八木雄二『イエスと親鸞』


2002.7.30

 

■八木雄二『イエスと親鸞』
 (講談社選書メチエ245/2002.7.10発行)
 
最初書店で目にしたとき、
タイトルの『イエスと親鸞』を『パウロと親鸞』、
著者名の八木雄二を八木誠一に見間違えてしまった(^^;)。
 
そちらのテーマはそちらのテーマで興味深いのだけれど、
八木雄二や以前にもご紹介したことのある
スコトゥス・エリウゲナを中心とした
『中世哲学への招待』(平凡社新書)の著者でもあり、
そうした哲学研究者の視点から見た『イエスと親鸞』について
いったいどういうアプローチをしているのかと思い読み始めることにした。
 
        わたしがこの本に書いたことは、一つ一つは、それほど奇異なことではない。
        いくつかの点では、すでに同じ指摘をしている本もあることは事実である。
        そのような本は、少数派の宗教的作品として書棚に並んでいる。またある程
        度、読者のなかにも「自分もそうではないかと思っていた」ことがらが多い
        のではないかと思う。わたしが書いたことは、ごく素直に『聖書』や経典の
        たぐいを読めば、見えてくることだからである。ところが、流布している権
        威のある書物をのぞくと、たいていの場合、そんな解釈はまったく箸にも棒
        にもかからないことがらのように、一顧だにされていない。これもまた不思
        議なことである。(「あとがき」より)
 
イエスと親鸞に共通しているのは、
「ラディカルな自己認識」を通じて、
自己の悪を見据えることであり、
そこに普遍性を見ることができる、というのが
著者が聖書や歎異抄などを読み進めるなかで
見えてきたことだといえるのだろうと思うのだけれど、
どうしても組織的にとらえられた宗教のなかでは、
そうしたラディカルさは許容されないということなのかもしれない。
 
読めばそこに書いてあることも、
組織という集団化された解釈のなかでは、
驚くべき仕方で隠蔽されてしまうことになる。
たとえば、
「あなたがたのなかで、罪を犯したことのない人から、
まずこの女に石を投げなさい」という言葉。
なぜこの言葉からあの驚くべき不寛容が生じてしまったのだろうか。
親鸞は親の供養のためにと念仏したことなどないといい、
自分を大極悪人だと規定し、弟子などいないという。
そういうなかで、日本最大の大教団が発生してしまうという不思議。
 
著者はとくに神秘学的な視点をとっていないぶん、
随所に少しばかりまとはずれともいえる視点もでたりもするのだけれど、
「ラディカルな自己認識」のための「独りの革命」を
イエスと親鸞に見出しているというところは深い説得力を持つ。
 
こうしたアプローチは、シュタイナーの著作や講義にあたる際にも
とても重要なことであるのかもしれない。
ちゃんとそこに書いてあることを素直に読みとってみることを通じて
それが「ラディカルな自己認識」となり「独りの革命」となるということ。
その「独りの革命」からはじめないとき、
人はどうしても集合的なものから転倒した価値観を持ち込んでしまうことになる。
それは「自由の哲学」とは逆のものでしかないだろう。
 

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