2003

 

いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』


2003.4.13

■いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』
 (講談社/2003.4.8発行)
 
いしいしんじにしか語ることのできない物語がある。
荒唐無稽だけれどそうでしか語ることのできない真実の前で
それが愛すべき荒唐無稽になってゆく不思議。
 
        だまされることは、だいたいにおいて間抜けだ。ただしかし、だまさ
        れる才覚がひとにないと、この世はかさっかさの、笑いもなにもない、
        どんづまりの世界になってしまう。だまされる才覚のおかげで、自分
        は老女の手紙からさまざまなことをまなび、今年の熊狩りはこれまで
        になく盛りあがった。
        (P319)
 
いしいしんじの物語を読むということは、
「だまされる才覚」を育てるということでもありそうだ。
自分を間抜けにしてしまうという恐れがそこでは次第に消えていく。
 
自分を間抜けだと思えない人は
ともすればそこに深刻さを持ち込んでしまうことになりがちだ。
真剣ではなく深刻。
自分を笑うことができず自分を自分で追い込んでしまう。
 
いしいしんじの紡ぐ物語にはただ幸せがあるのではない。
決定的で否応のない悲しみがあるのだけれど、
その悲しみを決定的なものにしない「光」が射し込んでいる。
それが魅力だといえるのだろう。
そしていしいしんじならではの独特な語りのリズムがあり、
そこには常に情だけに流されないでいる意識の光がある。
 
今度の新作は星の話と手品の話を経糸と緯糸にして織られている。
プラネタリウムではじまるテンペルとタットルというふたごの物語。
そのふたごは、プラネタリウムに捨てられていて、
母親は近くの小川で自殺していた。
そのふたごをプラネタリウムの解説委員の「泣き男」が育てていく。
ひとりは手品師となり、もうひとりは郵便配達員であり星の語り部になる。
 
お話のほうは、読みたいなと思った人に
じっさいに読んで楽しんでいただくとして、
印象にのこったところを少しだけ。
 
        「ほんものを見る、ってのもな、むろん大切なことだよ」
         泣き男はつづけた。
        「でも、それ以上に大切なのは、それがほんものの星かどうかより、
        たったいま誰かが自分のとなりにいて、自分とおなじものを見て喜ん
        でいると、こころから信じられることだ。そんな相手が、この世にい
        てくれるってことだよ」
        (P365)
 
いしいしんじの物語は泣ける。
号泣するというのではもちろんなく、
真っ暗な夜空を眺めながらその星たちの光が
しみ通ってくるように静かに泣けてくる。
 
こんな静かに泣ける話というのはそうざらにあるものではない。
決して「教育的」なところに向かわないで、
しかもこんなに豊かに「だまされる」ことがうれしい話も稀だろう。
 
あまりむやみに本を紹介するのは気が引けるところがあるけれど、
こんなに豊かな物語世界があることは
そのことそのものが世の光であるような気がして、
そっとご紹介しておきたいと思った次第。
 
 

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