ラルフ・イーザウ『盗まれた記憶の博物館(上・下)』


2002.11.2

 

■ラルフ・イーザウ『盗まれた記憶の博物館(上・下)』
 (あすなろ書房/2002.10発行)
 
最近ではハリーポッターの新作の騒々しいマーケティングが
繰り広げられてもいるように、ちょっとウンザリ気味のファンタジー関連。
しばらく読むのはやめとこうと思っていたものの、
すでにでおなじみのドイツの作家、ラルフ・イーザウの
『ネシャン・サーガ』に続く作品『盗まれた記憶の博物館』が出たので、
これだけは読んでおくことにしとうとしたのは、間違いではなかったようだ。
 
この作品は、子どもの読者によって選ばれるという
ドイツのブックステフーダー賞というのを受賞したそうだが
(ブックステフーデというバッハの時代のオルガニストがいたが
それとはたぶん無関係なネーミングだと思う)
この作品の受容にはおそらくドイツという国の持っている
ナチスについての忌まわしい過去の記憶などが
次第に忘れ去られてしまいかねない状況なども関係しているのかもしれない。
タイトルのなかに「盗まれた記憶」とあるように、
実際にそういうシーンなども織り込まれていたりする。
 
だからといってこの物語が政治的な色の濃い話だというのではないのだけれど、
エンターテインメント色の強いハリーポッターのような物語にはみられない
ある意味で思想的な深みがそこにはあるように思える。
実際、ファンタジーといっても、この『盗まれた記憶の博物館』は
けっこう難しい内容が随所に盛り込まれていて、
考えないと読み進めにくいところがたくさんある。
そしてそれが子どもの読者によって選ばれるというところに
ドイツ的な受容のされかたがあるのかもしれない。
ちなみに、エンデの『はてしない物語』も
このブックステフーダー賞を受賞しているそうである。
 
さて、この物語は、現代の現実世界と、
愛されそして忘れ去られたものたちの世界である
記憶の国「クワシニア」との間で展開される時空を超えたファンタジー、
とでもいえるだろうけれど、興味のある方は実際に読んでいただくとして、
この作品を読み進みながらどうしても考えてしまうのは、
「歴史」という記憶のこと。
個人のそれもそうだし、国とか人類全体の歴史もそう。
 
もしぼくにとってぼくの記憶だけが世界だとしたら
その記憶から抜け落ちてしまったものは
いったいどこにいってしまうのだろう。
この『盗まれた記憶の博物館』では、
それが「クワシニア」に行くことになるのだけれど、
そうした記憶が意図的に消されていくとしたらかなり怖い。
歴史でいえば、ナチスの記憶などが消されてしまうのも、
日本人の第二次世界大戦時に行なったさまざまの記憶が消されてしまうのも、
やはり困ったことになるのではないかという気がする。
 
記憶のなかには、忘れたほうがいいものもあるけれど、
ほんとうは、たぶん記憶は表面的に消えたとしても
おそらくこの宇宙のなかにはすべて記憶されているのかもしれない。
だから、理想をいえば、できれば忌まわしいものもふくめて
すべての記憶を抱きしめながら、それを貫いていくのがいいのだろうと思う。
 
しかし、たとえば、さまざまな民族紛争などで
現在も忌まわしい記憶が次々とつくられているところがたくさんあるが、
そして個人においても、現在今まさに、後になって忘れたくなるであろうような
そんな記憶をつくりつづけている人もいるだろうが、
そうした記憶を抱きしめつつそれを克服していくことは
とほうもなく困難な作業になるのかもしれない。
できれば、今すぐにでもそういう記憶生産を中止してほしいと思うのだけれど、
イスラエルとパレスチナにしても、クルド人とその住んでいる国にしても、
ますますエスカレートしていきかねない状況になっている。
 
そうした世界的な状況をどうこうすることは困難にしても、
まずは今ここにいる自分のことを、自分の記憶を、
そしてこれからつくられていくことになるであろう記憶を含めて、
どれだけ抱きしめられるのだろうか、克服できるだろうか、
ということを考えないではいられない。
それはある意味でカルマ論的でもあるのだけれど…。
 
 

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