中沢新一『緑の資本論』


2002.5.6

 

■中沢新一『緑の資本論』
 (集英社/2002.5.10発行)
 
9月11日の事件の後に書かれた3編、
「圧倒的な非対称」、表題にもなっている「緑の資本論」、そして「シュトックハウ
ゼン事件」と
その事件の前に書かれた「モノとの同盟」という文章の収められている中沢新一の新
刊。
 
中沢新一の文章を読むたびに感じることの多かったアプローチが、
ここではかなりわかりやすい図式で典型的に現れているように思える。
それはある意味で、否定されがちなもの、顧みられないものの復権であり、
その復権によって、それらの対極にあるものとの平衡関係をつくろうとするものであ
る。
その平衡関係への示唆は、ときに過去の叡智の復権のようなものとして現れる。
おそらくチベット密教や神話へのアプローチもそうなのだろう。
その平衡のために、中沢氏はよく「間」のなかで流動しようとしたり、
過去への郷愁を前面にだしていたりすることもある。
そこが中沢氏のある種の危うさでもあるのだけれど……。
 
「圧倒的な非対称」では、テロと狂牛病という事件から、
「富んだ世界」と「貧困な世界」、人間と動物との非対称を「内側から解体していく
知恵」、
「対称性の知恵」を呼び覚まそうとする。
 
「緑の資本論」では、利子(利潤)という自己増殖を否定するイスラム教と
イスラムの批判する三位一体によってその増殖性がセットされているキリスト教の対
比が語られ、
「資本主義」を批判する「他者」である「巨大な一冊の生きた『緑の資本論』」とし
ての
イスラームの存在へと私たちの意識を喚起している。
ここで興味深いのは、キリスト教における「聖霊」である。
それこそが増殖性を、ひいては「資本主義」を可能にしている要になってもいる。
 
「シュトックハウゼン事件」では、
シュトックハウゼンに対するマスコミの対応の仕方から、
芸術の両義性の問題をクローズアップしている。
これは、中沢氏がオウム事件のときに受けた
マスコミからの批判ということを踏まえているようである。
ジャーナリズムは「豊かさと危うさをはらんだ両義的な思考」を
今や「最大の餌食であり敵」としようとしているというのである。
 
「モノとの同盟」では、たとえば日本語で「モノ」というと単なる物質ではなく
広く深い意味をもっているように、その「モノとは何か」ともっと深く問いかけ、
「モノとの同盟」を図る道が示唆されている。
この論考は、先の3つに比べ、たしかに9月11日以前に書かれたものということも
あり、
「比較的のどかな時間の中で書かれている」ということがわかるが、
たとえば「物部氏」のことなども含め、ぼくにはもっとも興味深く、
豊かな内容を含んでいるように思えた。
 
	「モノとしての生命」という表現には、いまだ科学によっても明らかにされていない、
	別の意味が隠されている。モノを単なる物体である状態から解放していかなければなら
	ない。クルミの殻のように固いモノ概念の内部に、複雑な構造と運動を発見していかな
	ければならない。こんにちもっとも必要とされているもの、それはモノをめぐる新しい
	思考を創造することだ。これを新しい唯物論の創造と呼んでも、的ははずれていない。
	(P150)
 
ここでいう「モノ」へのアプローチを可能にしているのは、
シュタイナーの自然科学なのであるが、
それが未だ充分に顧みられるようになっていないのは残念なことである。
とくに後期において展開するようになったシュタイナーの農学や医学などの
諸科学に向けての精神科学的アプローチは今後ますます、
私たちの急務の課題に対する示唆として重要になってくると思う。
そのためには、おそらくい中沢氏のようなある意味で過去の叡智に向けられた視線を
転回させていく必要性があるようにも思うのだけれど……。

 

 

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