村上春樹『海辺のカフカ』


2002.9.15

 

■村上春樹『海辺のカフカ(上・下)』
 (新潮社/2002.9.10発行)
 
数年に一度、こうして村上春樹の長編を読めるのは、やはりうれしい。
そういえば最初の作品からずっと読んでいて
いまだにそれが続いている作家というのは、村上春樹くらいしかみあたらない。
吉本ばななとかも、ここ数年はつきあうのがなんだか面倒な感じになっているし。
そういう意味でも、こうした村上春樹体験というのは貴重だなと思う。
 
このトポスでしばらく前に、カフカとシュタイナーについて話題がでていたので、
「海辺のカフカ」というタイトルをみたとき、どきりとしたが、
案の定、あのフランツ・カフカと直接関係している内容でもない。
とはいっても、カフカと無縁だというのでもなく、
通底しているところは確かにあるように感じる。
 
こうして村上春樹を読むというのは、
たとえばふつういわれる意味でのシュタイナー教育云々に関わる話では
得られないであろう何かがそこで体験できるというところがある。
今回の話の伏線のひとつに教師の自覚されない暴力が
ひとつのトリガーになっていたりもするように。
そもそも今回の主人公がまだ家出した十五歳の少年だったりもする。
そしてそこにはいわゆる教育というシステムはほとんど何の意味も持ち得ていない。
しかし、すべてに渡って、ある意味では、自己教育がテーマになっていたりする。
きわめて現代的な意味での通過儀礼的なものがテーマになっているように思う。
 
常に隣り合わせになっているはずの闇や異世界との間にある入口というか境界。
ふつう人はそれを意識しないで、というよりも、
そんなものは存在しないかのように人は日常を生きている。
しかしそれは常にそこにあって、深淵が口を開いている。
村上春樹の世界ではそれが、独特なメタファーによって表現されている。
今回もジョニー・ウォーカーやらケンタッキーおじさんやらが登場したりもして、
戯画的なユーモアのなかで表現されたりもするのだけれど、
それらはそのまま深淵への境界になっていたりもする。
村上春樹の作品によくででくる深い井戸の底のように。
 
ところで今回の作品では、多くの人がそう感じられるのかもしれないけれど、
一番魅力的なキャラクターはナカタさんとホシノさん。
とくにホシノさんの変容というのはこれは感動を呼ぶのではないか。
高松の喫茶店で聴くベートーヴェンの「大公トリオ」とか。
ホシノさんはナカタさんとの関わりのなかで、
深いところで意識魂的になっていく。
 
そうそう、今回は「四国」が舞台になっていたりする。
高松と高知。
おそらく四国は、よくそういわれるように「死国」なのかもしれない。
大江健三郎が愛媛の山奥をネタにしているように、
四国というのは、どこか、何かが封印されているようなところがあったりもする。
 
ところで、読みながら思ったのだけれど、この『海辺のカフカ』という作品を
なんとかして映画とかにしてみれば面白いのではないだろうか。
これまで村上春樹の作品でそう感じたものはなかったのだけれど
(映画になっているのもあるけれどあまり感心しない)
今回の作品はけっこうイケルかもしれない。
もちろん、猫さんとのやりとりとか、むずかしいところはあるだろうけれど。
 
 

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