風の本棚20

(1999.5.1-1999.6.8)


●吉本ばなな「ハードボイルド/ハードラック」

●「メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道」

●「神との対話3」

●志村ふくみ「母なる色」

●マイク・レズニック「キリンヤガ」

●ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」

●水樹和佳「イティハーサ」、完結!

●加藤典洋「日本の無思想」

● Luna「月鏡」

●加藤典洋「言語表現法講義」

 

 

 

風の本棚

吉本ばなな「ハードボイルド/ハードラック」


1999.5.1

 

■吉本ばなな「ハードボイルド/ハードラック」

 (ロッキング・オン/1999.4.26)

 

 ひさびさ読んだ吉本ばなな。「ハードボイルド」と「ハードラック」の二編がおさめられている。どちらにも「ハード」ということがついているのだけれど、どちらも「ハード」というのではなく、暗い静かな世界が進行していく。「2年振りの書き下ろし小説」ということだけれど、あいかわらずのトーン。暗めの大島弓子という感じだろうか。

 読むうちにいわば吉本ばなな風の独特な感情世界のなかに半ば呪縛されながらも、その呪縛からやがて静かに解放されていく。まるで死後長くいた暗い世界から出る気になる勇気がやっともてはじめたようなそんな感じ。「ハードボイルド」というのは、ひょっとしたらそんなささやかな勇気のようなものを表現しているのかもしれない。

 さて、個人的に少し印象に残ったところをそれぞれ。

 まず、ハーボイルドから。

 でも私は生きた人間がいちばんこわい。生きた人間に比べたら、場所はどんなにものすごくても場所に過ぎないし、どんなにこわくても幽霊は死んだ人に過ぎないと思っていた。いちばんこわいことを思いつくのは、いつでも生きた人間だといつも思っていた。(P17)

 「生きた人間がいちばんこわい」というのには共感する。「死んだ人」がこわいのも、たぶんその人の生きたときに自分でつくりだしてきた感情世界がこわいからなのだし。

 でも、だからこそ、「生きた人間」の可能性を思う。「いちばんこわい」というのは、「いちばん可能性がある」ということなのだと思うから。

 ぼくも「いちばん」ではなくても「こわいこと」を思うことがあるし、これまでにもたぶんたくさん思ってきたのだけれど、だからこそその自分でつくりだした「こわいこと」をしっかり見据えることさえできるならば、そのことで自分を変えていくことができるのではないかと思う。

 そして、ハードラックから。

…そう、多分その歌のとおりに、もう永遠にやってこない一度きりの今年の秋は、今夜まさに冬枯れの木立の間を抜けて、きっと、今夜遠くに去ってゆくのだろうと思った。そうしてまだ見ぬ冬がいさぎよく、残酷にやってくるのだ。(P125)

 ユーミンの歌が紹介されている。「旅立つ秋」。ぼくはユーミンはそれほど聞いてないのだけれど、この歌は、たしかずっと前、長谷川きよしのアルバムのなかにはいっていてとても印象にのこっている。

 ずっといぜんもっていたぼくの心象風景のひとつのような気がする。冬枯れ、木立、旅立ち・・・・凍てついてきーんと張りつめた空。そのなかを白い息を吐きながら悲しみをこらえている自分、その悲しみのなかにたたずみながら、感情を凍てつかせている自分がいる。

 なんだかとても懐かしい感情なのだけれど、最近はあまり感じることのなくなった感情。

 そういえば、自分の感情の歴史をたどってみるならば、やっと感情世界に自閉して表現を拒否してきたことが多かった。どう表現していいのかわからないぎこちなさのなかでおびえているような。そうした自閉状態からやっと最近抜け出せたかなという気がしている。

 吉本ばななの世界は、すでにもうぼくのいない世界だけれど、ひさしぶりに読んで、自分の以前の感情世界を思い出した。ノスタルジーでかつてのポップスを聞くような感じ。

 

 

 

風の本棚

キリアコス・C・マルキデス

「メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道」


1999.5.1

 ■キリアコス・C・マルキデス

 「メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道」

 (鈴木真佐子訳/太陽出版1999.4.18)

 この研究は、主に、スピリチュアル・ヒーラーとその関係者にまつわる現象を記述した研究として理解されるべきものである。これは超心理学の研究ではない。焦点は、超自然的な現象の検証を試みたりすることではなく、その代わりに、登場人物たちが経験する世界をできるだけ正確に伝えることである。

 著者のキリアコス・C・マルキデスは、アメリカのメイン大学の社会学者。78年から79年にかけての長期有給休暇を利用して、自分の出身地であるキプロスのスピリチュアル・ヒーラー、ダスカロスについて上記のような立場での研究をはじめ、83年までの研究をまとめて発表したのが本書。

 ダスカロスは、キプロスのニコシアの郊外にあるストロヴォロス地区にいるスピリチュアル・ヒーラーであり、「ストロヴォロスの賢者」と呼ばれ、ホワイトブラザーフッド関連の秘教サークル、「真理の探究サークル」を開く。

 このキプロスのダスカロスについては、これまで名前もその存在もまったく知らなかったのだけれど、読み進むうち、本書が真性のキリスト者であるスピリチュアル・ヒーラーの希有の記録であることがわかり、そこに盛り込まれた内容の素晴らしさをやはりぜひご紹介しておきたいと思った。

 とくに、キリスト存在についてのダスカロスの言葉は、シュタイナーの示唆しているキリスト理解を深めるうえでも非常に貴重なものなのではないかと思う。シュタイナーの精神科学において、キリスト理解は欠かせないものなのであるにもかかわらず通常のキリスト教というイメージが先入見となっているのか、その重要性がなかなか認識されがたいように思うのだけれど、本書で語られるキリストは、ぼくの理解する限り、シュタイナーの示唆しているキリスト理解と共通しているように思う。

 また「カルマ」に関しても、とても深い洞察がなされていて、シュタイナーのカルマ論と併せて読まれることをぜひおすすめしたいし、また「悪」についての理解を深めるためにも本書はさまざまな示唆を与えてくれるのではないかと思う。

 本書に続き、第2集、第3集も今秋刊行される予定だということで、今からとても楽しみである。

 なお、本書の内容に関しては、別途「ノート」で重要なところをいくつか記しておきたいと思っている。

 

 

 

風の本棚

ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話3」


1999.5.16

 

■ニール・ドナルド・ウォルシュ「神との対話3」

 (サンマーク出版/1999.6.1発行)

 「神との対話」三部作の完結編。最初の二冊については、すでにこの「風の本棚」でも紹介してあるのですが、あらためてこの3冊目を読んで思ったのは、この「神との対話」三部作に書かれてあることは「神秘学」的な認識の基本的な部分でもあり、そうした認識が、こうしてベストセラーになるようなかたちで示唆される必要性のある時代にいよいよ至っているんだなということでした。

 逆にいえば、こうした神秘学的認識が通常流布している常識とはいかに異なったものであるかということでもあります。そして、シュタイナーの精神科学もそうなのですけど、こうした認識はある意味であたりまえのことでもあり、重要なのはその認識の基礎に立って何がなされなければならないかということなのではないかとも思います。

 この三冊目の本は完成まで4年かかったということなのですけど、一冊目、二冊目を世に出し「世間のスポットライト」を浴びて、1996年以降はどこへ行っても「三冊目はいつ出るんですか?」「つぎの本の進行状況は?」「いつになったら、三冊目を読めますか?」と聞かれる状況で、かなりプレッシャーがかかっていたようです。そうしたプレッシャーのなかでも、著者は次のような態度を貫いたようで、そうしたことが本書のクオリティにも反映しているようにも思いました。「本書は決して無理に書かれたものではない。非常にはっきりしたインスピレーションが訪れないかぎり、わたしは何も書かずにペンを置いた。一度など、一四ヶ月もそのままということがあった。三冊目が出るという約束を果たすためだけの本なら、出ないほうがましだと決意したのだ。」

 さて、「はじめに」に著者自身が、「この本は三部作の最初の二冊の教えの要約である。そのあとに、論理的な必然として、驚くべき結論が示される。」と述べているように最初の二冊と内容的には基本的に同じで、「驚くべき結論」というのもまさに「論理的必然」であるということがいえます。

 本書はミステリーではないので、「結論」を紹介することも読者の楽しみを奪うことにはならないだろうと思いますので、その「驚くべき結論」であろうと思われる「時間」、「空間」、「プロセスとしての神」といったテーマが興味深く述べられているところを、少し長くなりますが、若干編集しながら、引用紹介させていただくことにしたいとします。

 星を見上げるとき、その星は何百光年、何千光年、何百万光年も昔の星だ。いま見ている星は、現在ある星ではない。昔の星なんだよ。過去を見ているのだ。その過去に、あなたは参加していた。(…)時は存在せず、あなたは「過去」を見ているのではない。(…)すべては、いま、起こっている。あなたは、地球時間で「たったいま」生きている。それはあなたの未来でもある。多くの「自己」のあいだに距離があるから、それぞれのアイデンティティを、「時間のなかの瞬間」に経験することができるのだ。だから、あなたが思い出す「過去」、「見る」未来は、存在する「いま」にすぎない。ほかのレベルでも同じだよ。(…)ただひとつのわたしたちしか存在しない。だから、見上げる星は、「私たちの過去」なのだ。(…)

もうひとつ、言っておきたいことがある。あなたがたはつねに「過去」を見ている。たったいま、目の前を見ているときも同じだ。(…)

 現在を見ることは不可能だ。現在は「起こり」、それからエネルギーが放射して光の爆発となり、その光があなたの受容器である目に届く。光が届くまでに時間がかかる。光があなたに届くあいだも、生命は進行し、前進する。前の出来事の光があなたに届くころには、つぎの出来事が起こっている。

(…)

あなた自身と出来事が起こる物質的な場所が遠くなればなるほど、出来事は「過去」へと遠ざかる。数光年も離れれば、非常に遠い昔に起こったことを見ていることになる。だが、それは「昔」に起こっているのではない。単に物質的な距離が「時間」という幻想を創り出し、「いま、ここ」のあなたと、「いつか、あそこ」にいたあなたの経験を両立させているにすぎない!(…)

 今言ったことが理解できれば、見ているものはみな現実ではないことがわかるだろう。あなたは過去の出来事のイメージを見ているのだが、そのイメージ、つまり爆発するエネルギーもあなたの解釈にすぎない。このイメージに対する個人的な解釈が想像(imagination)と呼ばれる。あなたは想像を使ってすべてを創り出す。なぜならーーこれが最大の秘密なのだがーーあなたの想像は双方向に働くからだ。(…)

 あなたはエネルギーを解釈するだけでなく、創造する。想像とは精神の機能であり、精神はあなたの三つの部分の一つだ。精神が何かを想像すると、それは物質的なかたちをとりはじめる。長く想像すればするほど(多くの人びとが想像すればするほど)、さらに確固とした物質的なかたちになり、あなたが与えたエネルギーが、やがて文字どおり光となって爆発して、イメージを現実と呼ばれるものに変える。そこで、あなたがたはそのイメージを「見て」、それが何であるかを決める。こうしてサイクルが続く。これが、プロセスだ。

これがあなたである。あなたはこのプロセスだ。

これが神である。神はこのプロセスだ。

れが、あなたは創造者であり被造物であるという言葉の意味だ。

((P436-439)

 

 

 

風の本棚

志村ふくみ「母なる色」


1999.5.24

 

■志村ふくみ「母なる色」(求龍堂/1999.4.8)

 

 「一色一生」「織と文」と同じく、求龍堂から出た志村ふくみさんの新刊。本書におさめられた文章のかなりの部分は書き下しによるもの。

 志村ふくみさんの文章は絵を鑑賞するように読むのがいい。ひとつひとつの文章を急がずひとつずつじっくりと鑑賞するように読み進めていき、ようやくひととおり読み終えた。まるで気に入った美術展に出かけたときのような感じがした。

 一章「母なる色」、二章「山の手帳」、三章「手は考える」、四章「詩篇」、五章「旅の始まりはまぼろし」。どれもそれぞれの色合い、てざわり、風合いを持ちながら、志村ふくみさんならではのことばでつづられている。

 志村ふくみさんの仕事やこうした文章は、思想的にというよりはその感覚の深みにおいて、シュタイナーの精神科学と深く関係している。関係しているというよりは、まさに実践なのだと感じる。通常使われる「実践」という言葉のいかに「実践」から遠いことか。けれどここには「実践」という言葉の使われる必要さえない「深み」が確実に存在している。しかもそれは当然のごとく、結果ではなく、プロセスそのものとして生きたかたちで存在している。

 日本は、おそらく古代から継承されている色彩を含めたエーテル感覚がいまだ息づいている国。それはすでに失われてしまったものがあまりにも多いのだが、その失われてしまったもの、失われかけているものを、ただ懐古的に取り戻そうとするのではなく、いにしえへ視線を凝視しながら、それをまさに現代において、現代だからこそ浮かび上がらせようとする試みを志村ふくみさんの言葉は模索しているように思う。

 これまでの著書ともテーマ的に関連する染色に関するところもとても印象的ではあるだけれど、個人的にいって今回とくに印象的だったのは、五章の「旅の始まりはまぼろし」につづられたフェルメール、ヘレナ・シェルフベック、そしてマーク・ロスコ。その静かさのなかに限りない熱のある視線のとらえた絵画からかいま見えるある深淵にみずからを置いたようなそんな気分に襲われた。

 ご紹介に変えて、フェルメールについてのところを。

 「青衣のひと」やわらかい光の中で手紙をよむ。ただそれだけなのに人々はじっとこの絵からはなれることができない。幾千万の眼が青衣のひとの上にそそがれ、心をなぐさめられ浄福をうけて帰ってゆくのだろう。誰も気づきもしないありふれた光景、時の流れに消えていく、青い上衣をきて少し物憂げな女ひと、その一瞬を永遠のフィルムのように写しとる。掴みとるといってもいい。真実以外何も描いていない。その真実はフェルメールの天与のもの、井戸が深く底の方から光がのぼってくるようだ。

 「牛乳を注ぐ女」みてもみてもまたみてしまう。この実在、圧巻というほかない。どこ一つを切りとっても今、今がそこに永遠にあるのだ。今と永遠が一体化している。白い頭巾、黄の上衣と青いスカート、ポットとパン、パンと籠、すべて画家が超感覚の領域まで日常をひき上げて形成したもの達だ。何人もここまで描き切ることのできない領域に気がついたら来てしまっていた、とフェルメール自身の驚いたのではあるまいか。しかもこんなに日常的な当たり前のものが、それ故、人間は凄まじい日常を保有しながら気づかずにいるのだ。使い捨てて、ごみにする、その日常とこの日常の気の遠くなるほどのへだたり。すべての人にこの日常は与えられているというのに、ここへ来て、オランダの小さな町に来て、黄金の杵で打たれたようにまさに釘づけになってしまった私である。(P208-209)

 非日常を特化して追い求めようとすればするほど、ほんとうは、もっとも非日常そのものである日常のすごさに気づけず、精神は鈍化していくのではないかと思うことがある。今ここである永遠に気づくこと。その永遠の凄さ、その生きたダイナミズムに気づければ。そう思うことの多いなかで、この文章にふれた。

 わたしたちがさまざまな色とかたちに、天空に緑に囲まれている今この時空をどれだけ感じ取ることができるか、精神を注ぎ込むことができるか。今こうして生きている人間の挑戦的な課題でもあるように思う。

 

 

 

風の本棚

マイク・レズニック「キリンヤガ」


1999.5.25

 

■マイク・レズニック「キリンヤガ」

 (内田昌之訳/ハヤカワ文庫SF/1999.5.31発行)

 ハヤカワ文庫のSFとのつきあいはもう25年以上になるけれど、最近はあまり読まなくなっていた。そういえば、読み始めた頃は、まだSFという言葉がかろうじてではあれ、その純粋さをまだ保っていたように思う。

 けれど時とともにそのSFというコンセプトがscienceであれspeculationであれ時代のなかでその位置づけを変化させてきたようである。時代はコンピュータを大衆化させることになり映画もCG合成などもお手の物になってしまっているしクローンさえも現実のものになってきているのだけれど、そういう科学技術が進めば進むほどにSFはいくらそれが夥しい作品を生みだしてはいるとはいうもののかつての輝きをもはや持ち得なくなってきているような気がする。少なくとも個人的にはかつてのような魅力を感じることはなくなっている。

 むしろ最近では「ファンタジー」というコンセプトが多様化し、SFがspeculativeなFantasyへと展開することになっているようだ。もちろんそのファンタジーさえもそのあまりの商品化量の多さに半ば辟易さえさせられるものになっているのだけれど、その一部にはシュタイナーの示唆した「メルヘン」という要素をしっかりと有しているものもあるのは確かだとはいえる。

 さて、前置きが長くなってしまったのだけれど、「キリンヤガ」は副題には「ユートピアの寓話」とあるようにユートピアの物語である。著者のマイク・レズニックが1987年に、オースン・スコット・カードからその担当する「ユートピア」という共通世界アンソロジーに短編小説を寄稿してくれと頼まれたことがきっかけとなり、その後連作されることになったものだという。そしてそれらの作品はさまざまな賞を獲得することになった。作者のあとがきにの最初にも「人はいかにして歴史上もっとも多くの栄誉を受けたSF小説を書きはじめるのか?」と書かれてあったりする。最近SFをあまり読まなくなっていたので、「現代において可能なSFはいったいどういうものなのか?」という疑問に答えるためにもその賞を受賞し続けているという実態を理解したいと思い読んでみることにした。

 物語は、アフリカのキクユ族のユートピアをめぐる近未来の物語。ヨーロッパ化されてしまったキクユ族が別の小惑星でみずからのユートピアの実現をめざす話。主人公の「わたし」はヨーロッパでエリート教育を受けたのだがムンドゥムグという祈祷師として、キクユ族のユートピアづくりのために旅立つ。そしていわば文明を否定し拒否することでかつての部族社会的なキクユ族の生活形態を死守しようとする。

 具体的なストーリーについてはあえてご紹介することは控えるが、ユートピアとはいったい何かということについてこの物語は、さまざまなことを考えさせてくれる。語り口のおもしろさでぐんぐん引き込まれてゆくのだが、そこに次第におりまぜられてゆく悲しみが胸を打つ。それと同時に、やはり過去に向いた閉鎖的なユートピアの不可能性、独善性ということにも考えさせられる。気持ちでは伝統回帰ということに共感を覚えさえするのだが、もはや今は過去ではないということ、たとえ現在がいかに矛盾の塊だとしても、それを超えていく以外に道はないのだから。

 さて、SFについてだが、SFは単にバラ色の未来を謳歌するようなものではもはやありえないし、それはおそらく未来へのビジョンではなく過去のビジョンなのだろう。だからキリンヤガの物語もユートピアの不可能性を示唆するというユートピアの物語という矛盾を抱え込んだものになっている。

 しかしおそらくは始まりはそこからなのだろう。現代は、暗雲たなびく否定的な未来像が描かれることが多いが、そうした矛盾と否定を貫きながら提示できるビジョンとファンタジーが可能性として語られなければならないのではないかと思う。

  

 

 

風の本棚

ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」


1999.5.29

 

■ドン・ミゲル・ルイス「4つの約束」

 (松永太郎訳/コスモスライブラリー(星雲社)/1999.4.25発行)

 ドン・ミゲル・ルイスは、メキシコに生まれ、母親がヒーラー、祖父がナワール(シャーマン)という家庭に育つ。伝統的なトルテックの教えを引き継ぐことを望まれたが、現代医学へと進み、外科医になる。やがて、交通事故で臨死体験を持ち、トルテックの道を歩み始める。このような経歴の著者によるトルテックの教えが本書ではとてもシンプルに表現されています。

 ナワール云々というと、カスタネダのシリーズがイメージされますが、カスタネダのシリーズがドンファンというナワールの教えをカスタネダが語るという形式をとっているのに対して、本書では、著者のドン・ミゲル・ルイス自身がナワールとしてより直接的に語っているので、カスタネダものにくらべとてもわかりやすいところが特徴だといえますし、本書は百十数ページほどの分量なのですぐに読め何度も読み返すのにもとても重宝します。しかし、カスタネダものの特色でもあるストーリー性はなくいわゆる「読物」としては物足りないかもしれません。とはいえ、これは小説ではないのでそれを求めても仕方ないですし、カスタネダもののように結局何が書かれてあるのかよくわからなくなるところもありますので、プラスかもしれません。

 本書の内容はそのシンプルさにもかかわらずとても深いので、「ノート」でその内容をいくつかご紹介してみようと思っていますが、ここでは、本書の最初に書かれている「トルテック」についてのところをご紹介させていただきます。

  遠い昔、トルテックは「知識を持つ男女」として、メキシコ南部で知られていた。人類学者は、トルテックを一つの国家ないし種族として語るが、実際はトルテックとは、古代のスピリチュアルな知識を求め、伝えること、またその実践をおこなう一つの社会を形成する科学者や芸術家たちであった。彼らは、現在のメキシコ・シティの近くにあるティオティワカンに師(ナワール)と、その弟子達とで集まっていた。ティオティワカンは、人間が神になる地として知られる古代のピラミッドの町である。

 長い間、ナワールは、古代の祖先の智恵を隠し、その存在を表にしなかった。西欧人によって征服されたこと、弟子達が、その力を乱用したことなどから、こうした知識を、賢く使う用意のできていない者、利己的な目的のために使おうとする者たちから隠す必要があったからである。

 さいわいなことに、秘密のトルテックの教えは、何世代にもわたってナワールの様々な流派によって伝えられ、体現されてきた。何百年にもわたって、それは秘密のヴェールに包まれてきたが、古代の予言は、いずれはトルテックの教えが、人々の智恵として戻る時代が来るとしていた。今、「イーグル・ナイト」の流派のナワール、ドン・ミゲル・ルイスが、この力強いトルテックの教えを私たちと分かち合うべく導かれた。

 トルテックの教えは、世界中の聖なる秘密のスピリチュアルな伝承と本質的に同じ真実から生まれている。それは宗教ではないが、過去、この世界に出現したスピリチュアルな教師たちを敬う。トルテックの教えは確かにスピリットを信奉する。だがもっと正確には、人間の生き方を教えるものであり、幸福と愛への、やさしい道を教えるものなのである。

 

 

 

風の本棚

水樹和佳「イティハーサ」、完結!


1999.5.30

 

■水樹和佳「イティハーサ14・15」(集英社/1999.5.25)

 

 おそらく漫画史上に残るクオリティをもつというか最高傑作のひとつに数えられるだろうし、ファンタジーとしても非常にすぐれている水樹和佳の「イティハーサ」。今回14巻目・15巻目が一年半ぶりに同時発売され、1987年の3月に第1巻が刊行されてから、13年以上かかって完結することになった。

 漫画を読み始めたのが6歳のとき。少年サンデーや少年マガジンなどの週刊誌や少年ブック、少年画報などの月刊誌をかなりくまなく読んでいた。その後、大学の頃からはいわゆる少年漫画などから少しはなれ、いわゆる少女漫画のほうを中心に読むようになったのだけれど、萩尾望都、山岸涼子、大島弓子、倉田江美、吉田秋生などなど…。伝説の名作を生み出した高野文子などの名作なども雑誌掲載時に読んでいた。その後刊行される「絶対安全剃刀」に収められた作品群である。

 しかし、次第次第に漫画を読まなくなってきていた。かつてのような新鮮さを伴った新たな表現力を漫画から味わうことがなくなっていたからでもある。そうしたなかで、この水樹和佳の「イティハーサ」は、いまだそうしたものを失っていない数少ない作品のひとつだと思う。そういえば、内田善美という孤高の漫画家の作品も水樹和佳の作品をも凌ぎそうなものだったのだけれど、最近は見ない。

 さて、「イティハーサ」の13巻目がでてから、いっこう次の巻がでないので、ずっと気になっていたのだけれど、やっと今回、14巻と15巻が同時刊行され、その感動の物語がエンディングを迎えることになった。そのテーマは、この「神秘学遊戯団」にもぴったりの「善と悪」の問題に宇宙論的に迫るものだともいえる。

 物語は次のようにはじまる(あらすじの最初)。

 時は昔、平和だった国に亞神、威神に分かれて戦う目に見える神が渡り、目に見えぬ神々を信奉する心優しい部族が戦乱に巻き込まれていく。…

 なぜ、戦わなければならないのか。威神の集団は、次々と村を襲い殺戮を繰り返していく。それに対して、不二の裾野で普善神・天音は善を体現した桃源郷を守ろうとする。

 テーマは、なぜ善だけでは、平和だけでは許されないのか、なぜ悪が積極的になされてしまうのか、なぜそれが必要なのか。そしてその意味が次第に説き明かされてゆきます。人間が人間であるということのかけがえのない意味・・・。

 最後に、いつくか印象に残ったセリフなどを少し。

 なぜこの里で暮らそうと思わないのですか?威神の世を望んでいるわけではないのでしょう?

(…)

でも、わたしはここで暮らせないのです。ここで暮らすことはわたしの半身の御魂を葬ってしまうことになるからです。

(…)

わたしはわたしであることを受け入れました…わたしであることの希望と絶望の両方を…だから選べないのです亞神の世も威神の世も

人は善神によってのみ救われるのではないのです

それぞれにそれぞれの形で

救いを求めることができるのです

 

わたしは知識も力も与えられているが不完全なのだこの生においては人として必要なことを何一つ知らない

善も悪も刻みつけられた魂とわたしの魂を重ねることで

わたしは人となれる

 まさに、矛盾を生きる意志でもあるという精神科学的な認識といろんな意味で重ね合わせながら読むことのできる「イティハーサ」。この世紀末に内なる輝きをもった作品が生まれこうして完結したことを心から喜びたいと思います。

 

 

 

風の本棚

加藤典洋「日本の無思想」


1999.6.1

 

■加藤典洋「日本の無思想」

 (平凡社新書003/1999.5.20)

 文芸春秋に続いて平凡社も新書を発刊したということなので、なにかめぼしいものはないかと思って眺めていたら、本書が目にとまりました。最初はそんなに期待しないで読み始めたのですけど、読み進むにつれて目から鱗がとれたというか、現代日本の閉塞状況とでもいえるものに風穴をあけるだけのキーが提供されているのではないか、さらにいえば、ここにはある意味でシュタイナーの「自由の哲学」にも通ずるような非常に重要な示唆さえあるのではないかと思いました。「わたしであること」と社会との間にいかに橋を架けるかという非常に重要な問題への示唆ともなっているように思えます。これまで加藤典洋といえば名前だけしか知らなかったのですけど、これだけの学者がいるということだけでも、現代日本の希望かもしれません。他の著書も読んでみる必要がありそうです。

 本書は、「タテマエとホンネ」について、それは日本古来の日本人独特の思考様式だと考えられてきたと思うのですが、(実はぼくもそう考えてきたのですけど)実際のところ、現在のような意味でそれが使われ定着してきたのは1970年頃からのことなのだといいます。最初は、嘘だろうと思って読んでいたのですが、どうもそうではないらしい。そして、「タテマエとホンネ」が現在のように使われるようになったのにはどうも日本の近代と戦後体験というのが深く関わっているらしい。その「タテマエとホンネ」という在り方にはなにかが隠蔽されている。

 その隠蔽というのは、とても深い病でもあって、その病は「言葉」を殺してしまうことにもなり、真の意味での「公共性」を不可能なものにしてしまうのだということが本書を読み進めていくなかでとても深く納得することができました。

 この「公共性」というと、「社会的なもの」と混同されがちなのですが、それとはまったく別のものであり、それはむしろ「公共性」の死滅によってもたらされるものなのだといえます。ぼくもいわゆる「社会的」というのがどうにも好きになれませんが、著者もそうなのだといいます。

 僕もまた、あの社会的な考え方というのが、嫌いだったのです。いまも嫌いです。弱い人を助けましょう、という考え方が「違う」と思うのです。

 もちろん僕は古代ギリシャ人ではありませんから、ただ弱い人間は強くなるべきだ、弱い人間に同情することは彼を侮蔑することになると、ただちには思いません、そうではなく、いま、「弱い人を助けましょう」というような言い方で語られることが、もう一度解体されてされてされてそうで言い方で語られ、聞かれるようにならない限り、ここにいわれようとする人間の願いは、普遍的なものにならないだろうと思うのです。普遍的といいましたが、そのことが他の人間の要素とそのままで生き生きと結びつくということ、また、どこでも、誰にでも、同じように働きかけること、という意味です。(P254-255)

 こうした言い方は、誤解されがちなのですけど、実際に、最初から「社会的」な考えを先にもってくるということは、いくらそれが「正しい」ことであったとしても、そこにはいわば個人個人という根っこのところからのいわば「意志」から構築されたものでないかぎり、とても弱いものですし、結局のところ、それは権力的な在り方とまったく同質のものとなってしまいます。そのことが多くの場合、気付かれないまま、「善意」が強制的に(それは無意識的なものであれ)発動されることになります。

 そういう在り方では、真の「言葉」は獲得できませんし、個々人の意志が選び取ることによる「公共性」にはなりえません。著者は、繰り返し、「公共性は、私利私欲、私情の上に築かれなければならない」ということを述べています。いわば「社会的」な発想からいえば、「私利私欲」や「私情」を排することが重要だといわれることが多いのでしょうけど、それは実際のところまったく逆のものなのだということが本書を読み進めるなかで説得的に理解できるようになります。むしろ「私利私欲」や「私情」を排することを強調すればするほど、それらがタテマエとしての「社会的」なものをつくりあげている人たちの隠されたエゴとさえなっていくわけです。

 さて、最後に、その「公共性は私的なもの、私利私欲の上に築かれねばならない」ということについてのところを引用紹介させていただきます。

 なぜあの私利私欲の上に立つ形での公共性が、先の課題に答えているのでしょうか。

 私利私欲が、近代以降の人間の本性の核心にあるものだからです。本性とは何でしょうか。それをアーレントは人間の「単一性」の本質と見て、「複数性」の観点から否定しました。でも、僕は、アーレントのいう「複数性」という原理自体が、実はこの「単一性」に基礎づけられているのだと思うのです。ルソーは、あの『社会契約論』の冒頭近くで、この人間の私利私欲を重要なものと見て、もし、これがなかったら、人間は無垢なよき存在だったかもしれないが、複数の人間間に結合は生まれなかったろうと書いています。人間の中にこの私利私欲という厄介なものがあるので、人は外に出てゆき、対立を生み、そうであればこそ、この対立を調停することなしに生きてゆけないというところまで追い込まれたところで、はじめて公共性の必要にぶつかる、というのがルソーの思い描いた人々が社会を作らざるをえない、その普遍的な理由でした。ルソーは、もう一歩進めて、もしこの私利私欲という悪がなかったら、人間に結合ということが起こらなかったばかりか、善というものも生じなかったといってもよかったでしょう。善悪の観念は、この人間の結合、人間の関係に基礎を置くからです。

(…)

 決意に立脚するアーレントの公共性は、ルールの上に立っていて、そこには原権力があります。それはバルバロイを外に作るヘラスの公共性です。僕はヘラスを作った古代ギリシャ人たちを尊敬しています。決して否定しませんが、しかし、このヘラスの公共性は、普遍的でない。考え方としては弱い、と思うのです。

(…)

 私利私欲に立脚する公共性の強みは、これが人間の本性を自分の「それ以上基礎づけられない前提」(マルクス)とすることで、けっしてバルバロイを作らないこと、考え方としての原権力から自由なことです。普遍的だとはこのことをさしています。こうでなくては、公共性という概念は、タテマエとホンネを批判しうるものとは、ならないでしょう。また、それは考え方として、ヒトとしての起点への復帰をも、意味しています。

(P283-285)

 

 

 

風の本棚

Luna「月鏡」


1999.6.6

 

■流奈 Luna「月鏡」

 (想ふ月事務局/1999.6.11発行)

 度々ご紹介している、9歳の脳障害児の流奈さんの新しい本『月鏡』がでました。というか、今日、送られてきました(^.^)。書店で売られているものではなく、以下の申込先に直接注文して手に入れるしかない本です。 

●申込先

〒224-0006 神奈川県横浜市都筑区荏田区東3-1-16-501

山本さとみ方 想ふ月事務局

Phone/Fax 045-942-5381

*一冊につき1,000円の寄付+送料

 この本の収益は、流奈さんがリハビリのドーマン法を続けるための費用としても使われるということですけど、内容的にもとても素晴らしいものなので、関心のおありの方にはぜひ読んでいただきたいと思います。

 この『月鏡』に収められているのは、流奈さんのホームページ(http://www2.odn.ne.jp/luna)に収められているものをはじめとした主に次のような内容です。 

◎短歌と詩

◎メッセージたち

◎月影の詠

◎地球大学へのメッセージ

◎流奈の舞台裏

 この『月鏡』の発行日は6月11日になっていますが、実は、この6月11日は、このトポスメーリングリストの誕生日でもあります。2年前の6月11日にこの場所はできたわけです。なんだか、不思議なご縁のようなものを感じてしまいました。それに、流奈さんとぼくの誕生日は、同じ水瓶座にあたり5日違いだったりします(^.^)。

 この内容をすべてご紹介したいような衝動に駆られてしまいますけど、そういうわけにもいきませんので、「あと書き」からの引用でそれに代えたいと思います。

 私は繰り返し繰り返し、言葉を変え、たとえ話を変え、同じことを伝えてきました。私の思いは祈りにも近く、人々に伝えたい愛は、爆弾より激しいものです。

 私は、子供で障害児であることは、ある意味で最大の武器だと思っています。しかし、かなり激しい武器です、私にとって。思い通りに動かない体と、思いが伝わらない言葉は、言いようのない孤独を、時として私に与えます。

 私はそれを心の深い部分にしまい込み、たくさんの方便を使うことがあります。同じことを伝えるにしても、全く反対のことを言うこさえあります。心が同じであるのに、伝えたい思いは変わっていないのに、なぜそういったことが起こるのかといえば、人々の状態はその人の育った環境、その人の思いによって、各人が全く違うものだからです。

 脳障害について、子供について、伝えたい。世界の人々が平和であることを祈りたい。大人たちの傷ついた心を癒したい。けれど、私はその強い思いさえ、ほっておくということで片づけているのです。どういうことかというと、私がそこにとらわれることにより、更なるゆがみが生じると私は知っているので、捨てておくのです。ただ捨てるのではありません。私は、私の知っている情報と、私が体験したことを伝えることをし続け、そしてほっておくのです。

 私は、だれかがだれかのためになることはないと思っているものです、私も含めて。私はだれかを変えることはできません。だれもが自ら学べると私は思っています。人生において苦しかったり、つらかったり、悲しかったり、そんなとき、人は何かを求め、自ら気づこうと努力しだすのです。いつまでも自分が被害者でいる人は幸福になれませんが、そこを一歩抜け出し、自分がとらわれていたものを手放していくことにより、人は幸福へと近づいていくのです。それまではすべて過程にすぎません。

 その過程において、もしも私と共鳴してくださるかたがいたとしたら、それはもうすでにその人自身の気づきであって、私のものではありません。ただその人の人生において、気づきの加速を促したにすぎません。その人はその人の人生をただ歩めばいいのです、私にとらわれることなく。そうすることで、その人の周りにも共鳴する人が増え、より生きやすい人々が集まることでしょう。人はこうやって学んでいくのです。あなたは常に目覚めていればいいのです。どんな過程の、どの位置にいようと、あなたはいつも目覚め、気づいていればいいのです。

 長くなりますので、引用はこのくらいにしておきますけど、こうした流奈さんの、ほんとうは「爆弾より激しい」思いが流奈さんのメッセージを読む人のなかに伝わればいいなと思っています。このメーリングリストでの試みも、方法論は違い、メッセージは参加されたみんなでの共同でありますけど、ある意味では同じ方向をめざしているのではないかと思います。

 「爆弾より激しい」思いが、共有できますように。

 

 

 

風の本棚

加藤典洋「言語表現法講義」


1999.6.8

 

■加藤典洋「言語表現法講義」

 (岩波書店/1996.10.8発行)

 著者は、「言語表現法」という授業を1987年から行っていたそうですが、この本は、その授業での経験をもとにして、活字での授業という構想で作られたテキストだということです。

 「言語表現法」というと、聞き慣れない表現で、いったいどういうことが意図されているのだろうと興味深く読み進めたのですけど、著者も述べているように、それは「文章教室」とは異なり、技能の問題ではなく、書くことを自分と向かい合うための経験の場として、そして「考える」ことの一つの方法として位置づけたものです。「頭と手が五分五分」だともいいいます。

 著者は、生徒に毎回課題を出し、生徒はその課題に答える文章を書いてきます。そしてその文章を著者が添削、講評します。

 授業は年に4〜5回800字位の文章を書かせ、私が添削した上で、コピーしたものを学生に配り、それを教室で読ませた上でさらに講評する、というのを一年続ける。各授業の発表文に則し、適宜資料を用意、教師の考えを伝える、またコピー、詩、コラム、脅迫文、法律文など各種文章を教材に用いることがある。毎回、感想文を書かせ、次回の授業の冒頭で各学生への感想を含むそれらを紹介する形で授業を構成していく。(P2)

 添削、講評というと、文章を書くのがずっと苦手だったぼくなどは、イヤだなとかすぐに思ってしまうのですけど、本書に書かれているものをみるとなぜあえてそういうことをしたのがよくわかります。著者は、文章は読まれなければならないと言います。読まれてはじめて、「なぜ書くのか」という問題だでてくるのだというのです。「何を書くか」「いかに書くか」とかいうその前に、「なぜ書くのか」です。

 そのことにはいろいろ考えさせられたのですけど、たしかに、ずっと文章を書くことについて抵抗を覚えてきて、最近になるまでまともにほとんど文章をまともに書いたことがなかったようなぼくにとって、いったい何が問題だったかというと、「何を書くか」とか「いかに書くか」ということあたりにばかり目がいっていて「なぜ書くのか」という視点が欠けていたからなのかもしれないと思いました。

 ぼくがこうして文章を少しなりとも書き始めたのは、パソコン通信を始めたからだというのは確かで、では、なぜそういうきっかけで書き始めたのかというと、モチベーションがそこで明確にあったからなんですよね。こうしたネットの場では、どういうかたちであれ文章を書かなければ対話が成立しないからです。それまで、「いかに書くのか」がわからず、「何を書くのか」も皆目、霧の中にあったぼくのようなタイプでも、そこに動機づけがあれば、いわゆる無手勝流にせよ、ある程度日本語さえ書ければとにかく書き始めることができます。そうしてそのなかではじめて、「何を書くか」や「いかに書くか」が出てくるわけです。

 本書には、そうした「なぜ書くのか」から始まる「考える」という経験にいかに意識的に取り組んでいくかということのための著者なりのさまざまなアプローチが記されていて、とても興味深く読めます。必ずしも、ぼく自身の趣味と著者の趣味とが合っているとはいえないとこともけっこうあったりしましたし、たまに、「精神科学的な観点」などから見て、どうかなということもあったりもしたのですけど、重要なことは、一人ひとりが自分の視点からどう出発するかということが重要ですのでそういうことは二の次の問題ですので、自分との違いということもまたひとつの楽しみとして読み進めることができるのではないかと思います。それに、著者自身が、常に読み方、書き方が変わっていくということについて積極的にとらえていて、何が正しいか間違っているかという発想とは無縁なので、その点で、とても共感をもって読むことができます。

 さて、本書でもっともぼくの印象に残った部分は、やはり一人ひとりが自分の視点からどう出発するか、書くという経験をどうやってそこから進めていくか、ということについての著者の一貫した視点です。そのことについての部分を最後に引用紹介させていただきます。

 いいですか。こう考えてください。何かを感じたら、それを離れて、それが政治的にどうか、それを書いたら相手に、教師に、友人にどう思われるか、などという思惑から、その感じたことを操作したら、そういう文章は「クソ」のようなものだ。コトバがよくないですが、それは、これまで僕の言ってきたことから皆さんにもそう感じられるでしょう。そんな文章など、書かないほうがましだ、と思うはずです。でも、何かを感じて、それがゴールの正しさという違うという理由から、それを棄てたとしたら、それは、その「感じ」を切り捨てるという点で、いま言ったあり方と全く同じなのです。その場合には、もうその先はない。そこでストップ。ですから、そうすべきなのだとしたら、僕の言ってきたことは、ステキな文章を書くにはいいけれど、考えることには向かない、ということになります。

 しかし、僕は、逆にそんなことをしたら、考えることも、命脈を絶たれてしまうよ、という立場なのです。(…)

 実感が誤ることがあり得る、ということと、その実感を頼りにする、ということは二者択一の対象ではありません。それが誤りうるものだということが、必ずしもそれを足場にできない理由にはならない、ということです。僕は、実感は間違うことがしばしばあるということは認める。でもいい。でも、その実感からはじめるのがいいんだ、という考えなのです。なぜか。

 ロック・クライミングに二つの方法があるとしましょう。一つはロープが崖の上からぶら下がっていて、それにすがって登っていく仕方です。これは確実ですね。しかし、そのロープを上から垂らしているのは誰か。それは自分じゃない、という問題があります。その自分じゃない誰かを信頼するしかない。そこに一抹の不確かさがあるのです。

 もう一つは、岩にとりつき、ハーケンを打ち込み、そこに下からあげてきたロープをつなぎとめ、そこを仮の起点にまた一歩上に登っては同じことを繰り返す登山法です。それは、何度かそのハーケンが抜けたり、足場が崩れたりして落下する危険がありますが、ハーケンが全て抜けることはないので数メートル落ちたところでで、また、やり直しとなり、時間はかかるけれども、最終的に崖を登り切ることができます。

(…)

もしロープが上から垂れ下がっているのなら、それは崖じゃない。そんなものが崖なんだったら、崖登りなんてしたくないよ。これを別に言えば、こうなるでしょう。自分は間違いがあるとしても、やはりその間違いであるかもしれない実感に立脚して、考える、なぜなら、そうでないとしたら、書くことに備わる、かけがえのない生の経験の意味は、基盤を失ってしまうから。そんなんだったら、書くことは楽しくも、苦しくもない、ばかばかしい行為になってしまうから、と。

(P137-140)

 これは、書くということだけではなく、あらゆることにあてはまることかもしれません。シュタイナーの「自由の哲学」に書かれていることの重要な観点のひとつがここにあるようにも思います。

 「人は努力する限り迷うものだ」ということとも関連しますよね。最初から答えをみながら、間違わないようにだけしていくのだとしたら、それはいったいどういう生なのだろうかということでもあります。

 


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