■高貝弘也詩集 (思潮社 現代詩文庫167 2002.12.15発行) 光 あなたが たとえ 死んだとしても その光は 再生するだろう あなたが 生き続けているとしたら その息に 言葉をゆだねよう 2001年に刊行された高貝弘也の詩集<再生する光>から。 高貝弘也の言葉は原初の言霊に確かにふれている。 未だ耳に、目にしたことのないような言葉が その詩集から湧きだし、 もしくは「光あれ」によって生まれてくるもののように 生まれてくる言霊たち。 しかもそれは吉岡実がその詩を<不吉な叙情詩>と形容しているように 黄泉国に棲みついている何者かの響きをも伝えている。 そのきわめて独特な響きをもったポエジーの世界。 粕谷栄市は<再生する光>の花椿賞授賞式祝辞で、 「高貝さんは、実に、不可思議な表現の発明と発見を繰り返して、 実に、不可思議な彼だけにできる魂の音楽の世界を、作りだして いる。前人未踏の新天地の創造です。」と言っているが、 もっと不思議なのは、 「そういう大変なことを、高貝さんが、別に、特別のことをして いるという顔をするわけでもなく、ごく自然にやって、純真無垢 なまま、平気で過ごしておられる」らしいことである。 これほどに言霊を信じているらしい表現を目の当たりにすると、 その創造と純真無垢とはたしかに共生してもおかしくないのかもしれないが。 それは、この現代詩文庫の裏にある顔写真からも感じられることでもある。 そのふたつの目はいったい何を見ているのだろうか、気になる。 あまりにも普段着な印象のなかに漂っている何者かゆえに。 この現代詩文庫に入沢康夫がこんな献辞を寄せている。 高貝弘也の詩篇からは、その処女詩集から既に、日本現代詩において いまだかつて聴かれたことのない<水界のざわめき>が聞こえ、妖し くも心をえぐる<命の濡れたかがよい>がたえまなく発散されている。 まるでわれわれの胸底に深く沈殿している<前世の記憶>を取り出し たかのような、呪文めいた語句・章句は、表面のとりつきにくさにも かかわらず、読者の想像界にゆっくりと根を張り、枝葉を伸ばしてい く。 高貝弘也の語彙のそれぞれは、作品を読む読者のいとなみを往々中断 させ、無限なるものとの対面を強いる。ときとしては長時間にもわた る<読み>の流れの途絶と読者の意識の彷徨が、この詩人の作品に関 しては、かえってその真のリアリティを裏付け、強調しているかのよ うだ。 日常、きわめて散文的な生活をしていると、 そのなかで何かが死滅していくのがわかる。 その何かはおそらく、高貝弘也の詩集からの言葉を引けば 「未だ見ぬものや、未だ存在しないもの」なのかもしれない。 そうしたものを否定することで生活は営まれていく。 既に見えるもの、既に存在しているものに囲まれて。 それゆえに、ポエジーは必要とされる。 必要とされねばならない。 「光あれ」、するとそこに光が生まれてくるように。 その「未だ見ぬものや、未だ存在しないもの」に 直接的に対面し得るということ。 その可能性なくしては生は単なる過去の奴隷になってしまう。 自由のない生。 ごく稀ではあるにしても、 高貝弘也の言霊のような表現に出会うことで、 ぼくのなかで眠りこけていて忘却されている 妖しくも心をえぐる<命の濡れたかがよい>が 呼び起こされることにもなる。 そうして、やせ細ったぼくのなかの言霊が ようやく彷徨い出ることにもなるのだ。 そういえば、この詩集のなかに納められているエッセイの中で、 高貝弘也は武満徹の音楽についてもふれている。 木霊 木の魂が、木立ちからあくがれ出ていく。 壁、コンサート・ホールの向こう側ーー彼の世から、 悲しい音の声が響いてくる。 思い立ち、高貝弘也の言霊を纏わせながら、武満徹の音楽を聴いてみる。 スタンザ第1番、サクリファイス、リング、ヴァレリア、カトレーン、 また、秋庭歌、エクリプスなど。 すると、そこに立ち上ってくる何者かがぼくを 静かにそして激しく魂振りしてくるように感じられてくる。 詩集<生の谺>(1994)はこんな詩ではじまる。 生命 浮いている、包んでいる 薄い殻が あるようにーー。受け継がれていく、 命の、働きがある。例えば風が身篭る という、粘る軒がある。内蔵の、撓み。 繊い管に留まる、卵 その不安な揺ら ぎ。光輪の 穴をえぐっている、一番 小さい人形の影。柔らかい尾が、切り 捨てられている。生かされている、薄 い実よ。生かされている。空ろな尾よ ぼくは、今生まれようとしている・・・ おそらく今というときは つねにぼくを産み続けているのだろう。 そのなかでぼくは常に浮遊しながら 卵のなかにありまた卵の殻を破り 光のなかを影のなかを捻れながら存在している。 自分自身を谺としまたそれを言霊とし、 そしてそれを祈りともしながら・・・。 |