風の本棚23

 (1999.10.7-1999.12.14)


●今泉文子「ロマン主義の誕生」

●小浜逸郎「『弱者』とはだれか」

●俵浩三「牧野植物図鑑の謎」

●アラマタ図像館5「エジプト」

●中岡成文「私と出会うための西田幾多郎」

●パラケルススからニュートンへ/魔術と科学のはざま

●キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集」

●高橋克彦「火怨 北の燿星アテルイ」

●ハリー・ポッターと賢者の石

●浅田次郎「きんぴか」

 

 

風の本棚

今泉文子「ロマン主義の誕生」


1999.10.7

 

■今泉文子「ロマン主義の誕生/ノヴァーリスとイェーナの前衛たち」

 (平凡社 平凡社選書193/1999.7.70発行)

 すでに中塚さんがご紹介されていましたが、本書はノヴァーリスをめぐる重要な資料ともなり、昨年から今年にかけて書いてきた、中井章子さんの「ノヴァーリスと自然神秘思想」をガイドとした「ノヴァーリスノート」を、ドイツロマン主義「誕生」ということからその背景をわかりやすく見ていくことができるのではないかと思い「本棚」として記しておきたいと思います。

 本書には、ノヴァーリスをはじめとしたシュレーゲル、ティーク、ゲーテ、シラー、フィヒテ、シェリングなどの人物たちが登場するのですが、ノヴァーリスの活躍したのはほんの数年だともいえるにもかかわらずなにかがそこから生まれようとしているようなとても凝縮されたエネルギーをもった時代だったことを感じさせられました。しかし、やはりなんといってもノヴァーリスという人物の不思議さ、その魅力。その瞳を実際にみたらどんなことを感じるだろうとか思ってしまいます。そういう凝縮したエネルギーをもっているのはこの20世紀末もそうなのではないかと思うのだけれど、果たして後になってどのように語られる時代になるのでしょうか…。

 さて、今回は、中塚さんにならって、本書の紹介を「ケルト的」「エーテル的」ならぬ「ポエジー的」とでもいう感じの引用の織物として紹介してみたいと思います。

 

■ポエジー的1「無限の鏡映としての反省」

 反省は、意識の合わせ鏡。自分が自分を自分に照らして観る。意識魂という意識の鏡映。

 両親のもとにいたころ、ひとりの愛らしい娘と知りあった。たちまち彼女との愛にのめりこむ、おたがいの若い官能に揺さぶられて、相手も夢中になってくれた。そして、その初々しい官能がふたりながら最高の陶酔にとけこもうとしたその一瞬、あの自省がまたしても頭をもたげたのだ。かれは突然、身を引いた。

 なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。まるで自分の内部に鏡があって、自分がその鏡に映し出される。そしてその自分を見ている自分のなかにもまた鏡があって、さっき映し出された自分をまた映し出す……。終わることのない無限の鏡映……。無限の反省……。「無限の反省」を思考のモデルとしてシュレーゲルがロマン主義を標榜するのはもう少し先のことで、いまはわれとわが身が、自分のしっぽを追いまわす犬のようですらあった。(P53)

■ポエジー的2「ポエジー」

 自由の哲学はポエジーである。ポエジーによって、人はみずからを変革し、みずからを高みへと導くことができる。

 なんと自分の考えと共振することか、とハルデンベルクはあらためて思う。それに、ヘムステルホイス哲学における「ポエジー(文学)」の重視には、いまさらながら目から鱗が落ちるようだ。ポエジーこそ、高次の道徳的な認識器官に最もふさわしい表現形態であり、「神々の言語」だとヘムステルホイスは言うのである。そして、このポエジーについて、いかにも美しい象徴的な言葉を書いていた。

ポエジーの精神は、あのメムノンの巨像を歌わせる曙光である。

 エジプトはテーベ、そこなる固く重い石像の口から、朝の光が射し込む一瞬、歌が響くという。なんという奇跡!けれども、朝日があたるという自然現象の作用で実際に石像が音を出すということはありうるだろう。そのようにポエジーもまた、現実的で実践的な作用でありながら、奇跡をも呼び起こせるものなのではないか。 (…)

 より高いものへ向かって自己を錬成していく。古い軛を破って世界を変革していくーー黄金時代へと向けて。これこそ、この時代を生きる人 間の究極の目標であり、そのための手段が文学にほかならない、とハルデンベルクは思う。 (P158-159)

■ポエジー的3「ロマン化」

 花は紅、柳は緑。世界はそのままで不思議世界の万華鏡。そして、神的世界はそのなかに表現されている。どこにもない自分を夢想するのではなく、今ここにいる自分をロマン化すること。

世界はロマン化されねばならない。そうすれば根源的な意味をもう一度見出すことができよう。 ロマン化するとは、質を累乗することにほかならない。こうすることによって、低い自己はより良き自己と同化されるのである。

ノヴァーリスは数学の概念を応用して、「ロマン化」ということを、「質の累乗」と定式化してみた。だが、質を累乗するとは?具体的にはこいうことだーー

ありきたりのものに高い意味を、ふつうのものに神秘に満ちた外観を、既知のものには未知のものの尊厳を、有限のものには無限の仮象を与えること。逆に、いちだん高いもの、未知のもの、神秘的なもの、無限のものをあつかう場合は、結合によって対数化する。するとそれは、なじみに表現を獲得する。(P179-180)

■ポエジー的4「永遠に生成しつづける一冊の書物」

 神秘学とはまさに「永遠に生成しつづける一冊の書物」を読むこと。聖書は固定した書物ではない、永遠の生成なのだ。

 自然概念が唯物論的にとらえられて久しい。自然は人間から離れて素晴らしいのではない。人間からはなれた自然は成立しない。人間が自然を生成していく、いかいかねばならないのだから。もちろんこのことは容易に誤解される。しかしその誤解こそが、唯物論なのだ。

『イデーエン』のなかではこう書いた。

永遠に生成しつづける一冊の書物のなかで、人類の福音、文明の福音は啓示されるだろう。

 一冊の書物ーー友ノヴァーリスも、同じころ同じような「あらゆる書物の理想としての一冊の書物」を「聖書」と呼び、その具体的実現を「百科全書」という形で目指しはじめていた。

 やがて、一冊の書物というこの企図は、さらに「一つの小説」へといたるであろう。そしてそれを、シュレーゲルなら「新しい神話」と言うだろう。ただしこの神話は、古代のそれとは正反対の人工的なもので、他のあらゆる文学作品の胚種を覆う苗床となる無限のポエジー、カオスとしてのポエジーの謂いである。(P242)

 

 

風の本棚

小浜逸郎「『弱者』とはだれか」


1999.10.12

 

■小浜逸郎「『弱者』とはだれか」

 (PHP新書/1999年8月4日発行)

 本書はすでにけっこう話題をよんでいるらしいし、書評などでもとりあげられているのを見たこともある。しかし、こういう本はとくにあえて読まれなくていい。あたりまえのこと、だれにでもわかる当然のことしか書かれてないからだ。ただしここに書かれてあることをほとんど意識化できずに「弱者」ということを無批判に当然視している方にとっては必読書で、現代日本の、「弱者」や「差別」をめぐる一連の病気的現象をじっくり見据えてみる必要があるように思う。問題は、こうしたテーマの本がなかなか書きにくい状況であるということと言われなければわからない人たちがいるということなのだろうと思う。嘆くべきは、そうした方があまりにも多いということなのだろう。

 実際、わけのわからない平等主義という病気は後を絶たないし、わけのわからない「弱者」のいわば「聖化」は、ちゃんと考えればわかりそうなことを、みんなわからないふりをしてごまかすことに懸命なようだ。

 人はひとりひとり違っていて「差」があるから、それを隠蔽するということは問題をむしろ深くしてしまう。重要なのはただ「差」を蔑視の対象にしないことであり、もし蔑視の対象としてとらえてしまったとしたら、それをできうるかぎりそれを意識化してみることだろうと思う。

 人はひとりひとり異なっている、置かれている状況も異なっている。つまり、「個」の可能性が開かれているし、同時にそれを克服し、「個」を発揮し、育てていける可能性に向かって開かれている。そのことが重要であり、そのなかでいかに「共同」できるかということが重要となる。「差」を隠蔽したり、隠蔽できず、それが「弱者」をつくるときには、それを「聖化」してしまったりするということは、「個」の可能性を否定し、「共同」の可能性をも否定することになる。

 現在のような「弱者」を「聖化」するような在り方は、人間の可能性を蔑視するものでしかない。人間はそんなに可能性のない存在ではない。人間であるということを限りなく肯定的にとらえること。そこからの発想のない視点は、すべてをスポイルしてしまうだけだろう。人の愛も勇気も否定してしまうものでしかない。

 

 

風の本棚

俵浩三「牧野植物図鑑の謎」


1999.10.14

 

■俵浩三「牧野植物図鑑の謎」

 (平凡社新書017/1999.9.21発行)

 この11月1に、高知にあるこれまでの牧野富太郎植物園が拡充され、そのなかに牧野富太郎記念館が新しくオープンする。そのことはまったく知らなかったのだけれど、会社でそのオープンを記念した新聞紙面を制作しているのを知り、また、本書が出ているのも前から少し気になっていた。さらに生物学の先生でもあったというyuccaの祖父の蔵書のなかに先日古い「牧野日本植物図鑑」を見つけたりもしていたので、やはりこれは読んで損はなかろうと思い、読み始めたが、なかなか面白い内容だった。

 牧野富太郎といえば、ぼくは高知県で生まれ、小学校の半ばまで高知県に住んでいたというのもあって、学校でも牧野富太郎の話はよく聞いていた。とくに、小学校を中途でやめて独学で植物学の大家になったということはかなり印象に残っている話だった。ひょっとしたら、その後もぼくが学校で勉強をせず、自分勝手に興味の赴くままにやってきたのも、そうしたことが頭のどこかで働いていたのかもしれない。

 ところで、タイトルに「謎」とあるので、牧野富太郎の植物図鑑にどんな「謎」があるのだろうと興味津々で読み始めたのだけれど、今では権威とされている牧野植物図鑑の成立をめぐっては、特に大正の終わり頃からいろんなドラマがあったのを始めて知った。本書にでている主人公の一人「村越三千男」という名前は本書を読むまでまったく聞いたこともなかったのだけれど、「植物図鑑」というものが生み出されるにあたっては、欠かすことのできない存在であり、そうしたドラマの背景には、明治以降の理科教育の諸事情や明治40年前後には普及・教育的な植物図鑑が何種類もでていて、植物図鑑ブームのようになっていたことがわかり、時代を見る新たな視点というのを得ることができたように思う。

 やはり、歴史を見るというときには、人物を中心にしてその周辺のドラマを見ていくというのがその時代を生き生きととらえるのにはいいように思う。そういう意味でも、本書はなかなかすぐれた著作だし、著者が長い時間をかけて調べてきたことがとても生きて読者に伝わってくる好著ではないかと思う。

 それからこうした図鑑だけではなかなかわかりにくいことなのだけれど、シュタイナーの精神科学的な視点から植物を見ていきながら図鑑とあわせてファンタジーをひろがていくというのもまた新鮮な楽しみを与えてくれるのではないかと思っている。

 さて、最初に述べたように来月には、牧野植物園が拡充オープンするので、ぜひでかけてみることにしたいと思う。ちなみに、牧野富太郎は、先日「風のミュージアム」でもご紹介した「ナウマンカルスト」のある高知県佐川町の出身で、佐川町やその周辺の町ではよく登場する名前である。

 

 

風の本棚

アラマタ図像館5「エジプト」


1999.10.20

 

■荒俣宏 アラマタ図像館5「エジプト」

 (小学館文庫1999.11.1発行)

 少し前にこの「アラマタ図像館」の第3巻「海底」をご紹介しましたが、今回はその5巻目の「エジプト」をご紹介したいと思います。前回の巻も以前「リブロポート」から刊行された「ファンタスティック12」をベースにしたものだったのですけど、その「ファンタスティック12」のなかで買いそびれてしまったのが、この巻だったので、今回はリターンマッチという感じで買ってしまいました。

 ここに収められている数々の図像は、ナポレオンの壮大な「エジプト誌」のなかの考古学編と博物学編から紹介されるもので、荒俣宏のこうした試みがなされるまでは日本で一般にこうした図像の数々はなかなか見ることができなかったのではないでしょうか。もちろん、荒俣宏のほかの図鑑紹介もまったく同様なのですけど。

 ちなみにナポレオンの「エジプト誌」とは別にシンケル(ポツダムのサン・スーシ宮殿及び庭園を設計し、ドイツ帝国の最も古典的なイメージを建築で表現した)の傑作舞台装置の図版やシンケルと同時代のイタリアの舞台装置デザイナー、サンキリコの「スカラ座コスチューム装置画集」、それからフェラーリオ編「世界地理風俗体系」からの図版などが冒頭に収録されていて、これもまたなかなかに素晴らしいものです。

 19世紀初頭のこうした図像をながめていると、ナポレオンのエジプト遠征がもっている世界史的な意味というのを考えさせられたりもします。

 そこで、本巻の総解説のなかから、「『エジプト誌』のもたらしたもの」のところをご紹介して、そのことに思いを馳せるよすがとしたいと思います。

 フランスが刊行したすべての学術調査文献のうち、質と量の双方において 断然他を圧倒する刊行物。それはナポレオンの『エジプト誌』である。

 この膨大な著作は世に出て以来すでに200年を閲しようとしているが、今なお洛陽の紙価を高めるばかりである。多くの善本愛好家や図版収集家の希望があとを絶たないにもかかわらず、原本は稀覯本であり、容易に入手できない。

 実際、実物が一般の手に行き渡っていない稀本を賛美することはあまり意味がないのだが、話のきっかけとして、『エジプト誌』の偉大な成果についていくつかの実例を語っておこう。

 まず第一に特筆すべきは、1798年5月19日にはじまる若きナポレオンのエジプト遠征により、あのロゼッタ・ストーンが世界にもたらされたことである。この貴重な碑文石の発掘により、古代エジプトの象形文字の解読が可能になった。

 また古代エジプト文明とギリシア・ローマならびにヨーロッパとの歴史的かかわりを暗示させる多くの遺物が発掘紹介された。『エジプト誌』に載せられた古い神殿の図や神像はたちまち西洋美術家の興味を惹き、そのスタイルがモーツァルト『魔笛』の舞台をはじめ、公共・私有建築、動物園建築に『エジプト様式』として用いられた。

 博物学の面における貢献もそれに劣らない。ナイル河で発見されたポリプテルス・ビチャーという古代魚は、肺魚など原始的な魚類の近縁であり、生物の系統進化を探る貴重な「生きた化石」のひとつとなった。

 ワニやネコのミイラも精密に調査され、現生の同種と形態がまったく変化していないことを確かめたのも、この遠征に参加した博物学者たちであった。その事実は、生物の形態が安定しており時間の経過によって変化しない、とする生物不変説の論拠となった。

 以上の事例はごく一部のトピックスにすぎない。端的にいえば、ナポレオン遠征とその調査報告である『エジプト誌』の刊行は、19世紀初頭におけるフランス最大の事件だった、といるだろう。(P218-219)

 この19世紀初頭という時期はとても興味深い時代で、ドイツロマン派などもほぼこの時期に重なったりしています。もちろん、ゲーテもそうです。こうしたナポレオン遠征により可能になった『エジプト誌』からこの時代の動きを見てみるというのも、興味深い試みかもしれません。本書の冒頭近くに収められているシンケルの舞台装置の図像のなかにも古代エジプトのイシスと月のイメージから描かれたモーツァルトの「魔笛」からのものがあって、この時代の「エジプト」の影響をさまざまに想像させられます。

 

 

風の本棚

中岡成文「私と出会うための西田幾多郎」


1999.11.1

 

■中岡成文「私と出会うための西田幾多郎」(出窓社/1999.10.22発行)

 「私と出会うための」とかあるし、テーマ別の各章ごとに、「西田哲学のキーワード」、「もっと深く知りたいための小哲学講座」とかが付加されているので、ちょっと時流にのった「自分探し」と「だれにでもわかる哲学」企画をドッキングさせた企画本かもしれないとか思いながら、眉につばを付けて読み進めると、決してそうではなく、平易な表現のなかで、西田幾多郎の哲学が著者のある種の熱を込めて語られているのがわかりました。

 著者は、鷲田清一さんとともに「臨床哲学」、つまり「哲学を日常生活の現場に生かす」ことに取り組んでいて、本書でも、そうしたアプローチを基礎としながら、生きた西田幾多郎像が描き出されているように感じました。

著者自身、本書を「自分探し」本としてとらえられることを危惧したのか、「はじめに」で、次のように述べています。

『私と出会うための西田幾多郎』という書名ですが、「私と出会う」といっても、はやりの「自分探し」とは少し違うはずです。「ほんとう」の私とか、ハイヤー・セルフとかいうものが、どこか別の所にあるとは思えません。この不十分な、迷いのある私を避けることはできない。ただ、ほんの少し、自分自身を誤解し、見過ごしていたぶんだけ、新しい自分の発見がある。

 「高次の私」、「ほんとうの私」というのを、今ここにいる自分と別のところに探すというのは、それをただ「対象化」してしまうことにほかなりません。そのことで、今ここにいる「私」とは切り離されてしまい、そのアプローチはある意味で、ドラッグのようなものになってしまいます。そうではなくて、あくまでも今ここにいる「私」から出発したうえで、「私と出会う」ことがとても重要なことだと思います。

 もちろん、それはまさに「絶対矛盾的自己同一」、矛盾を生きるということにほかなりませんが、その不可避な矛盾を誤魔化して単純化して自己満足してしまうのではなく、まさにその矛盾そのもののなかにみずからを置きながら、その生そのものの底をぶちぬいていくという在り方。そこに西田哲学の魅力のひとつがあるのではないでしょうか。

 西田幾多郎といえば、大哲学者でもあり、あの鈴木大拙と親友でもあったわけで、

小さな日常生活などははるかに超越して生きたようにひょっとしたらイメージされることもあるのかもしれませんが、まさに西田幾多郎は生涯、さまざまに苦しみ続けた人であり、それをないかのように装うのではなく、それをあからさまに表出してきた人のようです。まさに「矛盾」そのものの中で生き続けていた人だといえます。

 しかし、その「矛盾」に耐えられないで、そこから逃げてしまうのは、この「生」の意味を見ることを放棄するということでもあるように思います。「私と出会う」ということは、そういう意味では、まさに「矛盾と出会い、それに直面する勇気を持つ」ということでもあるように思います。

 本書では、そうした矛盾を生きるための示唆が、西田幾多郎の哲学を通じて、「熱」を込めて語られています。また、難解で有名だという西田哲学を理解していくための「西田哲学のキーワード」、「もっと深く知りたいための小哲学講座」もとてもよく考えられたうえでえ付加されているように思います。

 

 

風の本棚

パラケルススからニュートンへ/魔術と科学のはざま


1999.11.2

 

■チャールズ・ウェブスター

 「パラケルススからニュートンへ/魔術と科学のはざま」

 (神山義茂+織田紳也訳 金子務監訳/平凡社選書198/1999.10.20発行)

 「魔術師ニュートン」というのはけっこうポピュラーになってきた感もありますが、17世紀科学革命の旗手として、「プリンキピア」で集大成された、物理学、光学、微積分学、天文学での業績があまりにも強いイメージがあるのかまだまだその錬金術研究というのはクローズアップされていないのかもしれなません。

 それに、科学というと、さも客観的なもの、絶対的なものであるとうような非常にスクウェアな近代的な考え方もいまだに根強いようにも思えます。あくまでも科学というのは、自然へのアプローチ方法の一つであるにもかかわらず、それが技術と結びついて「めざましい成果」をあげるようになっているがゆえにその「成果」に目が眩んでしまって、科学そのものの根拠ということには通常なかなか目が向かないのではないかと思われます。もちろん、科学史においても、ここ数十年の間さまざまに科学が歴史的文化的に条件付けられたものであるということなどが強調されてきているわけですが・・・。

 たとえば、シュタイナーは「神秘学概論」の最初の章において、「神秘学」は「科学」という方法を採用しながら、その適用範囲を拡大したものであるという旨のことを述べているようです。通常、「神秘学」というと「科学」を否定しているかのようにイメージされてしまうという傾向があるようで、シュタイナーもそのことには苦労していたらしく、批判に応えるべく、序文などもさまざまに書き換えられています。

 さて、本書は、タイトルに「パラケルススからニュートンへ/魔術と科学のはざま」とあるように、錬金術を排して科学が成立したのではなく、むしろ錬金術と科学は別物なのではなく、むしろ同質のものだったということを16、17世紀ヨーロッパの科学、医学、宗教改革などの在り方を通じて明らかにしています。

 巻末にある金子務による解第「パラケルスス再評価と十七世紀科学革命論への視座」でふれられている「本書の視野」をご紹介します。

本書の視野は個人としてのパラケルススやニュートンに縛られない。医科学派の泰斗パラケルススを生み出したドイツ語圏のスイスやドイツの宗教改革の動きと、王政復古期のイングランドの王立協会の諸側面や、ヘルメス文書の導入と結びつく錬金術・占星術の時代的うねりを重ね合わせながら、予言、聖霊魔術(spiritual magic)いわゆる白魔術(white magicただしウェブスターはまったくこの用語を使わない)、妖霊魔術(demonic magic)いわゆる黒魔術(black magic)の三つの展開を克明に追っている。本書を通して明らかにされるのは、パラケルスス主義の影響は科学革命期といわれる十七世紀の後半にも強く続いているということ、またとくにベーコンおよび当時の支持者たちの解釈には聖霊魔術の実践的適用、すなわち能動者(agent)を受動者(patient)に作用させる操作としての自然魔術(natural magic)への十分な理解を必要とすること、が強調されているのが印象的である。ニュートンについてはもちろんのことだが、ベーコンの合理主義的近代解釈(その最たるものがベーコンの自 然征服史観である)も訂正されなければならない。(P213-214)

 ところで、平凡社からは、本書と同時に、「近代錬金術の歴史」という16、17世紀のパラケルスス派を扱ったものが刊行されています。シュタイナーの「精神科学と医学」以来、とくにパラケルススには興味がわいてきているのですけど、なかなか資料が見つからず苦労していましたが、これで一挙に貴重な資料が増えたことになります。「近代錬金術の歴史」については、ある程度読み進めてからご紹介したいと思っています。

 

 

風の本棚

キリアコス・C・マルキデス「メッセンジャー第II集」


1999.11.25

 

■キリアコス・C・マルキデス

 「メッセンジャー第II集

  太陽の秘儀/偉大なるヒーラー<神の癒し>」

 (鈴木真佐子訳/太陽出版/1999.11.18)

 以前、本棚及びノートで比較的詳しくその内容をご紹介したことのある「メッセンジャー」の第II集。「ストロヴォロスの賢者」と呼ばれる、キプロス島のダスカロスをアメリカのメイン大学の社会学教授である著者が紹介しているもの。

 「はじめに」でもあるように、著者は、社会学者であるということから、「今回も前回と同じ視野と方法論をもって研究に臨んだ。私は現象学的なアプローチを採った。つまり、私自身が理論に基づいて介入することをなるべく避けて、ダスカロスに自分の世界と知識を紹介してもらうように努めたということである」としていているのだけれど、最初の章でも述べられているように、「実証主義」に色濃く染められている社会学という学問にとって、こうした「ヒーラー」のようなタイプの現象を扱うのが困難であるというところが本書のまたひとつの魅力になっていると思われる。

 「私は科学的物質主義に対して居心地の悪さをずっと感じていたが、これは現代の知的生活における悲劇であり、おそらくは避けられない代償であるとも受けとめていた。」というように、安易に「現代の知的生活」を放棄しないで、それを克服していくということが重要なのではないかと思う。

 ダスカロスは、そうした著者をそのまま受け入れている。

ダスカロスは疑いを持ったままの私を受け入れ、疑い深いトーマスと呼んで私をからかうのであった。彼は私の猜疑心を受け入れ、時には勧めたりもした。「何でも鵜呑みにしてはいけないよ。真っ赤に燃える疑問符になってすべてを試し、そして常に自己修養で得たものを指針にするのだ」と私に一度助言してくれたことがある。

 これは、シュタイナーが「薔薇十字会の神智学」で述べていたような「噛みつくような疑念」の必要性ということと通じていると思う。現代人にとって、安易な信仰や盲信などは認識を阻害してしまうことになる。

 このダスカロスは、ヒーラーとしてキプロスで活動していて、活動内容としてはシュタイナーのような在り方をとっていないのだけれど、たとえばキリスト認識などに関しても、ほとんど同じなのではないかと思える。しかも、とても認識的であるということも共通している。活動内容やその適用範囲の違いなどから、使っている用語は少し異なっているのだけれど、読んでいてほとんど違和感はない。むしろ、別の角度からシュタイナーの神秘学を見せてくれているようなそういう感じが強い。

 本書を読みながらあらためて思ったのは、人の「思い」がいかに創造的かということである。前回の第I集のノートでも「エレメンタル」という想念の生み出すものについてはふれたことがあるのだけれど、人が思ったことは基本的に「エレメンタル」として実体化してしまう。そしてそれは自分に返ってきたりもし、それが転生を超えて、カルマとして働いたりもする。

 仏教などでも、心の毒ということで、怒りやむさぼりや愚かさ、慢心などを持たないようにという教えがあるのだけれど、そういう思いはすべて実体化してしまい、毒として働いてしまうことになるように、自分の思うことについていかに自覚的かということがきわめて重要であるということが本書を読みながら実感される。

 人は、一瞬一瞬の「思い」によって、自分を創造しているのだということに気づくときこの宇宙がいかに「自由」に満ちているか、そして、だからこそ、「愛」そのものであるかということに気づくこともできるのではないだろうか。

 さて、本書の装丁とタイトルはこの内容の素晴らしさに反比例してちょっといかがわしい感じになってしまっているのが残念だ。原書のタイトルは「太陽へのオマージュ」というものなのだけれど、なぜこういうセンスのない邦題にしてしまったのだろうか(^^;)。くれぐれも、この外見にとらわれないように・・・。

 ちなみに、第III集が来春に刊行されるということらしい。今からとても楽しみだ。

 

 

風の本棚

高橋克彦「火怨 北の燿星アテルイ」


1999.12.1

 

■高橋克彦「火怨 北の燿星アテルイ(上・下)」

 (講談社/1999.10.27発行)

 時代は、奈良から平安の昔。朝廷に虐げられて蔑まれてきた陸奥の蝦夷たちが、アテルイを中心に反乱し戦う歴史小説。「火怨」とタイトルにあるが、読んでみたイメージは「火怨」という感じではなく、蝦夷の深い悲しみと戦いを通じた友情を描いた物語として読めた。とくに、アテルイと坂上田村麻呂の敵味方という枠組みを超えた信頼関係はなかなかに感動的に描かれているように思う。

 はじめ、この本を書店で見つけたとき、読もうかどうしようか、長そうだし、今度にするか・・・という感じで保留していたのだけれど、なぜか縁があるようで、ふとした折りに、アテルイという名前が、頭のなかで何度も浮かんできていたので、やはり読んでみることにした。

 アテルイに関する資料はおそらく多くはないのだろうから、この小説のどれほどが史実を背景としたものかはよくわからないし、ここに登場してくる蝦夷や物部、アラハバキなどについての秘された歴史とでもいうものが詳しく描かれているわけでもないものの、そうしたことについていろいろ想像を働かせながら読み進めた。

 とくにこの小説のテーマになっているのでもないのだけれど、日本の歴史というのは、かなりミステリアスな感じが以前からしている。大和朝廷の成立、天皇の起源というのもなんだかよくわからない。最初に日本列島に生活していたであろう縄文時代の人たち。南洋から船で渡ってきたと思われる海人たち。朝鮮半島経由で渡ってきたと思われる騎馬民族など。卑弥呼、アマテラス、スサノオ、大国主、ニギハヤヒ、物部氏、蘇我氏、アラハバキ、・・・。おそらくアカデミックに語られる日本の歴史なるものとは、かなり異なったものなのではないかと思える。

 本書にはでてこないが、蘇我蝦夷の名前も気になる。なぜ陸奥の蝦夷と同じ名前なのだろうか。聖徳太子なども、聖徳太子は蘇我入鹿である、とかいう本もあるように、なんだか謎に包まれている人物のひとりだ。そしてやはり、キーになるのは、やはりニギハヤヒだろう。そこには、天皇をはじめとした日本の秘密が集約されているように思う。

 

 

風の本棚

ハリー・ポッターと賢者の石


1999.12.4

 

■J.K.ローリング「ハリー・ポッターと賢者の石」

 (静山社/松岡佑子訳/1999.12.8発行)

 やはり、偶然というのは認識されていない必然だ。ちょうど昨日(12/2)出張先の広島市で本書を見つけた。仕事まで少し時間があるので、マーケティング関係の専門書を探していたのだけれど、なぜか本書の前で呼び止められたようなそんな気になってつい手にとってしまった。

 本書は、魔法の学校での「ハリー・ポッター」という主人公の活躍を描いているファンタジーなのだけれど、ひょっとしたらぼくにも魔法がかけられたのかもしれない。なぜなら本書を読み始めたらとまらなくなってしまったからだ。

エンデの「モモ」や「はてしない物語」やル・グインの「影との戦い」など以降、ファンタジーというジャンルがかなり広がってきていて、その流れのなかで、ぼくがもっとも愛している作品であるハンス・ベンマンの「石と笛」なども訳されているのだけれど、良質の作品は数少ないように思う。

 そうしたなかで、本書は久しぶりに、読み始めたらとまらないような魔法にかけられたような楽しさを味わわせてくれる作品だと感じた。テーマの深みという点では、エンデやグイン、ハンス・ベンマンなどと比することはちょっとできないように思うのだけれど、表現の色鮮やかさというかイメージの豊かさという点では、とてもすぐれた作品なのではないかと感じながら読んだ。実際、作品のそういう性格からか、2001年夏にワーナーブラザーズが映画化を決定しているということだ。

 ちなみに、本書がイギリスで最初に出版されたのが、1997年の6月で、現在世界ですでに800万部を売っているという。なんだか、そういう「ブーム」というと、広告屋にも関わらず(^^;)、ぼくのなかの「アンチ」の虫がささやきはじめるのだけれど、本書が書かれた経緯や翻訳されることになった経緯などを知って、作品にもまして、そこにあるドラマのほうにも感動を覚えることになった。

 著者のJ.K.ローリングは、シングル・マザーで、小さな子どもを抱え、生活保護を受けながら、コーヒー店の片隅でたった一杯のコーヒーを注文し、子どもが寝ている間に、この作品を書いたということなのだけれど、(あまりそういう話を強調するのは好きでないのだけれど)訳者の松岡佑子が、この作品を出版するにあたっての経緯もなかなかいい。ふつうならば、大手の出版社が翻訳権を取得し出版するだろうけど、訳者の熱意を理解し、訳者の経営する「静山社」というほとんど無名の小さな出版社に翻訳権をあたえたということなのだ。やはり、こうしたファンタジーを書く著者だけのことはあると感動。そうした経緯などを知り、作品は偶然でできるものではなく、また翻訳などされるのも、それなりのドラマチックな必然があり、そしてその必然というのは、もちろん人間の創造していく必然でもあり、決して消極的なものではないのだということもあらためて深く感じることができた。

 で、物語のストーリーを紹介することは、これから読まれる方の邪魔になるだけなのであえて避けておきたいと思う。興味のある方は、ぜひ実際に読まれることをお勧めしたい。

 ちなみに、書店では、別のすごく面白そうなファンタジーや哲学書や音楽の本などを偶然という必然から見つけることができたのだけれど、結局、肝心のマーケティングの本のほうは、買わずじまいになってしまった(^^;)。やはり、そもそもが、そうした仕事関係の本は義務で読むものなので、面白そうな本を見つけると、どうもそっちのほうはどうでもよくなってしまうらしい・・・あとでツケがコワイのだけれど……(^^;)。

 

 

風の本棚

浅田次郎「きんぴか」


1999.12.14

 

■浅田次郎「長編悪漢小説●きんぴか1〜3」

 (光文社文庫/1999.7-9)

 ここ数年でもっとも面白かったエンターテインメント小説のひとつに、浅田次郎の「蒼穹の昴」があった。映画化もされた「鉄道員」もそれなりによかったが、やはり「蒼穹の昴」だ。今回読んだ「きんぴか」はずっと気になっていて、どうしようかと思っていたのだけれど、読んでみたらやっぱりすごく面白かった。

 13年のムショ帰りのヤクザと一人で決起反乱した元自衛官と将来総理にさえ嘱望されながら汚職の汚名を着せられドロップアウトした政治家が元警官のいわば「世直し」の望みを受けながら、破天荒なドラマを繰り広げる話・・・といってしまえば、ちょっと違うような気もするのだけれど(^^;、まあそんな話。それが、泣かせるし、笑わせる、そして考えさせられる。

 しかし、悪漢小説というのは、やはり善人のお話よりもずっと面白い。善人のお話は、たとえどんなに事実に基づいていてもどこか嘘がにおう。それに対して悪漢小説というのは、ほとんど嘘とでたらめだらけだとしても、とくにこの「きんぴか」の場合、そこに語られるフィクションを超えた真実を語っているような気がする。自由に近いというのだろうか・・・。もちろん、これはあくまでもぼくの趣味にすぎないのだけれど(^^;。

 少しだけ、そのエンディングに近いところから(あまりストーリーとは関係ないと思うので)少し。

「キミはいいな。ぼくを必要としている人間なんて、もうどこにもいやしない」

(・・・)

「世の中に不必要な人間など一人もいはせん。それを不必要だと言うのは、己れのわがままだ」

(・・・)

「軍曹ーーひとつだけ教えてくれないか」

(・・・)

「キミはなぜそんなに堂々としているんだ。なぜそんなにいい笑顔を持っているんだ。すべてを奪われ、すべてを捨てたぼくらの境遇はまったく同じだと思うんだが」

軍曹はさして考えもせず、またたき始めた明星を振り返って、からからと笑った。

「簡単なことだ。俺は子供の頃からおしきせの規律に反抗し続けてきた。そしてとうとう犯罪者となった。しかし、省みて天に恥じる行いはただのひとつもしてはおらん。恥辱はすなわち身の穢れである。身に一点の穢れない俺は、常に正々堂々、笑顔の絶えることはない」

「罪を犯したことに、恥辱を感じないのか。われわれは犯罪者じゃないか」

「ほう。では訊こう。犯罪とは何だ」

「決まっているさ。法を犯すことだよ」

軍曹はもういちど、空を呑み込むほどの大口を開けて、からからと笑った。

「俺は常に、義のために行動してきた。義を裁く法などあってたまるか」

「だが、悪法でも法は法だ。社会の秩序とはそうした……」

「いや、悪法など法であるものか。俺は義のためとあれば親をも殺すだろう」

広橋はとたんに身を起こして叫んだ。

「くだらんたとえはよせ!親を殺すことが、何の正義だ!」

「ヒデよ」、と軍曹は灯り始めたネオンを大きな瞳いっぱいに映して広橋を見つめた。

「俺はキサマの苦悩など知りはしない。だが、これだけは言っておく。どんなことをしてこようと、俺の人生は俺の誇りだ。キサマも、キサマ自身の人生を誇らしく思え」

何と明快な、何とゆるぎない言葉だろうと広橋は思った。軍曹は呆然と座り込む広橋に向かって正確な挙手の礼をすると、踵を返して歩み去った。

(・・・)

あの男は何ひとつ世の中を変えたわけではない。存在にことさら意味があったわけでもない。だのに、この喪失感は、あの男がいないこの空虚さは、いったいどうしたことだろう。

(「きんぴか3」P296-298)

 私が私であること。私がいかに名声を得ようと、巨万の富を得ようと、そんなことは、己の誇りに比べられるようなものではないと思う。ひとからどんな評価を下されようと無関係ではないかと思う。その誇りは、私が私であるということそのもの。そんなことを笑いと涙で考えさせられた、悪漢たちの物語。

 そういえば、浅田次郎の新刊「シエラザード」も面白そうだ。お正月にでも読んでみたいと思う。

 


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