイモンシステムの意味するところを少しだけ考えてみたい。動物を集合自我がかたちをとったものととらえるとするならば、それから切り離されてはいきていけないというのは、ここでは人間は個としては生きていないということでもある。そして子どもの頃はいろんな集合自我を柔軟に体験できるけれど、成長するにつれて特定の集合自我との関係を固定化することになる。ヘビのような人はヘビを、ヒョウのような人はヒョウをダイモンにする。まるで動物占いのようだけれど(^^;)。

 ソクラテスには、いつもダイモンがいて、ソクラテスが間違ったことをしなければ何もいわないけれど、間違ったことをしようとすれば、それをしてはいけないといったという。そのダイモンは、この物語のような動物なのではなく、いわゆる天使的存在だといえるのだろうけど、おそらくは、ひとそれぞれいろんなかたちではあるけれど、人には、ダイモンがかならずついているらしい。そして変なことをしようとしたら、そのダイモンが働いて、たとえば良心が作動したりする。人は決してひとりではない。いつもダイモンといっしょだし、そもそも人間はミクロコスモス。大宇宙の縮図をみずからのものとして生きているといえる。

 そうしたダイモンと切り離されること、実際には切り離されてはいないのだけれど、そのように生きること。その「孤」「個」の感覚から人間は出発することになる。

 さて、この物語。第2巻は、「われわれが知っている世界」というとだけれど、この第1巻の終わりで、ライラはその世界への道を踏み出したように思う。その世界とこの世界との関係がどう描かれていくのだろうか。

 

 

風の本棚

小林恭二「悪への招待状」


1999.12.19

 

■小林恭二「悪への招待状ーー幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ」

 (集英社新書0004/1999.12.6発行)

 以前、著者の「カブキの日」という小説を読んでとても面白かったので、先日、歌舞伎についての本書を見つけたので、早速読んでみることにした。とはいっても、ぼくは歌舞伎に対してはまったく無知で、無知ゆえの発見もたくさんあるのではないかという発想。

 著者は、本書の執筆動機の最も大きなものは、「江戸という都市に対する橋頭堡を作ってみたい」ということだ、と述べているのだけれど、河竹黙阿弥の「三人吉三」を軸にしながら、その歌舞伎見物の実際を描き出し、それを通じて、幕末の江戸に生きている人たち、その心のありようとでもいうものが、読みながら伝わってくるような、そんな不思議な著書になっているように思う。

 本書のタイトルは「悪への招待状」とある。実は、本書を読み始めたいちばんの動機は、その「悪」にあったのだけれど、テーマとしては「悪」というよりも、「運命の悲劇」の描かれた方が、幕末の人たちにどのように受け入れられたかということなのではないかと思う。幕末において、人の心が大きく揺れ動きながら、悪がなされたように、時代のどんづまりのようにも思える現代に生きている私たちは、いかなる悪の様相の前に立たされているかということが実感されたりもする。時代のカルマとでもいうべきもののなかで、それとリンクしたかたちで、いかに一人一人のカルマ的連関が顕現していくかということ。

 黙阿弥が描きたかった悪は、個人の区々たる悪ではないのです。巨大な悪に導かれた抗しがたい悪なのです。

 時代は風雲急を告げています。諸事呑気な江戸っ子とて、将軍様の時代がもう長くないことは本能的に気づいています。次にどんな時代がくるかさっぱりわかりません。時代が変われば現在推奨されることはすべて打ち捨てられ、おとしめられていたものが、歴史の全面に踊り出してくるのです。この恐怖。あるいはこの快感。いずれにせよともでもなくアナーキーな気分が時代を覆っていました。だからこそ庶民は真剣に悪に走ったのです。(P86-87)

 現代も、「風雲急を告げる」世紀末もそのどん詰まり、幕末以上に、今度は世界的な規模で、今のままの世の中が、そう長くはないことくらいは、だれでもが感じていることだろうと思う。そうして、これまではあたりまえのように思っていたようなことが、どんどんあたりまえではなくなってきている。「この恐怖。あるいはこの快感。」しかし、なぜか今の世の中は、あまり「アナーキー」な感じがしなかったりする。この脳天気な気分はいったい何なんだろうか。むしろ、核戦争でも起これば一気に地球規模で破滅してしまうようなそんな状態であるがゆえに、身の回りの保身のほうに目がいくのだろうか(^^;)。

 それはともかく、たとえば本書で紹介されている江戸のファッションや江戸料理などについてのあれこれなど、これまでなかなかイメージできなかった江戸の雰囲気を味わうだけでも、なかなか興味深いものとなっているように思う。

 ぴりりと薬味の利いた、この師走にお勧めの一冊である。

 

 

風の本棚

中島義道「ウィーン愛憎」


1999.12.21

 

■中島義道「戦う哲学者のウィーン愛憎」

 (角川文庫/平成11年11月25日発行)

 '90年に中公新書で刊行された「ウィーン愛憎」を加筆、改題したもので、1979年から1984年に渡る4年半の著者のウィーン留学体験が「情熱的」に、まさに「情熱的」としかいいようのないウィーンでの「戦い」が語られている。

 中島義道はひたすら元気であり、いつも戦っている。タイトルに「戦う哲学者」とあるように、おそらく戦うことが中島義道の真骨頂なのだろう。常人にはこうした戦いはなかなかできないだろうし、とくに、日本で配慮しあって生きている人たちのなかで、こうした人はごくごく珍しい部類に入るのではないだろうか。

 解説で池田清彦は中島義道についてこう述べている。

 社会的に偉くなった人というのは、本当のところは人生を半分降りた人だと私は思う。中島義道のように人生を一度たりとも降りようとしなかった人が、破滅もしないで国立大学の教授におさまっているのは世紀末日本の奇跡である。

 私はもちろん、人生を半分降りてとっとと偉くなった人が、人生を降りないでガンバッテいる人に比べて、人間としてエライと言っているわけではない。どちらがエライと思うかは趣味の問題であろう。後者の方が生きるのにエネルギーが要ることは確かである。つまり疲れる。中島義道が五十歳になり、「人生を<半分降りる>」と言い出したのは、中島さんも人並みに疲れたからであろう。中島さんはご存知ないかも知れないが、しかし、ほとんどの日本人はものごころついた時から、人生を半分降りているのである。それはむしろ日本人の定義といってよい。そして、多くの日本人は人生を半分降りたにもかかわらず、社会的にも偉くなれなかっただけなのだ。

 普通の日本人から見て、だから中島義道の行動パターンは驚天 動地である。それを記録した私事小説群とでも呼ぶべき先に記した作品群の中で、『ウィーン愛憎』は最も初期のものであると同時に最も面白いもののひとつである。それはあたかも常人にはとてもマネのできない体操のアクロバティックな演技を見るかのごときものである。

 私は中島義道と二人だけで酒は飲みたくないが、面白い体験談はもっと読みたい。だからしばらくは元気で頑張ってほしい。中島義道は日本にたった一人しかいない歩く天然記念物だと言ったら、中島さんは怒るだろうか。(P244-245)

 他の「私事小説群とでも呼ぶべき作品群」でもそうだけれど、中島義道の言っていることは至極最もなことが多い。普通は、そのことを主張し続けるだけのエネルギーがないのでできないのだが、それをし続けているのが中島義道なのだといえる。

 本書では、ウィーンの人たち、ウィーンに住んでいる日本人たちもふくめて、ヨーロッパの人たちの基本的なメンタリティと日本人の違いが、著者のエネルギッシュなまでの行動力とそそっかしさで、陰影をくっきりと浮き上がらせる仕方で描き出されているように思う。あくまでも個を、たとえ理不尽な仕方でも主張し、その主張することを正当な権利だという感覚を持って生きている西欧人。それに対して、お互いできるだけ気づかいあい配慮しあいながら、摩擦を避けようとする日本人、とくに欧米人に対して媚びる日本人。しかもそのなかで自分たちの権利を守るために、階層化するのを当然のごとく思っている人たち。その両者が著者にとっては、その戦いの対象になっているといえる。

 しかし、中島義道のあのエネルギーはどこからくるのだろうと思っていたのだけれど、本書を読んでなんとなくわかったのは、中島義道は本来かぎりなく情的な人なのだということ。ウィーンに対する愛憎、子供に対する情などにもそれが現れている。福岡県生まれだというが、あの九州人の熱のようなものを感じる。その情によって、中島義道はあのエネルギーを生み、そして論理と倫理を紡ぎだし、戦う哲学者となった。

 中島義道は、自分の進路を決めかねて、日本でも大学に12年間通い、さらに、33歳になってウィーンに渡ってからも親の仕送りで生活していたようだけれど、自分のやりたいことを求めるために、ここまでこだわれるというか、逡巡できるというエネルギーもすごいと思う。たいていの人間はなかなかそこまでのこだわりを持てないまま、こそこそっと自分の進路などを決めてしまうのだけれど、周囲のいろんな視線に耐えながらも頑張れるというのはなかなかできないことだろう。ある意味では、いつまでも子供のようだということなのだけれど、だからこそ、いろんな理不尽に対して戦うエネルギーが生まれるのだと思う。先の引用で、「人生を一度たりとも降りようとしな」いというのはそのことを意味するのだと思う。ぼくにはとうていそんなエネルギーはなくて、だからといって、人生を降りようとはしないものだから、疲れたままでたれパンダになってしまうのだけれど・・・やれやれ(^^;。

 さて、本書を読みながら思ったのは、シュタイナーが個ということと同時に無私(Selbstlosigkeit)について強調していたのも、シュタイナーの生きた時代と環境のことを考慮する必要があるということだった。多くの西欧人のメンタリティは、自分の権利などを守るためには、なにがなんでも自己の正当性を主張し続けることに基礎があり、そうしたなかで、無私をいわないことには、大変なことになってしまう。だから、日本人にはむしろあまり無私を強調しすぎるとしたら、ほとんど集合的になってしまうといえる。西欧的に自我病化するのは問題だけれど、無私病というのもあるのだと思う。無私病というのは、ほんとうの無私ではなく、ただ自分を無私だ思いこみたいエゴに酔いしれる病気にすぎないのだから。

 そういう意味でも、中島義道には、ずっと戦ってほしいという気がする。もちろん、個人的にそういう方と直面するエネルギーはぼくにはなかなか持ち得ないように思うのだけれど(^^;。

 

 

風の本棚

河合隼雄「これからの日本」


1999.12.22

 

■河合隼雄「これからの日本」

 (潮出版社/1999.12.5発行)

 日本が変わろうとしている、というより、変わらざるをえない状況が続々と起こり続けている。「これからの日本」はどうなっていくのだろう。その変化の混沌のなかから清水を得ることができるのだろうか。それとも、混沌のまま混乱がエスカレートしていくのだろうか。

 関係性や場ということによって、ある種の調和を保ってきた日本だが、霊性をかいた個人主義というより利己主義がどんどん浸透してくると同時に日本というシステムそのものの成立基盤であるそうした関係性や場などが、もはや機能不全の状態になってきているように思う。

 そんななかで、河合隼雄は、「これからの日本」についての重要な示唆をさまざまなかたちで行ってくれている、現代の日本の賢者のように見える。とても穏やかな表情と語り口にもかかわらず、その語る内容は、問題の本質の深みをさらりと描き出してゆく。

 本書は、河合隼雄が随所で行った講演などを、潮出版社が「記録を探し出して、しかもうまく配列して書物」にしたものだという。テーマは、教育、医療、父と子、家族、男と女、環境、宗教、倫理と多方面にわたっていて、どれもううむと考えさせられる示唆に満ちている。

本書はあちこちで講演をしたものの記録集である。それぞれ与えられた課題について、考えたことを述べているのだが、どれも何らかの意味で「これからの日本」と関連するものと言えるだろう。もちろん、どの演題も「これからの日本」を正面に立てたものではないが、与えられた領域において考察していると、やはりこの問題に触れざるを得ない。これは日本がいかに変化を必要とする状況のなかにいるかを反映している。(P201)

 政治的状況を見ていると、日本が変化を必要としているという課題に対して、日の丸や君が代の法制化などのように、日本のアイデンティティを外から規定することで、変化から守ろうとするような非常に稚拙な仕方で対処しようとしているように思う。そういう稚拙な対処は、これからもエスカレートしかねないものだが、おそらくはそうした形の強制のような動きは破綻することになるのではないだろうか。それは、現在の変化を見据えないがゆえの対処でしかないからだ。

 河合隼雄は、変化の本質を深いところから見据えながら、保守主義のように変化を危険視したりするのでもなく、またその逆でもなく、変化そのものに添うことでそれをうまく変容させる道を模索しているようだ。果たして「これからの日本」がどうなっていくかわからないが、河合隼雄の言葉は、それを自分で考えていくための知恵に満ちていると思う。なにより、その内容の深さにもかかわらず、とても読みやすいのがいいのだけれど、その読みやすさは、わかりやすさでは決してないことには注意が必要で、それぞれがそれぞれの視点でそのテーマを深めることではじめてその意味の深みが見えてくるようなものなのだと思う。

 

 

風の本棚

桂文珍「文珍流・落語への招待」


1999.12.27

 

■桂文珍「文珍流・落語への招待」

 (NHK人間講座テキスト/2000年1月〜3月期/平成12年1月1日発行)

 桂文珍は、大学での講義なども行っているそうだが、2000年の1月〜3月期のNHK人間講座の木曜日に、桂文珍の「落語」をテーマにした放送が予定されている。

 この放送では、桂文珍がとらえた落語の歴史や上方落語と江戸の落語の比較、そして「いまもう一度聴きたい落語家」ということで、すでに故人になっている落語家の落語が紹介されている。残念ながら、テキストで紹介されている落語は、映像も音声もないので、実際には放送を見てみたいと思うのだけれど、こうして「落語」ということをあらためて考える機会があると、なぜ人は「騙る」ことに笑いを求めるのだろうということに行き着く。そうして、関西のあのノリのよさということの意味も。

 ぼくは「落語」をそうたくさん聴いているほうではないのだけれど、思い出してみれば小さい頃から、テレビなどでよく「落語」を見ていて、かなり影響を受けているのではないかと思う。それは、ぼく自身の言葉に対する感性も育ててくれているというところがある。だから、無性に落語の語りを聴きたくなるときがあって、数年前にも、市の図書館で貸し出されていた名演集を浴びるように聴いていたことがあったりする。あの独特のシャレの世界、オチでふっとわれにかえって笑える世界にふれるととても心が癒されるような、そんなことがあるように思う。

 そもそも、古典の世界というのは、半ばダジャレを薬味のようにしているところがあって、掛詞というシャレがなければ、面白みがなくなってしまうところがある。個人的にも、シャレがなくては生きていけないようなところがあって、たまにシャレの理解できない言語感覚の方がいたときには、かなり面食らってしまうところがあったりもする。

 もちろん、ほんとうはこういうインターネットの世界でも、落語の語りのようなところがもっと発揮できるんじゃないかというのがあって、よくあまりにスクエアなまでに真面目なことが語られ過ぎたといには、本心からいえば、シャレのふたつみっつでも投げたい所もあったりする。シャレのない世界というのは、言葉の死んだ世界のようにも思えるから。実際は、ほとんど自粛しているのだけれど・・・(^^;)。

 さて、ぼくは小さい頃から、人の声ということにとても関心があって、その声の語るイメージの世界をとても楽しみにしていた。中学生から高校生の頃には、ラジオを良く聴いていたのだけれど、ラジオドラマや落語は深夜放送と並んで良く聴い番組に挙げられる。

 テキストでも、桂文珍が語っているように、それはぼくのなかの「イメージする力」の種を育ててくれる喜びがあるからなのだろうと思う。

人間と、世間と、言葉とで成り立つ落語。表現する側とお客さまとの間に「イメージする力」が存在するうちは、落語は滅びないと思っています。むしろ、これからの時代にもっと必要になってくるものだと信じているんですよ。(P125)

 インターネットでも、その「イメージする力」にその可能性がかかっているようにも思える。その「イメージする力」は、「思考」ということとも深く関係していて、それをどれだけ自分で育てていくことができるかということが重要だと思う。

 

 

風の本棚

和尚「隠された神秘」


2000.1.2

 

■和尚「隠された神秘」

 (市民出版社/1999.12.1発行)

 和尚ことバグワン・シュリ・ラジニーシの以下のテーマでの講話集。バグワンのコミューン的な活動に関しては、あまり好意的な印象は持てないでいるし、むしろ否定的なのだけれど、「存在の詩」以来、その講話集については、いつもそのすぐれた内容に啓発されることが多い。今回はほんとうにひさしぶりで読んでみたのだけれど、やはりその自在な語り口には驚かされてしまう。

・東洋の寺院に秘められた神秘

・巡礼地の錬金術

・第三の眼の神秘学

・偶像の変容力

・占星術:一なる宇宙の科学

・占星術:宗教性への扉

 バグワンに対してカルト的なものだけを感じて敬遠されている方がいたとしたら、けっこう損をしてるように思う。麻原彰晃のような在り方とはまるで異なっているということが、こうした講話を読めば自ずと理解されると思う。本書に盛られたテーマにしても、なかなかに興味深いテーマが多く、それぞれの項目がおそらくは一回の講話なのだろうから、これが6回の講話でさりげなく語られたものだということにはやはり驚いてしまう。

 シュタイナーもつねにその当時の新刊書などにくまなく目を通していたということなのだけれど、バグワンも、その知の収集力という点ではすごかったようで、晩年は目のつかいすぎで、読書を医者から制限されたような話もあったりする。やはり、たんなる叡智というのではなく、それをその時代の知性という窓を通じてしかもそれを批判的に乗り越えるかたちでいかにアクチュアルに提示できるかということがとても重要なことのように思える。

 バグワンの話の基調としては、マインドの否定、私の否定といったきわめて東洋的なアプローチなので、シュタイナーの精神科学的な観点からすれば、一見、逆のことをいっているようにも思えるのだけれど、(これについては、クリシュナムルティも同様)そのようにとらえてしまったときに、バグワンだけではなく、シュタイナーのアプローチもどちらからも多くを示唆されることがなくなってしまうのではないかと思える。要は、どの観点から何を語ろうとしているのか、ということが理解された上で、それぞれの示唆を受け取る必要があるということだと思う。

 さて、本書のご紹介を兼ねて最初の講話「東洋の寺院に秘められた神秘」の最初のところを少し引用させていただきます。

 鍵をひとつ手にしているとしよう。鍵そのものから、直接その使い途を理解することはできないし、そのおかげで素晴らしい宝が明かされるとも想像できない。鍵には宝に関する秘密の暗号などはないーー鍵そのものは閉ざされている。たとえ壊したり細かく刻んだりしても、原料の金属は見つかるが、鍵が明かす秘宝については何もわからないだろう。そして、宝の手がかりにもならない鍵が長く保存されていると、生の重荷になるだけだ。

 生の中には、今日でも宝の扉を開けられる鍵がたくさん存在する。だが、不幸なことに、私たちはこの宝のことも、開くかもしれない錠前のことも、何ひとつ知らない。宝についても錠前についても無知だとしたら、私たちの手に残されているものは鍵とすら呼べない。それは錠前を開けて、はじめて鍵となる。かつては、まさにこの鍵が宝を開示したことがあったのかもしれない。だが、今となっては、どの錠前も開けられていないために、鍵は重荷となってしまった。それでもどうにか、私たちはまだそれを捨てる気になっていない。(P11)

 

 

風の本棚

ローラント・キュープラー「命の航海」


2000.1.7

 

■ローラント・キュープラー「命の航海」

 (花風社/2000.1.1発行)

 ローラント・キュープラーは、1953年生まれのドイツのメルヘン作家。ミヒャエル・エンデと並び称されているらしい。ぼくの知る限りでは、本書はその作品のはじめての邦訳のようである。

 本書には、「メルヘンの語り部」であるオヤーノという、いわば老賢人のような人物が登場し、その人物を中心に物語は展開するのだけれど、この人物は、キュープラーの作品には繰り返し登場しているということである。そして、そのオヤーノが、若い弟子を、人間社会の抱えている問題の解決に導くというのが、その基本的な物語のかたちになっているらしい。(他の作品を読んでないので、実際はよくわからないのだけれど)

 訳者のあとがきに、ミヒャエル・エンデの作品との比較がなされていて、その類似点とともに、興味深い相違点も挙げられているのでそれをご紹介することにします。

 キュープラーの作品はみな、読者が現実からしばしば逃避するための作り話なのではなく、現代社会の問題を批判的に映し出すものとなっている。そして、こうした問題の原因が人間の思いあがりにあることを示し、自分自身を見つめ直して本来の姿を取り戻すよう、人々に説いている。

 このように現実の世界との関連を持ちながら、読者を夢とロマン溢れるファンタジーの世界にいざなうキュープラーのメルヘンは、ミヒャエル・エンデの文学に通じるものがある。ただし、あえてエンデとキュープラーの相違を挙げるとすれば、エンデの作品は“子供の純粋無垢な心が、大人の邪悪な世界を救う”ような構図でとらえられることが多いのに対し、キュープラーの作品では、大人の邪悪な世界を救うのは、あくまでも人生の知恵を豊富に身につけている老人である。すなわちこの物語でいえば、機知に富み、さまざまな人生の教訓をメルヘンによって示しながら、若き王子アー欄を教え導く<メルヘンの語り部>オヤーノがその役割を担っている。

 本書のテーマは、とてもわかりやすく描かれているのだけれど、それだけに少しばかり教訓的な臭いが強すぎるところが少しだけ気になるところである。しかし、伝統的なメルヘンのかたちを語り部の語りでとりいれながら、それが全体として有機的なメルヘンとなっていてとてもすぐれた作品なのではないかと思う。それと、エンデのメルヘンが、とても現代的な語り方になっているのに対し、このキュープラーの作品かは、とても伝統的なメルヘンに近いもので、それに、現代社会への警鐘とでもいえるテーマを導入しているという感じでしょうか。

 上記引用にあるような、エンデとキュープラーの相違点ということに関しては、個人的な趣味でいえば、子供の純粋無垢な心が、大人の邪悪な世界を救う”というよりも、本書のような、人生の知恵を豊富に身につけている老人の役割を明確にしているというところに魅力を感じたりもする。しかし、鎌田東二の「翁童論」にもあるように、翁と童というのはある意味でとても近しい関係にあるのだともいえるので、それを単なる対比としてはとらえないほうがいいのかもしれない。

 

 

風の本棚

高橋克彦・ゲリーボーネル「光の記憶」


2000.1.13

 

■高橋克彦・ゲリーボーネル

 「光の記憶/アカシックレコードで解き明かす人類の封印された記憶と近未来」

 (VOICE/1999.12.23発行)

 これは、とくに読まなくてもいい本の類でもあるのだけれど、

読んでみれば、それはそれで高橋克彦の小説を読むように楽しめてしまう本なので、昨年の暮れに読んでからご紹介しようかどうか少しだけ迷ったものの、せっかくなので、エンターテインメントのひとつとしてご紹介することにしました。

 高橋克彦という人は、以前「ワンダーライフ」というムー的な雑誌で、「ノストラダムスの大予言」の五島勉や銀河王朝の小島露観、UFOの矢追純一などと、面白い対談をしていたので面白がって読んでたことがあります。そういう関係で、「竜の柩」のようなSF的な作品もあったりする反面、例のアテルイの小説などのような歴史小説なども書いていたりと、とても不思議な作家なのですけど、今回の対談は、どちらかというと、その前者の方向性がとても素朴に発揮されながら(^^;、面白く読めるものになっていますので、お暇な方は、それなりに楽しめるのではないかと思います。

 ゲリー・ボーネルは、ご存じでない方も多いかと思いますが、VOICEからでている「アカシャの秘密」、「アカシックレコードを読む」、「光の十二日間」の著者で、アカシックレコードにアクセスでき、それでいながら、経営コンサルタントなどもしているという方で、この方の読んだアカシック・レコードなどをめぐりながら、高橋克彦とけっこうスリリングな対話がなされています。もちろん、話の内容は、ほかではなかなか聞けないようなものでもありますから、とても楽しみながら読めるわけです。

 最初に、とくに読まなくてもいい本の類だと前置きしたのは、こういう話が真実だとしても、こういう話によって、認識が深まったりはまずしないものなので(^^;、あくまでもエンターテインメント的に読むのがいいということだし、その上で、見えてくるある種の真実のほうが重要だということです。そして、その真実こそが、自分という物語を生きるということにおいて、とても重要になってくるということなのではないかと思います。

 

 

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高橋巌「神秘学入門」


2000.2.7

 

■高橋巌「神秘学入門」

 (ちくまプリマーブックス135/2000.1.20発行)

 高橋巌氏が、いまだ学問的にいえば認知されていない「神秘学」についてできるだけわかりやすくその認識姿勢とでもいえるものを紹介しているともいえるであろう新刊です。少し前に「自己教育の処方箋」という著書もでていましたが、ある意味では、その「神秘学」ヴァージョンのような感じでしょうか。理解の点でも分量の点でも、比較的読みやすいものとなっているように思います。

 本書の意図について、まず高橋巌氏は、胡散臭く見られがちな「神秘学」について、「知識を提供することよりも、思考と感情の力だけに頼って、眼に見えない世界のことをあげつらいたいと思った」と述べています。

 その思考と感情に関して興味深く思ったのは、第10章の「真善美」で、シュタイナーの『神智学』と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』とを対比させて次のように述べられていることでした。

『神智学』では思考がいかに大事かを論じています。感情は、そのものとしておのずと現れてきますから、感情そのものを追求することには霊的な意味がなく、意味のある感情とは、積極的に思考をおし進めていくとき、その思考と結びついて体験される感情だ、というのです。しかしこれと平行して書かれた 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(1904-05)という神秘修行に関する本を読みますと、一番重要なのは感情の在り方であり、感情と思考とを結びつけるのがオカルト的な生き方の基本であると述べて、逆に感情の方を強調しています。(P142-143)

 「思考」の重要性を強調していたシュタイナーの著作といえば、『自由の哲学』がまさにそうでした。そして、感情神秘主義や意志の形而上学などという在り方が批判されていたように記憶しています。そういう意味では、『神智学』は「自由の哲学」の方向を神秘学的な在り方でアプローチしたものだといえるかもしれません。そうしてそれが、いわば「行」的な側面に関してアプローチされる場合、「感情」ということがクローズアップされてくる、と。そういう読み方も確かにあると思いました。

 この点でとくに興味深く思ったのは、次のところ。

シュタイナーという人はおもしろい人で、ひとつのことを論じると、他のことが見えなくなるくらいそのことに集中します。思考を論じるときには、あたかも感情など大したことはないように書いてしまい、感情を論じるときには、思考などはどうでもよいように論じるのです。(P143)

 たしかに、シュタイナーを読んでいてときおり思うところでもあります。「自我」「個」ということを強調していたかと思うと、別のところでは、Selbstlosigkeit、いわば我をなくすことが強調されていたりもします。とくに、日本における受容を考えた場合、このあたりのことを部分だけ見ていくと混乱してしまうところがあるようにも思います。そういう意味でも、シュタイナーはできるだけその全体像を浮かび上がらせるかたちで受容していく必要性があるように、あらためて感じました。

 さて、本書でとりあげられているもうひとつの重要な問題として、グノーシスとシャーマニズムの統一というテーマがあります。

 もうひとつ、本書では問題を西と東の両側から見ようとしました。ゾロアスター教以来の光(善)と闇(悪)、神と人、精神と物質の対立を基本にする二元論的な思想に加えて、三界一心(大乗起信論)、人乃天(崔済愚)、相即相入(華厳教学)のような、一元論の立場からの神秘学へのアプローチをも心がけたのですが、そしようとしたのは、この二つの立場、いわばグノーシスとシャマニズムの新たな統一が、現代の神秘学の課題だと思うからです。そして現在の私たち日本人が、この問題を考えるのに、 特別恵まれた環境にあると思うからです。(P204)

 高橋巌氏のシャーマニズムへのこわだりや、「民族魂」に関する高橋巌氏のアプローチなどちょっと過剰かなという側面も感じたりはしますし、図式的なところも気にはなるのですけど、この基本的な論点に関しては、まさに最重要問題ではないかと思いますし、日本におけるシュタイナー受容の可能性もまた不可能性もこの点において深く検討していく必要があるようにも思っています。

 

 

風の本棚

山折哲雄「悪と往生」


2000.2.8

 

■山折哲雄「悪と往生/親鸞を裏切る『歎異抄』」

 (中公新書1512/2000.1.25発行)

 「悪」というテーマというと、耳をそばだててしまうところがあるのですが、本書は、「悪人正機」ということを掲げている唯円の「歎異抄」と親鸞の教えとの間には絶対的な距離があるとしているとしています。扉のところに本書の基本的なテーマが書かれてありますので、それをご紹介しておきたいと思います。

親鸞の教えと『歎異抄』の間には絶対的な距離がある。この距離の意味を考えない限り、日本における「根元悪」の問題も、「悪人」の救済という課題も解けはしない。中世以来、あまたの人々の心を捉え読み継がれてきた『歎異抄』は、弟子・唯円の手になる聞き書きであった。だがその唯円は、「裏切る弟子」=ユダではなかったか。本書は、現代社会に濃い影を落とす「悪」という難題に正面から対峙して立つ。ーー著者の親鸞理解の到達点。

 通常のこうしたインフォ的な紹介は、実際に読んでみると、なあんだこけおどしじゃないか。とかいうものが多いのですが、本書は最後まで、親鸞と唯円の間にある「距離」をめぐってスリリングな問題をぐいぐいと読者につきつけるようなかたちで進められ、読んでいる間中、とても濃い時間を過ごすことができたように思います。これまで読んできた山折哲雄さんの著書のなかでもとくにとてもすぐれたアプローチなのではないでしょうか。

 実は、本書を読み始めてから読み終えるまで、ずっと、転勤後、通勤するようになった電車のなかで、朝と夜、毎日ほとんど一章分くらいずつ読んでいきました。転勤後は、なかなかに忙しくまとまった時間がとれないのもあって、そういうのもいいかなと思って吊革にぶら下がったまま読んでたのですが、そうした状況でも、本書の内容は、ぼくのなかに、一種のひとときの異界のような時空を作り出してくれるのに十分でした。

 やはり、山折哲雄さんの言葉の力なのだろうと思いますし、むしろそうした人の群のなかでこそ、親鸞と唯円の生きた声のようなものが、生きてぼくのなかで働いていたのだといえるのかもしれません。もちろん、普通はこうした本は、通勤電車のなかで揺られながら読むような種類の本ではないのかもしれないのですが(^^;。これからも、通勤電車のなかという時空のなかで、いろんな異界にアプローチしてみたいと思っているところです。

 ところで、本書の提示しているテーマはどれも興味深いものなので、全部で12章ある章とそれぞれのテーマをご紹介しておきたいと思います。

一 悪と罪/「悪人正機」説の再検討

二 「宿業」と「不条理」/「卯毛羊毛」論の再検討

三 裏切る「弟子」/

  「弟子一人ももたず」(親鸞)と「弟子を持つの不幸」(内村鑑三)

四 唯円の懐疑/「歎異」の再検討

五 唯円とユダ/『歎異抄』と「駈込み訴え」(太宰治)

六 正統と異端/法然と親鸞の関係

七 個とひとり/「親鸞一人」の再検討

八 「親鸞一人」の位相/故哉・山頭火・虚子・茂吉

九 「自然」と「無上仏」/「無義」の再検討

十 唯円の作為/物語性の排除

十一 往生について(I)/『歎異抄』とともに

十二 往生について(II)/『歎異抄』をこえて


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