風の本棚21

(1999.6.9-1999.8.10)


●レイ・デルモンテ「オンゴロ」

●鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」

●大村祐子編「シュタイナー教育に学ぶ通信講座1」

●「異議あり!脳死・臓器移植」

●阿久悠「歌謡曲って何だろう」

●荒俣宏「アラマタ図像館3 海底」

●セスは語る

●浅野信「アカシックメッセージ」

●鷲田清一「『聴く』ことの力/臨床哲学試論」

●シュタイナー「完全版/霊学の観点からの子どもの教育」

 

 

 

風の本棚

レイ・デルモンテ「オンゴロ」


1999.6.9

 

■レイ・デルモンテ「オンゴロ」

 (加納眞士訳/中央アート出版社/1999.2.3発行)

 ミヒャエルエンデの「はてしない物語」のファンタージエンのテーマに「悪の解放」のテーマや転生、進化のテーマなどを盛り込んだ作品。

 世界から「夢」が失われはじめた。それは「夢を吐く貝」が夢をつくれなくなったから。その「夢を吐く貝」の夢を取り戻そうとミント、コポラニ、トレイヤの3人の子どもが「オンゴロ島」をめざし、冒険の旅に出る。世界から夢を奪おうとする狼の顔を持つ銀王、世界を至福で見たそうとするヨミ博士などが絡みながら、物語は意外な(かな?)展開を見せていきます。

 ストーリーはこんな感じで、楽しく一気読みできる作品になっています。テレビアニメ化されるということなので、ひょっとしたらポピュラーな作品になっているかもしれないのですけど、ぼくはたまたま手にとるまでまったく知らない作品でした。ファンタジー系の作品に、いろんな要素をまるごとつめこみたかったというのが著者の意図なのではないかと思います。で、この作品、とってもいいですし、テーマ的にも面白いのですが、文章やキャラクター設定がいまひとつだという感じはあって、少し惜しいなとも思っています。

 著者は、レイ・デルモンテ。「エジプト・インド・日本のレイ・ライン(龍脈)を訪ねて歩く。東洋哲学と古代神話の融合をテーマとして、静かな活動を続ける」というプロフィールがあるのですけど、なんだか嘘っぽい感じがしますし、本文を読んでいて、翻訳っぽい感じはしなかったので、ひょっとして訳者の加納眞士が作者なのかもしれない、とか想像したりもしています。実際のところはよく分かりませんけど。

 さて、エンデのファンタージエンに悪の解放や進化の問題を絡めてテーマ化しているという観点は、かなり興味深いのではないかと思います。エンデの「はてしない物語」はとてもすぐれた作品なのですけど、あえて物足りなさをいうならば、やはりファンタージエンの意味がさらに宇宙進化のなかでどう展開されていくのかというあたりの意味付けが欠けていたのと、やはり「悪」ということを正面から捉えるあたりももう少し踏み込みがほしかったと思っていましたので、そういうテーマをきちんと盛り込んでいるところがこの作品のすぐれたところなのではないかと思います。もっとも、作品の完成度や表現力などからみれば、エンデの作品にはかなわないなということはいえますけど。

 

 

 

風の本棚

鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」


1999.6.22

 

■鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」

 (文春新書47/平成11年6月20日発行)

 コミュニオンという言葉をはじめて知ったのは、バグワン・シュリ・ラジニーシの「存在の詩」で、その教団的なありかたには共感は持てなかったものの、その本に書かれている「コミュニオン」という言葉、「コミュニケーション」ではなく「コミュニオン」という言葉に不思議な共感のようなものを感じたことを覚えている。

 ぼくのもっている著者の鈴木秀子イメージといえば、性格分析としての「エニアグラム」で、本書でもそれが全面にでているかと思っていたら、比較的最後にさらりと書いているくらいで、しかも最初にシュタイナーの名前がでてきていたので、ひょっとしたら面白いかもしれないということで読み始めた。

 しかし、本書のタイトルにはけっこう抵抗を感じてしまった。「愛と癒しのコミュニオン」である。「コミュニオン」とは「愛による魂の絆」ということらしい。なんだか最近の「癒し」のファシズムのようなものにかなり辟易しているところも少なからずあるのと、もともとかなり天邪鬼な性格で素直ではないので、疲れるのを覚悟で、ということで。ちなみに、本書を読むまで知らなかったのだけれど、「国際コミュニオン学会」というのがあり著者はその提唱者ということになっている。

 人は容易に傷ついてしまうらしい。もちろんぼくもその例外ではなかったのだけれど、どうも最近はあまり傷つかなくなったような気がする。なぜだろうと考えたのだけれど、おそらくそのいちばんの原因は、自分がなぜ傷ついたりするのだろうといろいろ考え始めたからだと思う。やはりなぜ自分が傷ついているかがわからないままで苦しんでいるというのは実体のないお化けのようなものとひとりで格闘しているようなものなのだ。だから、幽霊の正体見たり枯れ尾花、というようなところがあって、傷つくということの正体をしっかり見ることがけっこう効果があり、わけのわからない不安感や恐怖感から自由になることができる。

 本書のメッセージはとても簡単なもので、おおよそ次のようなことに集約されるのではないかと思う。

 あなたは、けっして一人ではない。明るい未来は、あなたの前に大きく開かれている。世の中のどこかで、あなたのことを思ってくれている人がいる。それは見知らぬ人かもしれないが、一人で苦しみを担っているわけではないのだ。さらに、「人智をはるかに超えた存在」が、あなたを愛している。だから、自分自身を大切にする力を育て、自分を許す力を育て、自分には本当に価値があるのだと教えてあげること。そして、「あなたは愛されている」「あなたは許されている」「あなたには価値がある」という三つのメッセージを、繰り返しあなた自身に教えてあげてほしいのである。他者は変えることができない。過去も変えることはできない。変えることができるのは自分自身と、自分のものの見方だけなのだ。変えられるはずのないものを変えようとして苦しむのは、愚かである。

変えられれば幸せになれるのに、変えないのはもったいない。そして変えられるものをよく変える知恵、変えられないものを受け容れる知恵によって、自分を無限に幸せにする力をすべての人が持っている。

(P219-220)

 なんだかとってもあたりまえすぎることばかりなのだけれど、そのあたりまえがいちばん難しいものだから、「国際コミュニオン学会」とやらいうのさえできているのかもしれない。しかし、最近はなぜ傷つく人ばかりが増殖しているのだろう。やさしさを求めてやまない人も数限りない。

 本書に書かれていることは、そんなに特別なことではないし、けっこうマニュアル的に書かれているところもあって、その点は、けっこう疲れたりもするのだけれど、本書で書かれている「愛と癒し」にはけっこう腹が入っているようだ。たとえば、苦しみに向き合うということを重視しているように。

 

 

風の本棚

大村祐子編「シュタイナー教育に学ぶ通信講座1」


1999.6.26

 

■大村祐子編

 「シュタイナー教育に学ぶ通信講座1/よりよく自由に生きるために」

 (ほんの木/1999.6.6発行)

 先日、ご紹介した「ひびきの村」の代表、大村祐子さんの編集で開始した「シュタイナー教育に学ぶ通信講座」がスタートしました。ブックレットの全6冊シリーズでの刊行が予定されています。小さな本ではありますけど、こうした試みはおそらく初めてのことでしょうし、ここまでこぎつけるのは、かなり大変だったのではないでしょうか。こうした試みがこれからもいろんな形で続いていけばいいですね。

 その主な日程とテーマ、タイトルは次の通り。

創刊1号(1999年6月1日)

シュタイナーの人生観「よりよく自由に生きるために」

2号(1999年8月1日

シュタイナー教育の基本「子ども達を教育崩壊から救う」

3号(1999年10月1日

子どもと成長段階「家庭でできるシュタイナー教育」

4号(1999年12月1日

シュタイナーの自然観「子どもをとりまく環境の危機」

5号(2000年2月1日

シュタイナーの説く人間の尊厳「子どもの暴力、いじめ、人権」

6号(2000年4月1日

シュタイナー教育のめざすもの「人はなぜ生きるのか」

 各ブックレットは、1冊1,000円で、全6冊送料込みで6,000円です。郵便振替(振替口座00120-4-251523 加入者名 ほんの木)詳しくは (株)ほんの木 TEL03-3291-3011まで。

 今回刊行された創刊1号は約80ページで、以下のような内容です。

 ・創刊の言葉

  「教育を考えることは、わたしたちがどう生きるかを考えること」

 ・ルドルフ・シュタイナーの人間観「子どもとは?人間とは?」

 ・シュタイナーの十二感覚論

 ・今、私たちの課題は?「学級崩壊の中にいる子どもたち」

 ・ペタゴジカル・ストーリー・お話の持つ力

 ・子どもをよく知るために/見る力を養うエクササイズ

 ・Q&A

 ・ひびきの村通信

 ・編集室だより

 では、「創刊の言葉」の中から少し。

 どのように息子に教え、育ててゆこうかと考えることは、まさにわたし自身が人間についてどのように認識するか、そしてその認識をどう生きるかを考えることでした。ですから、わたしにとって「教育を考えることは、わたし自身がどう生きるかを考えること」だったのです。わたしたち大人が「人間はなんのために生まれたのか」という問いに真の答えを見出すことができたら、わたしたちはその答えを成就するために努力を払うことができるでしょう。そしてその時にこそ、子どもたちもまたそれを成就すべく生まれてきた同じ人間としてその成長を助けるために、わたしたちは全力を尽くすことができるに違いありません。「人間は精神的な進化を遂げるために生まれてきた」……ルドルフ・シュタイナーの答えは明確です。シュタイナーに導かれて、これから皆さまと共に彼の人間観、世界観に貫かれた彼の教育実践を学びたいと思います。(P10)

 なお、編者の大村祐子さんの著書「わたしの話を聞いてくれますか/シュタイナーに学ぶ」も同じ「ほんの木」より、3月に刊行されています。

 

 

風の本棚

異議あり!脳死・臓器移植


1999.6.27

 

■渡部良夫監修/人類愛善会・生命倫理問題対策会議編

 「異議あり!脳死・臓器移植」

 (天声社/1999.4.19発行)

 「人類愛善会」というと出口王仁三郎によって設立された会ですけど、こういう会がこうしたまとまったものを出しているというのはとても興味深いですね。それから、本書に登場されている医師や一般の方々などのほとんどは「人類愛善会」の方ではなく、脳死・臓器移植に反対しているいろんな方々からの意見をまとめたものとなっています。なお、渡部良夫氏は、現在豊田地区医療センターの院長、藤田保健衛生大学名誉教授をされていて英国心臓学会の国外名誉会員でもあり、またポルトガル心臓学会の名誉会員でもあるそうです。

 本書には、資料として「臓器の移植に関する法律」(1997.6.17可決、7.16公布)や「臓器の移植に関する法律施行規則」(1997.10.8公布)、「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針(1997.10.8)なども載せられていて、自分でその内容が確認できますが、ざっとみたところ、たしかに「運搬費」に関する規定はみあたりません。

 なお、渡部良夫氏が「監修にあたって」で「臓器移植が正しい医療ではなく、脳死状態を人の死として認めるべきではない」という主な理由について次のことを挙げています。

 

一、医療は与えられた患者一人で完結すべきであるのに、移植は第三者を巻き込む。その巻き込み方は様々であるが、本来「脳死」臓器移植は殺人、心臓停止後の角膜・臓器移植は死体破損、生体肝移植などは傷害の罪にあたりはずである。

二、臓器移植は本質的に人肉食(カニバリズム)に通ずる残酷な行為である。

三、移植は人の死を期待する医療で、未来永劫にわたって人間精神の荒廃を招く、残念ながら臓器提供者の善意は善意で終わらず、人の欲望を増幅させる効果を持つ。

四、移植は人を部位の集まりと見る人間機械論で、これは人の命の唯一性を否定するものであるが、移植後免疫抑制剤の投与を要することは臓器が交換可能な機械部品と違うことを示し、その論理の破綻は明らかである。

五、移植推進派は移植を受ける側(レシピエント)の命のかけがえのなさを強調する一方で、ドナーの命のかけがえのなさは無視して人の命に軽重をつけ、更に臓器のかけがえを狙うという二重の誤りを犯している。

六、人は他の人格を必ず目的として扱うべきで、これを手段としてのみ扱ってはならぬというカントの定言律は、時代と国境を越えて通用する普遍的道徳律であり、これこそが人を他の動物から区別する条件だとされる。臓器移植はまさに他の人格を手段としてのみ扱うもので、移植推進派は人であることを放棄するものなのか?

 こうしたことを見ていくと、やはり霊的な観点がでてこないと本質的なところでの論拠には弱いかなという感じもしますね。でも、公に霊的な観点を持ち込むことができないところが難しいところですのでやはり、心臓を移植したら人格が変わった!とかいうあたりをもっとクローズアップしたりすることで、脳死・臓器移植の実際を多くの方が意識的に見ていく機会をたくさんつくることが必要なのだと思います。

 本書の「取材記者あとがき」でも、「情報提供」が必要なことが次のように述べられています。

 脳死を人の死とするか否か、その判断は、国民一人ひとりに委ねられた問題であり、第三者がとやかく言うことはできない。しかし、是非の結論を出す前にプラス、マイナス、すべての情報が国民の前に提示されるべきであろう。判断を下す前に十分な情報を流すことなく、美辞麗句を揚げて臓器提供を賛美し、ドナーカード(臓器提供意思表示カード)の所持を訴えることは、いかがなものだろうか。あたかもルアー(疑餌にかくされた釣り針)で魚を捕獲するに等しい行為ともいえるであろう。

 ちなみに、本書の裏表紙には、「ノン・ドナー」カードが添付されています(^^)。そのカードの表には、こう書かれてあります。

 NON! DONOR

「脳死」は人の死ではありません

「脳死状態」による臓器提供は致しません

 こういうカードでも携帯していないと、何が起こるかわからないような恐ろしい時代になってきているわけですよね。

 ともかく、先の「情報提供」ということがあまりにもいいかげんな感じがありますから、賛成するにせよ、反対するにせよ、きちんとした判断材料を各自がもてるようにすることが重要な気がします。

 

 

 

風の本棚

阿久悠「歌謡曲って何だろう」


1999.7.2

 

■阿久悠「歌謡曲って何だろう」

 (NHK人間講座/1999.7月〜9月期)

 朝日新聞で連載されていた阿久悠の歌謡曲についてのエッセイを毎回面白く、そしていろんなことを感じ、考えさせられながら読んでいました。世代的にいえば、阿久悠とぼくは20年ほど違うのだけれど、そこにとりあげられている歌謡曲の多くを時代とともに聞きながら、ぼくは育ってきたというのもあって、懐かしさとともに、その時代の気分というか、そこに流れているなにかが気になっていたように思います。とくに、物心ついてからいわばテレビっ子で二十歳くらいまでテレビづけだったということもあるかもしれません。今では、滅多にテレビをつけないようにさえなっていますが……。

 時代の気分というのは、後の時代になってそれを対象化してみるととても滑稽に感じることもあります。なぜ当時はそういうふうに感じ、考えていたのかと不思議に思うことさえあります。あのときあんなにカッコ良く見えてたものが今はどうしてこんなにダサく見えてしまうのだろうというのもあります。これは、「流行」ということにも関係してくるのですけど、時代をつくるのは人の意識で、その意識の総合が時代とだともいえるのでしょうが、その意識のことを考えるととても面白いものです。

 本書で、阿久悠は歌謡曲のコンセプトやモチーフの時代性とでもいうものをとても面白く述べているのですけど、面白いのは、阿久悠が歌謡曲の歌詞をつくるということでつかまえようとする表現は時代からくるものであるとともに、そのなかでこれからの時代をつくっていこうとするものでもあるということです。阿久悠のような時代の空気をつかまえ、その先を表現しようとする方はいったい何をしようとしているんだろう、そんなことを考えたりもします。

 本書にみられるような最近の阿久悠の活動は、そういう時代創造の秘密についていろいろ考えてみるためのひとつの切り口にもなるのではないかと、読みながら感じました。阿久悠が「大仰に云えば、二十世紀は歌謡曲が証明した時代であった」「たとえひとときのなぐさみの歌であっても、それは時代の証明を果たしていた」と述べていますが、そういうところはあるのではないかと思います。もちろん、重要なのは、その根底になにがあったのか、あるのかです。

 興味深く感じたのは、本書の最後で阿久悠が次のように語っていることです。 

 最後に、実験をするつもりでした。歌を作る作業ということです。「歌謡曲はどのくらい新しくなれるか」ということでもやってみようか、と思っていたのですが、ここに至って考えが変わりました。「新しくなれるか」より、先にやらなければならないようなことがあると思ったからです。

 昭和から平成に変わって、何らの政策転換も、教育方針の変更もないのに、日本人が変わってしまった気がしてなりません。おそらく、どなたも胸のうちでは感じているはずで、「昔からイヤな国であったわけではない」とか、「昔からイヤな人間であったわけではない」と思っているでしょう。昭和には確かに存在して、今存在しない、風景、人間、心、それを思い出します。(P133-134)

 これを読んでいろいろ考えさせられたのは、今も、阿久悠は現代の時代性を模索しているということと、昭和と平成というあたりで変わってしまったかもしれない時代の根底の意識を探ろうとしているそのものをもっと明確につかみたいということでした。こうした言葉は一見懐古的に読めてしまうのですが、それだけに終わらないものを、時代とともに歌謡曲の言葉を紡ぎだしてきたものを語っているようにも感じるのです。

 ちなみに、阿久悠とは違い、ぼくにとっては、おそらくやっと平成になって時代がどこか不穏で壊れかけているのではないかと思える頃になって、やっと少しずつではありますけど、目が覚めてきた感じがしています。昭和という時代は、たぶんぼくはほとんど眠っていたようにも思います。言葉というものがぼくのなかでほとんど生まれていなかったという感じです。

 そういう、時代性と自分ということなども、いろいろと自分なりに感じ、考えていくこともとても面白いのではないでしょうか。

 

 

 

風の本棚

アラマタ図像館


1999.7.13

 

■荒俣宏「アラマタ図像館3 海底」

 (小学館文庫/1999.8.1発行)

 小学館文庫に「アラマタ図像館」という全6巻のシリーズが刊行されはじめていて、この第3巻目は「海底」がテーマになっています。この「図像館」のシリーズは、10年近く前に、リボロポートから刊行された「ファンタスティック12」のなかから「怪物」「解剖」「海底」「庭園」「エジプト」「花蝶」というテーマで再編成したもののようです。「ファンタスティック12」のシリーズはなかなかのもので、なかでも今回の「海底」のもとになっている「水中の驚異」や「神聖自然学」「昆虫の劇場」など、刊行が待ち遠しく思えたものでした。

 さて、今回の第3巻目の「海底」。すでに「ファンタスティック12」の「水中の驚異」をもってはいるのですけど、大幅に図像が差し替えられていたりもするのと、コンパクトなので携帯できるというのもあって、つい懐かしさも加わって買い求めてしまいましたが、収められている図像の素晴らしさにひとときついつい我を忘れてながめ入ってしましました。なかでも、宮沢賢治の詩にも登場し、しかもシュタイナーとも縁の深いヘッケルの図像はため息のでるほど素晴らしいものです。

 小さい頃からの図鑑好きのぼくとしては、こうしたアラマタものはもうめくるめくもので、奇蹟としかいいようのない図像に満ちているのですが、小学校の頃に、宝物のようにしていた図鑑を片手に野山に、海に川に遊んでいた頃の感動を再び、という感じで、あらためて、今度はシュタイナー的な認識を入れながら、自然のめくるめく不思議の前に立っていたいなと思っているところです。

 さて、本書には、「ファンタスティック12」の「水中の驚異」にも収められていた「総解説」も収められていて、「水」のとらえ方、描き方の西洋と日本、東洋との比較に関してとても興味深いところがありましたので、それをいくつかご紹介することにします。

 媒質としての水の表現法に関し、はじめにひとつのキー・ワードを呈示しておきたい。それは「水中」という用語である。「水中」という言い方は、中国語というよりもむしろ日本語である。古くから海女が存在し、透明な海にめぐまれた日本では、海中のシーンは見慣れたものでもあった。その日本語表現では、水界の内部を指すのに「水中」といういい回しを用いる。

 これは、文字通りに解釈すれば、水という媒質の内側にあることを示す。この場合、水面に浮かぼうが水底に沈もうが、「水中」であることに違いはない。水は均質な媒体なのである。

 これに対し、西洋での言い回しは微妙に食い違う。たとえば英語ではunder water と称する。これを字義的に訳せば「水の下」である。つまり水は、上とか下とかいう位置を明示させる層をなしていることになる。層であるからには、水は均質ではない。むしろ地層のように、ところどころで水層の変化を生じる。(P172)

 水は哲学的に重要であるように、イメージ論においても、特別な位置を占めている。ことに西洋と東洋で水の描き方が違っていることは、詳細な議論に値しよう。たとえば、日本には水中を泳ぐ鯉の絵がたくさんある。澄んだ水の中を鯉がスーと泳いでいる構図は日本画の大きな画題になっている。また鯉の滝のぼりも同様である。われわれ日本人にするとこれらの構図は何でもないが、西洋人はこれを見て大いに驚く。かれらには透明な水は描けないからである。その証拠に西洋画には日本的な鯉の図はない。池の中に鯉が泳いでいる図が中国や日本にはどこにでもあるのに対し、西洋には存在しないのである。そこには、水についての西洋的イメージ論が介在しているのだ。また同じ理由で鯉の滝のぼりの図も西洋ではありえない。(P179)

 東洋で光を反射するのは死水、停止した水、つまり鏡と考えられた。止まっているから物を反射することができるのだ。基準を「水準」ともいうのは、止まった状態の水ということである。つまりゼロの状態である。日本の文学には池の面に映った月、という表現が出てくるが、しかし、池に映った月の絵は日本にはなかなかない。まして、水面が鏡のようになっている絵で古いものは見当たらない。水面が鏡のように反射する光景は「死水」なのである。

 対照的に、西洋では水の絵は全部鏡として描かれている。すべての光を反射するわけだから、水の表面にも景色が描かれていることになる。印象派の絵画でも水面は反射している。モネの睡蓮の絵も、はっきりとしていないが、水面に景色が反射して映っている。水に対する空間的認識の仕方、理解の仕方が根本的に違い、それが絵に現れているのだ。(P183)

 

 

 

風の本棚

セスは語る


1999.7.18

 

■ジェーン・ロバーツ著 ロバート・F・バッツ記録

 「セスは語る/魂が永遠であるということ」

 ナチュラルスピリット 1999.6.24

 かつて人間として生まれたこともあるセスという存在が、ジェーン・ロバーツを通して語り、それをロバート・F・バッツが記録する。その記録が本書です。

 副題にあるように、テーマはまさに「魂が永遠であるということ」。

 我々人間は、今肉体をもってこうして生まれているのだけれど、そうした「現実」(だと思っていること)のなかで生きている人間は、実は多次元的に存在している永遠の存在なのだということ。しかも、通常とらえられているような輪廻転生のように過去ー現在ー未来へと転生していく時間軸のイメージにおいて永遠だというのではなく、過去ー現在ー未来という時間は本来なく、自分という存在は、こうして地球次元のものもふくめて、まさに多次元的に存在しているのだということ。そのテーマが、邦訳でも750ページほどに渡って語り続けられます。

 こうしたセスのシリーズには、1970年の「セス・マテリアル」にはじまり、1972年の本書(記録は1970〜1971年)をはじめ数多く刊行されているようですが、とくに本書は有名で、やっと遅蒔きながら日本語訳がでたという感じでしょうか。ちなみに、ぼくの手元にも本書の英語版があったはずです。(もちろん読んでなくてツンドクでしたが(^^;)見当たらなくなっています)

 内容的にはとても充実していて、本書の紹介(帯や扉など)でも、数々の賛辞が連ねられてあったりしますけど、たしかにこうした内容がすでに1972年には刊行されていたというのはけっこうな驚きでもあったりします。

 シュタイナーの精神科学とは、視点が必ずしも重ならないところはありますけど、相互補完的に読むことは可能ではないかと思います。むしろ、今生きている人間学の立場から、きちんと精神科学的に認識しながら、さらに多次元存在としての人間の自由の可能性についてそれをさらにサポートしたものとして本書をとらえるというのが、有効なのではないでしょうか。

 本書は必ずしも読みやすいとはいえない内容を数多くふくんでいるものの、本書を読むことで、人間が本来いかに自由なのか、そしてすべてを人間は自分で選択して現実をつくりあげているのか、ということを実感できるということがいえると思います。

 もちろん、自分で選択するというときの自分というのを、今の自分の意識している自分だけにとらえるということはできず、多次元的に存在している意識のうちのほんの一部分が今の意識としての自分であって、人間は今この意識における自分だけが自分だと思い込んでしまうことで、自分をかぎりなく限界づけているのだといえます。

 「世界劇場」という考え方がありますが、まさに人間はこの世界という劇場の登場人物として出演しながら、自分ですべての現実を創り上げているのだといえます。

 そういう「世界劇場」というとらえ方から、過去ー現在ー未来に同時存在している数多くの役者としての自分、そしてそれらの「劇場」の外にいる自分・・・というように、自分の多次元存在としての可能性に思いを馳せてみてはいかがでしょう。安易なチャネリングものとはちょっと違うクオリティのセスの語りを楽しんでみてください。

 本書は、2900円ですけど、このクオリティと分量からするとかなりお得なのではないでしょうか。

 

 

 

風の本棚

浅野信「アカシックメッセージ」


1999.7.27

 

■浅野信

 「アカシックメッセージ

  アカシックリーディング3/新しい時代を生きるために」

 (たま出版/1999.7.15発行)

 今回の浅野信さんの著書は、「ハルマゲドンを超えてーリーディングで読む21世紀」(ビジネス社)「アカシックリーディング1998-2000」(たま出版)に続いて3冊目。

 アカシックリーディングというと、なにかすごい内容が衝撃的に盛り込まれているようなそんなことを思ってしまうのですが、今回のものをふくめて、どれもきわめて平易に、そして静かに語られ、だれでもが自分の内なる声に平静に耳を傾けるならばきこえてくるであろうことが語られているという感じです。とくに今回の3冊目は、日々生きていくためにはだれにとっても大切で具体的な問題についてのメッセージになっています。テーマは、次の7つなのですけど、それぞれのメッセージが少しも奇をてらわない、しかもだれにとっても大切なこととして受け止めることができるようなかたちで語られています。

1 新しい時代を生きるすべての方々へ

  新しい時代を生きる知恵

2 新しい時代を生きる若い方々へ(まだ社会に出ていない方々へ)

  使命の発見、生き甲斐の創造

3 新しい時代を作る若い方々へ(まだ社会に出て間もない方々へ)

  仕事、恋愛、結婚、そして新しい自分の発見

4 職業人、民間のサラリーマンの方々へ

  仕事を通じてなすべきこと

5 子供をお持ちの方々へ

  父親として、母親として

6 ハンディキャップをお持ちの方々へ

  身体障害、病気を超えて

7 高齢者の方々へ

  老いを超えて

 今はまさに世紀末、しかもあのノストラダムスの1999年7の月(^^;)。ぼくにとっては、「恐怖の仕事が雨霰と降ってくる」月になってしまっていますけど(^^;)、本書の基本的なメッセージは、今この時代にあって、素晴らしい時代となるであろう新しい時代を迎えるにあたって今わたしたちのそれぞれが心がけなければならないこと、そして悲観的にならずに取り組まなければならないこと、だれでもがみずからの問いかけてみることでみずからが答えていけるようなことを実際に行っていくこと、そうしたことを確認していくことの大切さについてのものだと思います。

 確かに、現代はかなり悲観的様相を呈しているところはたしかにあるのですけど、別の視点から見てみるならば、ひとりひとりが自分で考えていけるだけのさまざまな示唆があらゆるところにあるという時代でもあるように思います。そしてただ必要なのは、自分の目の梁を取り除くことだけ。そして、すべての人の目を開かせるために、あらゆることが起こっているのだということがわかるように思います。

 今、夜明け鶏の声が響き渡っています。もはやその声を聴かないふりをすることができなくなるまでの大きさで。そのことを声を荒げて叫ぶのではなく、静かに語りあえるようでありたい。そういう「世紀末」であればいいなと思っていますが、本書はそういう世紀末のための恰好のテキストかもしれません。

 最後に少し本書から引用紹介をさせていただきます。 

 眠たかった人ほどたくさんの目覚ましが3つも4つも同時にけたたましく鳴るかもしれません。起きるためです。

 奥深い感覚を呼び覚まし、魂の目が覚めて、その感覚が甦ります。あなた自身の前世の記憶も戻ってきて、「ああ、そうだった。昨日はこんな一日だった。どうも7時間眠っていていろんな夢を見ていた。ようやく眠りから覚めた。一日というサイクルを生きよう」そんな思いがあなたの中に甦ろうとしている時なのです。

 世紀末のお手入れ現象は、あなたを長い眠りから呼び覚ますいろんな事柄が起きる時です。あなたの意識を刺激し、啓発を与えることが起きてきています。この1万2千年間ほどは、ずっと眠りながら暮らしていた文明期でした。太古の記憶や感覚を回復し、それが生きる知恵をあなたの中から甦らせます。新しい時代はそれでもって到来するのです。新しい時代に意味を与える。それはあなたの価値観を変容させるべく、様々な記憶と感覚をあなたの中から呼び起こさせることによってです。

 新しい時代において、実際にどのような変化が日々の生活に訪れるのでしょう。まずすべてがみずみずしくなり、新鮮な印象を起こさせます。本当に目が覚めたという感じで、今まで眠りながら生きていたという感覚があなたの中で働き始めます。本当に生きているという生命の実感を感じられるようになります。何がどう変わったわけではないのだけれど、「何か新鮮だ」、また「ありがたい」、そして今までははっきりしなかったものがどういうものか、いろいろ分かってしまう。何故これが巡ってきてやらなければならないのか、意味と価値も自然と分かってしまう。状況や出来事の意味も分かり、だから心より受け入れられるようになれた。意図もわかるので鮮やかに対処もでき、その結果問題も解決し、人間関係も自ずと正されてくる。使命ということに惹かれ。自分を生き始め、生かせるようになってきた。自分の傾向や特色も良く分かるようになれた。そして生かせるようになって、楽しく、何よりうんと楽になってきた。ありのままの状況や事態や自分自身を見つめる勇気と、それを受け止められる器がたしかに形成されてきている。いろいろとそういったありがたい感覚や思いが、また認識も、あなたの中に芽生え始めてきます。(P21-23)

 

 

 

風の本棚

鷲田清一「『聴く』ことの力/臨床哲学試論」


1999.8.8

 

■鷲田清一「『聴く』ことの力/臨床哲学試論」

 (TBSブリタニカ/1999.7.2発行)

 <聴く>ことの哲学的研究ではなく、<聴く>こととしての臨床哲学は(…)なによりも他のひとを知りたい、他のひとに触れたい、なにかを伝えあえたいという、静かではあるがやみがたい思いにつき動かされているはずである。そういう交通の場所を離れて臨床哲学はありえないだろう。話す/聴くというだれかとの関係を離れて、臨床哲学はありえないだろう。臨床哲学が、もちろん書物にも深くなじみながらも、まずはある他人の前に立つこと、社会のある場所に身を置いてみることから開始されるというのは、きっとそういうことである。(P268)

 まず最初に「あとがき」からの引用で始めた。本書では、「<聴く>こととしての臨床哲学」が語られている。「哲学」が「臨床」と結びつけられて語られるということでいえば、中村雄二郎の「臨床の知」が浮かぶが、本書ではそれが「聴く」ということを積極的にとらえることで他者という存在への回路を開くものとなっているように思う。

 ぼくにとっても「聴く」ということは、ずっと重要なテーマで、それがこうして「臨床哲学」として提示されているのを知り、書店で本書を手に取ったときも、とてもうれしい驚きを感じた。一気に読み通そうとも思ったのだけれど、やはり自分にとっても重要なテーマであるだけに毎日少しずつ著者の語りに耳をすませるような感じで読んだ。

 耳をすますというテーマは、ミヒャエル・エンデの「モモ」にもある。モモは何も語らずに、人の話すのを聴くだけ。それなのに、モモに話をきいてもらった人は、それで癒される。いわば、モモは語らぬ哲学者。まさに「<聴く>こととしての臨床哲学」を実践しているといえる。 

わたしがここで考えてみたいこと、それがこの<聴く>という行為であり、そしてその力である。語る、諭すという、他者にはたらきかける行為ではなく、論じる、主張するという、他者を前にしての自己表出の行為でもなく、<聴く>という、他者のことばを受けとる行為、受けとめる行為のもつ意味である。(P11)

 この「<聴く>という、他者のことばを受けとる行為、受けとめる行為」によって、真に他者と関わる可能性がひらかれるのではないか。ケアやホスピス、ホスピタリティの深みへと向かえるのではないか。著者の「聴く」ことをめぐって綴られていく言葉とともにそんなことを考え続けていた。

 それは、「他者とは何か」「他者と関わるということはどういうことか」という問いでもあるのだけれど、それは同時に「私とは何か」「私であるということはどういうことか」という問いでもあるように思う。

 さて、本書からは少し外れるけれど、シュタイナーの「カルマの開示」の第10講に、「心理療法」はすべて「愛を注ぎ込む」ことが必要であるということが述べられている。人間の魂は、愛で織りなされていると同時に、「不純なる愛」としてのルシファーの力でも織りなされていて、それゆえに人の魂は病に陥ってしまうのだけれど、その病に対して「本来の愛」を注ぎ込まなければならない、「治療手段は結局、愛に還元されなければな」らないのだという。

 その場合、患者に対して治療師は何を行うのでしょうか。(…)治療師のエーテル体が、患者と特定の関係を結ぶことによって、治療対象に対して一種の対極をかたちづくるのです。(…)

私たちがみずからの中に生じさせるこの経過は、自分にとってのみ意味のあるものではありません。相手の中に、その経過に対する対極を生じさせなければならないのですが、その対極が有効に作用するかどうかは、治療師と患者とが何らかの意味で協力しあえるかどうかにかかっています。相手の中にそのような対極的な経過を生じさせるということは、愛の力を犠牲に供することに他なりません。それはひとつの愛の行為なのです。何らかの形に変化した愛の力、これこそが心理療法における本来の有効手段なのです。

 「聴く」という力が「本来の愛」を注ぎ込むことであること。その可能性を探るということは、それがそのまま「私であること」を探るという可能性でもある。そしてそれが社会における「共同」の可能性にもつながる。そんなことを考えながら、本書を読み進めた。

 この地上に生まれてくるということは、私が私であるということを育てるためだともいえるのだけれど、それは身体性をもって他者と関わるということを通じてのものである。「聴く」ということによってひらかれてゆく他者と共有する時空の可能性。本書は、まさに現代のような不毛な砂漠のような「愛」に囲まれたなかで「聴く」というかたちで注ぎ込まれる「愛の力」について考えていくための恰好のガイドともなってくれるような「試論」としてとても重要なエポックとなっていると思う。

 

 

 

風の本棚

シュタイナー「完全版/霊学の観点からの子どもの教育」


1999.8.10

 

■ルドルフ・シュタイナー

 「完全版[講演+論文]霊学の観点からの子どもの教育」

 (松浦賢訳/イザラ書房/1999.7.30発行)

 この「霊学の観点からの子どもの教育」はすでに同じイザラ書房から1986年に高橋巌訳ででているのですけど、それはここでいう「論文版」(1907年に雑誌「ルシファー・グノーシス」に発表)で、今回の松浦賢訳ではそのもとともなっている1906年10月1日に行われた講演版が併せて収録されています。

 本書には、高橋巌訳のものにシュタイナーの「教育のためのお祈り」が収録されているように、「子どものためのお祈りの言葉」も収録されています。重なっているところもありますが、今回訳された「お祈り」の最初には訳者による「お祈りの言葉の基礎となっている宗教的な認識」についての解説などもあって、その意味がよくわかるようになっています。 

 子どものためのお祈りの言葉の基礎になっている宗教的な認識は、大きくわけて、二つに要約することができます。

 第一は、「自然」に関する認識です。神々の霊的な力は、自然のなかにあまねく浸透しています。天体や石や植物や動物と向かいあうとき、人間は、そこに霊的な力の現れを見て取ります。霊的に観察するとき、人間が目にする自然界の存在は、すべて神的な力の現れだということがわかります。そして自己の内面に目を向けるとき、人間は、外なる自然のなかに浸透している神的な霊性が、自分自身の魂のなかでも活動しているっことに気づきます。自然と人間には、それぞれ同じみなもとから発する普遍的な霊性が働いています。自分の内と外に、同じ宇宙の霊的な力の作用を見て取ること、これが第一の宗教的な認識です。

 そして、ここに第二の「人間」に関する認識が加わります。人間という存在を霊学的に観察していくと、宇宙の霊的な力は、人間の魂だけではなく、その肉体のなかにまで、浸透していることがわかります。宇宙的な力は、頭のてっぺんから足の先にいたるまで、人間の体全体を貫き、その形態を生じさせています。人間が手や足を動かすときには、神的な力がいっしょになって動きます。目に見える人間の姿は、そのまま神の霊性の現れなのです。自分という人間も、自分が目にする他者も、すべては神的な力が顕現したものです。ここに、自分も他者も、神的な力の現れであり、人間一人ひとりがとうとい、かけがえのない存在なのだ、という認識が生まれます。

 人間にとってもっとも大切なのは、このような二つの宗教的な認識に基づいて、自分内と外にあまねく作用する宇宙的な霊性を感じ取り、この霊的な力に感謝しながら生きることです。(P159-160)

 この「お祈り」についての解説でもわかりますが、訳者の松浦賢は、「霊学的認識」ということをとても重視しています。「はじめに」でも、次のように述べられています。

 その霊学的な基盤を知らないまま、シュタイナー教育を実践することは不可能です。シュタイナー教育を学ぼうとする人には、個々の具体的な実践方法を覚え込むことよりも、まず、霊学的な考え方を身につけることが求められるのです。

 本書に収められている「霊学の観点からの子どもの教育」は講演版、論文版のどちらもそれぞれ味わいがあり、しかも比較的平易なのでシュタイナーの教育に関する基本的な観点を見ていくためには恰好のものなのではないかと思いますし、本書には、松浦による「シュタイナー教育の基本事項について」というとても充実した「解説」もついています。この「解説」はとてもすぐれたものになっていて、先日でた「シュタイナー入門」よりも、認識に基づいた入門という意味では、このほうが「シュタイナー入門」たりえているのではないかと思いました。この「解説」をHPにそのまま収めて、「シュタイナー入門」とでも題を書き、「とくに教育に関心のあるかたはまずこれをごらんください」とでもしておきたいとさえ思いました(もちろんしませんけど(^^;)。

 本書を読み始めた最初には、すでに訳がでているのだから、別のものを訳してくれればいいのに、などと思ったりもしてましたが(^^;、なぜ松浦賢がこういう訳書を出したかったのかがわかった気がしました。

 さて、最後に、論文版のほうの最後の箇所から、現代人にとって霊学がいかに重要かというところを引用紹介させていただくことにしたいと思います。 

 この論文では、霊学的な意味における教育について、いくつかの観点を提示することしかできませんでしたが、それでも、「霊学的な考え方が、教育に関して、どのような文化的な課題をはたさなくてはならないか」ということは、多少なりとも示唆することができたはずです。霊学的な考え方が、この課題をはたすことができるようになるためには、霊学的な考え方に対する意識がますます広い範囲に拡大していく必要があります。そしてそのためには、必然的に二つの事柄が求められます。その第一は、人びとが霊学に対する偏見を捨てることです。実際に霊学と関わりあえば、「霊学は、現在多くの人びとが考えているような空想の産物ではない」ということが、はっきりと感じられるようになります。私はここで、霊学を空想の産物と見なす人びとを非難するつもりはありません。なぜなら現代という時代が教養として提供するものはすべて、最初のうちは、人びとに「霊学に関わる人間は空想家や夢想家である」という考えを抱かせることになるからです。人びとが霊学の表面的な部分だけを見ている限り、霊学に対してこれ以外の判断を下すことは不可能です。というのも、霊学という形を取って現れるアントロポゾフィー(人智学)と、現代の教養において健全な人生観のための基盤として教えられる事柄は、一見、完全に矛盾しているように思われるからです。人びとが、より深い観察を行うことによってはじめて、「現代のものの考え方は、霊学的な基盤がなかったら、どれほど深い矛盾に満ちたものとならなくてはならないか」ということとや、「現代のものの考え方は、このような霊学的な基盤を、自分自身のなかから呼び出す。現代のものの考え方は、霊学的な基盤をもたないと、今後存在することが困難になる」ということが明かとなるのです。そして第二に求められるのは、霊学そのものが健全な発展を遂げることです。アントロポゾフィー(人智学)のさまざまなグループにおいて、「重要なのは、霊学が教える内容を、もっとも広い範囲において理論をこねまわすことだけが重要なのではない」という認識がいたるところに浸透するとき、人生も霊学を理解し、霊学に対してみずからを開いてくれるのです。さもないと、人びとはいつまでもアントロポゾフィー(人智学)を、風変わりな夢想家たちによって構成された、宗教的な異端者の集まりと見なし続けるでしょう。しかしアントロポゾフィー(人智学)が実際に役に立つ、霊的な仕事を成し遂げるなら、人びとは霊学の運動に対して理解に満ちた同意を与え続けてくれることでしょう。(P98-99)

 


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