■永六輔『悪党諸君』 (幻冬社文庫/平成14年10月25日発行) 永六輔が全国の刑務所をボランティアで訪ね歩き講演したものの記録。 永六輔は刑務所の全国制覇というのをしたらしいが、寡聞にもまったく知らずにいた。 で、受刑者は喜んでくれたものの、刑務所側はそうでもなかったらしい。 しかし、本人の知らぬところでこうして録音された講演があり、 こうしてとても珍しい講演録がでるということは、 刑務所側にも変わり者がいたということのようである。 収録されているのは、1985年7月31日及び1999年3月30日の笠松刑務所、 1986年10月3日の京都刑務所、1992年12月23日の沖縄刑務所と 元受刑者の吉田勇作さん、小森重三さん及び海渡雄一弁護士との対話。 刑務所での話はおそらくスレスレの話だろうし、 元受刑者、あるいは元極道の話というのは、 その生(なま)の生が浮き上がってくるだけに迫力もあり涙さえ誘う。 また、海渡雄一弁護士の話は、ふだんあまり考えていなかった 「監獄内の人権」の問題を意識させてくれる貴重なものである。 しかし、それにしても永六輔という人は 永六輔以外の何者でもなく永六輔だなとつくづく思う。 この変わらなさというのはすごい。 ぼくはとうてい永六輔にはなれないし(あたりまえ)、 なろうともまた思わないし、考え方の違うところもたくさんあるけれど、 こういう人は真に信頼できる人だなと、あたりまえのように今更ながら思う。 また、この人のような目線というのはいつも持っていたいと思う。 読みながら、内容とは関係のないところでいろいろ考えたことがある。 それは極道はなぜ極道なんだろうということ。 たぶんぼくは極道には能力的にいってなれないだろうなと思うのだ。 それは、いわば「腹(はら)」の問題だ。 極道になるにはぼくにはあまりに「腹」がなさすぎる。 では、なぜ「腹」がないかというと、 やっぱりいろいろあれこれ考えすぎることがあるんだと思う。 考えていると、やはり極道はできない。 ぼくを極道にさせないような種類の「考え」がぼくにはありすぎる。 そういう「考え」はおそらくある種の生命エネルギーの迸りを 疎外してしまうところもあるようなのだ。 でも、ほんとうはぼくは、極道のような「腹」がほしかったりもする。 極道というのは、道を極めると書くが、 道というのは、白川静さんによると、もともと首をもって歩くということらしい。 極道になるには、それだけの度胸が要るということか(^^;。 ま、極道でなくても、「考え」ることができていて そのうえに「腹」もあったらいいと切に思ったりもする。 たぶん、「考える」には二種類あって、 「腹」をなくさせるそれと、「腹」とちゃんと共存できるそれとがあるんだろうと思う。 現にシュタイナーはそうだったわけだし…(シュタイナーと比べても仕方ないけれど(^^;) 以上は、単なる余談(^^;。 ついでに、海渡雄一弁護士との対話のなかから とても面白いところがあったので、少しご紹介しておくことにしたい。 永 元組員、元組の組織がそのまま障害者のボランティアをやってる ところがあるんです。それがね、わりあいうまくいってるんです。今 のところ。最初は皆、「障害者に愛の手をって、あいつら何か企んで いるに違いない」って思ってた、それが、意外と続いているでしょ。 すると、認めはじめるんですよ。さっきいったように、悪いことので きるヤツはね、いいことができるんですよ。(P238) こういう、悪いことといいことの裏返し問題というのは、 かなり真実をついているところがあるように思う。 実際のところ、同じエネルギーを別の方向に向けているだけのような(^^;。 で、ぼくのようなヒネクレ者は、たぶんそうじゃない種類のエネルギーで 生きていたりするところがあったりするのだけれど、どうなんだろう…。 |