■大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎 『日本語と日本人の心』 (岩波現代文庫B51/2002.3.15発行) 何かを考えさせてくれる、またそのきっかけをもらえる本というのは、 ジャンルを問わず、読み進めていて熱が伝わってくるし、 なにより途中でつまらなくなることが少ない。 でも、何かを教えようとする本というのは、 教科書がその典型だけれど、なんだか興ざめになるところがある。 考えさせる意図をもった教科書というのもあるけれど、 その誘導されているような答えが透けてみえるので気持ちが悪くなる。 本書は、1995年11月26日に小樽市民会館行なわれた 絵本・児童文学研究センター主催の 「児童文学ファンタジー大賞創設記念第二回文化セミナー」の記録と それを受けた、セミナーの司会者でもある谷川俊太郎の語りで構成されている。 (1996年に刊行されたものの文庫化) この三者の作品や著書には、この30年間ほどに渡り、親しんできたこともあり、 とくに、この三者の対話が「日本語」をめぐってどういうふうに展開していくのか、 興味をもって読み進めたが、その対話が、まさに教科書的でなく、 考えるきっかけをたくさんもらえるものだったのを気持ちよく感じた。 とくに、大江健三郎と谷川俊太郎のアプローチとその違い、 そして根底にある共通性というのは、印象に残ったので、 まずその部分をご紹介してみたい。 「自分に日本人としての祈りということがあるとすれば、それを日本語で書く。 それが外国語で訳される。そしてその国の文学としても通用していく、そのよ うな言葉を書きたい」と大江さんは言う。普遍性ということに最初からとらわ れすぎていると、おそらくそれは蒸留水のようになってしまうのではなかろう か。日本人として日本語で書く、というよりは「自分」から出発するとそのこ とは避けられる。そしてそれは翻訳可能であり、他の文化のなかでも通用する ものになる。 しかし、ここで余程注意しないと、谷川さんのいうように「固有の伝統的な 文化が、世界的な普遍化によってどんどん失われ」ることになりかねない。お そらく、これは発想の出発点を抽象的な普遍にゆだねてしまうとそうなるので あって、大江さんの言うように、「個」から出発して普遍にいたろうとするこ とによって、それは避けられるのではなかろうか。そういう点で、心理療法家 というのは、作家や詩人と共通していると私は考えている。創造的な「作品」 を残すことはないが。 (河合隼雄「あとがき」より/P190) グローバル・スタンダードという用語が以前持てはやされたことがあり、 それにただただ迎合する向きとそれへのアンチとしての姿勢が 見られることが多かったように思うのだけれど、 そういう二極にはどちらも何かが欠けているように感じていた。 この表現の問題でも同じことがいえるのではないかと思う。 普遍性と「固有の伝統的な文化」という二極。 普遍性から出発してしまうと、どうしても抽象的な普遍になってしまい、 結局のところ、最大公約数的な馬鹿げた稚拙さに堕することになる。 逆に、「固有の伝統的な文化」に固着し、そこからだけ出発しようとすると、 それもまた別の意味での抽象になってしまうことになるのだけれど、 それを抽象だとは思わずそれに寄っかかってしまい、 そこに根ざしているというような誤解が生まれてしまうのではないだろうか。 そういう意味で、「個」から出発することで、 そしてある意味で、そのなかに「固有の伝統的な文化」も「普遍」も 注ぎ込まれると同時にそれを創造する可能性が生まれるのだ、云々 ということを考えてみる必要があるように思いながら、 このテーマについていろいろ考えてみるきっかけになったように思う。 さらに、谷川俊太郎の創造と破壊について。 谷川 ぼくはお話をうかがっていて、前からそう思っていたのですが、創造と いうと、みんなだいたい反射的に、なにもないところに非常に美しいものがつ くり上げられた、あるいは醜いものが非常に美しいものになった、つまり破壊 と反対というふうにみなさんはたぶん思っていらっしゃると思いますが、創造 というのは必然的に破壊をふくんでいないと創造にならないというふうに自分 の経験から思うのです。 いまのお話なんかの場合でも、そういう広い言葉の海の世界に、非常にきま りきった自分の狭い言葉を持っているのを、いったん破壊しないと、その広い 海に帰っていけないわけですね。 (P105-106) この「創造と破壊」ということも、 上記のことと深く関係してくるテーマだといえる。 たとえば、「固有の伝統的な文化」を大切にするというとき、 一般的には、なにかそういう「非常に美しい」「固有の伝統的な文化」があって、 それに回帰し、それを学び、守り育てていく・・・というような イメージでとらえられがちなのだろうけれど、 おそらくそこに「破壊」の要素が欠落していることによって、 結局はその「固有の伝統的な文化」はむしろスポイルされてしまうことになる。 つまり、それが実体的に固定的に存在しているかのような幻想のなかで、 実際はまるでカタログでそれを見るような死骸であることに気づかないのである。 いったん破壊することによって、生きたものとする。 そのことが忘れられるとき、むしろ「伝統」は死骸になってしまうし、 その「死骸」を基盤にしてそれから「普遍」へと至るというような 錯誤した考えにしがみついてしまうことになる。 「ナショナル」から「インターナショナル」へ、というような さももっともらしい言葉の遊びも、 そこに「破壊」や出発点としての「個」が欠落したときに、 死骸が機械仕掛けの人形のように踊るだけのものになってしまう。 ・・・というように、 本書からは、こうしたことを考えるためのきっかけを たくさんもらうことができるのではないかと思う。 |