2003

 

東浩紀・笠井潔『動物化する世界の中で』


2003.5.24.

■東浩紀・笠井潔
 『動物化する世界の中で』
 ーーー全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評
 (集英社新書0188C/2003.4.22発行)
 
この新書は内容的にはとくに読まなくてもいい類のものだと思うのだけれど、
世代間コミュニケーションの成立しがたさや
その背景にある決定的に欠落している何かについて
考えさせられるところがあるので、ご紹介しておくことにしたい。
(でも、ほんとうに、読むとけっこう疲れる類のやりとりなので、
暇な人以外はあまり読まなくてもいいと思います。
あくまでもメモのつもりで書こうとしているものなので。)
 
笠井潔が1948年生まれなのに対し、東浩紀は1971年生まれ。
笠井潔が60年代の政治体験にこだわり、
その挫折とその克服としての?探偵小説を書いているのに対し、
東浩紀は消費社会を背景にしたオタク体験から
ポストモダニズムを再考しながら
これからの時代を生きる道を模索している?のだといえようか。
 
この本の内容については、説明しづらいところがあるので、
まず、扉での概略説明をご紹介することにする。
 
        1948年生まれの笠井潔と、1971年生まれの東浩紀。親子ほどに年が離れた
        批評家同士の往復書簡は、9・11米国同時多発テロ、および、アフガニスタンへ
        の報復攻撃という異様な状況下で企画された。2002年の2月5日からその年の
        暮れにかけて集英社新書ホームページ上で公開された往復書簡は、連載途中、対立
        の激化のため何度も継続が危ぶまれた。批評の最前線で今、何が起きているのか。
        そして、両氏の対立の真意とは、妥協のない意見交換を通じて、「動物の時代」と
        いう新しい現実に対応する言葉を模索した、知的実践の書。
 
ぼくはちょうど笠井潔と東浩紀とのあいだくらいの「世代」に位置していて、
どちらにもちょっとした違和感を感じながら、この往復書簡を読み進めていった。
 
笠井潔は60年代の体験にこだわり、東浩紀は80年代の体験にこだわりながら、
そのズレがそれぞれの問題意識に反映していき「対立」の様相を示すようになっていった。
ぼくであれば、いわば時代との関わり方が政治的でもオタク的でもないようで、
それが70年代の体験にこだわるということになるのかもしれないが、
幸いなことに、か、不幸なことに、か、
両者のように時代へのアクティブ?な関わり方をもてなかったがゆえに、
かつまた「中央」的では決してない田舎暮らしゆえのお気楽さゆえにか、
もっと別な方面のほうに興味をもって生きてきたようである。
ある意味では、最近になってようやく、
そうしたことにも目を向けてみるようになったということでもある。
 
そうしてみると、笠井潔の言葉からは、なんだか過去向きの
ノスタルジー的な真摯さを持っている印象を受けるのに対し、
東浩紀が、なんだかよくわからないほどの真摯さで、
時代に向き合おうとし、「良い子」ゆえのファナティックな印象を受けてしまう
この往復書簡というのが図らずも示しているのは、
どちらも「ちょっと違うのではないか」ということなのではないかと思ってしまう。
どちらにも決定的な何かが欠落しているというか、
欠落にさえ気づけないような何かがそこにあるのではないかと。
もちろん、たとえば東浩紀が『動物化するポストモダン』などで示唆していることは
それなりに現代の日本社会の状況をえぐり出しているところはあるのだけれど…。
 
ちなみに、「動物化」というのは、東浩紀が
『動物化するポストモダン』(講談社新書1575)で
フランスの哲学者コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』において
人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」の差異として定義していることに示唆を受け
使用するようになった用語だということである。
 
『動物化するポストモダン』からそのあたりのことを引いておくことにする。
 
        「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な欲望を意味す
        る。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏ー満
        足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。
       しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と
        異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。…動物の欲
        求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。…
         したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人
        がそれぞれ欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジェーブが
        「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だった…。
         アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を
        覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現
        在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時
        に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。
        (P126-127)
        
この「動物化」というのは、そこそこ重要な概念かもしれないので、
覚えておくといいかもしれない。
それはあらゆる「消費」の場面で問題になってくる点かもしれない。
ちょっと論点はずれてくるかもしれないが、
たとえば「ワークショップ」なるものの流行にしても、
現代的な消費構造にある種の文化的に見えるなにかを組み込んだ
「動物化」と無縁ではなさそうにも思える。
マニュアル化され「キット」化された
さまざまな「文化」のパッケージへのニーズが背景にあって
それらの多くは準備されることになる。
 
 

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