2003

 

池内了『科学を読む愉しみ』


2003.2.16

■池内了『科学を読む愉しみ/現代科学を知るためのブックガイド』
 (洋泉社 新書y078/2003年1月22日発行)
 
ものごころ付いたころから、
「なぜだろう」と思ったらそれが気になって仕方がなかった。
その「なぜだろう」に対して、「科学」はひとつの希望でもあった。
小学校の頃、「科学」と「学習」という子供向けの月刊誌があって、
そのどちらも「なぜだろう」に対する好奇心を満足させてくれたりもした。
(でもなぜ「科学」と「学習」というふうに分かれていたのだろう。
たぶん、理科系ー文化系という二分法からきていたのではないかと思う。)
「子供の科学」というのも愛読書だったりした。
 
中学生になった頃、「ブルーバックス」という
科学的なものをテーマにした新書(講談社)を知り、
それを読みふけるようになったりもし、
よ〜し、ぼくは科学者になるんだ、とか妄想したりすることもあった。
そのためもあって高校は理数科というちょっと特殊なところに進んだ。
が、それが逆のアンチを導き出すきっかけになったのかもしれない。
ぼく自身の「なぜだろう」というのは変わらないのだけれど、
それに対する方法論というか認識の仕方がどうも思っていたのとは違う、
ということに気づき始めていたのかもしれない。
それで、相変わらずの科学少年のまま、ぼくのなかで何かが分裂し始めた。
それでちょっとばかし哲学的な方向に興味が向かうようになる。
 
そのなかでやがて批判的合理主義と批判理論の対決のことなども知るようになり、
最初はいまだ引きずっていた科学少年の魂ゆえにポパーなどが好きで、
社会、社会とばかりいうハーバーマスなどは嫌いだったのだけれど、
その議論がなぜなされたのかその意義がわかる反面、
そのうちどちらもあまり好きになれなくなったりもした。
ぼくのなかの科学少年の魂は宙に浮き、もちろん社会派になどなるはずもなく、
ぼくの魂は行き場を失い、「なぜだろう」をどこに向けていいかわからなくなった。
というか、ぼくのなかの「懐疑派」が肥大していったのだともいえる。
 
さて、とはいえ、ぼくはここでご紹介するような池内了さんのようなかたちで
『科学を読む愉しみ』を教えてくれる人たちにはとても親しみを持っている。
そしておそらくその元にあるのは寺田寅彦への親近感であるように思っている。
そういえば、寺田寅彦を読み始めた頃に、それと並行して、
いわゆる科学(主義)への懐疑が同時に大きくなっていったのである。
おそらくそれは科学(主義)的な方向が
あまりにも味気なく思え始めたからなのかもしれない。
 
この『科学を読む愉しみ』で紹介されている「現代科学を知るためのブック」は
決して味気ないものではなく、「科学」に限らず「現代」を知るために、
物事をいろんな角度から見るための切り口を提供してくれて
ときにはこうしたものを読んでみることは
いまだにぼくのなかにある科学少年の魂を少しだけ安心させてくれもする。
 
ところで、本書を読み進めながら常に念頭にあったのは、
シュタイナーが『神秘学概論』の最初の章「神秘学の性格」で述べていた
自然科学と神秘学の関係についてであった。
なぜ自然科学がそれだけではどうもぼくの魂を満たしてくれないのかが
その記述で明らかになるところがある。
つまり、ぼくはただ「科学少年」だったのではなく、
「なぜだろう」が(自然)科学に限らないところで大事なことだったのである。
たとえば、「私は誰だ」と問うことは自然科学ではあまりに稚拙になってしまう。
ぼくの肉体をいくら虱潰しに調べてもぼくは出てこないだろうから。
もちろん、脳のなかにぼくがいるわけでもない。
 
そのあたりを「神秘学の性格」のなかかから少し。
『科学を読む愉しみ』を紹介するのとちょっと矛盾しそうだけれど、
それを読むときにはそうした視点をやはり持っていたほうが
「魂」にとってもバランスがとれるのではないかという気がするので。
 
        人間の思考は、この宇宙内容に対しても、自然科学が対象とする宇宙内容に
        対するときと同じ態度で、研究活動を行なうことができる。神秘学は、自然
        科学の研究方式や研究態度を、感覚的事実の関連や経過から切り離して、し
        かもその思考の特質を確保し続け、自然科学が感覚的なものについて語ろう
        とするときと同じ態度で、非感覚的なものについて語ろうとする。自然科学
        の研究方法と思考方式とが、感覚的なものの中に立ちどまっている一方で、
        神秘学は自然界の研究で身につけた方法を、非感覚的な領域に適用しようと
        する。非感覚的な宇宙内容について、自然研究者が感覚的な世界について語
        る通りの仕方で、語ろうとする。神秘学は、自然科学的な態度の内部に働く
        魂の在り方を、つまり科学研究にふさわしい魂の在り方を保っている。だか
        らこそ、「学」と呼びうるのである。
        人間生活における自然科学の意味は、決して自然の知識を獲得するだけでは
        汲みつくせない。知識だけなら、結局は、人間の魂以外の分野に留まってい
        るが、科学研究においては、人間の魂そのものが、認識の経過の中に生きて
        いるからである。魂は自然科学研究において、みずからを体験する。魂がこ
        の認識活動において、生命に充ちた仕方で獲得するのは、自然そのものにつ
        いての知識なのではなく、自然認識に際して経験する自己発展の可能性なの
        である。神秘学は、単なる自然を越えた領域で、この自己発展を一層可能に
        するために働く。神秘学者は、自然科学の価値を見誤らない。むしろ自然科
        学者以上にその価値を認め、自然科学の中に働く思考方式の厳しさなしには、
        決して科学的な基礎づけをなしえないことをよく理解している。この厳しさ
        を、自然科学的な思考の本質に深く関わることによって、獲得できたとき、
        その厳しさを、魂の力を通して、ほかの諸領域にも生かすことができるよう
        になる。
        (シュタイナー『神秘学概論』ちくま文庫/P40-41)
 
 

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