2003

 

「私」であるための憲法前文


2003.5.8.

■大塚英志 編・著
 「私」であるための憲法前文
 (角川書店/2003.4.25発行)
 
昨年刊行された『私たちが書く憲法前文』の姉妹編。
今回は、十代の投稿者123人による「憲法前文」が集められている。
帯に「詩集のように読んで下さい」とある。
とてもシンプルな言葉が「憲法」の「理念」の原点を
模索しようとしているのがとてもみずみずしい。
 
そういえば、同じく新刊で憲法についての池澤夏樹の著書があるのも見つけた。
どさくさにまぎれて憲法をある方向に向けて改正しようとする動きのある今、
「ことば」で書かれている「憲法」について、
これまでよりもより根源的な意味において
見直してみる必要があるように思われる。
 
しかし、大塚英志という人のエネルギーはどこからくるのだろう。
多くの論客等がほとんど力を失いかけ、そのなかで
わけのわからない集合的な「力」に動かされかねなくなっている今、
こうした意識的な形でエネルギッシュに活動しえていることに驚かざるをえない。
 
本書の最後にある「解説」のタイトルは
 
        他者と関わるための「ことば」を信じることについて
 
とある。
 
        ことばを交わすことを放棄したアメリカの態度や、あるいはそれこそ一切の
        ことばを尽くすことなくアメリカを支持した日本という「国家」の姿を見る
        限り、そして実際に始まった戦争という現実を前にしてしまった今、ぼくた
        ちは「ことば」の無力さを感じ打ちひしがれた気持ちを抱いてしまいがちだ。
        (…)
         何とかならないから力を行使したのだ、というアメリカの論理に対し、し
        かし、にも拘わらず、やはりことばを尽くすという選択はあったはずだとい
        うやり切れない感情をぼくもまた抱いている。だからこそ、ぼくは、私たち
        がアメリカのイラク攻撃をニュース映像で見るしかない状況下で、それでも
        多くの人が秘かに感じているはずの「やはりことばを尽くすべきだった」と
        いう根源的とも言える「ことば」への信頼をこそぼくたちの他者への態度の
        出発点にすべきだと考える。
 
ぼくはけっこうひねた人間なので、「ことばへの信頼」とかいうと、
そんなに素直に肯定できなかったりもするし、
ことばを強制されるということにも危惧を覚えたりもするほうなのだけれど、
それはそれとしながらも、この大塚英志の視点、つまり
 
        ぼくたちが再発見し、そして構築しなければならないのはもっと根源的な
        他者と対話するためのことばの技術であるように思うのだ。
 
ということをやはり見直してみる必要があるように思う。
 
        「公共心」とか「愛国心」ということばがぼくにとって何より問題なのは、
        それが集団に「私」を委ね何も考えないことの代名詞としてしばしば用い
        られるからである。ぼくはそうでない共同体を作っていくために、まず
        「私」であれ、と主張する。
        ・・・
        ぼくが今回「憲法前文」を『「私」であるための憲法前文』と題し、十代
        の投稿でまとめようと思ったのは、彼らが寄せてきてくれた「前文」がま
        さに「私が私であること」を出発点として、その上で他人といかに関わっ
        ていくかという次の問いかけに具体的に踏み出していく過程としてあった
        からだ。それこそがぼくたちが「憲法」という公共のことばに至り得る唯
        一の道だとぼくは考える。
 
まず始めに「公」があったり「愛国」があったり、
はたまた「国益」があったりするのは、やはりうさんくさい。
いきなり「無私」や「我をなくすこと」がでてくることもあるが、
まず「私が私であること」が出発点にある必要がある。
そのことにおいて「ことば」の重要性を見直してみる必要がありそうである。
 
日本ではいたるところに、無意味としかおもえない「標語」が書き連ねられ、
その標語の延長線上にあるかのように、
食器やインテリアにいたるまで、ありがたそうなことばが
つらつらと書かれていることも多いのだけれど、
そうした「ことば」はむしろ「ことば」への鈍感さが
生み出しているものであるように感じることが多い。
 
そういう意味でのひとつの試みとして、
「私が私であること」を出発点とした「憲法前文」というのを
とても興味深く思ったので、ご紹介してみることにした次第。
 
 

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