武田徹『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』


2002.2.9

 

■武田徹『若者はなぜ「繋がり」たがるのか/ケータイ世代の行方』
 (PHP研究所/2002.1.30発行)
 
ケータイを肌身なはさずもっていて、いつも話しているか、
メールをうち続けているかしている若者達の風景を日常的に目にしていて
これはいったい何なのだろうか、という疑問を持たざるを得なくなっていた。
自分がこの世代であれば、同じ行動をとっていただろうか、とも。
それは、音楽の受容にしても、ゲームの受容にしても、
またさまざまなキャラクターの受容にしても、
常に問わざるをえないことなのだけれど、
それらについてどのようにとらえればいいのか…、
と考えていたときに、本書が目に留まった。
 
本書は、ぼくと同年生まれのノンフィクション・ライターによる、
若い世代を対象としたいわば社会評論集。
90年代後半以降に雑誌などに寄稿された記事が集められている。
タイトルにあるように、これらの記事は
「携帯コミュニケーション・メディアや、
音楽などのサブカルチャーの受容過程」が伏線として描かれている。
 
仕事柄、消費行動分析とか現象分析などについてのものは
いろいろと調べることも多いのだけれど、そういう視点ではなく、
「これはいったい何なのか?」といった疑問符をもつための
ガイドがあればと思っていたところなだったし、
著者がぼくと同年生まれということもあって、
おそらく上記のことをとらえようとするときの糸口を見つけるには
格好のものではないかと思い読んでみることにしたもの。
 
         そもそも若者とは誰のことなのか。若者はどこにいるのかーー。
        そんな疑問をつねづけ漠然ともっていた。
         じつは、若さは年齢によって規定できるだけのものではないはず
        だ。年若い世代や新しい企業が、むしろ若々しいしなやかさを失っ
        ている光景を目撃して慄然とさせられることがある。若者の「三種
        の神器」といういかにもマスコミ受けする括り方をすれば、その一
        つに確実に入るだろう携帯電話が、むしろ若さを彼らから奪ってい
        る逆説もあるのではないか。それは本書に収録した論考のいくつか
        に示したことだ。
         しかし、だとすれば若さとは何か。成熟の対語として使われるこ
        とは多いが、それも絶対ではないだろう。せめて確かなのか、若さ
        とは、あらゆる淀み、停滞、膠着から離れるベクトルを有するとい
        うことか。
         だとすれば、答えがあろうとなかろうと問い続ける持続もまた、
        若々しい思考や感性を文化のなかで保つうえで重要なはずだ。本書
        の、よくいえば多角的な、悪くいえば落ち着きのない、散らばった
        視点からのアプローチもまた、偽りの答えに安住することなく、答
        えの不在に早計な絶望をすることもなく、若さについて問い、考え
        続ける論考として、議論を硬直化させる「文化の老い」に抗う一つ
        の力になれば、著者として本望である。(P249-250)
 
「若者とは誰のことなのか」という疑問は
ぼくも著者と同じように持っていたもの。
「いまどきの若者」という言葉は
古来から繰り返し使われてきたものでもあって、
「若者だから」ということにしても、
それほど意味のあることだとも思えない。
 
とはいうものの、おそらくここ数十年の社会の変化を見てみても、
ライフスタイルの急激な変化を伴うものだけに、
その変化が何なのかを見ていくとき、
若者たちにおいて今起こっていること、という視点には
やはり注意を向けざるをえないところがある。
 
そうした若者について見ていくときの
興味深い視点に「ひきこもり」というのがあって、
本書にも精神科医の斎藤環の視点が紹介されている。
ちょうど昨年、その『若者のすべて』という著書を読んで
いろいろ考えたことがあったりもしたので、
ついでにそれをご紹介してみたいと思う。
(次の「本棚」で)
 
 

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