筒井康隆『わたしのグランパ』


2002.6.23

 

■筒井康隆『わたしのグランパ』
 (文春文庫/2002.6.10発行)
 
高校の頃、筒井康隆にはまっていたことがある。
目につくものはあらかた読んでしまっていた。
『関節話法』とかは、その後テープに録音されたその話を聞いこともあるが、
今思い出してもお腹を抱え涙を流して笑ってしまう面白さだった。
 
『虚人たち』のような実験的な作品も忘れることはできない。
SFというジャンルのくくりがあって、
おそらくその最初は筒井康隆もそのジャンルの作家だったのかもしれないが、
すぐにそういう囲いなどは無意味になってしまった。
『ジャズ大名』とかいう、ジャズ関係の作品も忘れることはできない。
その後、『断筆宣言』とかあって、
それ以降、あまり読む機会も少なくなっていて、
新しい作品を読んでみても、かつてのような新鮮さは
ぼくのなかに戻ってこなかった。
 
そんな折り、久々読んでみたのが、この『わたしのグランパ』の文庫。
なんというほどの話ではないのだけれど、
この、読ませてしまう力はいったい何だろうかとあらためて思っていたところ、
読み終えたときに、文庫の最後にある解説、
久世光彦「筒井さんの<お話シリーズ>」に深く頷いてしまった。
そういえば、なぜか筒井康隆の作品のなかで、
不思議に印象に残っている作品に『旅のラゴス』があるのだが、
こういう<お話シリーズ>の語り口とでもいうものは
いつまでも読む者の内的な響きとなって残ってくるものらしい。
この解説にもあるように、おそらくこれは、筒井康隆が役者でもあり、
「声」の人でもあることが深く作用しているのだろう。
 
         この作品や「時をかける少女」の系列を、私はこっそり筒井さんの<お話
        シリーズ>と呼んでいる。このところ<声に出して読みたい日本語>という
        のが評判になっているようだが、よく言う美文・名文とはちょっと違った意
        味で、「わたしのグランパ」は<声に出して読みたい小説>なのだ。たとえ
        ば冒頭の《珠子が「囹圄という文字を見たのは八歳の時で、その時はまだ祖
        母が家にいた》の部分を声に出して読んでみる。楽な呼吸で、とても素直に
        読むことができる。句読点も、声に出したときの生理で打たれている。つま
        り、声に出してこそ、気持ちがいい文章になっているのだ。一葉の「たけく
        らべ」や鴎外の「うたかたの記」も、なるほど口にしたい欲望にかられるが、
        いざ声に出して読んでみると、すぐに息切れしてしまうし、聴いていても辛
        くなってしまう。いいリズムはあるにしても、どちらかと言えば、目で<見
        て>美しい文章なのだ。このように一葉や鴎外の例は、読む当人が心地よく
        酔って満足できても、聴かされる方はやや迷惑というところがあるのに対し
        て、筒井さんの<お話シリーズ>は、むしろ聴いている方が気持ちよく、幸
        福な気分になれる。
         それにもう一つ、「わたしのグランパ」はどんな声で読まれても、ちゃん
        と聴く人の胸の中まで届くように書かれている。《祖父は出ていった。今度
        こそ本当に、グランマの気持ちがわかった》ーーこれを、たとえばキョンキ
        ョンが読んだと想像する。なかなか、いい。岸田今日子さんならどうだろう。
        これも、ふんわり幸せで、いい。それなら九十翁の森繁さんにゆっくり読ん
        でもらったらーー悪戯っぽくて、色っぽくて、涙が出るかもしれない。本を
        開いて、目で読んだだけではわからないが、声に出した途端、「わたしのグ
        ランパ」がいきなりムクムクと身を起こし、ピョンと飛び上がって走り出す
        不思議に、私はびっくりしてしまう。ーー実は、これは大変な文章なのだ。
 
「ラジオの時間」という映画があったが、ぼくは中学から高校の頃、
ラジオドラマや朗読の時間を好んで聴いていたときがあり、
風間杜夫などの「声」もこのときはじめてきいて、
こんなちょっと内向的だけれど響く声って誰かな、とか思ってたりした。
おそらく、気まぐれのように、演劇部に少しだけ在籍していたのも、
そういう「声」への興味からだったようにも思う。
もっとも、ぼくにはまるでその方面の才能はなさそうなのだけれど、
いろんな「声」をぼくのなかに受け容れようとする姿勢だけは、
そういう体験を通じて持つことができたのかもしれない。
 

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