河合隼雄『ナバホへの旅』


2002.4.20

 

■河合隼雄『ナバホへの旅・たましいの風景』
   (朝日新聞社/2002.5.1発行)
 
河合隼雄さんは、アメリカの先住民ナバホの
メディスンマン(シャーマン)たちに会いに行く。
(2000年8月16日〜25日)
その対話から逆照射されるようにして見えてくる現代日本の諸問題が
ここにかなり切実なかたちで提示されている。
 
読み終えた後、率直に感じたのは、
これまでの著書以上に、河合隼雄さんは、その逆照射されたものに対して、
ある種のとまどを感じているのではないかということだった。
 
         スウェット・ロッジの体験をして感じたことは、この儀式は「血のつながり」
        を基本として行なわれるものだと、ということである。
         人間は一人で生まれ一人で死んでゆく。しかし、その生涯にわたって、何か
        とつながっていると感じない限り、孤独のために破滅させられてしまうだろう。
        (…)
         この点については逆方向の反応がある。つまり、「文句なしに」つながって
        いることの素晴らしさを感じる人と、その「しがらみ」に反発を覚える人と。
        (…)
         クランなどの考えに従うと、血はつながっていなくとも、お父さん、お母さ
        ん、お姉さん、兄さんと呼ぶことによって、そこに血縁的な親しみを感じる。
        このことは、拡大して考えてゆくと、二人の人間が会ったとき、そこに「文句
        なしに」関係が成立し、その関係の基盤は「一体感」であり、それは意志や思
        考を超えて、体感的に感じられる、ということになる。
         このような人間関係ーー「関係」以前の関係とでも言うべきものーーは、実
        際の「血」のつながりを超えて仲間にまで拡大されてゆく。このような関係を
        もつ能力も、一種の学習の結果であり、子どものときからそのような関係のな
        かで育てられることによって、身につけることができる。
         アメリカ先住民たちの文化圏においては、このことは大切なことであった。
        日本においては、クランとは異なるが、「家」という集団内でこのような人間
        関係の結び方が学習され、それは仲間にまで拡大される、という点も同様であ
        る。そして、このような関係で結ばれる集団の外にいる者は、「赤の他人」と
        いうことになる。
         人と人とのつながりを重視する、この関係は、個人の自由を拘束する傾向を
        もつ。このために、近代の個人主義的な考えに影響された者は、このような関
        係を拒否しようとするが、ふと気がつくと、強い孤独感に襲われてしまって、
        それを逃れる方法としてアルコール依存症などということになる。そこで、か
        つての結びつきを回復する儀式としてのスウェット・ロッジが有効にはたらく
        ことになる。しかし、これが成功するためには、そこに参加する人たちが、血
        のつながり型の関係を体験できる能力をもっていなくてはならない。そのよう
        な前提なしにスウェット・ロッジに入ってみても、そこから大きい効果を期待
        できることは、できないのではなかろうか。
        (P189)
 
「血のつながり型の関係」に持ち込むことで、
「関係」を回復するという方法は、ある種過去への回帰でもあるが、
もはやそうすることはできないのは確かである。
 
そういう回帰によって癒やされていくことはあるだろうが、
その癒やしのためには、集団的に保持されてきている
宗教的な一体感が不可欠のものとなる。
 
そういう一体感を提供しようと、
さまざまな宗教団体が生まれ、
精神世界的なワークショップが開かれ、グッズが売られ、
「癒やされたい」ー「癒やしたい」のマーケットが
さまざまなかたちで拡大してきている。
 
現代人は孤独で疲れているが、
それをある種隔離されたなかで解消しようとすることは
もはや逃避でしかないように思われる。
別に逃避であってもすべてがそれで解決すればいいのだけれど、
解決しないであろう以上、どうにか方向性を模索しなければならない。
 
西欧近代的な「個」の重視の方向性は
ますます日本においても、ナバホにおいても、
決して弱まっていくことはないだろうし、
そういう現実のなかで、ある種の「強さ」を獲得していく必要があるのだろう。
 
ナバホのような人たちは、おそらくヨーロッパからの
あのような暴力的な文明の影響をまったく受けなかったならば、
今でもかつてのような関係性のなかで生きていられたのだろうが、
おそらくそうはなっていないところに、意味があるのではないだろうか。
それは日本においても同様である。
 
もはや過去には帰れない。
帰れない以上、新たな方向に向けて歩き出さなければならない。
河合隼雄さんは心理療法の立場からさまざまな模索を続けているし、
精神科学はそれでしか可能ではないであろう認識を
諸科学に向けて展開していくことを課題にしているように思える。
 
 

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