リチャード・E・シトーウィック『共感覚者の驚くべき日常』


2002.5.3

 

風の本棚
共感覚者の驚くべき日常
2002.5.3
 
■リチャード・E・シトーウィック
 『共感覚者の驚くべき日常/形を味わう人、色を聴く人』
 (山下篤子訳/草思社/2002.4.30発行)
 
原題は“The Man Who Tasted Shapes”、形を味わう人。
著者のリチャード・E・シトーウィックは神経科の医師。
まさに形を味わう人であるマイケル・ワトソンとの出会いから
共感覚を研究することになる。
 
ふつう私たちの感覚は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などに
ちゃんとわかれているのだけれど、
共感覚をもっている人は、たとえば、
なにかを味わうときに形を感じたり、
何かを聞くときに色が見えたりする。
日本語でも「香りを聞く」という表現があったりするが、
こうした表現もそうした共感覚に由来するものなのかもしれない。
 
スクリャービンは、光と音との共感覚から
『プロメテウスーー光の詩』という実験的な交響曲を作曲し、
カンディンスキーは音と色の調和的関係を探求したが、
こうした芸術家も共感覚をもっていたらしい。
ランボーが書いた『母音』という詩では、
各母音が色などの感覚で表現されていたりする。
 
こうした共感覚はなぜ起こるのだろうか。
そしてそれは脳のどこが関わっているのだろうか。
 
本書では、共感覚について、
それがテクノロジーの価値体系ではとらえられないということから
主観的体験であり「科学的とは思えない」という一般の医学的見解などへ
疑問を投げかけたりしながら、
(そうしたことについて述べられているところもかなり興味深いところである)
一歩一歩、共感覚の謎を探求していく著者のアプローチが
さまざまな観点から、興味深く述べられている。
 
そして、共感覚は実はだれでももっている脳の働きが
顕在化したものだという見解に至る。
 
        共感覚は、実際は私たちがだれでももっている正常な脳機能なのだが、
        その働きが意識にのぼる人が一握りしかいないのだ、と私は考えてい
        る。これは一部の人の共感覚が強いとか、程度が大きいとかいうこと
        とは関係がない。そうではなく、脳のプロセスの大部分が意識よりも
        下のレベルで働いていることの関係する。共感覚者は共感覚のとき、
        通常は意識にのぼらないプロセスが意識に対してむきだしになるので、
        自分に共感覚があることを知るのだが、ほかの私たちはそれを知らな
        いのだ。
        (P238)
 
そして、辺縁系の海馬がその共感覚を可能にしているのではないかとしている。
 
         共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識が
        ちらりとのぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるものは、とりわけ海
        馬に集まるのは、感覚受容体から入ってくる高度に処理された情報、
        すなわち世界についての多感覚の評価である。
        (P239)
 
さて、共感覚というのはここではSynesthesia(いっしょに感じる)という言葉。
そうなるとやはり気になるのは、
アリストテレスの共通感覚(常識/コモンセンス)ではないだろうか。
それに関しても本書では、共感覚との関係も言及されている。
(中村雄二郎のいう「共通感覚」との関係も興味深い)
 
しかし、やはり気になるのは、すべてを脳に還元して、
ハードでしかない脳にすべてを負わせようしているところである。
その点だけは、やれやれというところもあるのだけれど、
「共感覚」という非常に興味深いテーマへの本書のアプローチは
一読に値すると思われる。

 

 

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