ノーム・チョムスキー『9.11』


2002.10.8

 

■ノーム・チョムスキー『9.11』
 (山崎淳訳/文春文庫2002.9.10発行)
 
昨年の暮れ、この文庫のもとになっている単行本が書店に並んだとき、
かつて言語学の授業ででてきたチョムスキーと同一人物だとは最初思わず、
手にとってはじめて、あのチョムスキーだということを知った。
 
しかもこれは9.11の事件の一ヶ月ほど後の10.15日に
ニューヨークの小さな出版社から出版されたという。
そのときは立ち読みしただけではあったけれども、
あの状況のなかでよくぞここまで言えたものだと深い感銘を受けた。
アメリカは実は「テロ国家の親玉」で、そのテロ国家に対して
別のテロ集団が挑戦したのがあの9.11の事件だというのだ。
実際、ニカラグアにおいて、「米国は、国際法裁判所によって国際テロで有罪を宣告され
ーー裁判所の言い方では、政治的目的のため「力の非合法な行使」に対しーー
これらの犯罪を中止し、相当額の賠償金を払うよう命令された唯一の国」なのである。
 
ところで、チョムスキーの変形生成文法を教わったときに感じていた
違和感のことは今でもよく覚えている。
人間には言語能力というのが潜在的にあって、
すべての言語が基本的に同じ構造を深層として持っている、
という考え方はわかるというか、半ばそうだろうなと思っていたものの、
実際に変形させていくプロセスを見ていくと、
そのあまりの脳天気な単純さに半ば呆れるしかなかったというか…。
チョムスキーの言語理論を理解していたとはいえないものの、
少なくとも、あまり魅力的な授業ではなかった。
 
今回文庫になったというのもあり、
たとえば、田中克彦『チョムスキー』
(岩波書店/同時代ライブラリー/1990.7.13発行)なども読んでみたりしながら、
チョムスキーという人がどういう人なのかということを
ぼくなりにつかんでおこうと思った。
 
で、結論。
チョムスキーは非常な正直、率直の人であり、
ほとんど屈折することを免れている希有な人である。
というのがぼくのイメージのなかで浮かび上がってくるようになった。
なぜ今チョムスキーが注目されているかといえば、
多く薄々とわかっていながらも、もしくはそれを認めたくないがゆえに、
なかなか声を大にして言いにくいことを、はっきりと言うその率直素朴さゆえにだろう。
おそらくその言語理論の単純さもそのライン上に発想としてあるようにも思う。
 
ちょっと興味深い示唆が「訳者あとがき・解説」にあったので、
それをついでにご紹介しておくことにしたい。
 
        チョムスキーは、米国社会の知識人の役割に注目する。彼は、知識階層を
        ひっくるめて「世俗的僧職者」と名づける。この人々の役目は、国家の行
        為を人々の口に合うものにし、崇高な、超越的な理想を信じられるものに
        することである。チョムスキーの「世俗的僧職者」の分析は、民主主義社
        会においてイデオロギーやその注入がなぜ、どのように行なわれるかを検
        証し、当代の最も示唆するところの多いものの一つとなっている。
        (…)
         最も高い教育を受けた者が、この社会のイデオロギー的な人々だという
        チョムスキーの主張は、彼らには絶対に受けいれられない。他人をイデオ
        ロギー的と見ることはできても、自分たちがそうだと見ることは決してで
        きないのである。他国の知識人を国の政策を支持していることで非難する
        ことはあっても、自分たちがそうした役割を担っていることは決して認め
        ない。余所の社会が、儀式やら信仰などがあって、討論の幅に制約がある
        ことはわかっていても、米国にも同様のプロセスがあることが、彼らには
        考えられない。
        (P147)
 
これは、米国だけではなく、その状況は違っても、
どの国でも似たようなものなのかもしれない。
自己意識というか、反省的意識というのはなかなかに困難というか、
早い話、自分に都合が悪いことは認めたくないということである。
 
ところで、近刊に『金儲けがすべてでいいのか』という著書もでるそうである。
これもなかなか言いにくいことをずばりと正直、率直に書いているのだろうと思う。
なんだか世界中が銭ゲバの世界になっていて、
少し考えてみただけでも狂気だとしか思えないところがたくさんありますよね(^^;)。
 
 

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