2003

 

宮台真司『絶望から出発しよう』


2003.3.16

        僕が本当に絶望的だと思うのは、当然存在するべき絶望が存在せず、かわりに
        ヌルイ失望のようなものしか存在しないことです。…
        じゃあ、絶望が存在しないという絶望的な状況を変えられるでしょうか。変え
        られると思います。ボタンをかけちがったままここまで来たことが問題だとす
        れば、ボタンをかけ直さなくても何とかなると思うのではなく、ボタンをかけ
        直そうと思えばいいだけです。
        (宮台真司『絶望から出発しよう』
         ウェイツ/That's Japan006/2003.2.15発行)
 
宮台真司の絶望は深い。
その絶望は、社会学者(社会システム論)としてのものである。
その絶望はおそらくだれよりも深く、ヌルさから脱却した説得力をもつ。
そしてその自覚のもとに「ヤルっきゃない」といっている。
「ボタン」としての「システム」を「かけ直そう」としている。
 
宮台真司は社会学者であるがゆえに、
人は「システム」のなかでしか生きられず、
その「外」というのは「夢想」でしかないと思っている。
その「夢想」こそが「絶望が足りない」ということにほかならない。
そしてそれはある意味で、現代に生きるわれわれにとって
必要不可欠な「絶望」であることも確かなのかもしれない。
 
        僕たちはどのように振る舞っても、必ず一定のシステムに無自覚に貢献して
        おり、かつ、そのシステムに無自覚にサポートされています。
        このことをわきまえない輩が、いまだに近代の外に出られると夢想したり、
        システムに汚染されない「無垢な主体」たりうると夢想したりするのが昨今
        です。こういう「絶望が足りない」ヌルイ連中を、早急に取り除くことが、
        一刻も早く必要です。
        僕たちは、近代を徹底する以外にーー近代に内在することを通じて近代が生
        み出し続ける問題に永続的に対処し続ける以外にーー道は一切ありません。
        近代への内在は僕たちに「無垢な主体」であることを許しません。こう言う
        と勇気が挫かれますが、そういう輩は寝てればいい。どうせ「汚れ」ている
        ならヤルっきゃない。
        (P167)
 
しかし、宮台真司は「システム」のなかでの「汚れ」しか
問題にしていないようなところがあるように見える。
つまり、「ボタン」のかけちがえ、は問題にするけれど、
「ボタン」そのものについては、言及されることがない。
つねに「ボタン」はなにがしかかけちがえされていて、
そのかけちがえを「絶望」することで、
そのかけちがえに「永続的に対処し続ける」ことしか
近代にいる我々には「道は一切ありません」ということになる。
 
面白いことに、宮台真司は逆説的に、か、
矛盾をはらみながらも、みずからをそこに投影しているのか、
「隣人愛」を実践した「パウロ」を引合にだしたりもする。
ひょっとしたら、宮台真司は現代に生きる「愛」の「使徒」なのかもしれない。
そしてそのための必要条件が「絶望すること」で、
そこから出発する以外にありえないと確信しているのだろう。
 
「ボタン」のことはわからないが、
そのかけちがえを献身的に「隣人愛」によって「永続的に対処し続ける」
そのことだけは可能であるとおそらく信仰しているのかもしれない。
その点で、宮台真司はまさに「近代」最後の「使徒」たりえているようにも思える。
宮台真司は「愛」の人なのだ。
宮台真司は決して精神科学的であるとはいえないのだけれど、
精神科学的であるためのひとつの条件ではあるのかもしれない。
少なくとも、そうした「絶望」抜きにはどこにも行けないのは確かなのだろうから。
 
ご紹介の最後に、宮台真司の「隣人愛」についての説法をきくことにする。
 
         唯一絶対の神の宗教は、砂漠で誕生した「絶望の宗教」です。人間関係の中、
        つまり「社会」の中で救われるか救われないかということに、関心を寄せませ
        ん。むしろ「社会」の中でのポジション替え程度では、到底救いにならないと
        いう見切りがあるわけですね。
         とりわけキリスト教には人間の愛(エロス)が基本的にエゴイスティックな
        範囲に留まるという見切りがあります。それを含めて、唯一絶対宗教にはロー
        カルな共同体の「中」で幸せになるということは大したことではないとの見切
        りが生まれるわけです。
         象徴的なのは、キリスト教の「隣人愛」の教義です。日本人が誤解しがちな
        のとは違って、これは「親を捨てよ、故郷を捨てよ」という内容を持ちます。
        ネイバーフッドを愛するとかファミリーを愛するのは、単なる自然感情でエゴ
        イズムにすぎないというわけです。
         そうではなく、自分に石つぶてを投げる人間、自分をつき転ばす人間、自分
        を殺そうとする人間をこそ、愛しなさい、というが「隣人愛」です。それは確
        かにあり得ないことのように見えます。でも人類全体に関わる罪を購って十字
        架にかかったイエスを信じるというなら、あり得ない「隣人愛」を実践するこ
        とでそれを証せというわけです。
         福音書に散りばめられたイエスの言葉から「隣人愛」という教義をはっきり
        取り出したのは、パウロです。彼はそれを異境の地ローマにおける布教戦略に
        使ったんですね。
        …
         パウロの布教戦略がなかったら、ユダヤ教の一分派にすぎないキリスト教が、
        今に残ることなどあり得なかったでしょう。パウロの布教戦略はそれほどすご
        いものです。そしてこの布教戦略は、異教の地における絶望の中からしか出て
        こなかったはずのものです。
         日本の宗教者は馬鹿だから、話せばわかるとか、教義の良さを言えばわかる
        とか、考えてしまいます。ところが、そう言い回っている宗教者を含めて、世
        の中にはエゴイストしかいない、と絶望している人たちが世間にはたくさんい
        ます。そういう絶望した人たちに、ありえないほど献身的な振る舞いを通じて、
        絶望を越える光を見せようとしたわけです。
        (P162-164)
 
 

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