■広河隆一『パレスチナ/新版』 (岩波新書784/2002.5.20発行) イスラエルという国の生まれた経緯。 パレスチナとイスラエルの泥沼のような関係とその展開。 そして、その未来……。 それを見直してみることは、 宗教、国家、民族といったものれに絡むエゴイズムを 真正面でとらえるということであるように思える。 そしてそれは、現代という時代の複雑さと 人間という存在の闇の部分を見据えるということでもあるように思う。 本書を読み進めることは、決して楽なことではなかったが、 光を見ることではなく、闇から目を背けないことの必要性を 教えてくれる体験でもあった。 そして、それゆえに開かれてゆくことのできる何か…。 ちょうど、本書を読んでいるとき、 パレスチナでこの7年間看護活動に従事してきた方の講演会の ディレクターをすることになったが、 そうした方の活動なども含めて、 そこから目をはなしてはならない、ということを ぼくに教えようとしているのかもしれない。 本書を読んであらためて思ったのは、 ユダヤ人という問題であって、 本書の第3章にも「ユダヤ人/民族か宗教か」 という項目が設けられている。 この「ユダヤ人とは誰か」の定義は、イスラエル国家の根本に関わる 問題である。同時にこれはパレスチナ問題の解決つも、大きく関わる問 題なのである・ ユダヤ人という民族がいるのか、それは人種なのか、一つの宗教を信じ るユダヤ教徒と呼ぶべき存在なのか、それらを合わせたものなのか。 (P204) 実際のところ、ユダヤ人であることを 明確にすることは非常に困難なことであるにも関わらず、 イスラエルの身分証明書には、 「ナショナリティ、国籍、宗教」の三つの欄があり、 その「国籍」である「イスラエル」は二番目の項目になっているという。 もっとも重要なのは第一のナショナリティで、ここに「ユダヤ人」と書か れるかどうかが、イスラエル国家でさまざまな権利を享受できるか、それ とも差別されるかの境目である。 (P213) この「ナショナリティ」というのは、 あたりまえのように思えたりもするところがあるのだけれど、 決して自明のものではない。 先日、姜尚中『ナショナリズム』(岩波書店/2001.10.26発行)を 読んだりもしたのだけれど、 やはり、現代という時代は、その問題から目を背けないことを学ぶ時代でも あるのではないかと思う。 そういう意味でも、「ユダヤ人であること」は いったいどういうことであるのかを問い直すことは、ユダヤ人限らず、 みずからにおける「ナショナリティ」のことを問い直す、 ということでもあるはずである。 「日本人であるとはいったいどういうことだろう」と。 もちろんそれは簡単なものではないし、 それを属性と見るのではなく、自分の根っ子であると思い込むことは あらゆる問題を混乱に導くものでもあることになる。 おそらく、その問題に対してどのような視点を持ち得るか、 ということが現代の最重要の問題のひとつなのかもしれない。 その点でも、シュタイナーの示唆している神秘学的視点が重要になってくる。 ところで、本書で始めて知ったことなのだけれど、 ユダヤ人であるためには母親がユダヤ人であることが条件のひとつであり、 それに対して、パレスチナ人を父親として生まれた者がパレスチナ人である。 ということになっている。 ユダヤ人はなんと母系であり、パレスチナ人は父系なのだ。 ひょっとしたらそこにも対立の隠された根っ子のひとつがあるのかもしれない。 |