2003

 

大塚英志『キャラクター小説の作り方』


2003.3.2

■大塚英志『キャラクター小説の作り方』
 (講談社現代新書1646/2003.2.20発行)
 
ここで「キャラクター小説」といわれているのは、
「スニーカー文庫」や「電撃文庫」、「コバルト文庫」といった
「アニメコミックふうのカバーで刊行される文庫本の小説」のこと。
そうした小説を書こうとする人への入門書として書かれた、といいながら、
この「実用書」は、きわめて重いテーマを扱っている。
 
しかも、ひょっとしたら、ここに書かれていることは、
いわばまんが世代というか、ぼくのようにまんがを読み、
テレビでアニメを見てきた世代にしかピンときにくいところがあるのかもしれない。
ここには、表現における記号とリアルの問題が、これからの表現姿勢の問題も含め、
一見軽い書き方にもかかわらず、きわめて真摯に論じられているように思える。
 
案の定、著者の大塚英志はぼくと同じ年に生まれていて、同じ時代の変化のなかで、
おそらくかなり似たプロセスで意識形成をしてきたところがあるのではないだろうか。
つまり、「現実」への単純な見方はもはやできなくなっていて、
「表現」の問題も、見たままを書きなさい、というようなことではないことが、
いわば血肉として実感されざるをえなくなっているということでもある。
 
        ぼくはキャラクター小説化のノウハウを語りながら同時に近代文学史を一度
        リセットしてやり直してしまえ、と主張しているのです。それは明治後半に
        この国の「文学」が言文一致体や写生文や自然主義を必要としたように、ぼ
        くがキャラクター小説としか今のところ名付けようのない形式の中に新しい
        現実に対応する小説の作法がある気がするからでもあります。
        今、ぼくたちの前にある普通の「文学」は、明治の人々が彼らの前に現われ
        た「近代」という新しい「現実」に対処するために作り上げたことばや小説
        作法が基調となっています。明治期に人々の「現実」が決定的に変容したよ
        うに、たった今、ぼくたちの「現実」が大きな変容の過程にあることについ
        ては、それはそれで一冊の本が必要になるのですが、その「現実の更新期」
        に小説はいかにあり得るかを考えることは、文芸誌的「文学」の問題という
        よりは、私たちがいかに考え、そして語るか、という問題に行き着きます。
        そういう意味で「実用書」たりたいと思います。(P308-309)
 
本書を読みながら、すぐに思い出されたのは、
入沢康夫の「詩の構造についての覚え書き」(思潮社)だった。
それは、「詩は表現ではない」ということ、
「どんな作品においても<詩人>と<発話者>は別である」ということをめぐり、
それまで素朴に信じられてきた詩人=発話者かつその表現が詩である、
ということへの異議申立になっているのだが、
その名著がつい先日復刊されたということは、
現代のような「現実」への素朴な信仰が薄れているなかで、
その意味がようやく再認識されはじめているということになるのかもしれない。
 
表現はどうしても「記号」でしかありえないのだけれど、
おそらくそうした「記号」でしかありえないことを自覚することによってしか
「現実」へと向かうことができないのではないだろうか。
そういう意味で、表現を短絡的に「私」の表現であるように
きわめて素朴にとらえてしまうことによって、
むしろ「現実」へと向かいえなくなってしまうのではないか。
 
著者は、村上春樹の「スプートニクの恋人」にでてくる
「いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです」というところについて
このように述べている。
        
        この「いいですか、人が撃たれたら血は流れるものなんです」という答えは、
        ぼくが『サイコ』で何故、死体を描いたのかという問いの答えでもあります。
        そしてそれがサブカルチャーの作り手としてのペキンパーとぼくが共有する
        困難さでもあります。いくら血を流し死体を出しても、ぼくたちが作ってい
        るのが映画やまんがである以上、それは「記号」であることをまぬがれ得な
        いのです。(P135)
 
さらに、ミステリー小説に関連して次のようにも述べている。
 
        ミステリー小説は江戸川乱歩が自己規定したようにリアリズムという近代小
        説のルールの外にある表現です。殺人はわざわざ密室で行なわれ犯人はわざ
        わざ暗号やトリックを残します。つまり人の死は探偵によって解かれるパズ
        ルゲームでしかないわけです。そういうミステリーのあり方に対する「反動」
        として戦後、社会や人間をよりリアルに描くいわゆる社会はミステリーが登
        場し、さらにそれに対する「反動」として「新本格」が登場しました。清涼
        院流水はその「新本格」の極北に登場した作家で、新本格の人々から見ても
        人物や人の死があまりに「記号」化され過ぎていると受けとめられました。
        けれども極度に記号的な表現をもって彼はむしろ積極的に「現実」と向かい
        合おうとした、とぼくには思えます。(P141-142)
 
おそらく小説や詩、マンガ、映画などのような作品だけではなく、
私たちがふつう自己表現として行なっていることにしても、
現代においてはそうした意識化なしでは、
やっていけなくなってきているのではないかという気がしている。
 
「私」という人格そのものがペルソナであるということとも関係して、
しかもそのペルソナである「私」がここでこうして悲しみ、苦しみ、喜び、
血を流す・・・、そういう「現実」をどうとらえるか、
またそれをどのように認識し、「表現」していくか。
それはまさに神秘学のテーマでもあるのである。
 

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る