姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』


2002.11.20

■姜尚中・森巣博『ナショナリズムの克服』
 (集英社新書0167C/2002.11.20発行)
 
現代人必読の名著の登場である。
 
亡霊が実体化されるように世界中に蔓延しつつあるナショナリズム。
その問題は避けることのできない問題として
現代人の前に覆い被さってきているように見える。
今や日本でもナショナリズム的な傾向に
異議を唱えがたくなってきているように見えるのだが、
本書はその問題の核心を深くえぐり出してくれる。
 
姜尚中(カン・サンジュン)のことを知ったのは、
数年前に中村雄二郎とのネットでのやりとりを読んで以来のこと。
その後、岩波の「思考のフロンティア」シリーズででている
姜尚中(カン・サンジュン)『ナショナリズム』(2001.10.26発行)で
ぼくのなかで姜尚中という存在は極めて重要な存在となった。
 
森巣博を知ったのはつい先日のことで、
集英社文庫の新刊ででていた『無境界家族』が
あまりに痛快にいわゆる「日本人論」の幻想を打ち砕いているのを
とても心強く感じていたところだった。
 
そして、この両者による「ナショナリズムの克服」をテーマとする
きわめてスリリングな対話である。
両者はある意味で対照的なスタンス、
方や在日韓国人二世、
方や若くして日本を出た無境界人、オーストラリア在住の「国際的博打打ち」。
その両者が「ナショナリズム」に関して、それへの思いは異なるとしても、
驚くほど一致した見解を見せている。
もちろん、きわめてまっとうな、というか、
そうとしかとらえようもないほどのナショナリズム批判になっている。
これを読むとやはり現代日本の右傾化傾向のある人たちが
いったい何にこだわっているのかも見えてくるところがある。
そのこところがかなりはっきり見えてくるというのが、大きい。
 
ところで、先日ご紹介した、なだいなだの
『神、この人間的なものーー宗教をめぐる精神科医の対話ーー』、
『権威と権力ーーいうことをきかせる原理・きく原理ーー』、
『民族という名の宗教ーー人をまとめる原理・排除する原理ーー』の
岩波新書ででている三部作を入口にして、
この『ナショナリズムの克服』を読んでいけば、少なくとも
「ナショナリズム」に無意識に足をすくわれる危険性は少ないかもしれない。
 
そういえば、シュタイナーがその社会論関連の著書や講義のなかで、
ウッドロー・ウィルソンを批判しているのも、
こうした視点をおさえておくならば、わかりやすくなるかもしれない。
もちろん、視点は鋭くても、なだいなだや姜尚中、森巣博といった方たちには
神秘学的視点はなくて、おそらくそうしたところを抑えておかないと、
実際のところ、「民族という病」のことはわかりにくいのかもしれないが…。
 
さて、本書はご紹介したいところばかりあるのだけれど、
ちょっと面白かった「故郷」についてのところを少し。
 
        姜 ここで、訊いてみたいことがあるんです。
        森巣 はい。何でしょう。
        姜 故郷って、あるんでしょうか。
        (…)
        姜 では、やはり、故郷は必要ない。故郷はもともとないと。
        森巣 必要ないというのとも違うと思うし、もともとないというのとも
        違うと思う。あったらあったでいいと思うし。それに安住している人た
        ちはそれに安住している人たちでよろしい。ただ、その故郷をより良い
        ものにすべく、「再想像」の努力は必要ではなかろうか、と考えるので
        すよ。私みたいに集団的アイデンティティからの自由を目指す人間がい
        たら、それはそれでまた一局。それがまさに、文化的多様性ということ
        じゃないですか。
        姜 そして、アイデンティティへの自由。
        森巣 アイデンティティへの自由、つまり、在日や被差別部落の出身で
        あることを誇りを持って公表する自由。私は求める必要がなかった人間
        ですが。
        (P166-171)
 
森巣博は本書で自分のことを「チューサン階級」として位置づけているが、
これは「中学校三年程度の知識レベル」だということだそうである、
幼稚園をすぐに出奔したぼくなどは、ほとんど「無階級」でしかないのだけれど(^^;)、
そしてぼくは森巣博のような抜けた生き方はできないのだけれど、
それでも、「集団的アイデンティティからの自由を目指す人間」として
こういう人物のいることをとても心強く感じる。
また、ぼくにとってこれまではかなり異質に感じられていた
姜尚中のようなスタンスの人物の存在にも、
人間の可能性を発見することができるようもなった。
これはぼくとしてもぼく自身のなかの可能性を広げることにもなるだろうと思っている。
 
さて、ナショナリズムという病、
これからどうなっていくのだろうか。
 

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