■ルドルフ・シュタイナー
「シュタイナー 霊的宇宙論/霊界のヒエラルキアと物質界におけるその反映」
(高橋巌訳/春秋社/1998.12.20発行)
ちょうど7年ほどまえ、NIFTYSERVEで「シュタイナー研究室」を始めたばかりのころ、ちょうど東京への出張の機会があり、その際、高橋巌さんの講義を受けることができたのですが、そのテキストがまさに本書だということで、ぼくにとっては、とても思い出深い内容の講義です。その折には、講義が終わって食事をしながら、ソロヴィヨフなどの話なども直接お聞きできたりしたこともまるで昨日のことのように思い出されます。
その時の講義は、確かこの第二講の「四大存在」のところにあたっていて、「四大霊の解放」とういうことに関連して、柳宗悦さんの話などもでていました。つまり、「四大霊」を「解放」するということは、民芸や茶道や妙好人などについての柳宗悦さんの姿勢と深く関係してくるのではないかということです。「供養」ということともそれは関係してきます。
「地」「水」「火」「風」の「四大存在」は、事物のなかに閉じこめられているといえるのですが、人間はそうした存在たちを解放する義務があるといえるのです。人間は、知覚活動を行なう場合には、「四大存在」たちが人間の中に入ってきます。その際、その印象を深く心に受けとめたり、美しいと感じたり、そうした霊的存在たちについて思いをいたしたりすることで、そうした流れ込んでくる「四大存在」たちを救済しているというのです。
ですから、茶碗を真の意味で愛でたりするというのも、「四大存在」たちを救済するということにつながりますし、針供養など、一見命のないものにまで「供養」を行なうということなども、まさに「四大存在」たちの救済のための儀式だともいえるのではないでしょうか。
さて、本書の一部分にだけこだわるのはこれくくらいにして、本書に盛り込まれている内容を概観しておくことにします。
本書は、1909年4月12日〜4月18日に行なわれた以下のような10回の講義で、全集版では、GA110に収められています。
第一講 叡智の公開
第二講 四大存在
第三講 人間の起源
第四講 流出
第五講 太陽系の進化
第六講 霊的に見た天動説
第七講 人格霊、大天使、天使
第八講 惑星の生成過程
第九講 人間とは何者なのか
第十講 進化の目標
また、訳者の高橋巌さんの配慮で、「あまりにも簡単な要約になりすぎていて読者の参考にはならず、むしろ疑問を増すことになりかねない」ということで、原書にある質疑応答の部分は省略され、その代わりに別の講義から、理解の補足になるであろう次のテーマについて4つの「付録」が載せられています。
付録1 ヒエラルキアについて(その一)
付録2 ヒエラルキアについて(その二)
付録3 三位一体について
付録4 物質界と元素界
さて、本書は、「神秘学概論」に述べられているような宇宙進化についてそれをさらに深め詳述するような内容となっています。
その機軸となっているのが、「ヒエラルキア」第一ヒエラルキアである、セラフィム、ケルビム、トローネ、第二ヒエラルキアである、キュリオテテス、デュナメイス、エクスシアイ、第三ヒエラルキアである、アルヒャイ、大天使、天使、で、それらのヒエラルキアが、どのようにこの太陽系宇宙を創造したのか、そして第10番目の位階であるともいえる人間はいったいどのような存在でそしてそれは何をめざしているのかということが壮大に、感動的な仕方で、深い認識衝動を喚起するかたちで語られています。
しかし、こういう講義を読むと、あらためて、シュタイナーを読んできてほんとうによかったという感慨がわいてきます。とくに、第九講「人間とは何者なのか」、第十講「進化の目標」あたりで、人間が人間であるということがいったいどういうことなのかがまさにめくるめくマクロコスモスとミクロコスモスとの関連のなかで感動的に明らかにされていくところなどは、得難い体験ともなります。
宇宙の進化は、決して単純な繰り返しをするのではありません。新しい何かがそのつど生じるのです。実際、私たちが今している人間性を、天使も、大天使も、人格霊ももっていませんでした。人間はまったく新しい使命を、宇宙の中で果たさなければなりません。私たちはその使命について述べてきたのです。
私たち人間はこの使命を達成するために、地上に降りてきました。その人間に対して、キリストが自由なる助け人として、この世に現われたのです。上から働きかける神としてではなく、多くの人びとの中の最初に生まれた人としてです。
このようにして、ヒエラルキアの中での人間の意味が理解できます。偉大で壮麗なヒエラルキアの存在を見上げるとき、私たちは次のようにいうことができます。「高次の存在たちは、道を踏み誤ることが決してありえない。それほどに偉大で、賢明で、善良である。けれども人間は、世界に自由をもたらし、自由と共に愛をも世界にもたらすという、偉大な使命を背負っている。」
自由がなければ、愛の行為が崇高な在り方を示すことはできません。無条件的に衝動に従わねばならない存在は、まさにそれに従って生きています。勝手なことを行なうことのできる存在にとって、従わねばならぬ衝動はただ愛だけなのです。自由と愛とは、互いに結び合うことのできる両極です。私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルツィフェルを通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルツィフェルの克服者でもあるキリストを通してのみ、可能なのです。(P207-208)
■河合隼雄・村上春樹「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」
(新潮文庫/平成11年1月1日発行)
ちょうど二年ほど前に岩波書店から刊行されたものの文庫化。そのとき立ち読みしてすませてしまったのだけれど、文庫化になったということで今回はじっくり読むことができ、あらたな発見がたくさんありました。
これはおそらく、少し前に文芸春秋から刊行された村上春樹「アンダーグラウンド2」に収められている河合隼雄との対談と連動した内容になっているのではないかと思います。
やはり特にぼくなりにあらためて考えてみようと思ったのは、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」ででてきた「井戸掘り」ということとコミットメントということとの関係についてということでした。
村上 コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。(P84)
村上春樹の小説になぜずっと惹かれ続けているのかというと、村上春樹自身も「以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだった」といっているように、安易な「ハンド・イン・ハンド」を避けながらどうやって自分なりに生きていくかということがぼくにとっても重要な問題だったからだといえます。
しかしそのデタッチメントというのは、逃避というのではなく、自分という存在をとこと掘り下げていくことが何よりも重要なことだったということが今になって思えばわかるような気がします。
なぜぼくが「ハンド・イン・ハンド」がずっとだめだったのか。もちろん今でもどうにもそのダサさがだめなのだけれど、そのダサさというのは、あまりにも自分を見ることを避けるがゆえの快適さ、つまりは平和主義にもつながる安易な「ぼくにさやしくして!」指向、とでもいえるものに対する反発でもあったと思うのです。
もし「コミットメント」するのだとしたら、やはり「井戸掘り」から始めてそこからのものでなくては、ぼくとしてはどうにも納得がいかない。村上春樹もいうように、その井戸の中から「壁抜け」をするためには、かぎりない力が必要になってきます。「わくわく」してプラス発想すればすべてOKなどというような「ぼくを癒して!」というようなことでは不可能な道。
そうした問題をふくめ、物語ということ、結婚ということ、暴力性ということなど、現代の日本を生きるためには、どうしても避けて通れない問題についていっしょに考えていくための示唆が満載されているにも関わらず、これだけコンパクトで読みやすくなっているのは、村上春樹という語り部と河合隼雄という老賢人という類稀なセッションゆえのものではないかという気がします。
■池田晶子「考える日々」(毎日新聞社/1998.12.25)
本書は、「サンデー毎日」(1998.2.22号〜12.6号)、月刊「ボイス」(1997年の一年間)に連載されていたコラムなどをまとめて一冊にしたもので、4〜5ページが一つのテーマになっている。とはいえ、著者がいわんとすることは、「ちゃんと考えたい、考えましょう」ということに尽きるのではないかと思っている。で、こういう本を読むと、著者ではないが「考える人がここにいる」という感慨のようなものを持つことができて、ほっとする。
著者の池田晶子は「専門用語によらない哲学実践の表現を開拓する気鋭哲学者」というふうにプロフィールには書かれてあるが、早い話、この人は「ちゃんと考えたい、考えましょう」と言っているわけで、なぜそういうことを言うかというと、世の中には「考える人」というのがあまりにも少ないからで、そのことに深く共感できた。以前「考える人」(中公文庫)というのを読んで、「ううむ、あたりまえのことをこれだけあたりまえのように言える人が現代にもちゃんと存在しているのだ」と感じたのだが、本書ではコラムということもあり、それがもっとわかりやすく読める。しかし、そのわかりやすさというのは、当たり前のことが書かれているだけに、多くの人にとっては当たり前ではないということなのかもしれない。
哲学がブームということも一時期言われたりもしたが、それは多くの場合、哲学者が何を言ったかとかいうことを入門書だけを読んで受け売りをすることをファッション化しただけにすぎない。もちろんそのことが「考えること」の大きなきっかけになればそれに越したことはないのだけれど、なかなかファッションを越えない。哲学ではなく、知識と情報でしかないからだ。
たとえば、著者は本書の最後にある「「知る」ことは、権利なのか」につぎのようにある。
「知る権利」なんてものが、はたしてあるのか。知るべきことと知らなくてもいいことがあるということを知るほうが、順序としては先ではないのか。それを「知る義務」のほうが、先ではないのか。
ところで、知るべきことと知らなくてもいいことがあるということを知るためには、人は、「知る」とは何かを考えなければならない。「知る」とは何かを考えて知ること、これは古くより「哲学」と呼ばれる普遍的な知の営みである。知ることを愛するから「愛知学(フィロソフィー)」なのであり、「知ることを愛するのは、それを知ることが自分の知恵となることを知っているからにほかならない。有名人の醜聞を知ることは、自分にとっていかなる知恵ともならない。したがって、それらを知ることを、「知る」とは呼ばない。そんなものを知ることは、「知る」の何はもとからして値してないないのだ。「知る権利」ではなくて「知る義務」、すなわち「考える義務」こそが、このマスコミ大衆社会では掲げられるべきなのである。しかし、このマスコミ大衆社会だからこそ、こんなに不可能なこともないのである。この逆説をひとりひとりが自覚する以外に、もうあとはない。(P258)
マスコミが芸能人、有名人のあれこれを「大衆」に提供するということのばかばかしさは言うまでもないことなのだけれど、問題はそうしたどうでもいいことを「知る権利」だとかいうことで問題にするということのほうであって、まさに「考える義務」ということをひとりひとりが自覚することがどうしても必要なのだと思う。
なのに、世の中にはすぐに「入門書」「ハウツー」があふれていて、考える代わりに固定化し、「考え」の死骸を要求することがあまりに多い。やはり、「自分で考える」ということからはじめなければ、と思う。あたりまえのことは自分で考えてみればあたりまえのことなのだけれど、それは決して「わかりやすい」ことでもなければ、だれかに代わってあげられることでもない。「わかりやすい」というのは、「癒し」というのと同じで、「あなたは考えなくてもいいんだよ」という麻薬にすぎない。もちろん、自分で考える人にとっては、すぐにわかることもあれば、ずっとあきらめずに考え続けなければならないこともあるけれど、「近道」というのはないように思う。
シュタイナーの「精神科学」も、とてもむずかしいのだけれど、それにしてもおそらく「入門書」というのは基本的にないと思う。で、入門書というのはないのだけれど、ある意味でそれに代わるのは、本書のように「考える」ということから始める必要性をまあ、しつこく書いているものなのかもしれないと思う。そういう意味で、本書はシュタイナーの「精神科学」の「入門書」としてとらえてみることもできるのではないかという気がしている。たとえばここでは、ちゃんと「自由」ということも「倫理性」ということにしても、シュタイナーの「自由の哲学」と通底するかたちでとらえられているのだから。
■葦原瑞穂「黎明」(コスモ・テン発行/1998.12.1)
本書は、このA6サイズで600ページを越える大著は、現在、霊的なことについてアプローチするにあたって、知っておかなければならないであろう事柄や姿勢などについてまた、神秘学的な基本的認識についてトータルにアプローチされているとても画期的な一冊なのではないかと思います。
とても地味で洗練とはほど遠い装幀で、おそらくペンネームであろう著者名やタイトルのせいもあって、最初に書店で見たときには、いかがわしげなイメージがあったのですが^^;、読み始めてみると印象が一変。一冊のなかにかなり広範なテーマがびっしりと詰まっている関係から、第27章まであるそれぞれの章で書かれている内容にはスペースの関係で限界があるとはいえ、ぼくの理解の範囲でいえば、過不足のないかたちで神秘学的な基本的認識が盛り込まれていると思います。少なくともぼくの理解と基本的なところで異なっていたり異議を提出したい部分などはまるでありませんでした。それでここ数日間、ずっと本書を読み続けてきたのですけど、とても充実した時間を過ごせたように思いますし、これからも随時参考にしていきたいと思っています。
しかも、著者は、「著者のパーソナリティという幻想に」関心をもつということを、本書が著わされた目的に反するということで意識的にプロフィールを明かしていません。その点でも、宗教団体やニューエージやチャネラーなどの持つ危険性を十分に知悉した上での賢明さを有していることがわかります。
本書は、現在地球上で生活をしている私達人間の実相と、現象的に置かれている状況、そして近い将来に起こる、また現在起こりつつある変化と、すでに起こったことを理解し、適切な対応をするために、情報を必要とされる方々に提供させていただく目的で、普通の方法に因り書かれたものです。
本書は必然性があって記されたものではありますが、このように外側から過剰な情報を提供することには、マイナス面もあるということをよく理解していただきたいと思います。本文の中で繰り返し注意してきましたように、知識として受け取られたものは、心の中に様々な固定観念を造り出して、普遍意識の顕現をかえって妨げてしまう場合があるからです。(中略)
もうひとつは、その人の霊的成長に関わるもので、外部から簡単に答えを与えてしまえば、その人はその疑問からは解放されるかもしれませんが、その人が自分の内側からその答えを引き出したときに得られる、大きな進歩を奪ってしまうことになります。(中略)
従って、普遍意識の顕現を今生でめざそうとされる方は、今後、いっさいの答えを外側に求めることなく、自分の内側から引き出すように努力されることが、ご自身の確実な進歩につながると言うことを、理解していただきたいと思います。(P622-623)
とはいえ、上記の引用にもあるように、本書の基本姿勢は、「普遍意識の顕現」、わかりやすくいえば「悟り」を目指した神智学的なアプローチであって、シュタイナーのアプローチを「人智学」と呼ぶならば、いわばその「神-智学」と「人-智学」という違いがあるように感じました。それは、サイババやババジなどの言葉が本書ではよく引用されることにも象徴されています。しかし、著者は、神智学やチャネリングなどのアプローチの持つ危険性などについてはしっかりと繰り返し強調してありますし、認識的に欠落したところや軽率な側面はほとんど感じられませんので、あくまでもアプローチするスタンスの差というか著者の属しているであろう霊的背景とシュタイナーのそれとの違いだということだと思います。
ぼく自身の指向でいえば、シュタイナーのそれと近いようで、「神-智学」的なアプローチよりも「人-智学」的なそれによってはじめて、自分が「人間」という存在であるということへのかけがえのなさと誇りのようなものを感じることができました。シュタイナーの人智学にふれる前に、少しは神智学的な観点も知ってはいたのですけど、そこからはどうしても「人間」への関心というモチベーションを得ることがぼくとしてはあまりできなかったのです。
本書の記述は、地球外生命などにもふれていることなど、ある意味では、シュタイナーの神秘学より広範囲でもありますがその観点は、シュタイナーのような「人間」が「人間」であるということからくる社会や農業や医学などへのアプローチとは質を異にしています。認識が異なっているというのではなく、関心の比重が異なっているということです。
これはあくまでも個々人の指向性の違いということですし、ある意味では、シュタイナーのようなアプローチよりも、日本人には本書のようなアプローチのほうが親しみやすいかもしれませんし、すぐれた内容の本書は、霊的なことに関心を持ち、魂を向上させようという意図を持たれている方にとって、シュタイナーでいえば「神秘学概論」にあたるものではないかと思います。
本書は、最初にも述べたようにとても地味な本ですしおそらくそうたくさん発行されそうもない本だという気もしますので、機会があればぜひお手にとって読み進まれることをお薦めします。これだけの大部にして3,500円というのは決して高くはないと思いますし。
■東野圭吾「秘密」(文芸春秋/平成10年9月10日)
そういえば最近ミステリーっぽいものを読んでないなと思い、年末年始にでも読んでみるかと、選んだなかの1冊。けっこう評判はいいらしい。「'99年版このミステリーがすごい!」の第9位。(ちなみに1位は高村薫の「レディ・ジョーカー」)たしか「本の雑誌」では第1位。とはいえ、あまりこういう順位は信じないのだけれど、余興のときくらいはいいか、という感じ。
著者の東野圭吾は、ぼくと同い歳。1985年、「放課後」で第31回の江戸川乱歩章を受賞。けっこうベテランらしいけど、読んだのは初めて。
さて、40歳の男性の奥さんと11歳の娘がバスで事故にあって奥さんのほうは死んで娘のほうが生き残ったのだけれど、生き残ったのは体のほうで、その娘の心には死んだはずの奥さんの心が宿っていた・・・。というストーリーで始まるのだけれど、それで悩み始める主人公とその娘(奥さん)の姿がけっこう泣かせるし、エンディングもそれなりに味はある。
で、ミステリーとはいえ、ミステリー性は希薄で、SF風の設定のなかではたして生き残った娘は娘なのか奥さんなのかということがミステリーといえばいえる。
ストーリーはそれくらいにして、たしかにとても良くできた話で読み終えるまで一気読みという感じ。とはいえ、「神秘学遊戯団」での本の紹介だからあえていえば、「神秘学」という観点からすると、どうもフラストレーションだらけ。
まず、なぜ娘の体に奥さんの心が宿ったのかについてのアプローチがなんだかとってつけたようで、わざとらしい。主人公も、それについては少し調べただけで、その後は、娘=奥さんとの葛藤という感情面でのやりとりに終始するようになる。その葛藤は主に、奥さんという役割、娘という役割をかぎりなく固定的にとらえたがゆえのダブルバインドであって、そのダブルバインドを深い認識で越えようというアプローチはみられない。あくまでも、日本人好みのお涙ちょうだいで幕を閉じようという魂胆らしい。しかしそういう魂胆もまたこうして悲喜劇という感じで徹底するといいかもしれない。
さて、ミステリーを読んで多くの場合フラストレーションがたまるのは、そのミステリーを読んでいるときはいいとしても、読んだあと、そのストーリーに秘められたミステリーのもつ認識の深みがあまりにない場合、けっこう腹立たしいからだといえる。ミステリーではよく殺人事件がベースになることが多いのだけれど、事件が解決しても、登場人物の織りなす世界の認識は決してシフトしない。悲しみも喜びもその事件のまわりで浮遊するばかり。そういう意味でミステリーはとてもむずかしいと思う。先日のテレビドラマで「眠れる森」というのがあったのだけれど、評判のわりには、ミステリーとしてはけっこうお粗末だったし。それだったら、ハードボイルドのほうが小粋でいいところがある。チャンドラーなどの名作は何度読んでも味がある。
ミステリーでも、やはり人間が描き込んであるのは読後感もいいし、さらに、ミステリーそのものが読後も余韻を残すものはいい。できれば、それに加えて、謎が明らかになったことで、世界認識が少しでもシフトするようなものであればいいのだけれど・・・。
だから、シュタイナーの講義などを読むのがいちばんスリリングなのかもしれない。正真正銘の謎へのアプローチだし、謎が明らかにされるとともに認識もそれなりにシフトするし、読後感もとてもいい。しかも、シュタイナーの語る内容そのものが、宇宙詩というような響きを湛えている。
■坂東眞砂子「旅涯ての地」(角川書店/1998.10.31)
伝奇ロマンの傑作らしい「死国」が映画化されたようだけれど、「死国」は「四国」、著者はぼくと同じく高知県生まれ。97年「山妣」で直木賞を受賞したらしい。これまでは土俗的な感じのものを多く書いていたようだけど、今回の「旅涯ての地」は、ヴェネチアなどが舞台の歴史もの。これも、年末年始に物語に浸ろうとして選んだものの1冊。
時代は13世紀。主人公は倭人、つまり日本人の地を引く夏桂(かけい)という奴隷。密貿易に失敗して、奴隷になり、マルコ=ポーロ一族に買い取られヴェネチアに主人たちとともに帰還。
テーマは、キリストの「聖杯」、「カタリ派」、「マリア福音書」。主人公の夏桂が偶然手に入れた「カタリ派」の所有するイコンをめぐり異端の「カタリ派」の信者たちの住む「山の彼方」へ。
こんなストーリーなのだけれど、まずは「カタリ派」への興味から本を手に取った。この「カタリ派」というのは、「マニ教」と深い関係を持つキリスト教の異端。信徒は、転生ということを信じ、グノーシス的にこの世は悪だとし、もはや転生しなくてもすむようになることを願い、その異端の教えゆえに、数多くの人々が火あぶりにあった。
この「カタリ派」や「マニ教」への興味、キリスト教の偏狭さとキリスト教の教義などどうでもいい倭人の夏桂の生き方、そうしたものがマグダラのマリアの残したという福音書の謎をめぐってさまざまに織りなされるとてもよくできた物語になっている。最近読んだ「物語」のなかでは群を抜いていると思う。構成もとてもよくできているし、書きぶりも稚拙さはまるでない。主人公の夏桂を縦軸にしながら、最後までじっくり一気に読ませるし、しかも読後感もなかなかいい。おそらく、死海文書などにもつながるミステリー性などをそこに絡めていて、そこに深みが生まれているのかもしれない。
今、何か物語を読みたいと思っている方がいたら、お薦めの一冊。
■池田晶子「帰ってきたソクラテス」(新潮社/平成6年10月15日)
知らないことを知らないと言い、知ることを知る、という認識と勇気を哲学の祖ともいうべきソクラテスの精神から学ばなければ、と実際にはソクラテスではなくソクラテスになった池田晶子の著書から再認識させられた。
池田晶子は「哲学」という言葉によってむしろ失われてしまうことにもなりがちの哲学の原点のところに常に立ち返るところから言葉を紡ぎ出す。学術用語ではなく、普通ぼくらが使っている言葉で。
しかしそれを「わかりやすい」と思ってしまうことは避けなければならないだろう。哲学用語などで枠のなかに囲まれてしまいがちのことがそこでは直に今自分の認識そのものとして問い直されてくるからだ。そこには知識という親方日の丸も持ち出してくることはできない。今自分が考えること、いや自分がというそのことさえもふくめて「考える」ということそのものが問題になってくる。
知らないのに知っていると思って、いや知らないことを知っているとしても、それを既に知っていることとして語ることがぼくらにはいかに多いことだろうか。知らないことを知っているという認識と勇気。そこから出発することが何よりも必要であるのではないだろうか。
そもそも最大の謎は、私がここにいること、なぜいるのだろうという以前に、ここにこうして存在しているということそのものの前では、ひたすら沈黙する以外なすすべをしらない。そこでは私は名づけられた存在であることをすでに止めている。
本書は、ソクラテスやその悪妻といわれたクサンチッペとさまざまな「立場」の人たちとの対話が収められている。そしてその都度、それらの「立場」の根底のところに立ち戻るようソクラテスはその特有の話術で導いていく。たとえば、政治改革をしようとする議員、老人福祉係、ニュースキャスター、侍従、評論家、エコロジスト、フェミニスト、学者、プランナー、コピーライター、サラリーマンと妻、元左翼、実業家、人権擁護会長、性を語ろう女たちの会会長、作家、イエス、釈迦、脳死臨調委員などなど。多くの「哲学者」といわれている方の議論からは往々にして抜け落ちてしまうような根源的な問題性がここではしなやかに、けれど限りなく真剣に扱われている。
本書は、池田晶子の「悪妻に訊け」「さよならソクラテス」とともに対話編三部作としてすでに刊行されているものの最初の一冊。言葉だけがやたらにむずかしい哲学書とされているものよりも今この自分を問い直すためには格好の著書ではないかと思う。そして、こうした姿勢からこそ、神秘学への道が開けているのだろうと確信に近いものを感じさせられさえする。
■「魂よ、目覚めよ/霊感と芸術の創造」(岩波書店/1998.10.26)
本書は、まさに「魂よ、目覚めよ」ということを芸術を機軸としながら、「西洋と東洋を超えた地点」に見出そうとするとても素晴らしいアプローチになっています。
門脇佳吉さんはカトリックの司祭でもありながら、キリスト教神秘主義と禅など、西洋と東洋の宗教の根底にあるものへのあくなきアプローチを続けられている注目すべき方なので、以前より「道の形而上学−−芭蕉・道元・イエス」「身の形而上学−−道元と聖書における『智慧に満ちた全身』論」「日本の宗教とキリストの道」などから啓発を受けてきたのですけど、著者のようないわば純宗教的な方の言葉というのはそう得意ではないほうですし、案の定、特に第二章の自伝的な信仰告白のようなところで挫折しかけたのですけどそんなぼく特有の偏見を乗り越えてよかったと思っています^^;。
本書には、その中心に、第二部として、「魂の息吹をめぐる対話−−芸術と宗教」という次のような対話が収められています。
加賀乙彦との対話 「魂に目覚め、二十一世紀を拓く」
「現代日本を覆う闇を照らす」
細川俊夫との対話 「魂を震わす音楽」の創造
蜷川幸雄との対話 「魂の感動から生まれる演劇」
実は、本書を購入した動機は、ぼくが現在もっとも注目しているといえる現代音楽の作曲家・細川俊夫さんとの対話に目を通して、そのなかに、著者の次のような細川俊夫さんへの言葉があったからです。
私は細川さんに、ぜひ受難曲を書いていただきたいという望みを強く持っております。それは友人としての願いです。私は細川さんの仕事を長い目で見守りつつ、それを待っております。やはり二十一世紀の未来を考えるとき、東西の出会いということがまずあると思います。東西の中でも特に宗教的な仏教、とりわけ禅とキリスト教との出会いというのは非常に重要なモーメントになってくるだろうと思っています。私の仕事も細川さんの仕事も、そこに意義を感じ、そういうものを目指していると思います。(中略)
それで考えたのは、そういう神学なしにはああいう音楽が生まれてこないのだから、ぜひ私も音楽が生まれるような神学を書きたいと思ったのです。それで細川さんとの交わりの中でぜひ、バッハの受難曲に相当するような新しい受難曲を書くための手助けができればという野望を持っているのです。(P100-102)
門脇佳吉さんの神学的なアプローチというのは、その神秘主義的な傾向性もふくめて、シュタイナーの神秘学から見るととてもよくわかるように思います。
本書を読んでぼくがもっとも頷かされたのは、最近の日本によく見られるような、ただただ近代合理主義を批判し縄文的なものを復活させようとするようなネオ・アニミズムの持つ危険性を明確に認識している点でした。
門脇佳吉さんも細川俊夫さんも、いわゆる「ヨーロッパの学問」、そして「西洋音楽」を学ぶことによって「 内容そのものではなくて、考え方、思索の能力、ものを洞察する能力といったものを学んだ」(門脇佳吉/P87-88)ということですが、たとえば、日本的なあり方だと、そういう「思考」「洞察」といったプロセスがなおざりにされてしまい、アニミズム的なあり方のなかに溶け込んでしまう傾向があるのではないかと思います。そういうあり方からは、新しいものを創造したり学んだりするということに対しむしろ否定的な方向性が生まれてこざるをえません。そこには、門脇佳吉さんのいうところの「魂」が目覚めていないのです。
だからこそ、たとえば、細川俊夫さんの音楽に対する評価にしても、むしろ日本では理解されがたくなっているような現象が起こります。蜷川幸雄さんとの対話にもありますが、そのシェークスピア劇という試みに対して、日本ではむしろ不評で、イギリスで評価を得たりもします。
日本でシュタイナーの精神科学を学ぶということも、そうした門脇佳吉さんや細川俊夫さんなどの試みと通じているような気がします。「内容」を学ぶ以前に「考え方、思索の能力、ものを洞察する能力」ということを積極的に学ぶ必要があると思うのです。シュタイナー自身が自分の言っていることを鵜呑みにしたり図式的にとらえないようにというふうに繰り返し言っているように、自分で考えるということが「精神科学」の基礎なのだといえますから。
■司馬遼太郎「対談集・日本人への遺言」(朝日文庫/1999.2.1)
司馬遼太郎の亡くなる直前に行なわれた田中直毅、ロナルド・トビとの対談を含んだ対談集の文庫化。
死後数年経ち、司馬遼太郎の遺したものは、生前より多くの波紋を投げかけているといえる。
司馬遼太郎を尊敬しているという人もやたら多くなった。こちらの地元に関係した小説などを多く遺した関係からいろんな動きも多くなってきたように見える。知人の刊行している地元雑誌での特集はかなりの売れ行きを示している。
元衆議院議員で今度市長選に立候補を表明したばかりの方も、「坂の上の雲」を愛読書に挙げていた。この方はぼくよりひとつ年下の方なのだけれど、実際、非常な理想に燃えている方で話しているととてもさわやかな方だ。
また、司馬遼太郎のみどり夫人は近々ぼくの友人の庵(とは名ばかりで、実際は辺鄙な田舎屋を借りて改造途中の猫塚^^;)に来られるそうだ。そんなこんなで、ぼくのまわりには司馬遼太郎の話が絶えない。
ともあれ、司馬遼太郎の遺したものはいったい何だろう。それを最近ときおり考えるようになった。
本書の最後に収められている「解題にかえて」(田中直毅)に、こうある。
『三四郎』の広田先生の言をひいて「日本は滅びるね」と結ばれることが、この晩年には多かったという。
たしかにこのままいくと、「日本は滅びるね」というのも妙な説得力をもっているように思う。もっとも「日本は」以上に「世界は」だろうけれども・・・。
そういえば、サイババは次のように日本について言っている。
日本は私を識るのが最後になり、しかも最大になり、そしてもっとも良く私を理解するように成るであろう。
もちろん、ここにいう「私」というのは、サイババという肉体上の個人という意味ではなく、いわばキリスト的な意味でいわれている「私」のこと。
今、日本は「私」を識らないでいるように思う。日本におけるシュタイナーの精神科学の意味というのは、おそらくその「私」の導入とでもいうことなのではないかと思っている。つまり、「キリスト衝動」ということ。
おそらく、日本は「私」を識ることによって変容するのではないか。その変容は「死」と「再生」を伴うのかもしれない。その「死」は、過去の霊性の「死」と「再生」でもあり、今、その「死」に際してさまざまな魑魅魍魎が日本を跳梁しているような気配が強くある。過去の霊性という魑魅魍魎は、「死」と「再生」によっておそらくは「もっとも良く」「私」を「理解するように成る」。
本書とは直接あまり関係のないことを書いてしまったけれども、司馬遼太郎は、日本という磁場を見つめる際にとても有効な視点を数多く提示することができたのではないかと思う。
そういう意味で、こうした日本についての比較的最近の対談を読んでおくこともそれなりに意味深いことではないだろうか。
さて、テーマと対談の相手は、次の通り。
田中直毅/日本人への遺言
宮崎駿/日本人、そして世界はどこへゆくのか
大前研一/日本の選択
榎本守恵/さいはての歴史と心
武村正義/琵琶湖を語る
ロナルド・トビ/異国と鎖国
■カルロス・カスタネダ「呪術の実践」(結城山和夫訳/二見書房/1998.12.25)
カスタネダは昨年4月に亡くなったというが、「呪術師と私」刊行後30年記念に刊行された10冊目の著書である本書と、あと近々最後の著書であるThe Active Side of Infinityが刊行される予定だという。
さて、本書はこれまでの著書とは少し趣を異にしていて、「マジカルパス」という、古代メキシコから代々呪術師のみに伝えられてきたという「実用的な知」が扱われている。その「実用的な知」とは、エネルギーを体の活力の中心に戻してやるためのものだという。
人間の体には大きな活力の中心が6つあって、そこには大きなエネルギーが渦を巻いているが、エネルギーはそこからずれてしまう傾向にある。それを「マジカルパス」により、その活力の中心に戻してやることで、日常世界とは異なる世界を知覚し、そこに参入するというのだ。
カスタネダは、その個々の「マジカルパス」をもっと一般的な形にし、すべての人に合う形を考案し、個々の「マジカルパス」が少し変化した新しい動きの形をつくったのだという。それをカスタネダは「テンセグリティ」と名づけている。「テンセグリティ」という言葉は、本来建築用語で、「各部分が最大の効率と経済性とで働くよう、引っ張り材を連続的に、圧縮材を不連続に使用する、骨組み構造の特性」を意味するという。
本書には、その「テンセグリティ」の次の「6つのシリーズ」が写真入りで紹介されている。
1.意図を準備するためのシリーズ
2.子宮のためのシリーズ
3.5つの関心事のシリーズ−−ウェストウッド・シリーズ
4.左の体と右の体の分離−−熱シリーズ
5.男らしさのシリーズ
6.特定のマジカルパスとの関連で用いられる道具
この「テンセグリティ」を実践することで、エネルギー移動とそれに付随する「内的対話の遮断」「内的沈黙の実現」「集合点の流動性」という3つの成果が得られるという。
これまでずっとこのシリーズを一応読んできてるものだから、なんとなく今回も目を通すことになったけれど、あいかわらずぼくとしてはファンタジーのような感じで読んでいる。
とはいえ、たとえば「内的対話の遮断」「内的沈黙の実現」「集合点の流動性」とかいう点にしても、とても興味深く、いろいろなことを示唆されることが多い。