島田裕巳『カルロス・カスタネダ』


2002.5.25

 

■島田裕巳『カルロス・カスタネダ』
 (ちくま学芸文庫/2002.2.6発行)
 
この書き下ろしの本が刊行されてまもなく、
カスタネダ・シリーズの最後になる
「無限の本質/呪術師との訣別」(二見書房/結城山和夫訳/2002.2.25発行)
も刊行された(本書では、この最終巻は未訳ということになっている)。
(カスタネダは1998年4月に死去したので、これが遺作になる)
カスタネダ・シリーズは第4作目の「未知の次元」(講談社/のちに文庫化)以外は
すべて二見書房から訳出されている。
 
ぼくの場合、最初から訳出されたものをリアルタイムで読んだわけではないが、
4冊目か5冊目あたりの訳出されたあたりに初めて見つけて、
それ移行、随時訳出されるものを読みながら、またそれに並行して、
このカスタネダ・シリーズについて書かれたものを読んできたことになる。
 
そして、この島田裕巳『カルロス・カスタネダ』は、
この11冊のカスタネダ・シリーズの全貌をふりかえたものである。
「本書の第一の目的は、そのドン・ファンのシリーズの全貌を明らかに
するとともに、それがカスタネダ自身の人生とどのようなかかわりを
もっているのかを分析していくことにあった。」
 
カスタネダ・シリーズを読むのは、いつも不思議な体験になっていた。
ファンタジーとして読んでいる部分と、
深いリアリティをそこに感じざるをえない部分があり、
その間に自分がいて、どこに着地していいかわからない感じ。
しかも、刊行・訳出のスパンが長いため、半ば忘却したなかでまた読み始め、
また思い出しながら読む、という繰り返し。
しかも、以前読んだものをそう詳しくは読み返さないといういいかげんさも伴って、
読みながら宙づり状態におかれるために、読むのを止そうかと思いながらも、
ずるずると読み進めてしまう不思議体験。
 
そういうなかで、今回のものは、
シリーズ全体をふりかえるために格好の一冊になった。
あらためて感じたのは、その比較しがたさゆえにこそ、
この世界をほかの神秘学的世界との比較で見てみたい、ということ。
そしてそれができないまでも、ここに描かれているさまざまな個々のテーマを
なんらかの形で自分のなかに位置づけておきたいということだった。
 
いちおうその全11冊を刊行順に記しておくことにする。
 
■呪術師と私
■呪術の体験
■呪師に成る
■未知の次元
■呪師の彼方へ
■呪術と夢見
■意識への回帰
■沈黙の力
■夢見の技法
■呪術の実践
■無限の本質
 
本書を毎日ほんの少しずつ読んでいくうちに、
ちょうど、ジェイムズ・ムア『グルジェフ伝』が刊行されたのもあり、
途中からは、カスタネダとグルジェフがぼくのなかで
不思議な二足歩行(舞踏)を始めるようにもなっていた。
どちらも修行ではあるのだけれど、
ある種体系を拒否するような在り方を特徴としているといえる。
またどちらも虚実のあわいのようなところで存在していたりもする。
そして不思議なユーモアで包み込まれてさえいる世界。
 
そして、読んでいるときにも、また読み終えた後にも
つねに念頭を去らなかったのは、
「世界」というのはいったい何なのだろうか。
「世界」はいったいどのようにあるのだろうか。
という疑問だった。
 
トナールとナワールというのが繰り返しでてくるように、
通常、「現実」として認識されているものは、
決して「世界」の全体を開示するものとしては現出していないのは確かである。
では、「世界」の全体、総体というのはいったいどういうものなのだろうか。
その問いは、同時に、
ではここにいる「私」という存在は、いったい何なのだろうか。
という問いでもある。
 
この問いは永遠に続くものではあるだろうが、
少なくとも、虚仮威しのような戯画化された、常識的な「現実」ではない、
もう少しは真実に近い「現実」を垣間見たいという願望は去らないし、
また同時に、この「仮」としての「現実」、虚仮世間にこそ
それは開示されているにもかかわらず、
それを認識できないだけである、ということもできる。
 
ともあれ、このカスタネダ・シリーズによって描かれた世界は、
そうしたなかで、さまざまな視点を与えてくれているように思う。
少なくとも、虚仮世間をそのまま真実であるとするような白昼夢からは
そこにいる自分を半ば戯画化するようなかたちで連れだしてくれる効果はあるだろう。
そこで重要なのはそうすることによって、
ある種の重層化された自己意識を獲得していくことだろうと思う。
それが現代人にとって最も必要とされるものなのだろうから。
 

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