斎藤環『若者のすべて』


2002.2.9

 

■斎藤環『若者のすべて/ひきこもり系VSじぶん探し系』
 (PHP研究所/2001.7.27発行)
 
武田徹『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』に、
精神科医・斎藤環のアプローチについての紹介があるので、
そちらのほうからご紹介することにしたい。
 
         目に見えるものの背後に隠れている、目に見えないものの気配を感じ
        ることは難しいーー。
         たとえば若者を語るとき、東京・渋谷を水準点にする、そんな習慣が
        いつのまにか身についている。茶髪、ロン毛、ケータイーー、渋谷を闊
        歩する若者たちの風俗が雑誌やテレビで報じられ、あっという間に全国
        に伝播する。たしかに彼らは目立つ。やることなすこと派手で、メディ
        アへの登場も積極的にこなす。だが彼らに目を奪われ、若者が担いはじ
        めているもう一つの傾向を見逃すべえきではない。とくにその傾向が病        
        的な深みにまで及んでいるのだとしたら……。そんな警鐘を鳴らすのが
        精神科医・斎藤環だ。(P195)
 
彼は、若者をふたつの系に分けてとらえている。
「ひきこもり系とじぶん探し系」
 
        「自分が何者かわからない。で、不安で、いつも自分を探しているのだ
        が、誰かと一緒にいるときは人間関係のなかで自分が規定されるので落
        ち着く。だから多様な人間関係をつくっていくタイプの若者がいる。一
        方で自分のイメージが明快で、信念に基づいて行動しているタイプもい
        る」。
         前者は…、取り結んだ人間関係をプリクラで刻々と記録しつつ、渋谷
        を闊歩するような若者だ。後者は周囲とは距離を置いて自分の個性を押
        し通すタイプ。渋谷ではなく、隣町の原宿でよく見かけるタイプだとい
        うことで、斎藤はこちらを<原宿系>と区分した。
         もちろん彼らを病人扱いしようとするわけではない。ただし何者だか
        わからない自分をつねに探している<渋谷系>若者の傾向が病的に深ま
        ると、精神医学的には「境界例」と呼ばれるものになる。そしてもう一
        方の<原宿系>ーー、つまり自分が何者だかわかっているタイプは、自
        己イメージが強固すぎて実人生と齟齬を来たすようになるとひきこもり
        状態に至る。「自分探し型」「ひきこもり型」の二類型は精神病理学で
        いう「境界例」「ひここもり」の二類型にと連なる系列をなしている。
        (P200-201)
 
斎藤環の基本姿勢は、
「ひきこもりは入院させないと治らない」という在り方に対して、
「実は入院治療すれば治ることは治る」、「だからこそ問題なんです」
ということになるのだけれど、
その「治る」ということに関わる施療の
暴力性というか強制に対する抗議姿勢には共感させられるところが多い。
 
この『若者のすべて』という著書は、
1999年から2000年にかけれ主に博報堂の広報誌『広告』に
掲載された原稿をまとめたものということで、
若者へのインタビューに解題を加えるという形になっている。
そのインタビューというのがかなり興味深く、
そのインタビューがもとになって、
『ひきこもり系』と『じぶん探し系』という在り方を
「若者理解の混沌状況を少しでも見通しよくするための枠組み」として
提示されることになっている。
もちろん、その枠組みを固定的な枠としてとらえてしまうと
その「見通し」がまさに「枠」になってしまいかねないが、
若者たちの一風景を垣間見るという意味では面白い視点だと思える。
 
また、『ひきこもり系』と『じぶん探し系』という二類型を
若者という世代だけで見ていくのではなく、
ある種の二類型が、ある関係性もしくは社会状況に置かれたときに、
そういう顕著なスタイルとして現われるととらえていくのも
面白いのではないかと思える。
 
以前から、ぼくの勝手な二類型でいうと、
世の中には、群れないタイプと群れるタイプがあるというふうに
とらえて見ていたりすることがあって、
それを群れないタイプーひきこもり系、
じぶん探し系ー群れるタイプ、
というふうに対応させることもできるようにも思ったりした。
 
そうした性向は、ある特定の関係性のもとで、
微妙なバランスのもとに生きていて、
そのバランスが崩れてしまったときに、
いわば「病的」な傾向として現われてくるように思える。
そしてその病的に現出した傾向を外から枠をはめることで
(つまりはある意味では関係性を固定化させることで)
「治し」ていこうとするのではなく、
そうした在り方が自ずから変容してあらわれてくるものを
ぼくは見たいような気がしている。
 
おそらく著者が臨床的に「ひきこもり」に
深く持続的に関わろうとしているのも、
その「ひきこもり」が内包している何か、
そこにある潜在的な可能性を発見したい、
それをサポートすることでそれが創造的な変容へと向かう可能性を
見たいと思っているからなのではないかと、推察したりもしている。
 
 

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る