ジェイムズ・ムア『グルジェフ伝』


2002.5.12

 

■ジェイムズ・ムア『グルジェフ伝/神話の解剖』
 (浅井雅志訳/平河出版社/2002.3.15発行)
 
すでにトポスノートで何度かふれたりもしたので、
あえてご紹介する必要もないかと思ったのだけれど、
先日のGWにこの大著を読み終えてから後も、
おりにふれてグルジェフのことを思い起こすことが多く、
おそらくグルジェフについて調べるときに、
この伝記はもっとも参考になるのではないかということもあり
あらためてご紹介してみることにしたい。
 
グルジェフはいったいどういう人なんだろう。
グルジェフについて調べるうちに必ずといっていいほど
そうした疑問の前で混乱せざるをえないのではないだろうか。
 
伝記というのは面白いもので、
その人物の同時代ではわかりにくいある種の全体像を描き出してくれる。
それがかなりバイアスがかかったものだとしても、
複数の視点を持つことで、
その人物とその同時代のさまざまな人たち、
そしてそれらを包んでいる時代的背景などがダイナミックに迫ってくる。
とくに、本書のような一冊のなかにある意味で複数の視点を持たせて
これほどまでに可能な資料を総動員して書かれている伝記は貴重である。
とくに本書では、これまであまり深くとりあげられてこなかった
後半生について詳しく、やっとグルジェフの失われたピースが
この伝記のなかに見つかった、という感じもあったりする。
 
もちろん同時代で生きて関わっている人でなければ
決してわからない側面のほうが多いともいえるのだけれど、
それはそれとして、こうしてすぐれた伝記を読ませてもらう読者としては、
読者に可能な認識を総動員してその人物を理解すべく奮闘してみることは、
非常にスリリングな体験になる。
 
グルジェフほど多面的な側面を持っている人も稀で、
グルジェフはこういう人だということはまずできないのだが、
ぼくなりにとらえてみたグルジェフについていえば、
次のような視点になるといえる。
 
まず、その基本は秘教的キリスト教がベースとなっている。
エジプト、東欧からチベットなどを股に掛けて
そこに残っている秘教的なものをさまざまな形で吸収したらしく、
東洋的な方法論をとっているが、あくまでもキリスト教の秘教的立場。
 
また、かなり家父長的な在り方のなかで育っていて、
威厳のある親父的な人物像がそこに浮かび上がる。
東洋的な禅師のような在り方を基本的態度としているイメージもあるが、
禅といっても、静的なイメージのそれではなく、
ダイナミックな、まるで「狂」を実践したような在り方である。
その「狂」の部分が、弟子達をさまざまに混乱させていくことになる。
 
その混乱というのは、組織に対する姿勢にもあらわれていて、
グルジェフは自分でつくった組織や弟子達の人間関係を
その都度自分で積極的に破壊していくようなところがあった。
 
これは、たとえばシュタイナーのように諸科学にわたるさまざまな内容を
できるだけ詳細に伝えようとする立場とはかなり異なっている。
シュタイナーは組織を肯定するかしないかは別として、
その必要性から人智学協会を事実上つくってしまったのだけれど、
グルジェフの場合は、少なくともそうした必要性はなかったようである。
 
グルジェフも後半生のなかで、口述筆記などで著作を書いていったが、
むしろ混乱させるような小冊子以外は、
生前には刊行されることはなく、重要な数冊の著作も、
限られた弟子達のあいだで読まれるだけだった。
(これはすでに邦訳もある)
その著作はグルジェフ理解にとって重要であることに間違いはないが、
それはシュタイナーの精神科学のような内容とは異なり、
ある意味では、禅問答のようなイメージでとらえるほうがいいかもしれない。
体系的にまとめられているものといえば、
ずっとグルジェフと不思議な関係のもとにあった
ウスペンスキーの著作くらいなのではないだろうか。
これもウスペンスキーの生前には刊行されることはなかったようで、
そういう意味でも、現代の私たちには、さまざまなかたちで、
グルジェフがいったい何を意図していたのかを考える材料はたくさんある。
しかも、シュタイナーなどの別の方法論と比較することも比較的容易である。
 
また、たとえば訳者あとがきの最初にも引用されている
グルジェフの言葉(ウスペンスキーの「奇蹟を求めて」から)のように、
 
        われわれはいつも儲けています。だからわれわれには関係ありません。
        戦争であろうがなかろうが同じことです。われわれはいつも儲けている
        のです。
 
あらゆる困難は、その困難ゆえに「儲け」が多い、
そして「儲け」るためには、人になにかを代わってもらうことはできない、
それでは「儲け」ることができない、
という基本的な姿勢がグルジェフにはあったように思える。
 
だから、たとえば素晴らしいシェフでもあったグルジェフは、
弟子達の食事の支度からさまざまなものの調達まで自分でこなしたりもする。
決していわゆる先生然として奉仕されようとはしない。
しかも同時に弟子達のかぎりない奉仕を求めながら、
(もちろんそれそのものがワークになるのだけれど)
そういうなかで成立した親和的な関係性を
その都度自分から破壊していく。
おそらくひとつには、安定的な調和のなかでは、「儲け」が少なくなるがゆえに、
あえてさまざまな破壊的に見える状況をみずからが演出していったのだろう。
それはほんとうに徹底している。
おそらく弟子達にとっても、そういう親和的な環境を続けていくことによっては、
次第に「儲け」がなくなっていくことを意味していたのだろう。
それは、組織を大きくしたり権威を増したりすることを重視するような在り方とは
根本的に発想が異なっている。
 
そういう意味で、グルジェフから学べることといえば、
自分はほんとうに「儲け」ることができているのか、
という自問自答をさまざまなレベルで繰り返していくこと、
というふうにいえるのではないかという気がしている。
 
しかし、グルジェフという人物。
ほんとうにこういう人物が存在したのだと思うと不思議な気持ちになる。
シュタイナーとほぼ同時代人で、シュタイナーよりも二十年以上も長生きし
八十歳を超えて激動を生き抜いた希有の存在。
その存在について、この大部の伝記でじっくりつきあってみる体験は
ある意味で人生観を変えることさえあるのではないかとさえ思えてくる。

 

 

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