加賀野井秀一『日本語は進化する』


2002.6.7

 

■加賀野井秀一『日本語は進化する/情意表現から論理表現へ』
 (日本放送出版協会/NHKブックス941/2002.5.30発行)
 
こんなに面白く最後まで興味津々で読める(そして読みやすい)、
しかも切実なテーマでもあるような日本語論ははじめてのような気がする。
先ほど読み終えてから、どのように紹介すればいいかな、とか
考えていたときに、帯にある推薦文に目がいった。
 
         私たちは普段、自在に日本語を使っているようで、じつはその骨格がどう
        形成されたかわかっていないのではあるまいか。本書は、近代日本語がアメ
        ーバー状の変転をくりかえし、少しずつしなやかな形態を備えていく過程を
        解き明かしているが、まるでミステリーを読むように面白い。そうか、そう
        だったのかと頷きつつ、読後は、日本語がいとおしくてならなくなった。こ
        の先どんな形で進化していくのか、言葉の未来に橋を渡すような一冊だ。
        (稲葉真弓)
 
明治期以来、日本語は驚くほど変化してきた。
現在使われている日本語は(問題なくはないものの)
それなりに統一された表現が可能になっている。
 
明治の始めの頃の日本語は、書き言葉と話し言葉も
さまざまに分裂して用いられていた状態で、
いわば共通語というのが「漢文訓読体」。
それが、いわば日本人にとって重要な「思考の身体」だったが、
欧米語やその文明・文化の導入の必要性から、
それでは対応しにくくなり、
たとえば、二葉亭四迷をはじめとする人たちが、
「言文一致」を目指した運動なども展開していくことになった。
 
この百年とちょっとのあいだの日本語の変化というのを、
あらためて意識してみると、かなりの格闘だったのだなということがわかる。
それで、日本語とはいっても、現代の私たちの多くは、
以前の日本語をそう簡単には読みにくくなっているわけである。
それほどの大きな変化があったということなのだ。
 
その変化について、そしてその変化を見ていく際に
(再)認識・(再)発見される日本語の在り方を
本書は鮮やかに示唆してくれている。
 
言語は「思考の身体」なので、
私たちの「思考」は往々にしてその「身体」の制約を受けている。
しかし、そのことをふつう私たちはあまり意識していない。
この百年の日本語の大変化というのは、
その「身体」を変化させてきた苦闘の歴史であり、
これからもそれは変化し続けていくことになるのだろう。
 
よく、「日本語はあいまいである」とかいうことが
もっともらしく語られたりもするのだけれど、
それは必ずしもそうではないし、
もしそうであるならば、その「思考の身体」を
変化させていくことが必要になってくる。
それが本書の副題にもなっている「情意表現から論理表現へ」でもある。
本書がただの「日本語についての評論」ではないのも、その視点にある。
 
快著として、ぜひ一読を。
 

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