三木成夫さんですが、この方は解剖学を専門としていた方で、ヘッケルの「個体発生は系統発生の短い反復である」ということをうけて胎児が母の胎内で十月十日(とつきとおか)の間、太古の海に誕生したという生命進化の悠久の流れを再演するということを「生命記憶」とその「再現」として描き出そうとした仕事が有名です。中公新書(691)でも、非常に感動的な名著である「胎児の世界/人類の生命記憶」というのが出てます。
その著書の簡単なアウトラインをその「まえがき」から抜き書きして紹介しておくことにします。(この著書は次の3章で構成されいてます。I故郷への回帰/生命記憶と回想、II胎児の世界/生命記憶の再現、IIIいのちの波/生命記憶の根源)
まずI章の「故郷への回帰」では、冒頭に、ある私的な出来事が紹介される。それは、何のおぼえもない遠い過去が、突如、一つのきっかけでよみがえるといったものだ。生命記憶のまさに回想であるが、この不思議な回想は、ここでは、しだいに遠く、人類の第四期から哺乳類の第三期を経て、やがて脊椎動物上陸の古生代にまでさかのぼり、ついには生命誕生の太古の海にまで行き着く。
・・・
このII章に登場する胎児たちは、あたかも生命の誕生とその進化の筋書きをそらんじているかのごとく、悠久のドラマを瞬時の”パントマイム”に凝縮させみずから激しく変身しつつこれを演じてみせる。・・・胎児の演ずる変身の象徴劇は、こうして卵発生の秘儀として、代から代へと受け継がれるのであるが、この、つねに生命誕生の原点に帰り、そこから出発しようとする周行の姿、すなわち「生物の世代交代」の波模様こそ、すべての「生のリズム」を包括する、まさに「いのちの波」とよばれるにふさわしいものではないか。それは、生命記憶の根源をなすものでなければならない。
・・・
III章では、これが初に、ゲーテのいう「食と性の宇宙リズム」として示され、やがて、このはらわたのうねり、いわば「内蔵波動」に象徴される「永遠周行」の営みのなかに、わたしたち人間の歩むべき本来の「道」がたずねられ、求められる。
この三木成夫さんの人類の生命記憶に関する非常に魅力的な論考は、もちろん、シュタイナーのような宇宙進化論的なヴィジョンによって、特に霊的な部分について補完される必要性はあるとは思うものの、特に「生命」というものを考えていくうえでは欠かすことのできないものだ、そう思います。そして、生命とリズム、かたちというような根源的なテーマについても非常に多くの示唆をしてくれるものでもあります。
なんだか「幻冬舎」という、新しい出版社ができたらしい。それで一気に数冊、面白そうな本がでてたので、そのうち、この吉本ばななの「マリカの永い夜・バリ夢日記」と村上龍の「五分後の世界」という二冊を早速買ってきて読んでみた。
●吉本ばなな「マリカの永い夜・バリ夢日記」(幻冬舎)
ちょっと前にでた「アムリタ」と非常に近いところに位置する作品のようである。興味深いことに、この本は「マリカの永い夜」という小説の部分と「バリ夢日記」というそのための取材旅行の日記とが収められている。
この小説の基本モチーフは、多重人格者のマリカの中のいくつかの人格がジュンコ先生という精神分析家医によって統合されていくプロセスをバリ島という場を舞台として描いていくというもので、それ自体はとりたててどうこういうほどのものではないが、バリというまだスピリチュアルな気を多くもっている場においてマリカの中にある人格が癒されていくというか、そういうことが、吉本ばなな、ならではの良質の少女漫画風の理屈っぽくないわかりやすさと心にそのまま素直にはいてくるディスクールで描かれていて、とっても楽しく読めた。
読んでいる途中で、何度もバリに行ってみたくなった。田舎とはいえ、ああしたスピリチュアルな場から遠く切り離されてしまった現代日本に住んでいる我々も、ときおりは、ああした「場」で何かを感じとり癒されることが必要なんだろうな、とそう感じさせられた。
吉本ばななに続いて、本当に久しぶりに読んだ村上龍だった。実は、「今までのすべての作品の中で最高のものになったと思っている」という著者のコメントに誘われるままに読んでしまったのである。
村上龍の小説は「限りなく透明に近いブルー」以来、「愛と幻想のファシズム」あたりまでずっと読んできて、それ以来、ちょっとうんざりするところもあってしばらく読んでなかったのだが、そいえば読む度毎に一気に読ませてしまうパワーがあったのは事実である。
今回の「五分後の世界」(幻冬舎)も、同じだった。相変わらず「男」というちょいと脳天気な視点を誇示しながらのディスクールでやっぱりかな、と感じたりはしたものの、やはり一気に読ませられてしまった。パワフルである。
ここのところ自分のなかで欠けていた、というか抑圧されていた?無意識の力のようなものを顕在化させてくれるところがあるように感じた。相変わらず思想的には極めて貧困な著者の姿勢を露呈してしまってはいるがだからこそここまでのパワーが出せるのだなと関心してしまった。
吉本ばななの小説も同じだが、読むことで自分の中で眠っていた何かが、目覚めさせられたり、そのことで解放させされたりするところがある。それはもちろん宮沢賢治などの童話や詩を読むこととは異質なのだが、ある意味では、それと合わせ鏡になっているようなところもひょっとしたらあるのはないかとも思う。
ちょっとだけこの小説の内容にふれておくと、この作品は第二次世界大戦で原爆が日本に落とされたあたりから二つの世界がパラレルに展開し、主人公がそのもうひとつの世界に紛れ込んでしまうというものだ。先ほども言ったように思想的に傾聴に価するようなところは皆無だが、「生きる」というパワーを生にぶつけてくる部分は圧巻である。
今、元気をなくしている人には、先の吉本ばななの「マリカの永い夜」ともどもおすすめである。
4月6日付朝日新聞の「文化」のコーナーに、「世相観察」として清水克雄「オカルトブーム/社会的な責任喪失感の恐れ」という評論が載った。
言わずと知れた朝日新聞のこと、その論評は判で押したようなもの。そもそもこの筆者は「オカルト」の意味を知らない。このお粗末な論評の最後には、
自分たちで作ったきまりも守れないというのは、オカルトブームの影響で社会的な責任感を喪失した人間が、大人にも増えているのだろうか。
とあるが、こういう断定口調は朝日新聞に特有の世論操作に他ならない。「オカルトブームの影響で社会的な責任感を喪失した人間」というのは、「朝日新聞の影響で真の社会的な責任感を喪失した人間」と言い換えたほうがもっと適切かもしれない。特に面白いのが「大人にも」という箇所で、この筆者の想定する「大人」というのはどういう人を指すのだろうか。おそらく筆者は自分を「大人」だと誤解しているに違いない。もしそうだとすれば、きちんとものが考えられない人を「大人」と呼ぶしかなくなってしまう。そもそもこの文章は、文章としても少しおかしい。論理的にものを考えられない人間に「オカルト云々」という資格が果たしてあるのだろか疑問である。
ちょうど、渡部昇一さんの「文化の時代」(PHP文庫)という新刊が出たのでその中の「オカルトについて」というエッセイから、評論するならこういうことくらいは考えて欲しいということを少し。
「樹はその果実によって知られる」(マタイ伝12・33)
ある樹がよい樹であるか悪い樹であるかはその果実によって判断される。あるオカルト教、あるいは一般にある宗教がよいか悪いかはその信じている連中を見て判断するより仕方がない。これは「洞察」の分野のことについてはまことに懸命な忠告である。たとえば禅宗がいい宗教であるかどうかは判断しようがない。不立文字でこられたのでは理性の光で解明することははじめから不可能だからである。・・・
・・・もしあるオカルト教に従ったために、その人がよくなればその樹は善いのであるし、その人がくだらなくなるならばその樹は悪いのである。これは十分に明徴である。そのほかオカルトの名を冠するもろもろのいとなみ、特にエロ・グロ・ナンセンス風の怪奇な文学や絵画などについては、怪力乱神を語らざる孔子に従って、口をとざすのがよい。
「考える人間の最も美しい幸福は、窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めることである」というゲーテの箴言の中には切実な現代的意義が認められるようである。
もちろん、「オカルトブーム」という現象の悪しき部分は認められるが、それ以上に悪しき部分がマスコミの世論操作にあることを忘れてはいけない。上記ゲーテの箴言のように、まずは「窮め得るものを究め」るということが大切である。最初から「窮め得ない」と断定しておいてそれを批判する態度は愚かである。そしてその愚かさの中から、すべての悪しきドグマという怪物が育つのである。やはり「窮め得るものを究め」ながら、その上で謙虚になり、「窮め得ないものを静かに崇める」という意味での宗教性というのは大切にしたいものである。
ひさびさの村上春樹の長編小説を面白く読んだ。
●村上春樹「ねじまき鳥クロニクル/第1部泥棒かささぎ編」(新潮社)
「ねじまき鳥クロニクル/第2部「予言する鳥編」
ここのところぱっとしなかった村上春樹だが、今回のは、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に次ぐなかなかの面白さだった。
この小説を読みながらずっと感じ続けていたのは、「解放」ということ。
人は、自分の中に闇を抱えて生きている。それはあるとき、自分という意識の膜を破って姿を現そうとする。それは、自分の意識の底にあるまだ認められてない自分。その闇は表の意識に語りかけ続ける。「僕を認めてよ!」「僕をわかってよ!」「僕はほんとうは君なんだ!」と。
闇は光の対立物として自分の奥にしまわれている。いや、光を憎みながら光の空きをうかがっている。そしてときには光に襲いかかろうとする。光に勝るほどになることも往々にしてある。
だが、その光と闇は対立物としてのもの。その光は、闇を拒否することで存在しているのだ。だから、それら対立としての光と闇は変容を遂げなければならない。闇は解放されなければならない。闇から逃げるのではなく、闇を理解しなければならない。そうでなければ解放されない。
光もまた同じ。光は闇を拒んではならない。闇を拒む光はにせものの愛。愛のない光は偽善である。それには闇を解放する力はない。光は闇を受け入れ、理解することによって変容を遂げるのだ。
小説には直接関係しない内容になったので、ここで小説に戻って、第二部の最後の方に印象深い言葉があったのでそれを。
・・・ここは血なまぐさく暴力的な世界です。強くならなくては生き残ってはいけません。でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。おわかりになりますか?良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。どうかそのことを覚えていて下さい
現代の私達にとって「どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていること」は難しい。家ではいつもテレビが語りかけ、CDが鳴り続ける。耳を澄ませるときなどないように思える。しかしそうしなければ「良いニュース」というのは聞き取れない。それは「多くの場合小さな声で語られる」からだ。
「良いニュース」とは「福音」のこと。福音は耳を澄まさなければ聞こえない。別の言葉で言うと、己を空しくして、自分を器にしなければ、そこに「福音」は盛られない。
自分の内の闇も、それは耳を澄ませてその声を聞かなければ解放されない。その闇という「他」を己としなければ解放されないのだ。
世を眺めると、闇はいよいよ深くなってきている。それは多くの人が闇を拒否し続けているからだ。その拒否によって「他者」は「荒ぶる者」として姿を現す。その「荒ぶる者」は「解放」されたとき、己を進化させるものとなる。言葉をかえていえば「愛そのもの」となるのだ。
ユリイカの4月号の特集は「宮沢賢治/4次元のヴィジオネール」。その中の対談が面白かったので、少し紹介しておきます。
●中沢新一・小林康夫
「ダルマが挨拶するとき−−−法華経・反コスモス・悪。あるいは乱反射の春」
中沢 …仏教の中では、法の言葉の比喩として鳥が出てくる。鳥の声が法の呼びかけの比喩として使われることが一番多いんじゃないかな。そこでは鳥の声を分析して、カッコウカッコウとかホゥホゥなんていう鳥の声は、それぞれが違う<法>からの挨拶なんですね。挨拶であると同時にそれはテリトリーを作っている訳だから、空間性を作り出している。「ここは私の空間です」と。
……
「山川草木の全てがブッダの法だ」という道元禅師の言葉とか、本覚的な理解の法なのかというと、ちょっと違うなとも僕は感じます。道元禅師の言うように、万物がダルマの響きとして響きあっているというんじゃなくて、僕は何かもっと森の中で啼いている鳥は一羽しかいないっていう状態を考えちゃうんですね。確かにこれは<法>なんだけども、この鳥っていう個体がないと響きは表には出てきませんよ、という問題が語られているんだと思うんですね。
山川草木全てが法の響きなんだと言っちゃうと、これはまた本体論の中へ入って来ますけれども、賢治のなかには「いや、これは私という個体がここにある」と、<私という個体>や<鳥という個体>があるからこそ初めてダルマも存在するんだという、個体性の孤独感の思想がはっきり語られているんじゃないかと思うんですね。だから、個体性というものがあるとしたら、それはどうしても法華経の中へいくと思います。個体は時間の中に入っていく契機でもありますからね。……
ある意味で、「個体性」というのは「反コスモス」で「悪」に他ならない。しかしその「反コスモス」「悪」としての「個体」を通じてしか「法」は表には出ない。この絶対矛盾の世界が我々のこの「世界」として提示されている。
ここには「自由」の問題も同時に提示されていると見てもよいかもしれない。「個体性」というのは「自由」の根拠である。「集合性」には「自由」はない。だから、「自由」は「反コスモス」であり「悪」なのだ。
宗教に戒律なるものがあるのは、「自由」や「個体性」を恐れているからだ。だから可能な限り「自由」や「個体性」を「集団性」「規則性」の中に従属させようとする。もちろん、ここでいう宗教とは「団体」としてのそれである。
悲しいかな、また喜ばしいかな。「法」は個体を通じてしか出てこない。だから教祖はファッショ化し、またその裏面として悪が続々と生産されてしまうことになる。
個体性の可能性ということを考えると、「組織化」ということは宗教化ということになる。だからこそ「組織なきネットワーク」の可能性が模索されねばならない。それによって、個体性と自由を「反コスモス」とするのではなく、「コスモス」へとする端緒が開かれるのではないか。
なんだか全然「宮沢賢治特集」の紹介にならなかったので、今回の特集の中で面白そうなものをいくつかピックアップしておくことにしよう。
●金子務「『春と修羅』序と四次元問題」
●今泉文子「鉱物幻想の世界/賢治とノヴァーリス」
●勅使河原三郎「ノート「春と修羅」から30cm離れて」
●斎藤文一「銀河系意識の誕生/「農民芸術概論要綱」における」
●水樹和佳「イティハーサ/第9巻」(集英社)
待望の「イティハーサ」の第9巻目である。今回は以下に引用したフキダシのように「善と悪」に関するシュタイナー的なビジョンが提示されていた。
大差ない…
善も悪も…
善悪が対峙しているように見えるのは
そのどちらかに囚われた者が見る幻想にすぎぬ
善も甘美…
悪も甘美…
媚薬の如し…
あの二人が危険なのは
善にも悪にも
囚われていないからだ…
あたしの中には幸福と不幸が
いっぱいつまっているの…
善も悪もどうしようもないくらいつまっているの…
でもね…
「とおこ」だった時よりも
「ようこ」だった時よりも
あたしは天地(アメツチ)に近づいた気がする
花はとても綺麗に見えるし
空も風も…陽も星も
以前よりずっと綺麗に見える…
注*「とおこ」「ようこ」というのは人名ですが、漢字がでなかった^^;ため平仮名にして「」をつけてあります
日月神示では「善悪抱きまいらせる」こと、シュタイナーでは、シュタイナーのいうところのマニ教的な「悪の解放」というテーマが提示されているが、そうした宇宙進化論的なビジョンが匂ってくるのがこの「イティハーサ」である。
私にとっては、ここ数年で最も注目すべき漫画作品はこの「イティハーサ」に尽きるのではないかとさえ思われる。内田善美はこのところ作品を書いていないようだし、吉田秋生の「バナナフィッシュ」は興味深い力作ではあるものの以前にくらべてある種のパワーが足りない。萩尾望都は、素晴らしいものの、最近の作品は、ちょっと物足りない。山岸涼子はとうに前線から敗退してしまっている^^;。ということになると、やはり「イティハーサ」である。
最後に、引用した内容について少し。
この地上に生きているということは、この大地の恵みを心ゆくまで味わうことだし、また同時に、天への憧れを常に持ち続けることだ。そのどちらも欠かさないで生きることが大事ではないか。そのことを「中道」という言葉で呼んでもいいだろう。しかし、それは決して仏教的な半ば厭世的なあり方とは異なっている。「中」とは、社会的逃避でもなければ、現世的享楽でもない。そのどちらにもとらわれず、はたまたそれらを完全に否定するものでもない。「中」とは、宇宙進化のビジョンを体現した生き方のことなのだから。
●竹内敏晴「からだ・演劇・教育」(岩波新書・赤67)
この本は、新刊ではなく、1989年の4月にでたものである。先日来、この竹内さんの「ことばがひかられるとき」(ちくま文庫)、「『からだ』と『ことば』のレッスン」(講談社現代新書)と読みすすめてきたがその次に読んだのがこれである。
これは、竹内演劇研究所を主宰する竹内さんが、東京都立南葛高校定時制で、演劇の授業を担当し、格闘、模索する記録である。規格人間の大量生産を行っている現代教育への痛烈な批判としても読めるが、読み進めながら、何よりも著者の言うような、「人間に『なる』ことへの契機を、私自身にとって、はっきりと掴みたい、という切迫した願い」を強く共有したように感じた。竹内さんの著書群は、ぼくにとって非常な示唆に富んでいて、こうした書籍にめぐりあえたことを深く感謝したいと思う。
子どもたちの<からだ>は、ゆっくりと死へ向かって押しやられつつあります。背筋が弱り、垂れ下がって背骨が湾曲し、あごが出、のどは狭く詰められ、てのひらはものをつかむ力を失い、股関節が固まる。つまり言語障害や自閉へと少しずつ追い込まれていると言っていい。子どもたちは教師や親たちの従順なロボットとなるか、でなければ無気力な、なにもしたくない<からだ>に自らを閉じていく。
そういう子どもや青年たちが<からだ>を解きほぐし、歪みを破り、そしてそのてのひらで他人にふれることを恐れず、喜びを感じるまでになるにはどうしたらいいのか。それを私は手探りしてきました。その喜びこそ、人が生きようとする力の源泉だと思うからです。
だが、別のタイプの子どもたちもいます。湊川で私は、それをはっきり教えられたと思います。かれらは管理社会の締めつけを、全身で拒否しています。かれらはつつましく<追い込まれ>てはいない。かれらは荒れる。叩き返す。湊川高校へ行った始めての日、私のノートには「教師を信じていない生徒たちのからだ。それに怯えている教師たちのからだ」とあります。私にはその二者の間にある暗黙の信頼がまだ見えていなかったのだけれども、両者の間の緊張は、まがいもなく、学校教育という形で押し寄せる管理への反撃の身構えから来るものだったに違いない。生徒たちにとって<からだ>をほぐすとは、この緊張をほぐすこと、まずは、教師がいわば寝返ってかれらの側に立つことにほかならないでしょう。
かれらは<からだ>を閉じない。むしろむき出しの裸のまま不器用に立っている。かれらに要るものは、そのからだをだれかがまっすぐに受け入れ、感情の激発という形でしか表出できぬかれらのエネルギーを、思考を深める方向に集中することを、授業によって助けること。こう言えるでしょうか。それによってはじめて混沌とした感情は豊かな分化に向かい、思考はまっすぐに伸び始める。両者の統合のみが<からだ>(とこころ)全体をいきいきとさせることができる。……<からだ>をそだてるとは、全人格が成長してゆくことにほかならないのだ、ということを私は見たのでした。
ここに引用した部分は、この本のなかに引用されている写真集「学ぶことと変わること」(筑摩書房)の部分の孫引用。著者は、林竹二氏の湊川高校での授業に、「総合表現」ということで、林氏の「ことば」についての授業をうけて「他人に話しかけること」のレッスンをやるなどしていたのだが、ここで「湊川高校」というふうにでているのは、そういうこと。
特定の価値観のもとに決まった鋳型にかためられて、それ以外の表現方法をとることを許されなくなってしまう。そんな教育のイメージがぼくの頭から去らない。ぼく自身が学校というのを一種の牢獄のように感じ続けていたからかもしれないがぼくのなかで何かが声も出せずにうずくまっている感じがすることがある。もちろんそれを教育のせいだとばかりはいえないが、さまざまな要因が積み重なって、人格が統合されるのが阻害されている。そんな自己イメージがあるのを否定できない。
特に今回竹内さんの著書にふれて、自分のそういう部分をかなり意識化することができたように思う。意識化できたのはわずかな部分に過ぎないのだろうが、それさえこれまでは半ば無意識のままに、否応なくぼくのなかに押し込められていたのたは確かだ。それを一生の間自覚できずにいるとしたら、恐ろしいと思う。
ぼくは大学時代、半ば自閉的になってしまった自分をなんとか変えようとして演劇部に所属したことがある。それは竹内さんのようなやり方とはほど遠かったのは確かであるが、それでも、演劇の発声練習や演技を通じて、それまで押し殺されていた自分のなかのものがしだいに解放されていったイメージがあった。ああした体験がなかったら、今の自分はどれほど偽りを積み重ねていったか。今の自分の偽り以上のものを想像すると背筋が寒くなるものがある。
「解放」ということ。それが人格が成長していくための基本的なプロセスだ。そう思う。
●灰谷健次郎・林竹二「教えることと学ぶこと」(小学館/昭和61年発行)
もうかなり前に出された本なので現在でも手にはいるかどうかはわからないが、帯に「教育とは何か、学校とは何か、子供とは何か−−子供の<いのち>をたすける教育を説く“衝撃”の本!」とあるように、まさに読み始めてから目が離せず、涙を流しながら読んだ^^;。シュタイナー教育に関心がある方にもぜひ読んでいただきたいような対談である。
この本は、発行され頃、少し興味をひかれて買っておいたのを、先日来、竹内敏晴さんの著書を読みながら、竹内さんが林竹二さんのことを随所に取り上げてあったので、そういえばと本棚をがさごそ探していたら出てきたので、早速読んでみたもので、ついでに灰谷健次郎さんの小説やエッセイなども買い込んで読み始めたところなのだが、涙がとまらない。竹内敏晴さん、林竹二さん、灰谷健次郎さんと、素晴らしい魂の方の著書に出会えたことを心からうれしく思う。おそらくこうした方々の模索されてきたことは、シュタイナーの神秘学を学ぶにあたって必要な魂の前提になるのではないか。シュタイナーはそうした方々の生きる実践に深くて広い宇宙的な認識を与えてくれるのではないかと思う。
この本はすみからすみまで紹介したい気持ちでいっぱいだが、そういうわけにもいかないので、対談の最後にあるそれぞれの言葉から拾い出してご紹介することにしたい。
まず、林竹二さんから。
……私は湊川でした最初の授業で、くり返し言ってきたように奇蹟が起きたとしかいいようのない事実にぶっつかった。それを奇蹟と私が考えたのは、そこに出てきたいろいろの事実が、私の力(技術も一つの力だ)によって成就されたものではないからだ。……第一回目の授業に対して衝撃的な反応を示した田中吉孝君や朴君は、二年間の間持続的に変わっていって全く別人のようになった。その変化は私がつくり出したものではない。幸か不幸か、私には人間に働きかけて計画的にそれを変えるような技術の持ち合わせはない。もし人間の深いところに一つの事件がおき、それがきっかけで持続的に人間が変わってゆく(十九歳の朴君は一回の授業で背筋がシャンと伸び、一年ほどの間に背丈も二〇センチ以上ものびた)、そのような重大な変化をつくりだしたものが自分の力だと、もし私が考えるとしたら、私は即刻地獄に堕ちるだろう。彼らの上にあらわれた驚くべき変化は、かれらのうちにある生命力が、自分を変える力が働きだしたことによってつくり出された結果だ。それまでは、何か外的な事情がその力の働くのを阻害していたのである。その力の発動によって、彼らは自分自身をつくりかえていったのである。
人間すべての内部に、こういう力が備わっているのを信じなければ、教育は可能にならない。この力を信じないで人を思うように変えることができると考えるとき、教育は調教によってすりかえられる。日本の学校では、教育がなくて、調教が大手を振って罷り通っている。日本の教育界にはそういう事態の生まれる必然性がある。生命に対する畏敬という思念なり心情が、日本の教師にほとんど欠落しているからである。(P305/306)
シュタイナーはすべての教育は「自己教育」にほかならないと言っている。教師も親も子供が自己教育できるような環境を整えてあげるというのが義務であり責任なのだ。そうしてそのことによって教師も親もみずからが自己教育をすることが可能になる。つまりともにみずからが学ぶための友人どうしに他ならないのだ。
灰谷健次郎さんも対談の最後にこういうことを言っている。「先生(林竹二先生)は『学ぶことは変わることだ』とおっしゃっていられる。そうだとするなら、すべての人間は、共に学びあうという関係のなかで、それぞれが教師であり、生徒でもあるんだとぼくは思います。」
ぼくは学校が大嫌いだった。幼稚園は数週間通って登園拒否になり、結局そのまま通わなくなってしまった。小学校は、親から「義務教育だから」ということで仕方なく通い始めた。その後、高校を卒業するまで、学校はまさに牢獄だった。教科書に書かれてあることを知識として受け入れるのはそんなに難しくはなかったけれど、あの教室という空間はまさにアウシュビッツのように感じられた。これは、そう感じたことのある人でなければわからないだろう。教師はそこでひたすら子供に何かを「教え」ようとしていた。子供はその決まりきった答えを覚え込む以外になすすべはなかった。ぼくが学びたいということはそのなかにはほとんどなかった。その学びたいことを学ぶためには、授業以外で学ぶしかなかったのだ。小学校・中学・高校と12年間の間、休日を除いて毎日5〜6時間、あのイスに座って前を向いて「教え」を受けなければならないこと。あれでスポイルされずに完全適応していく人間は、よっぽどの大人物か、またその反対の人格破壊者ではないかとさえ思う。
つまらない述懐はほどほどにして^^;、続いて灰谷健次郎さんの言葉から。
すぐれて人間的なものとはいったい何だろう。それは自らを清めることによって、他に変革を起こさせる愛なのだろうか。「浄化」という人間が人間であるための止むことのないエネルギーを持続させる勇気を、林先生は人びとに与えつづけているようでもある。
切り捨てられ差別されつづけてきた若者や、自立志向を持つがゆえに、勉強ぎらいにさせられていった子供たちが、もっとも鋭敏に、林先生の愛を感じるのは、かれらの中にこそ、深い愛と優しさが存在するという何よりの証拠だろう。……
優しさの通らない世の中に対して、もっとも深いかなしみを抱いているのはこの人ではないかと、わたしはそのとき思った。
「絶望をくぐらないところに優しさはない」というのが林先生の口癖である。絶望の状況の中に立たされている子供と、絶望を知らない教師のはざまが、こんにちの教育の不毛をつくっているとするならば、林先生のこの言葉の持つ意味は大きくて重い。(P310/311)
「絶望をくぐらないところに優しさはない」。真の優しさとはなんだろう。その問いがぼくの頭のなかで反響し続けている。
灰谷健次郎さんと林竹二さんの「教えることと学ぶこと」(小学館)という対談集に「子どもから学ぶことの幸せ」についての林さんの次のような話があります。
私はこのごろ教師の第一の任務は教えることではなくて、絶えず学ぶことなんだということを言うようになった。そういう意味で、教えることが決まっていて教える技術にも不自由ない教師たちだけになったら、ひどく怖いという感じがしますね。
以前にも、たしか平尾さんのところで灰谷さんと対談したときに、私はみさ子ちゃんの話を聞きましたね。百メートル歩くのに四十分も五十分もかかって、その間に出会う草だの、花だの、猫だのとみんなあいさつをし、会話を交わしている、そういう生き方を持っている子の豊かさみたいなものを大人たちがわからなくなってしまっている。そういうものを全部切り捨てたとろこで成り立つような秩序が教育の世界を支配してしまったら、真底怖いなという話を広島県の福山で同和教育に熱心な人たちの集まりでしたんです。そこに障害児学級を担当している先生たちも何人か入っていたんです。
そうしたら、爆発性を持った音をひどく喜んで、音のする方に駆け出していくという子供を抱えてる教師が次のような自分の経験を話し出したんです。その子供は危険だというので、一室に閉じ込めてかぎをかけられている。それを、担当の教師が外に連れ出した。一緒に歩いてみると、しゃにむに駆け出していくようだけども、危険なところに行く前にピタッととまる。真っすぐ前しか見ないのに足許に落ち込みがあると、下を見ることもしないで、ピタッととまる。子供を外に連れ出して一緒に歩いていくことによって、その養護学校の先生は瞬間ごとに実にいろんなことを学んでいくのです。この子にこんな力があるのか。全くだめな子と思われている子にものすごい力があるんだということを学んでいくわけです。
それで「その子供を連れだしたということはほんとうにたいへんな意味があることでしたね。養護学校の先生は幸せですね」と私は言ったわけです。どうしてかというと、普通の健常児を扱っている先生たちは教えるべきことが決まっていて、それを教えることで自分の任務を遂行しているつもりでいる。結局、持っているものを出すばかりで補給はないわけです。逆に子供のほうから返ってくるものをもらって太っていくということはない。…… (P89-90)
純粋に教えるだけということがあったとしたらそれは非常に不毛なことで、お互いがそれで枯渇していくしかありません。お互いが学びあうということ、教えることが学ぶこと、学ぶことが教えることであってはじめて豊かな世界がそこにひろがってくるのだと思うんです。
僕の基本テーマのひとつは「嫌いでも理解・好きならもっと理解」ですがそれと同じく「何からでも学べる」ということも基本テーマです。そのことの関連のなかで「常なる自己教育」ということがあるのだと思います。こうした学ぶことについての考え方をお互い忘れないようにしたいものですね。
教えることが学ぶことでなかったら教える意味はなくて、教える→教えることが決まっている一方通行のあり方なんだったらお題目だけでいわれている人間性の教育だとかいうのをやめてしまえばいいんです。
もちろん、そのときには、それに対する義務教育などというのは止めてしまってそれ以外の自由な教育機関をどんどんつくっていくことが前提ですが。やはり、現状の教育機関は一度ぶちこわしてしまう必要があるかもしれません。もちろん、能のない先生は一挙に大量失業して一度社会に放り出されてみればそのうちいい先生になって教育への情熱を持って教育界に戻ってくるかもしれません。
ジャーナリストも同じで、自分を見つめることのできないジャーナリストは一度みんな廃業して、通常の職業を身を持って体験しながら、あらためてジャーナリストの真の役割を考え直せばいいような気がします。人の悪口をいって平気なのだけは、やめなければね。
吉田秋生の「BANANA FISH」(小学館/フラワーコミックス)が今回19巻で完結した。
そのラストシーンはあえて語らないが、その19巻に収められた番外編の「光の庭」のカメラマンとなった英二のセリフが泣かせる。
何もかもが光に満ちている…というわけにはいきませんもしぼくの写真がそういう印象を受けるのだとしたら光も闇も…そのどちらも愛しているからかもしれません。
「光も闇もそのどちらも愛している」なかなか感動的で意味深いセリフではないですか。光と闇だけではなく、善も悪もそのどちらも愛することができたときそのひとときの善と悪は互いにお互いの役割から解放され喜びに満たされるのではないだろうか。そして悪は悪を反省し、善は善を反省することができる。
ほんとうの光には光も闇も含まれているはずだしほんとうの善には善も悪も含まれているはずなのだから。
バナナフィッシュと関係ない話になってしまったがこの19巻にわたるドラマ、なかなかよかったなと思う。本編に女性があまり登場しないのもひとつのポイントかなとも思う。そして先に引用した番外編の「光の庭」には女の子が登場してくるということをつけ加えておこう。
言霊といわれ、言挙げしないこと、などといわれ、また言葉は神であったといわれるように、ほんとうの言葉は世界そのものでもあるのかもしれない。
言葉・言葉・言葉。神の言葉について探求していくという途方もない試みは試みとしながら^^;、日々、言葉にいのちを取り戻すことから始めたいと思っている。
辻邦生「言葉が輝くとき」(文芸春秋)は、言葉に生命感を生命感を取り戻すためのフランス文学者らしいひとつの試みとして非常に気持ちよくよめる講演の記録である。この本は、別にこれといって読もうと思ったわけではなく、半ば偶然のようにぼくのもとにふと訪れた休息のようなものだけれど、しばらく忘れていた、文学における言葉の輝きのようなもの、特にフランス文学ならではの言葉のきらめきのようなものを思い出させてくれるものとなった。
そういえば、大学の頃はフランスものをよく読んだもので、小説ではないけれど、ロラン・バルトに心酔してたころがあったのを思い起こして、とても懐かしい気持ちになった。
本エッセイ集『言葉が輝くとき』の主題はつねにこの「言葉」と「生命」の方に向けられています。私は人間とは心から幸福を願って生きるべき存在だと次第に強く思うようになりました。文学者のあいだには、今も、幸福という言葉を口にするのは文学への裏切りで、文学者は誠実であるかぎり苦しまなければならないと思っている人は多いのです。いい加減な生き方をしている人より、そうした誠意の人のほうがどれだけ尊いかわかりません。しかし文学的に苦しむのは、人間の究極の幸福を願うためであるのも本当です。長い忍耐のすえに幸福を手に入れるより、可能ならば今ここで幸福になるべきではないか、というのが、最近の私の気持ちなのです。私のいう幸福とは生命感が身体の中に輝くことなのです。出世とか金銭とかには全く関係はありません。ときには「美しいものの奪還」の章で触れているように、人が不幸の極と見なす死を前にしても、プルーストのように幸福である可能性も、視野に入れたいと考えています。生命感を呼び寄せてくれるのも、同じように言葉なのです。この意味では繰り返して言葉こそ生命だといわなければならないでしょう。 (P14-15)
竹内敏晴さんのからだとことばについての演劇的試みとどこか通じてくる視点があるのかもしれないなとも思う。
忍耐だとか待つことだとかいうことはとっても大切なことだけど、それが苦行になってしまってはいけないなとも感じている。幸福に忍耐するとか幸福に待つということもできるのではないだろうか。
そういう視点で日々生きていけるとすれば、いつもひとは生きた、生命感にあふれた言葉とともいられるのかもしれない。
●林田明大「『真説・陽明学』入門黄金の国の人間学」(三五館)
この本は、タイトルの通り「陽明学」を解説したものであるが、同時に、その考え方をシュタイナーなどと共通する普遍的な人間学として提示したものとして、非常にうれしい著作である。
著者プロフィールにもあるが、 別個に研究していた王陽明とシュタイナーの思想に、五年前から共通点を見いだし、以来、両者の比較と融合をくりかえし、陽明学の真の解釈を追求してきた。
ということで、ぼくがこの会議室で「人間学」として追求してきた部分と非常に似たスタンスをとっている先輩として傾聴したい本である。ぼくが安岡正篤さんとシュタイナーを同列で論じていきたい部分のテーマの多くがこの本に盛り込まれているのも非常にうれしい。
「うれしい」ばかり言っているが、この本を「遊戯団推薦本・必読書」として提示したいくらいである。もちろん、それはあくまでも「人間学」としての必読書であるという限定付ではあるが。
●高橋厳「千年期末の神秘学」(角川書店)
これは1983年から毎年12月に京都で行ってきた「千年期末講演会」の第1回から第9回までの内容をベースにまとめられたものだそうで、この本に収められている最後の「日本の民族魂」と題されている章で扱われている東洋思想への関心が深まっているあたりの時期に、ぼくは高橋厳さんの講義に出て、少しなりとお話できたようである。そういえば、その時の講義のテーマは「四大霊の解放」につながるもので、ちょうどそれに関連して柳宗悦さんの話をおうかがいしたのを今でもよく覚えている。不勉強ながらそのときは柳宗悦さんのことをほとんど知らなくて、その後、それをきっかけにその方面のことへの関心を深めることができた。余談になるが、鶴見俊輔さんの「柳宗悦」(平凡社ライブラリー)が9月にでたところである。
それにしても、高橋厳さんが今、華厳経に関心を持っているということはとっても面白いことである。ぼくにとっても華厳経は、仏教を学び始めた最初のきっかけでもあり、今でも最高の叡智の結晶であると思っている。ちなみに、ぼくはここのところ天台大師に興味を引かれていてちょうどNHKの「こころをよむ」のテキストにもなっている「摩訶止観」を少しずつ読み進めているところである。
さて、内容だが、特に今回の著作では、人智学と現代日本ということを深く考えていくのに適した内容が、単にシュタイナーの紹介ということではなく、それを我々がどうとらえていかなければならないかという問いかけとして問題提起されているようにぼくには感じられた。そのすべてを同意できるとは思えないし、明らかに戦後リベラルの思想に引きずられた解釈などもちらほら見えはするが提示された内容の切実さがそれで浅くなるようなものでもない。もちろん、シュタイナーの思想に関して、それまでよく知らなかった新しい内容が盛り込まれているという点でもうれしい著作だった。
これも高橋厳さん流の解釈がかなり入ってはいるが、そうだからこそ非常に重要な問題提起だともいえるのが「シャーマニズム」ということで、儒教をシャーマニズムの系列でとらえ、それをグノーシスやシュタイナーのキリスト衝動との関係で論じているところなどは、なかなか鋭い視点だと感じた。
第二章の「悪の働き」という章では、霊的な道の二つの方向性として、内への道としてのディオニュソス的な秘儀と外への道としてのアポロン的な秘儀ということで説明されていて、この二つの方向性はシュタイナーを学んでいる者には基本的認識ではあるがあらためてその問題を現代日本人のとるべき方向性への示唆ということで非常に意義深い内容になっていると思う。
シュタイナーを学ぶ日本人には必携の問題提起の書かもしれない。
●森岡正博「生命観を問いなおす/エコロジーから脳死まで」(ちくま新書)
「生命」をどうとらえてゆくべきか。現代文明はそれに対してどう考え、それに基づいてどうしてきているのか。まだ、その場合において生じている深刻な問題はなにか。そして、それを解決しようとしているさまざまな模索のはらんでいる根本的な問題点はどういうところにあるのか。そうしたことについて、通常考えられる範囲において、(「神秘学」は残念ながら「通常」には入らないのが残念だけれど^^;)きわめて注目すべき視点を提供しているすぐれた本である。
エコロジーの問題にしても、脳死の問題にしても、ここまですぐれた問題提起をしている本は現在ではまだなかなか見あたらないのではないだろうか。そういう意味で、現代人にとって必読の書だともいえる。新書版だから、1〜2時間もあればらくらく読める程度の分量だし、内容の重さにもかかわらず、非常に平易に読めるのもすぐれたところだ。
なかには、鳥山敏子さんの視点も紹介されているし、脳死に関する梅原猛さんの視点のすぐれた点とそれに欠落している点への非常に根本的な疑問点の提示とそれにたいする著者ならではの卓見も示されている。 余談になるが、著者の森岡正博氏は、1958年高知県生まれだそうだが、ぼくもまったく同じなのに驚いてしまった。
さて、論点の基本の部分を引用で抽出しておくことにするが、できれば一度ぜひ手にとって読み通してほしいと思う。
「現代の危機を生みだしたのは、ほかならぬ私たち自身のなかにひそむ「生命の欲望」なのだ」。そういう自覚を持つことが重要だと、私は本書でくりかえしてきました。
その点に目を閉ざしたまま。人間と自然が一体となる思想だとか、生きとし生けるものと共存する哲学などを提唱しても、とても空しいと感じるのです。
自然支配がここまで進んでしまったのも、あるいは脳死の人の身体をパーツに分割して利用しつくす技術がここまで現実化したのも、私たち自身のなかにそれを望む「生命の欲望」がひそんでいたからです。
・・・
私たちが、自然支配や、脳死身体の利用を押し進めてきたのは、私たちが「生命の思想」をどこかに見失ってしまったからではありません。
そうではなくて、「生命」として生きる私たちの奥深い本性のなかに、「他の生命や自然を一方的に利用してまでも自分たちは快適に生き続けたい」という欲望がしっかりと存在しているからこそ、私たちは自然や生命の搾取に加担してきたのです。
そして、その「生命の欲望」と、現代の科学技術・社会システムとのあいだには、いまや独自の「共犯関係」が形成されています。・・・ 自らの内にひそみ「生命の欲望」をかなえてくれるものであれば、たとえそれが生命の原理に反するような技術であったとしても、私たちはそれを受容し、活用しつくそうとします。機械論・二元論・還元論にもとづく科学技術は、そのこころの隙間に侵入して、どんどん増殖します。そして、社会システムは、そうしう科学技術が浸透しやすいような構造へと、徐々に改変されていきます。
これが、私の言う「共犯関係」なのです。・・・
この「共犯関係」を正面から見ようとしない学問は、結局のところ、現代文明をその本質においてとらえることができない、単なるウケ狙いの座興に終わってしまうでしょう。 (P197-199)
●大前研一/ビル・トッテン/田原総一郎
「うろたえるな、日本/アジアから見た日米関係」(徳間書店)
今、そしてこれからは、アジアが面白い!そして、アジアを見ることで、日本をもう一度見直さなければならない。
しばらく前から、アジアの国々のことをいろいろ調べはじめているのだが、これまでの自分の無知がいきなり露呈してきた^^;。そして、その自分の無知をバネにして、しばらくはアジアについてできるだけ見ていこうという気になっている。
そのきっかけになったのが、司馬遼太郎さんの「街道を行く」シリーズの最新刊「台湾紀行」(朝日新聞社)であり、そこにでてくる台湾の李登輝総統である。お恥ずかしい話、ぼくは台湾の歴史について、徹底的な無知であった^^;。そして、この李登輝総統についても。
そうしてアジア及びその周辺の国々の指導者を見回してみると、マレーシアのマハティール、シンガポールのゴー・チョクトン、オーストラリアおポール・キーティング、フィリピンのラモス、インドのナラシマ・ラオ、ベトナムのボー・バン・キエトなど優れた指導者が続々とでてきていることに驚かされる。
国や地域が活性化するときには、そこに必ず突然変異のように多くの優れた人たちが集約してくるようである。そういう意味でも、アジアの今後は非常に面白いと思う。
ふりかえって日本を見ると、政治家のなんたる不作。なんだか、まだ誰が天下をとるのかわからない時期の戦国時代のようなありさまで、まだまだ混沌が続くのかもしれない。
この本は、日米関係の基本的な問題やアジアの可能性について提示しながらその上で、では日本はどうすればいいのかを考えさせてくれる好著である。
●司馬遼太郎「台湾紀行/街道を行く四十」(朝日新聞社)
司馬遼太郎の著書はどれを読んでも、深い。そして、深いだけではなく、かなり広い。その点では、ノーベル賞は大江健三郎よりも司馬遼太郎のほうがいい。大江健三郎の作品は純粋さでは深いが、それで視野が広くなるとは思えないからだ。
ぼくは、高校生の頃から大江健三郎の著書をかなり読んできたが、読めば読むほど世界は広がるどころか狭くなっていったように思う^^;。高校生から大学生のぼくにとって、それがある種の刺激になったことだけは確かだが、それで日本や世界、歴史などを深く見ることができなくなったことは否めない。もちろん、ノーベル賞を批判的に見れば、大江健三郎の受賞が適切だとは思うのだけれど^^;。(そういう意味では、司馬遼太郎とノーベル賞はフィットしない)しかし、大江健三郎は、地元愛媛県を含めて勲章の類を拒否しているが、なぜノーベル賞は拒否しなかったのかが疑問である。(疑問であるといっても、ノーベル賞が国内の勲章の性格とどうちがっているのかを大江氏はどう説明するのだろうという疑問だが)
話がそれてしまったが、台湾についての今回のエッセイ集はぼくの目を一気にアジアに開かせてくれた。巻末には、李登輝総統と司馬遼太郎の特別対談も収められている。紹介するべきテーマは多いが、その中でひとつ、六十一歳の時に蒋経国晩年の「台湾化政策」によって副総統に指名され、農業経済という専門から、望んだことではなく総統になった李登輝に関連して「権力」ということについて。
世界には、多用で多数の国家権力がある。李登輝さんは、そのひとつを持ちながら、しかもにこにこしている。「よくそんな座にお着きになりましたね」と、私は感心したような、あきれたような感想を、質問がわりに述べた。李登輝さんは、即座に反応した。「−−権力を自分にひきよせるのではなくて」やや内気(シャイ)な微笑をうかべながら、「まして自分が権力そもののになるのではなくて、ここ(机の上)に置いていわば権力を客観化して、……つまり実際主義(プラグマティズム)でもって、権力から役に立つものだけをひきだせばいい、と思っているんです」といった。多年、そのことを考えてきたらしく、一気に述べた言葉がすべて体温を帯びていた。しかも言い方が初々しく、若い研究者が、実験装置を前に、学問としてその主題を語っているかのようでもあった。すでに齢をとり、七十にもなるこの人がである。 (P98)
人を、そしてその歴史を考えるのに、司馬遼太郎氏の著書は素晴らしい力を発揮してくれる。今回の「台湾紀行」はまた格別である。この著書のおかげで、他のアジアの国々の指導者たちについても非常に興味がでてきた。まずは、シンガポールやマレーシアなどについてもその歴史と現在について調べてきたくなっている。
司馬遼太郎は、人と歴史、そしてそのこれからについてどこまでも興味をかきたててくれる名手である。少なくとも、司馬遼太郎の著書を読んで、人が嫌いになる人はいないだろう。
●ミヒャエル・エンデ「自由の牢獄」(岩波書店)
「モモ」「はてしない物語」「鏡の中の鏡」に続くミヒャエル・エンデの新作がいよいよ翻訳された。以前、その原書(ドイツ語)は優位さんよりもらい受けたのだけれど、けっこう難しいので少しだけ読んでそのままになっていたのだが^^;、やはり日本語に訳されているとすぐに読むことができた。
今回の新作は、いくつかの短編で構成されている。テーマが人間の根源的なものに関わるともいるものなので、決して気軽に読めるファンタジーという感じではないが、モノトーンではなく、かなり色彩豊かなので、そう重苦しい感じではない。
世界はなぜあるのか。また、世界とはいったいなにか。現実とはいったい何か。時間とは、また空間とはなにか。私はなぜここにいるのか。私が生きているということはどういうことなのか。救済とはいったいどういうことなのか。
そういったテーマが変奏されながら、さまざまな色彩で奏でられている。エンデファンならば、やはり読んでおくべき1冊だろう。
あとは、読んでのお楽しみ。
●知の本質「社会の謎を主体の研究に転換しよう」(三五館)
そのなかから少し。
一本の川といえども、その源流は、数多いはずである。数多くの小川の流れが合流して、次第に大きな流れに変わり、河口にたどり着く。この状況を河口に立って、その支流まで見渡すとすれば、一本の木が枝分かれして細くなっているイメージに置き換えることができる。即ち、川というモノは、大きな河口からその源流に向けて、一本の木のように、細分化された幾何学的模様を表しているという「一つの公理」が得られる。
そこで、水は高いところから低いところに向かって流れる、という常識・・・に照らせば、上流から下流に向けて、「統合される」というイメージが得られる。これは、上流における多数の支流を「細分化」と見なせば、今度は、「細分化から統合」への成りゆきが、常識・・・になってしまう。
現代科学の特徴は、「細分化の一途を辿る」ことにある。これは、一本の木が枝分かれして細くなる状況に似ている。そこで、前期の「公理」に照らせば、「水は、低い所(河口)から高い所(源流)」に向かって流れるという意味になり、「公理違反」が生じる。
この「公理違反」を正当化するためには、局面を変える必要がある。それは、一般的な「河口」ではなく、むしろ、「火口に溜まった湖(=河口)」から枝分かれして流れ出る、特殊な川の極限された領域のイメージに近い。この時、源流と河口を尺取虫のように操作して、その高さを変えてるのである。この高さを操作するという観点は、「ド・レ・ミ・ファのオクターブ操作」に置き換えると、解りやすいかもしれない。 (P24-25)
ここに観測者の問題が登場してきます。これまでの科学というのは、「観測者」を限定してしまうことによって、袋小路に自らを追い込んでしまうものでしかありませんでした。そういう状況から脱するためには、みずからのなかに、多くの「観測者」をつくりだすということが必要になります。そこらへんのことについて、ご紹介を続けましょう。
「観測者Aと観測者B」は、「違う高さに存在する観測者」としてのイメージを描く必要がある。それは、同じ「ド」を聴く観測者でも、オクターブの違いを背景に持つ違う観測者なのである。
・・・「観測者Aから、観測者Bに切り換える」という場合、「観測者Aと観測者B」は、「同じ高さに存在」しても不都合ではないはずである。そして、「切り換える」ということを、コンピュータ用語の「アクセスし直す」という具合に考えてみよう。つまり、脳の中には、「視点を定め、限定して見る、独立した多数の観測者」が実在し、その一方で、脳の中には、ソフトウェアも実在する、というわけである。そして、そのソフトウェアの仕事の内容は、多数の観測者の中から、常に、一人の観測者だけを「選んでアクセスする」タイプの仕事であると考えればよい。(P30-31)
こうした「脳の中のソフトウェア」のイメージで、自分の中に多くの観測者を作り出せないことが、現代にさまざまな諸問題を引き起こしている根本原因なのかもしれません。つまり、オクターブの違う「ド」を同じ「ド」だとしか認識しようとしないようなひとつだけの観測者の視点以外を想定できないために、情報量は細分化して増えるばかりで、「統合」「調和」の方向を向かないということです。つまり、違った支流の川で生活していると、他の川のことがわからなくなり、それぞれの川どうしの調和や統合ということができなくなってしまうわけです。
音階にたとえれば、本来の「秩序や調和」という観点は、高さの違う「観測者Aと観測者B」の関係をつなぐ知識、オクターブの違いまで表現された「知識の体系」からしか得られない。従って、現代科学の常識に基づく知識量が増えるにつれ、政治に対する「個人の無関心度」、「全体に対する個人の関係の無関心度」が増えることを意味する。政治とは、「尺取虫の川」、つまり「一つの、大きな源流(本来の川の河口が、本来の川の多数の源流よりも高くなった状態)」に立って、「すべての支流まで、見通す観測者の作業」に相当するからです。 (P33)
そこで、「人の道」を確立する学問の必要性がでてきます。
前節は、いくら学問して現代的知識の集積に努めても、事にあたって、どのような行動を取るのが自分にとってベストであるのかという結論を導き出せない、という意味である。
このような視点に対して、東洋の歴史は、人の道、つまり道徳を確立することが学問であったことを思い起こしていただきたい。
道徳を言葉で表現するために、むしろ、言葉の構造の矛盾に突き当たり、禅の思想に発展していったプロセスが、西洋とは対照的である。道徳という考え方は、次第に大きくなる階層構造の前提がなければ、登場しないだろう。この階層構造の捉え方は、私の視点では、西洋流の「ミクロの量子論」を「マクロの量子論」に発展させたモノに相当する。ところが、西洋流の視点からは「マクロの量子論」のイメージが、まったく登場しない。現代の学問が、西洋のモノサシだけで構築されているために、人の行動規範が生まれてこないという指摘は、「マクロの量子論」を確立できないという指摘と同じである。 (P35-36)
先日から、この会議室で、孔子や老子のことが少し話題になっていますが、そうした叡智を新しい科学の視点から捉え直すことができれば、上記でご紹介したような統合と調和を基調にしたあり方がでてくるのではないか。そんなことをいろいろ考えさせられます。
科学というのも、東洋と西洋のそれぞれの視点の特質を生かして、マクロとミクロの視点のソフトウェアをバランス欲統合させていくことが必須の課題としてきているのではないかと思います。その基盤は、やはりひとりひとりの視点にあるのですから、転びながらでも、バランスをとれるようになることが、新しい時代を創造していくためにはどうしても必要なことなのでしょうね。