2003

 

神谷美恵子日記


2003.1.12

■神谷美恵子日記
 (角川文庫/平成14年1月25日発行)
 
神谷美恵子の代表的な著作に『生きがいについて』がある。
しかしそのタイトルのために、ぼくの天邪鬼は
それを読むことを敬遠させてきたようである。
 
その天邪鬼はこう言っていた。
「生きがいなんかあるから、それを失うと絶望してしまうのだ。
最初から生きがいなんかなければ、絶望することなんかないのだから。」
 
そういう天邪鬼的なニヒリズムも、ぼくのようなものにしてみれば、
そのおかげできわめて不安定な時代をかろうじて死なずに
なんとか生きてきたというのもあるのだけれど、
結局のところ、その天邪鬼の果てには、やはり、「生きがい」ならずとも、
「自分はなぜここに存在しているのか。世界はなぜあるのか。」
そういう問いかけを避けられはしない。
 
『生きがいについて』の最初にこうある。
 
         平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべること
        さえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとそ
        の目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにい
        る。ああ今日もまた一日を生きていかなければならないのだという考
        えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。
 
では、その「起き出す力」を与えてくれるものはいったい何なのだろうか。
かつてのぼくであれば、さきの天邪鬼的なニヒリズムだったりもしたのだけれど、
その後それはさまざまな問いを持ち続けることでいろんな形をとるようになった。
そうしたなかで重要な示唆を与えてくれたのが、シュタイナーでもあったのだけれど、
ぼくにとって「起き出す力」の源泉になっているのは、
その自然学的な観点なのではないかという気がしている。
つまりは「世界はなんとすばらしいのだろう!」という感歎を
そのビジョンは与えてくれるのである。
石ころひとつとってみても、そこには途方もない叡智が秘められているということ。
つまり、世界は決して無意味なものに満たされてはいない、という確信とでもいうか。
 
おそらくそれさえ見失わないでいられたら、
ぼくはこれからもなんとか「起き出す力」を持てるようにも思っている。
しかしただただ自分の内にうごめいている無明をどうにかしようとしても、
それはむしろそのことでおそろしさをふくらませるだけになるのかもしれない。
自己認識ということは必要でそれを深めていかなければならないのだけれど、
そのトリガーとなるのは、
「自分はなぜここに存在しているのか。世界はなぜあるのか。」
その問いに対して、絶望してしまわないということにあるように思うのだ。
 
さて、岩波文庫になっているマルクス・アウレリウスの『自省録』や
ミッシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』もは神谷美恵子の翻訳で、
それを知ってから、神谷美恵子という人はいったいどういう人なのだろう。
そう思うようにもなっていたのだけれど、なかなかこれという機会もなく、
この文庫を見つけたことでやっとそれが訪れることになった。
そして、この小さな文庫がぼくに刻みつけたものは
思いのほか大きなものとなったように思う。
 
これだけ素晴らしい人が、これほどに思い悩むこと。
いやこれほどの人だからこそ思い悩み続けていたのかもしれない。
自分はほんとうにやりたいこと、やらなければならないことをめぐって…。
この日記にはそれが記録されている。
 
読みながら、ではぼくは今こうして何をしているのだろう、
という自問なしではいられず、これから何年生きるかわからないものの、
それを自分なりに続けていかなければならないのだろうという気がしている。
もちろん神谷美恵子のようなまっすぐな仕方ではなく、
またこのような日記もつけるわけではないけれど、
そして常に天邪鬼的なニヒリズムを漂わせながらではあるかもしれないものの、
ぼくがぼくであるためにしなければならないことをめぐって、
迷い続けてみようと思っている。
 
 

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