覚和歌子『ゼロになるからだ』


2002.4.24

 

■覚和歌子『ゼロになるからだ』
 (徳間書店/2002.4.30発行)
 
『ゼロになるからだ』というフレーズ、
どこかで耳にしたことはないだろうか。
 
そう、「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」のなかで
印象的に歌われるフレーズ。
「ゼロになるからだが耳をすませる」
「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」
 
本書は、その詩の作者によるはじめての作品集。
まるでバラッドのような物語詩が束ねられた
魔法の玉手箱のような一冊。
 
最後に谷川俊太郎さんの
こんな言葉が添えられているが、
日本では珍しいバラッドの試みでもあり、
それがほんとうに不思議な世界を紡ぎだしている。
 
         覚さんは物語につかまえられながら、同時に詩もつかまえようという
        野心家だ。詩と物語は相いれないものだと私は考えていたが、覚さんが
        つかまえようとする詩は、むしろ物語の中にしか現われないものかもし
        れない。だからその物語は、たとえごく身近な日々の現実から出発して
        いても、普通の意味での散文とは少々異なっている。
         行分けをやめ、句読点をつけてみても、覚さんの物語は多分いわゆる
        短編小説とは似て非なるものになるだろう。叙事詩、バードの不得意な
        日本の現代詩の世界では珍しい試みを覚さんは続けているが、それを声
        に出すことを詠と呼ぶところにも、その出自が見てとれる。詩の世界か
        らというよりも、日本の語りものの伝統から覚さんは書き始めている。
         「生きているのは当たり前」「死んでいくのは恐ろしい」という日常
        から離れて、そのとき私たちは「生きている不思議」「死んでいく不思
        議」を感じることができる。そこでは物語と詩が言葉と声の深みで共生
        している。まじないや祈りや伝説が生きていた古代そのままに。
 
さりげなく語り始められた言葉についつい引き込まれ
ユーモアとペーソスの入り交じるなか
不思議な展開をみせてゆくお話が
まるでそれを読んでいるぼくの内から
語り出されているかのようにさえ思われてくる。
 
昔話の魅力と同時に
きわめて現代的な感性、言語感覚が
そこには息づいている。
 
こうして作品になってしまえば、
日本にだってほら、
こんな素敵なバラッドがちゃんとあるじゃないか、と
まるで以前からこういう物語詩があったように
錯覚してしまいそうになるのだけれど、
これは覚和歌子による最新の物語集であって、
おそらくこの芽は今ここから
広がっていくであろう可能性の出発点なのだ。
そのことにあらためて驚かされてしまう。

 

 

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