■古東哲明『ハイデッガー=存在神秘の哲学』 (講談社現代新書1600/2002.3.20発行) ときに見る不思議な夢がある。 そのシチュエーションはよくわからないのだけれど、 なぜ自分がいるのかということのまえで しきりにとまどっているという夢だ。 ちょうど昨夜もそのおなじみな夢を見て やはりとまどっている自分がいた。 胡蝶の夢という荘子の有名な話があるが、 自分がたとえ蝶であって その蝶が夢見ているのだとしても、 自分がそこにいるということの不思議に変わりはない。 そうした不思議について書かれた 古東哲明『<在る>ことの不思議』(勁草書房)がある。 その書き出しはこうだ。 いまこうして生きていること。小石があり、意識があり、この世が あること。こうしたことは、ごくあたりまえで、なんの変哲もないこ とのように、一見おもえてしまう。どうしてもそう、おもえてしまう。 けれど、じつは、とんでもなく不可思議で、奇蹟とすらいっていいよ うな現象だとしたら、どうであろうか。 同じ著者による、同じテーマで書かれた 『ハイデッガー=存在神秘の哲学』が先日刊行された。 前著もハイデッガーが基調音としてあったが、 今回はさらにハイデッガーの問いが前面にでたものとなっている。 著者はいう。 「存在の味(意味)について、まともに考え、 ちゃんと応接してくれる哲学者は、かれひとりしかないからだ。」 ハイデッガーの著書にまともにとりくんだことは未だなかったのだけれど、 折にふれその難解な言い回しの向こうにありそうな何かには惹かれていた。 つい先日も、ふときになってハイデッガーについての本を買い求め その問いかけについてあらためて考えさせられたところなので、 本書『ハイデッガー=存在神秘の哲学』は、 そのときさまざまに浮上してきていた問いのガイドともなったように思う。 もちろん、ハイデガーが陥ってしまった問題も その際直面せざるをえないだろう。 本書でもその問題がとりあげられていて興味深い。 ハイデッガーのあの難解な語りの謎についても 著者は書いている。 ハイデッガーの哲学は「道」である。それをたどればある地点へ、 おそらく至高の場所へ、だれもがゆきつくことができる通路である。 そのゆきつく場所がどこなのか。なんなのか。野暮を承知で、ぼ くはそれを、存在神秘だとか、生の実感となづけたのだが、しかし ハイデガー自身は明示はしない。おそらく、語るつもりもなかった。 合図や暗示をするだけ。すでに初期講義で、「形式的指標」が自分 の言語作法だと、うそぶきすらする。 形式的指標とは、実質ある叙述を避けることで、かえって「現事 実的なものとの前記号的な接触」を読者自身がひきおこすことがで きるよう、しくまれた語り方。初期講義録から、そんなハイデッガ ー独特の執筆流儀が、やっと最近わかってきた。 (P64) まるで、禅僧が月を指さすようなイメージが浮かぶ。 しかし、弟子は師の指ばかりをながめているような図。 それが「道」であるにせよ、そうでないにせよ、 著者がいう「存在神秘」に驚くか驚かないか、 そこがすべての出発点になる。 ウィトゲンシュタインも「世界の存在に驚く」とか 「この世界が在るなんでことが<ある>ことが法外だ」という。 おそらく本書を読み進んだとしても、 なぜ世界があるのか、について その答えが得られることはないだろうし、 むしろ説明されればされるほどに、 「存在神秘」のまるで迷路のような驚きに 踏み迷ってしまうことになるだけのようにも思う。 しかし、その「存在神秘」の驚きに向かって開かれ、 つねに目覚めているということこそが重要なことなのだろう。 そうでなければ、「在る」ということにあまりにも鈍感になり、 日常のなかにただ埋もれてしまい 問うことの原点を見失ってしまうことになるだろうから。 |