四谷シモン『人形作家』


2002.12.2

■四谷シモン『人形作家』
 (講談社現代新書1633/2002.11.20発行)
 
ここに一冊の雑誌がある。
唐十郎の編集による1976年5月20日発行の季刊『月下の一群』創刊号。
その特集は「人形 魔性の肌」。
四谷シモンの名を知ったのも、唐十郎の存在を知ったのもこの雑誌である。
この雑誌はそのとき以来なぜかぼくの手元に存在しつづけている。
 
この1976年という年、ぼくのなかでなにかがはじけはじめたのかもしれない。
はじけたといっても、外にむかってはじけたというのではなく、
ぼくのなかの深い深いところの種がようやく芽をほころんだということ。
それはみずからの混沌をようやく混沌と名づけようとする何かが
かすかにうごめいたというだけのことかもしれないのだが、
この『月下の一群』の一群というトリガーによってはじかれた弾は
いまでもぼくの横を掠め飛んでいるのかもしれない。
常に混沌でありつづけるような何かとともに。
 
その後、ある混沌は混沌である力を失い、
またある混沌は混沌であることを忘れ、
はたまたさらに大きな混沌が訪れたりもしたのだが、
この四谷シモン『人形作家』は、
その四谷シモンという存在、
そしてその周辺に存在していた存在たちの眠りを
久しぶりに醒ましてくれたようなそんな一冊になった。
 
この本は、「シモンとは何者であるか」という序文も書いている
嵐山光三郎がきっかけをつくったことで書かれた
四谷シモンの自伝のような本であるが、
四谷シモンとその周辺の人たちに影響を少なからず受けた者にとっては、
激しく心を揺り動かさないわけにはいかないだろうと思う。
 
「少年時代のことを、ぽつりぽつりと話しながら、シモンは泣いた。
ぽたぽたと涙を流し、しばし絶句することもたびたびであった。」と
嵐山光三郎は書いているが、読んでいるぼくにしても、
涙があふれてきてしかたがなかった。
それは、決して感傷とか同情とかいううすっぺらなものではなく、
まさにぼくのなかの混沌が流す涙でもあった。
ぼくのなかでいまでもマグマのように滾っている混沌。
 
荘子にあるように、混沌はそこに穴を開けてしまえば死んでしまう。
しかし死ぬことで展開していく何かもある。
こうしてこの世に生まれてきているということは、
ぼくの実感としても死以外の何者でもないのだけれど、
こうした死としての生によってしか展開していかないものも
たしかにあることが最近ようやくわかるようになった。
ぼくは死ぬことによって生き、
生きつつあることによって死にむかっている。
 
かつて、『月下の一群』創刊号におさめられている
人形に関するさまざまな話を読みながら浮かんでいたのは、
ぼくは人形ではないのか、人形であるとしたらどうなのか、
人形ではないとしたらどうなのか…というような
よくわからない混沌のような思いだったのだけれど、
おそらくそのときぼくがジンジンと疼いていたのは
みずからの生という死、死という生についての
混沌と混沌でないもののせめぎあいのマグマだったのかもしれない。
 
・・・とかいうように、
この一冊はぼくのなかの混沌を呼び覚ましてしまうことになった。
しかしまた四谷シモンという謎が解かれることで
混沌に穴をあけてしまう一冊でもあった。
あまり紹介にはなっていないけれど、
四谷シモンをめぐる人たちに感心のある方には、
それぞれにそれぞれの混沌を刺激されるのではないかと思い、
あえてご紹介してみることにした次第。
 
 

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