2003

 

いしいしんじ『麦ふみクーツェ』


2003.2.22

■いしいしんじ『麦ふみクーツェ』
 (理論社/2002.6発行)
 
いしいしんじ。
その名前を知っている人は少ないかもしれない。
ぼくも3日前までまったくきいたこともなかった。
 
ときがめぐってくるように、
無性に「お話」が読みたくなるときがある。
それまで読んだことのないような「お話」。
でもそのほとんどはどこかそれまで読んだことのあるものが
編集されたような「お話」であることが多い。
そういうのでないような「お話」があれば。
しかもそれまでまったく知らなかったような
書き手・語り手であればいうことはない。
音楽についてもそんなことを思うときがある。
 
また、どんなに面白い話でも、
言葉のリズム感とでもいうか、
そういうものに乗れなくなってしまうと、
途中でぼくのなかでなにかがいやがってるのがわかったりもする。
村上春樹の小説をずっと読み続けているのは、
たぶんすでにお話の面白さよりも
その言葉のリズム感のほうに乗りたいからかもしれない。
でもそういう書き手はめったにいない。
ストーリーはメロディで、リズムがまさに言葉のリズム。
 
いしいしんじの『麦ふみクーツェ』に出会ったのは
ほんのぐうぜんという必然。
「理論社」という売れてそうもない出版社からでていて
そんなに売れてそうもない装丁なのだけれど
でもぼくのなかで「麦ふみ」ってなんだろう、
「クーツェ」ってなんだろうという問いが生まれた。
手にとって立ち読みをはじめたところ、
ぼくのなかで、新しいリズムが打たれ始めた。
このリズムはいったいなんだろう。
ずっと感じていたいこのリズム。
 
        とん、たたん、とん
 
麦ふみクーツェなる、なぞの存在が踏むリズム。
そしてそのリズムの変装のようにも感じられてくる文章のリズム。
これは、イケルかもしれない。
そう思って読み始めたのが、ひさしぶりの大発見になった。
しかも著者もどこかで書いていたように、読み進むうちに、
これは音楽の話でもあることがわかる。
 
        「麦ふみクーツェ」は、へんてこな大勢のひとびとが
        音楽を通じつながっていくはなしです。
 
帯を見ると「第18回坪田譲治文学賞受賞作」とある。
ひょっとしてこれは児童文学でもあるのかもしれないが、
このお話は児童文学でイメージされるような教育的なお話ではない。
いやむしろかつての同様のような残酷さや悲しさ、こわさなどを
ちゃんともっているにもかかわらず、
小説として「売る」ためにあえて書かれているようにしかみえないような
残虐さやエロティックさを強調する描写のような
不自然さからは自由であることができている。
 
たとえば、歌を忘れたかなりやが後ろの山に棄てられるような、
赤いくつはいてた女の子が異人さんに連れられていってしまうような、
そんなつらくて悲しくてこわいけれど、そこから真実が歌い出される話。
つらくて悲しくてこわいだけじゃなく、もちろんそれが目的でもなく、
読んだ後に、いい音楽をきいたあとのような満ち足りた感情が残るような話。
 
あえてストーリーをご紹介することは避けて、
こんな書き手がいたんだ!という驚きとともに
これまで書かれた作品も、これから書かれるであろう作品も
みんな読みたくなってしまう、そんな「いしいしんじ」を
ご紹介したいと思った次第。
今手元には、これまでに書かれた「ぶらんこ乗り」(理論社)、
「トリツカレ男」(ビリケン出版)というのもある。
これらも、やはりマイナーな出版社で、
そんなに売れてそうもないけれど、面白そうだ。
 
宮崎駿のアニメのように、
鈴木俊夫という名プロデューサーのもと、いい作品を売る!、
売って、また新しいすぐれた作品をつくる!というのも
とても大事なことだろうし、そうでないと続いていかないのだけれど、
そういうのではどうしても抜け落ちてくるいろんなものが、
こういうマイナーさのなかでフォローされているところが
たしかにあるんじゃないかという気がしている。
 
 

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